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You`re entirely bonkers. But I’ll tell you a secret. All the best people are.

「私は出雲へは初めてになると思います。壱ノ城家の巫女のことは話には聞いているけれど、私には関係がない話だっていうのも。貴方はもしかして神様たちにおねだりをする気でいてくれるんですか? 私を助けてくださいって言い出すみたいにして」
 芹沢美沙は東名高速道路を走る『イオリア+』の助手席で膝の上に乗せた妖精アンダーソンに向かって話しかけている。
 アンダーソンは芹沢美沙の膝から決して離れることのないように身体を黒い革紐のようなもので縛り付けられていて妙に窮屈そうだけれど、主人の言いつけを守っているのか微動だにせずにしっかりと両手で両膝を抱えて座り込んでいる。
「そうじゃの。穎も有栖もそれから末っ子の未亜葉もみな、スサノオ様の為に産まれて幼い頃から大切なことを教えられて育てられている。お前がその場所にいくということは彼女たちの話を聞くということと同時に決して逃れられぬ運命を知るということ。そのことを昨晩の大雨と雷でお前はちゃんと理解したようじゃの。誰も助けはせんし救いもせん。けれど、救われるものはおる。出雲はそういう場所じゃよ」
 アクセルを踏み込まれて前方方には誰もいなくなった追い越し車線をスピードメーターの針を徐々にあげながら『イオリア+』が走り抜けていく。
「ぼくには限界がない。それは概念だけの存在としてOSの中に組み込まれてしまった今でもぼくはプログラムの中で感じることが出来るし事実を誤認することなく車内を制御することすら出来る。IMAWNAOの名は自由を謳歌するものだけに与えられる称号なんだ」
 蒼井真司はハンドルを握る右手を離してネクタイを緩めるとゆっくりと力を抜いてまだちょっとだけ雨が残っていた高速道路を走りながら与えられた役目を全うすることを恥じないようにとかつて恋人と呼んでいた芹沢美沙のことをできる限り傍で感じようとする。
 
 *
 
「野嶋主任から受け取ったチェックリストを君はどう思った? これから会う篠山主任と違って彼は非常に合理的人間だ。野生動物がそうであるように彼には一切の無駄がない。つまりはわざわざ電子媒体で渡した方が好都合なファイルを一枚ずつプリントアウトして手渡してきたということだ」
 四月(一日)紫衣はまだ赴任して三日目のぼくのために第二脳科学研究室内部をとても聡明そうで日本語が流暢なヨーロッパ系の男性研究員と黒縁の眼鏡をかけてミニスカートの女性研究員が案内をしてくれる様子を安心すると、ぼくが大事そうに胸に抱えていたファイルについて質問をする。
「ではプリントアウトされた紙に印刷されていることに意味があると考えるべきなんですね。インクの質とか紙の枚数とかそういう二次的副産物じゃなくてもっと直接的な。重さなんかもそうだけど、チェックリスト自体の内容に野嶋主任がわざわざぼくに時間を割いてくれた理由がある。そういう訳ですか?」
「内容ならば電子媒体でも構わないだろうね。質量を感じさせたかったというのがやはり私からの見解なんだ。『バイオポリティクス』はそれだけ彼らにとってはリスキーな製品という訳だよ。インテリにとって脳は当然ながら最も重要な身体の器官だからね。もし外部からコントロール出来る可能性の幅を拡げてしまった場合、他者とのコミュニケーションに甚大な影響を与えかねない。私が君を好きだという簡単な理屈すら遠ざかってしまう」
「けれど、それはPEPSがもたらす特異性の問題を除去して考えた際に現れる一般論でしかないはずです。基礎疾患、いえ、俗称として用いられている火、土、水、風の四元素のエーテル粒子体が意識の領域からどの程度脳機能へ干渉出来るかどうかを模索し安定化させることが出来るかがぼくらの研究課題ですから」
 四月(一日)紫衣は昨日の夜のベッドの上で見せた同じ笑顔を浮かべて少しだけ軽やかな表情で抱きかかえた資料を胸に引き寄せて軽く頷いてぼくの意見に同意する。
「わかってくれている。野嶋主任は主に運動器官を制御する小脳を専門としているが、第一脳科学の篠山主任は大脳、特に辺縁皮質での活動に焦点を当てて研究施設を取りまとめている。意識の発生過程においてどの部位を中心に行われるものであるかを君は知っておく必要があるはずだ」
「エーテル粒子体が精神に作用して物理現象へと昇華させていく過程を現代科学は完全に解明出来ていません。だからこそ、多くの『メテオドライブ』は違法な状態で放置されているか実用化に至る段階で放棄されています。『バイオポリティクス』が空想科学から一歩踏みだすには電子頭脳研究との協力体制が必要だとぼくは信じています。そして、戦極先輩と交わした約束の一つですから」
 第二脳科学研究室が束縛を前提とした行動様式が有機的に機能していて、肉食動物から感じる本能的欲求から逃れる為に高度なネットワーを利用した個体ではなく集団としての有用性を防衛する草食動物の群れが持っている殺意に対する過敏で過剰なまでの反応にぼくは終始驚嘆していた。
 小脳からの命令は考えるよりもずっと早く体全体に伝えられて指先から関節の一つまでを完全に瞬時に制御されて運動器官を統率している。
 血流や循環器系が交感神経を通じて反応する過程が呼吸器系へと伝達する経路におけるシナプス結合の放電に関するデータなど『バイオポリティクス』開発の為に必要なものをいくつか参照する。
「私たちは野嶋主任のように起きた出来事を外部因子による決定論として捉える方法を採択していません」
「自由意志による条件付きの運動機能の確保を目的としているからです」
「我々は情報濃度を担保して抑圧によって意識を制御出来ると信念としています」
「だからこそあなたのエーテルの実証実験に関する研究報告に賛同しています」
「手元のプリントされたファイルはもうご理解して頂けましたか?」
「過負荷を前提とした機能制限はおそらく必要なくなるでしょう」
案内役の二人は第二脳科学研究室を立ち去る際にぼくに対して一定の評価を伝えてくると友好の印として握手を求めてきてぼくの研究に支援の意志を示してくれる。
「この分なら野嶋主任の許可はすんなり降りそうじゃないか。さて、問題はやはり篠山主任と第一脳科学研究室の面々だ。欲求や本能を司る辺縁皮質がエーテルによって干渉されることを嫌っているのは政治家や経済関係者だけではない。科学者もまた個体の汎用性という問題を追求している」
「エーテルは実在していると証明する装置の必要性は何処にも無いというわけですか」
「まさか。その逆だよ。京都電子頭脳研究所が目指している『ANGEL』にもおそらく君の研究成果の一部もしくは多くが取り込まれるはずだ。だからこそ──」
「『ANGEL』。確か国内初の義体実験に搭載される予定のほぼ完全な電子頭脳のコードネーム。年内の試作機のロールアウトを目指して研究所内は一丸となっているわけですよね」
「その通り。だから少しばかり私も困っていてね。今回の事件、研究所そのものに被害はない。だが、我々が管理しているセキュリティが突破されて君の研究成果だけが持ち去られた。私たちは『ANGEL』の完成を前にこの問題と向き合わなければいけないだろう」
「そのようですね。軽く目を通してみましたが、野嶋主任が渡してくれたファイルは彼の性格的欠陥に基づいたものではなかったです。篠山主任は研究所全体のシステム権限にも関わりがあるのですか?」
「いや、所内のセキュリティまでアクセスすることの出来るレベル3以上のマスターキーはあの日不在だった所長と副所長の二人だけが所有しているのは伝えた通りだ。それでも篠山主任にお会いすることは君にとって必ずプラスになるはずだよ」
「彼女のことは知っています。科学雑誌やキュレーションメディアでもお目にかかりますからね。京都電子頭脳研究所の顔と言ってもいいのかな。日本の脳科学の最も重要な権威の一人であり、ぼくに『バイオポリティクス』開発のきっかけをくれた人物です。『ハダリー』は彼女の主要な功績として多くの研究者に影響を与え続けているはずですから」
「双方向性多言語解釈型人工知能『ハダリー』は性差を理解して言語中枢に基づいた意味解釈を実行することの出来ることが重要視され、今でも多くの研究施設で利用されている閉鎖環境での開発を想定されたOSだね。京都電子頭脳研究所のメインシステムを構成するプログラム人格の一つに現在も設定されている」
 ぼくと四月(一日)紫衣は天使の羽を模したロゴの中心で円形に配置された『Seraphim』と刻印されたドアの前に立つと、起動したセキュリティによって全身をくまなくスキャンされる。
「ぼくは試されているのですね。熾天使が決してぼくを許してくれないと知っているかどうかを」
「その通りだ、佐々木和人。私は知っている。お前が私にとって必要な存在であることをな」
「太陽と花火の違いを丁寧に語る必要があるかどうかはさておき、強奪事件が起きた当日の研究所はいつも通りに厳重なセキュリティによって外部と遮断され当然ながら第一も第二も同じ状態だったと推測されます。けれど所内のガードシステムはほぼ完全に突破され『メテオドライブ』は結果として強奪されています」
「研究所全体が『Seraphim』によって管理されている。篠山主任は『Seraphim』による人格統合システムの開発者の一人だ。パートナーである篠山所長と供に『Seraphim』について最も多くのことを知っている のは疑いようがない」
「だからこそ弱点も知っているかもしれないということでしょうか」
 四月(一日)紫衣が天使の羽を模したロゴマークあたりに右手を翳してセキュリティチェックを済ませると扉が開いてぼくらは第一脳科学研究室へと招待される。
「彼女にとって『Seraphim』は腹を痛めて産んだ我が子に等しいだろう。確かに故にこそ起きうるトラブルを事前に予測しておけるほどに理解しているはずだ」
 既にぼくらが訪れることを予め知っていたのか中分けした白髪頭で初老の女性研究員と彼女の類稀なるカリスマ性に心酔している第一脳科学研究室の面々がずらりと並んでぼくと四月(一日)紫衣を歓迎する。
「よく来てくれたな。ヘロデの預言者、いや、千夜一夜を超えし知性の象徴、四月(一日)紫衣。そして君が新しく彼女の生贄として選ばれた佐々木和人君か。運命の鎖が君達を繋ぎ止めたまま飢えた使徒がひび割れた痛みを何度も叩きつけにやってくるはずだね。それでも君は彼女を選び、彼女はまた君のことを必ず掴もうと夢を見る。私はその為に『Seraphim』を作ったんだ」
 威風堂々と篠山・ハラウェイ・由紀恵がやや上向き加減でぼくに向かって彼女の世界に属する物理現象を抽象的言語の羅列によって説明をして理解を共有しようとする。
「私たちには断ち切れぬはずの鎖が嘆き悲しんだとしても復元可能な増殖炉を提供するだけの覚悟を既に胸の中に秘めている。君の杞憂やむしろ失敗ですら糧として消化して栄養へと作り替える命令系統は整っているというわけさ。忘れないでいてくれたまえ。高橋庸一だ。主任補佐をしている」
 オールバックの黒髪に銀縁眼鏡をかけた高橋庸一主任補佐がぼくに握手を求める為に一歩前に出てきたと同時に三十代前半の茶色い長髪の女性研究員が覗き込むように表情を品定めして訝しむ。
「ふん。ようやくお出ましか。君が執務室の選んだ最後の切り札というやつだね。ジョーカーでもゼロでもなくスマイルすら必要がない。紛れもなく自分ってやつの奴隷であり続ける覚悟が感じられる。いい男だね、確かに。だが、そうか。奪われたか、君の右腕を」
「何かを間違って手に入れてそれでも歪んだ答えを掴み取ったと思えた瞬間に灰色の味覚だけがいつまでも喉を通らずに舌先で踊っていてね、彼は青空だけは手にいれられないことを知っていたから迷わずに此処に来ることが出来たんだ。佐藤珠代助手だ。私の二つ上の先輩でね、透明なものの価値をよく知っているんだ」
 佐藤珠世が白衣のポケットに手を突っ込んだまま口惜しそうな表情をして四月(一日)紫衣の褒め言葉に顔を歪めた後に背筋を伸ばして一歩引き下がる。
「第一脳科学は高度な脳活動によって複雑な思考体系を創り出して人間そのものを定義する為の器官こそ大脳辺縁皮質とぼくは考えています。もし夢を見ることが可能であるのならばぼくたちは必ずそれを実現できると脳味噌が囁き続けてくれている。自分という存在だけは忘れることなんて決して出来ないですからね」
「どちらにせよ、私たちは『ANGEL』を開発している。我々に必要なのは脳髄が創り出す幻想に取り憑かれたまま生きることもまた人間の能力であるのならば、私たちが準拠すべきコードに必要なのは真偽値よりも普遍的な零へ到達する勇気だということさ。抽象的な言葉にグレードを下げて話していることに感謝するんだな、坊や」
 篠山・ハラウェイ・由紀恵はぼくの表情を覗きこむと、後のことは頼むとだけ言い残して高橋庸一主任補佐と佐藤珠世助手を残して他の研究員と共に第一脳科学研究室の奥へと消えていく。
「所長と副所長が留守にしている間に起きた所内の不祥事だからね、問題を解決する為に手を貸してやれというお達しさ。『爆発する知性プロジェクト』は被検体を失った後も『器官なき身体』を求め続けていてね、我々が中身のない人間を量産する手伝いをするわけにはいかなくなってきたというわけさ」
「どういうことですか? 『バイオポリティクス』が既に悪用されているということでしょうか」
「いや、仕様書に関しては我々の方でも既に目を通してある。実に明快に魔術回路をコピーして劣性遺伝では生成不可能な症状を復元できると想定することが出来た。狂気を偶像化する過程に関しても全く申し分がない」
 高橋庸一主任補佐が銀縁眼鏡を右手の人差し指で押し上げてから落ち着いた表情でぼくの質問に応えて『バイオポリティクス』に関する考察を簡潔に述べるとバトンを引き継ぐように佐藤珠世助手が溜息をつきながら出来るだけ丁寧に第一脳科学研究室の決定について話そうとする。
「けどね、だからこそ欠点についてもある程度予測がついたんだ。もちろん君がプレゼンテーション後に改善点を受け入れてくれるのは良しとしても今回はその前に起きてしまった事件でしょ。私たちとしては君の『メテオドライブ』を悪用したものが市場に出回るのだけは阻止したいと考えているのよ。研修生とは言ってもこちらとしても責任の全てを押し付けるわけにはいかない状況なのはわかってくれるわよね」
 佐藤珠世助手がぼくの肩に手を乗せて協力の意志を示してくれるのを四月(一日)紫衣も認めたのか第一脳科学研究室を訪れた理由をお互いの持っている情報を交換しながら慎重に共有しようとする。
「珠世がそんな風に協力的になるということは篠山主任もこの件を憂慮しているというわけかな。未だにどうやってセキュリティが突破されたのか判明出来ないのだとしたら私の立場も危うくなる。何せ、主犯の男はあの鬼嶋だからな。第三と第一に確執が残されたという証拠になりかねない」
「あのさ、私があいつに何か情報を与えたとか思ってないよね? あんたが手引きしたって可能性だって十分にあるのに『アイアンメイデン』はまた身内じゃなくて外様を贔屓している。『爆発する知性』、あんたが逃げ出したせいで所長たちが責任を取らされているってわかってないわけじゃないんでしょ?」
「六分儀先生は私を拘束したかった訳じゃない。清司さんが私のことを捕まえてくれた時からずっと『ストロベリージャム』を信じてる。私たちは最初から一人だけ選ばればいいと思っていたからね」
「ふーん。別にさ、お前の運命とかいうやつは私にはどうでもいいから。こいつがそうだって訳じゃなさそうだし、それならそれで別にいいよ。だけど、『Seraphim』に消えない傷がつけられた責任はやっぱり私たちでどうにかしなくちゃいけない。私たちは間違いを選択出来るほど愚かじゃないからね」
「どちらにせよ、私が知りたいのは『Seraphim』は本当に外部からの侵入を許したのかどうかってことだけだよ。高機能通信暗号回路『Idea』が開かれるなんてことは原理的に辻褄が合わないんだ。それでも私たちは鍵をこじ開けられている」
 佐藤珠世は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま振り返ってとても残念そうな顔をしてお互いを疑い合うしかない所員たちの気苦労をもう一度理解しようとする。
「紫衣はわかっているみたいだからこれ以上私からは何もいうことがない。ただ野嶋主任はきっと私たちほど人間を信用していないから君を利用してでも所内に存在しているはずのセキュリティホールを突き止めようとするだろうね。出来たら、渡されたファイルの27項目目を参照してみるとよい。君が何を伝えられているのかはっきりとわかるはずだからね」
「話を聞く限り現時点において野嶋主任は所内のセキュリティの全てを疑っているという訳ですね。だからこそ、ファイルをデータとしてではなくプリントアウトした形でぼくに手渡してきた。けれど、もしバグが混入した場合でもそれが人為的なものであるかどうかすら疑っているというようにぼくには聞こえました」
 佐藤珠世助手は大きく溜息をついて高橋庸一主任補佐の肩を叩いてから篠山主任の跡を追って研究室へと戻っていってしまうけれど、四月(一日)紫衣だけは何も諦めようとせずにぼくの傍に寄り添っている。
 真っ白で清潔感のある第一脳科学研究室のエントランス付近は真っ白な清潔感のあるインテリアで統一されていてカフェテリアとして利用できるようになっているけれど、ランチタイムが終わったばかりで所員たちは各々が自分達の研究業務に従事しているせいか静寂だけが失われたものの価値について雄弁に語っているようにぼくは感じ取ってひび割れた日常の違和感の正体を探ろうとする。
「A10神経への接続実験が開始されれば我々の『ANGEL』は本格運用され始めるだろう。京都電子頭脳研究所が小脳と大脳研究に特化した『KODE S』におけるいわばコクピットを担当している機関だからこそ『バイオポリティクス』のような汎用人型決戦兵器が強奪されたと考えることにすればいい。およそ快楽中枢へのアクセスを遮断した形では人間は自我の制御すら危ういのだと君はエーテルを通じて訴えかけた訳だ。もちろんそれがどういう意味なのか分かっているはずなのにね」
「父性原理と母性原理の誤認が魔術回路発症の主要な要因であるとするならば、遺伝子異常として発現するエーテル粒子体の抑制と解放を操作可能な器官をA10神経回路郡に特定することが出来るはずだとぼくは考えました。意識の発生メカニズムを利用した閉鎖環境でのみ原理的行動を実行可能にするんです。エーテルは誰にでも眠っているはずだとリプログラミング可能なはずです」
 高橋庸一主任補佐はぼくが開発した『メテオドライブ』が悪用されてしまう場合の欠点を周縁部から指摘するようにして『Seraphim』が暴走したと思われる経緯が記録されたファイルの27項目目をぼくと一緒に確認しようとする。
「ご存知の通り、双方向性多言語解釈型人工知能『ハダリー』は性差を理解することのできるOSとして『Seraphim』に組み込まれたプログラム人格の一つだ。京都電子頭脳研究所全体を管理しているシステムに於いて『ハダリー』以外に10の人工知能が自律決議を可能にする為に運用されている。それぞれが非常に優秀な人工知能であり、最適化アルゴリズムに則って常に環境と情況を考慮した各々の解を導き出せるように設定されている。しかしだ、ある問題が発生した。この場合、便宜上『Seraphim』を彼女と定義することにしよう。第三脳科学研究室で事件が発生したほぼ同時刻に不自然な揺らぎが計測されている。サーバーログに記録を観測した時に我々は驚愕した。つまり『Seraphim』はある特定のプログラムに恋をしたと比喩的に表現することが出来るはずだ」
「ぼくはそれを天川理論と定義して発生を予告していました。けれど、なぜこんな大規模な研究施設のしかもインターネットとは隔絶された環境に彼が現れたのか分かりません。柵九郎と呼ばれる人間の一部は変性意識と結合して実在を量子構造にまで分解されて不確定状態へと変換されたはずなんです。多重人格性障害が超自我の一部が多元宇宙との交信によって確立されていくいわばメタトークのようなものだと定義することで『彼ら』が肉体を共有していた論理を解明出来たと考えます。田神李淵が実在する恐怖として現実を侵食しない為です」
「だが、第三脳科学研究室主任である四月(一日)紫衣の考えは本当に君と一緒かな? 彼女の知性は人間の悪意と善意を公平に判断して解釈してしまえるほどに完成されている。『爆発する知性プロジェクト』が彼女を創り出したことは知っているかな。生と死が等価値であるという概念を彼女は体現することが出来るだろう。大脳研究とは区別された状態で意識の発生メカニズム研究の全てを任されている理由が此処にある。君が『メテオドライブ』の正規運用を考慮する場合、善性の肯定は免れないはずだ」
 四月(一日)紫衣は高橋庸一主任補佐が指摘した事実を聴くと、左眼から一筋の涙を流して感情的な反応に身を委ねた後に昨日の夜にぼくと夜を超えた時と同じ官能的な表情で甘い吐息を誘惑する相手を履き違えたようにして高橋庸一主任補佐の方に身体を近づける。
「もしクロウとリエンもう一度出会うことがあったとしても私はもう『爆発する知性』が必要だとは思いませんよ。何故って一護さんも清司さんも私をあの場所から連れ出してくれた時からずっと変わらず『ストロベリージャム』が新しいエーテルの可能性を探しているから。私はあの人たちの為なら生命だって投げ出せる。そんな風にたった一つのことを追いかける私が悪いんですか?」
「いや、そうではない。指向性の思念に捉われることを責めている訳ではない。ただこのままじゃいつか君は──」
 四月(一日)紫衣がちょっとだけ取り乱して高橋庸一主任補佐を問い詰めるように言い寄って彼女が信じてきた道だけが何よりも輝いていたんだってことを伝えようとちょっとだけ道を外れて自分とは違う何かを追い求めようとした途端に、四月(一日)紫衣は頭を抱えてその場に蹲ってしまう。
「助けて。黒灯君。お願い。私を此処から連れ出して。何処にも行かないで。私はエーテルを信じられなかった。それだけなの。だから──」
「やはりか。佐々木君と言ったね。彼女の精神が分裂状態を統合できなくなって来ている。『Seraphim』が彼女の心の問題と同期しているのはやはり我々にも責任があるんだ。けれど、このまま失調させてしまえばやがて破綻がやってくる。君の天川理論とやらはボルツマン定数がエントロピーの増大比率によって変化した場合も予測可能なのか?」
 ぼくは膝を抱えて見えない恐怖にしがみつこうとする四月(一日)紫衣を傍に寄り添いながら高橋庸一主任補佐が問いかけて来た不協和音に関する問題を咀嚼して現状に対して起きうる事態を出来る限り正確に把握しようとする。
「冗談には聞こえないですよ。もしそうだとすれば、ぼくたちは間違った選択肢をとったことになる。織姫と彦星がどうにもならないぐらい求め合っているって意味じゃないですか。俺はそんなことの為に『バイオポリティクス』を開発したんじゃない」
「わかっているならいいんだ。第三脳科学研究室は彼女の能力を最大限に発揮する為だけに用意されている。古河君も紅莉栖君も彼女との補完的な関係性をある側面では維持しているんだ。恋をした、という事実が理想気体分子運動を加速度的に発展させていく。だが、心が壊れたもの同士が出会うとどうなるだろう」
 四月(一日)紫衣は目が虚なまま右手を延ばして救いを求めようと言葉にならない声を出そうとしているけれど、彼女はまるで遠くで誰かが自分の身代わりになっているのを知っているみたいにして希望が奪われていく表情で精神状態が崩壊していってしまう。
「もう後戻りが出来ないんだって知っていて、それでもぼくはきっと彼女を信じていて、だからこうなったって言うんですか? 実在を肯定したからこそ虚構から悪意だけが飛び出してきてしまった。ぼくらは本当に彼女と出会ったのかどうかですらあやふやになってしまう、壊れた心だけが彷徨い歩いて伴侶を求めてしまうならぼくはどうやってこの地獄から逃げ出せばよかったんですか。天使はもうすぐ傍にいるなんてそんなことを認めてところでもうどうにも──」

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