芸術の寿命に対して、人生の時間は短すぎる
ここ最近、多くの有名人の方の訃報が続いている気がする。
それも各方面でニュースに取り上げられるような有名人が。
その中には色々な芸術家・音楽家などもいる。
最近では坂本龍一さんが亡くなった。
父親が好きだったこともあり、私自身も色々と聴いて育ったこともあり、自分自身が演奏する音楽含めて影響を受けてきた。
長年病を患っていたからいつかはと思っていたが、いざその時が来るととてもさみしい。
そして書かれていた言葉の中で特に気になったのはこの言葉。
「芸術は長く、人生は短し」
この言葉、とても深いと感じた。
まさにこの言葉に尽きると思う。
過去と比べて、人間の寿命は徐々に延びてきている。
モーツァルトやベートーヴェンが生きた時代と比べて、食事、衛生、病気、社会インフラ含めて社会が発達してきた結果、彼らに比べると寿命は非常に長くなっていることは間違いない。
とはいえ生きている間に出来ることは、ほんのわずかにすぎない。
自分の寿命より自分が生み出した作品のほうが、自分よりも圧倒的に長く生き続ける。
音楽は人々に演奏されて楽譜や思いとともに引き継がれていき、時代を超えて感動を生み出し続ける
絵画は美術館や個人収集家に引き継がれて、時代を超えて価値をもたらし、様々な感動を引き起こす
小説は、文字として紡がれる珠玉の言葉が残ることで、時代を超えて多くの偉人と交流でき、様々な種類の感動を何度も呼び起こすことが出来る
舞台芸術は、過去からの伝統としての身体表現・自己表現として時代を超えて多くの人に引き継がれ、その心の表現をいつまでも伝え続ける
これからの時代、映像や電子媒体などとしてますます多彩な方法で記録に残り、生きている時間よりも圧倒的に作った作品が残ることは間違いない。
特に偉大な作品・芸術のうち、多くの人に語り継ぐ価値のあると評価されるものは、決して消えることはない。
人間の寿命に対して、作品の寿命は圧倒的だ。
一方でメディアアーティストの落合陽一さんの話す内容から、さらに気になることが生まれた。
これからは「AIの中に自分を転写する」ことで、アバダーとしての自分が時代を超えて生きるということ。
つまり自分自身の分身をAIとして残すことで、時代を超えて作品を生み続けられる時代がやってきたということ。
ChatGPT・Bardをはじめ、これから多くのAIが発展することで、いずれは「ほぼ自分」というアバダーを作り出すことがより簡単に出来るようになり、そのアバダーは情報の海の中に永遠に生き続けるということ。
本体の寿命が尽きたとしても、その人として創作する能力は永遠に残り続ける。
肉体は無くなっても、代理としての自分がどこかに生き続ける状態が当たり前になる。
ここから考えられることは、「死」がなくなってきたということ。
「死」の定義が変わってくる気がした。
仮に以下のように死を段階的に定義する。
第1の死…その人が亡くなった時
第2の死…その人の存在を、直接的に知る生きている人がいなくなる時
第3の死…その人が存在が人間の記憶つながり(間接的)において、誰の記憶の中にも存在しなくなる時
第4の死…記憶・物質含め、その人が残した痕跡含めてすべてが消滅する時
こう考えると、多くの人は「第4の死」が訪れるが、有名人は「第4の死」がやってこない人は多い。
ただ、これからの時代は「第3の死」を克服する人が今まで以上に増えてくるのかもしれない。
さらに時代が進み、アバダーとしての人間と本体の区別がつかないところまで進むと、「第2の死」が克服されるのが当たり前になるのかもしれない。
自分が生きている間に、何がどこまでできるか。
何かを残すことも、何も残さないことも、どちらも良い悪いはない。
ただここまで時代が大きく変わろうとしていると、「自分はどうなっていたいのか」ということに関して、少しは考えてもいいのかもしれない。
まだまだ多くの人にとって「人生の時間は短い」のだから。
ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?