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聖地巡礼記チベットへゆく④文成公主の旅立ち

チベット(西蔵)へ聖地巡礼の旅

仏教は長い歴史において
実は今大きな転換期をむかえている

仏教史において後世語り継がれるであろう
時代を僕らは生きている
そして歴史の目撃者となる

文成公主の旅立ち

中国で暮らし3年目の夏

まだまだ電力不足だった上海は計画停電があり
会社は急きょ1週間ほど休みにはいる

その休みを利用し四川省の奥地にある

世界遺産の
九寨溝(きゅうさいこう)に行こう!となり
どんな場所かも知らず
僕は妻の劉さんと行く事になる


■九寨溝とはカルスト地形の淡水の湖地帯で
チベット人村が9つあることから名がついた
1970年に偶然森林伐採の労働者が発見した
とても綺麗な場所
チベット人は長年この地に住み着いて生活をしていた

上海から四川省の成都まで寝台列車で行き
バスで12時間かけて北上し山奥の更に奥へ奥へ入る
途中、パンダ保護区を抜けたり険しい山道を走る
今では四川大地震で消えた湖の脇を通って向かっていた

このルートは危険という噂で事故が多く有名
高速道路が開発され今では安全に時間も短縮された

近くに空港があり、外国人ツアーは大抵
空から入るが僕らは陸路を選ぶ
それは、こんな奥地に簡単に来ては面白くない
という理由と圧倒的なコスト差
ローカルバスは安い

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九寨溝の中にチベット村があり
今でも生活をしている人達の様子も
垣間見れる

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観光地化されたチベット民家もあり
観光客を呼びこみ
バター茶を提供したり
翡翠や数珠やグッズを販売してる
ビジネス化した民族も少なからずいる

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カラフルな壁に民族衣装
数珠を持ち静かに念を唱えている

綺麗な秘境の地に住むチベット族
山の奥の奥の奥に静かに住んで信仰を
していた部族の生活は
九寨溝の観光地化の発展に伴い
急激に変わってしまったようだ


僕はチベット村を初めて目にした

2泊し九寨溝を観光し
もう一つの世界遺産の黄龍を観光した後

僕らは成都まで戻るには時間が足りず
途中の村で一泊する事になる


辿り付いたのは

「松藩古城」(松州)という村
小さいが城もあり
古くから交易で栄えた歴史のある村

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門の前に大きな像が立っていた

鎧を着た男性と美しい女性の像
その像の人物こそが

男性が ソンツェン・ガムポ王
女性が 文成公主(ぶんせいこうしゅ)
である

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ソンツェン・ガムポ王とは
西暦638年頃チベットを統一した人物で
チベット王国の礎を築いた人物

インドに語学留学などを目的に優秀な人を派遣し
チベット文字の原型を作らせたり
最新のインドの教典を訳させたり
軍隊を強化したりし他にも
偉大な功績を残した人物


一方
文成公主は
唐の姫として和睦の為に
長安を離れチベットに嫁いだ女性
↓↓↓一応 僕が描いた文成公主イラスト(笑)

文成公主

中国では文成公主は悲劇のヒロイン
逸話も多く演劇、映画、ドラマ、舞台などで
取り上げられる人気な人

チベットは当時、唐から 
吐蕃(トバン)と呼ばれていた
唐と吐蕃は国境をめぐり対立が絶えなかった

チベットが軍事的に力つけ始めた頃に
唐はチベットの要求を呑む形で
皇族に属する姫が政略結婚で
チベットに嫁ぐことになる
その悲劇のヒロインが
文成公主である

彼女が長安を旅立ち
立ち寄った松藩

ソンツェン・ガンポ王が松藩に
迎えに来たとされて
この像がある

ここから青海湖(中国一大きな淡水湖)を
目指し北上する

そして青海湖の近くに
日月山という丘がある

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ここより西はチベットで
当時の唐との国境にも あたる場所だった

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そしてもう二度と唐へ戻れない事から
泣きながら唐を最後に見つめたとされる場所

僕が松藩と青海湖に行った時期は違うが
文成公主の足跡を別々の機会に見に行った

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美しい青海湖を見ながら
拉薩へ旅立つ 
西暦640年の話

文成公主は拉薩に行く時に
釈迦牟尼像(しゃかむにぞう)
や仏教の経典を多数持ち込んでいる

まだ仏教はそこまで
浸透していな時期のチベット

長安では仏教は浸透し文成公主も
仏教を信仰していたが
何もないチベットに不安を
かかえ唐からの貢物として仏具を持ち込む

文成公主は
ソンツェン・ガムポ王の息子(王子)に嫁ぎ
子を産むが王子は結婚後 3年で亡くなり
その後3年間喪に伏す期間を経て

父であるソンツェン・ガムポ王と再婚
父が息子の嫁と結ばれるという事になる

しかしその後3年程で
チベットを統一した偉大なる王
ソンツェン・ガンポも 
この世を去る

時を同じくしてソンツェン・ガンポ王は
ネパールからも嫁を嫁がせている
彼女も同じく釈迦牟尼像を持ち込んでる

2体の像が二人の姫の手により
拉薩に持ち込まれた

そしてこの2体の像が
拉薩のチベット仏教信仰に
大きな役割を果たし
現在もジョカン僧院に祭られている

文成公主はチベットに
仏教持ち込んだ一人でもある

松藩という山奥にある小さな村に
こんな物語が秘められていた

悲劇のヒロイン
国の為に身を犠牲にした女性

こんな山奥から拉薩に入る為に
長く険しい道のりの旅する事を想像した

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僕らが泊まった松藩の宿は1泊50元という激安の宿
正直、汚くトイレにも入れない程酷かった(笑)

夜、城内の暗い雰囲気はどことなく
もののけを感じるような怖さが当時はあった

大まかな位置関係を地図で見てみる

九寨溝map2

九寨溝map

おおまかに長安→松州→日月山→拉薩

文成公主は
チベット仏教の礎を築いた一人である

まだダライ・ラマが生まれる遥か前の話

文成公主の旅立ち

僕は拉薩への旅路を
文成公主と重ね合わせる事で
想いをよせていた

彼女はどんな思いで
日月山で泣いたのだろうか?

⑤へ続く 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓過去記事はこちらをどうぞ!

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓聖地巡歴記 インド編 はこちらをどうぞ!

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓聖地巡歴記 西安編 はこちらをどうぞ!


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