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23. Get Up Stand Up

ウニカと『鴇ノ下綺礼』、西尾豪源、簾流木詩乃、『カミブクロ』の五人はスイートルームのソファから立ち上がり、部屋の向こうでカーテンを引いた兵士の案内に従い奥へと進む。

「『隗没』。あとは頼んだぞ。俺たちは量子テレポートで一旦本部に戻る。いずれにしろ六日後には『ルナハイム社』とはオサラバだ。せいぜいそいつらと遊んでやれ。」

スイートルームの入り口から最も遠く離れた場所で五人の体が分解されていく。

足元から少しずつ何かに侵食されるように分子レベルまで小さな粒子へと変化していくと現在座標から彼らの質料が存在を不確定へと移動していくと、いつの間にか彼らの姿はセルリアンタワー三十七階から消えている。

「結局奴らは何もかも押しつけて俺に後片付けをさせるつもりか。ならやりたい放題ってことでいいんだろうな。おい、008番。インド神話の名前がお前に付けられた理由はどうしてだろうな。お前たちの世界に神は実在を担保されている。シヴァやヴィシュヌではなく、チルドレ☆ンと呼ばれるお前たちの先祖がこの世界を創り出している。ソーマはいわば彼らの涙のようなもので、血液から血球の覗かれた単なる組成物に過ぎない。」

精神操作型『改造医療実験体』試験番号零零捌、『長瀬富朗』は『カミブクロ』から手渡された意識の具現化を可能にするカプセルを口に含む。彼の意識がより高次の世界へアクセスすることで無意識と呼ばれる領域から神話の世界の存在が『長瀬富朗』の表象を覆い始める。

「魂と呼ばれる領域を私たちは完全に解析出来た訳ではない。チルドレ☆ンたちが肉体を捨てず統合された思念体として生きることを選ばなかった理由を私たちも彼らと同じ進化を辿りその理由をこれから知り得ていくのかもしれない。精神の次元を現時空に重ね合わせて立体化することが出来る私でも神が産まれた領域に触れることは容易いことではない。だからこそ抽象性の極地に存在しているインド神話に登場する神の形は確かに今の私にぴったりの姿かもしれないな」

ごく普通のどこにでもいる人間の形をしていた『長瀬富朗』が青い体と六本の腕と三つの顔を持つ異形へと変化していく。

左手にはそれぞれ錫杖、槍、宝玉が握られていて、右手には心の次元を形作る御印が結ばれて彼の扱う空間が現在時空よりもずっと高次元であるということを示唆している。

「お前が神に近づくのであれば手加減の必要はないな。──※9Final Distance──、A型装備であれば私は移動に関する物理的問題が解決している。そう、例えば、その白鳥の羽根を持つ獣人化した白人と私を結ぶ距離はこのA型装備上では存在しないんだ」

まるで機械の腕のように電子制御された中沢乃亜のグローヴはとても綺麗なお手本通りの正拳突きをその場で放つと五メートル先のソファの脇に立っていた飛べない羽を持つ北欧系の女性の腹部に衝撃が走り、彼女はそのままばたりとうずくまる。

『隗没』がニヤリと笑って『ルナハイム社』製『ラジカルミラージュ』A型装備の実効性を目の当たりにして、勝利を確信したように『ラーマーヤナ』と呼ばれる状態へと変化した試験番号零零捌の方に目を向ける。

「重力波を生成して擬似的なワームホールを創り出しているのか。『魔術回路』と呼ばれるお前たちの力を科学として書き換えている兵器の一端を見させてもらったが所詮は我々の紛い物に過ぎないな。ニルヴァーナと呼ばれる場所まで案内してやれ、『ラーマーヤナ』。」

危険を察知して中沢乃亜の後ろから神格性強化外骨格『毘沙門天』をまとった三島沙耶が両手に持ったビームサーベルで十字に斬りかかろうとした瞬間に辺りが曼陀羅によって取り囲まれて物理現象の存在を遮断する。

『ラーマーヤナ』の姿はスゥーッとまるで水面に映った影のように波紋となって『毘沙門天』の十字斬りをすり抜けると中沢と三島沙耶の後方の空間に姿を再び表す。

「なぜお前は私を倒そうとする。私はお前の存在を鏡像化させた概念上の暴力に過ぎない。お前の認識世界が知覚世界と符号している可能性を疑わずなぜお前は拳を握るのだ」

中沢乃亜は『ラーマーヤナ』の言葉に耳を傾けようとせず、──※10Automatic──と呼ばれる直観能力を最大限にまで引き上げる脳機能とリンクしたヘッドギアから受信した信号を正確に行動に移し替えて、もはや物理兵器としては神性を帯びる領域まで達したブーツ──※11Traveling──によって衝撃波を作り出すと真空の刃が『ラーマーヤナ』に襲い掛かる。

けれど、『ラーマーヤナ』の顔が怒りの表情にぐるりと反転した瞬間に刃は中沢乃亜の目前に現れて彼女自身を二つに切断しようと襲い掛かる。

『毘沙門天』は十字に構えたビームサーベルで中沢乃亜の前に立ち塞がり反転した事象による攻撃のベクトルを変換させて跳ね返る刃を避ける。

「物理法則を私たちが存在する空間と同一で考えることが難しいのかもしれない。それとも、私たちが忘れてしまっているだけなのかな。ここを無意識が接合した意識の奔流と捉えたとしても辻褄が合わないことが多すぎる」

乃亜は構えを崩さずにまるで自分自身の気配そのものが希薄になっていくことから意識を逸らさないようにしながらお手本通りの上段の構えを解かずに『ラーマーヤナ』の実像を見つけ出そうとする。

「神の領域。古代社会において私たちの先祖はこの場所から畏怖を産み出して恐怖を具現化してきた。私たちが本来もっと自由な生き物であったことを証明するための場所と言ってもいいかもしれない」

三島沙耶にとって脳内麻薬の放出を制御して戦闘状態と非戦闘状態を区別せずに考えることは難しいことではなく、まるで適切な会話を実行するように手足を連動させて暴力という対話を実行して脅威を取り除き空間に現出した異常を通常な状態へと移行させてしまう。

ほとんどの人間が過剰なアドレナリンやドーパミンによって意識を制御して肉体と精神の強化を試みようとする中で彼女は平静であることを彼女の最も強靭な武器の一つとして両手に持ったビームサーベルは具現化している。

だからこそ、高次元空間に移行した現在でも、思考が異常と通常を区別することなく狂気が発生させる座標に関するズレの問題をすぐに彼女は修正してしまう。

「理性が直感を上回ろうとするか。人間であることに劣情を感じないとは恐れ入る。けれど、それは電気的信号の奴隷となっている彼女の場合はどうかナ」

錫杖をシャリンと鳴らすと空間内を満たしていた曼陀羅がぐるぐると回転を始める。

空間から恐怖という感情そのものが取り除かれていくと、乃亜の本能が刺激と危険を察知するのを辞めて──Automatic──が探知出来る微弱な電流という情報交換すら脳内から消えようとする。

認識と知覚に関する機能が崩壊してしまった空間において動物的能力のほとんどは意味を為さず、乃亜はいつの間にか四肢を可視化すら出来ない自我境界線の外側に存在している不鮮明な黒い腕によって掴まれて行動を制限されている。

視覚が光を否定する。

聴覚が存在を消失させる。

嗅覚が意味を求めるのを辞める。

味覚から生命の痕跡が薄れていく。

触覚が臓器の存在を疑い始める。

乃亜が自己と空間の区別を認識出来なくなる。

「だめ! なんとかその場所に踏み止まって。無意識の領域であなたがあなたであることを辞めてしまえば、自意識は他我によって塗り潰されてしまう。個人的な状態が持ちうる力が空間に干渉出来るという思い込みを捨てるしかないの」

三島沙耶の言葉がひどく遠い星の向こうから聞こえてくる。

意識が虚無に埋没して自己認識が極限まで希薄な状態へと塗り替えられる。

それでもギリギリ残っている生に対する渇望によって右手を知覚しようとする電流を──Automatic──が感知するけれど、掌に映る銀河に吸い込まれるようにして極大と極小に関する問題が摩擦抵抗なしに消え去ろうとする。

ゆっくりと身体から自我が引き剥がされるようにして『ラーマーヤナ』の意識と乃亜の脳髄の結合が同一化していくと、現実世界の乃亜の身体は一歩ずつ脚を前に進めてセルリアンタワー三十七階のスイートルームから渋谷の夜景を切り取る窓の方へと向かって身体を投げ出そうと走り出す。

乃亜の意識が完全に遮断された瞬間に彼女はまるで防衛本能を働かせることのないまま地上百三十メートルほどの上空から直下のアスファルトへ重力によって呼び戻されるように落下する。

三島沙耶は『毘沙門天』に内蔵されている高次元高位精神体感覚感知能力によってまるでテーブルの上のコップが水滴によって摩擦運動が除去されて移動するのを察知するようにして乃亜に異変が起きている事実を拾いとって、『毘沙門天』は強制的に脳髄へと強烈な痛覚の刺激を送り、緊急性の高い現状を認識すると、理性で身体を前進させて両脚を動かしてスイートルームのガラス窓に向かって走り出すとそのまま飛び降りて乃亜をキャッチする。

「死んでいるという状態を座標のズレによって分別して肉体的反応のみを呼び起こすとは。お前の精神領域を溶かして融合させる術は難しいと言えそうだな」

『ラーマーヤナ』がガラス窓から左手に持った槍を落下していく三島沙耶と乃亜目掛けて撃ち放つ。

三島沙耶は強化外骨格の強靭な爪をタワーの壁面に突き刺して急ブレーキをかけて地上五十メートルほどで停止すると目前に迫った槍を寸前でぐるりと反転しながら交わして、灰色の壁面に乃亜を抱えたままぶら下がる。

「正義の味方になろうってすることは自分自身を消滅させることに等しい。D地区で多発していた『フリープレイ』をほとんど一人で引き受けていた乃亜ちゃんはほとんどの自己を心から追い出してしまっていたのかな。いいよ、今日は私一人でやる。君は少しだけお休みをして」

壁に突き刺した左手の甲から鉤爪のついたワイヤーが飛び出して三十七階から見下ろしている『ラーマーヤナ』を襲い掛かろうとする。

実態を持っている『ラーマーヤナ』の顔面を掠めて傷をつけるとスイートルームの天井に突き刺さった鉤爪が慣性によって一気に乃亜を抱えた三島沙耶を三十七階に引き上げる。

三島沙耶はすっとスイートルームに舞い戻って着地すると、乃亜を降ろして『毘沙門天』の出力をあげて脳機能と肉体機能の平常段階を引き上げようとする。

「ねえ、和人聞こえてる? 『毘沙門天』は通常使用で四十パーセント程度の精神干渉率って言ってたよね」

「なんだ、お前はガフの部屋にでも引っ越したのか。『毘沙門天』の測定している数値がほとんどマイナスの状態だったぞ」

「とにかくまだ精神干渉率は引き上げる余裕があるってことだよね」

「もちろん理論上は。僕の作ったものに不可能はないからな」

「つまり意識を具現化することだって可能だってことね」

「そこまでやるとお前はお前であることを辞める」

「神であるという状態を私の理性が抑えていられない」

「そういうことだ。だがあと五パーセント程度なら一週間程度希死念慮から逃れられないぐらいだな」

「了解。まずはそこから行こう。生半可な態度じゃ生きて戻れる気がしない」

出力のあがった三島沙耶の動きがさっきまでの動きを数段階あげたまま『ラーマーヤナ』に襲い掛かる。神格性装備によって具現化された光の剣を錫杖によって受け止められて物理的攻撃が『ラーマーヤナ』に届いているということを三島沙耶は確認する。

知覚領域が第七感まで到達していた二人の争いは『ラーマーヤナ』の右手の御印が切り替わることで、物理法則そのものが書き換えられて思考の上位にある無意識の領域へと侵入していく。

「速度は質量に反比例している。私自身の質量が高次元の精神体とすり替わりお前の速度が私を超えられなくなる。例えばこんな風に」

『ラーマーヤナ』の左手がいつの間にか三島沙耶の後方に現れて背中から強烈な一打を喰らわせようとする。

「あと五パーセント。私は問題ない」

一気に出力のあがった三島沙耶の姿が残像に切り替わり、『ラーマーヤナ』の左手が宙を切って、スイートルームの床を破壊する。コンクリートが剥き出しになった場所の五メートル後方、『隗没』のすぐ近くに三島沙耶が移動している。

「そのままビームサーベルで俺の喉を突き刺してみろ。早贄ならばグルメ供が唸る可能性だってあるぞ」

けらけらと笑っている『隗没』を三島沙耶がビームサーベルで串刺しにしようとすると、『ラーマーヤナ』が頭部だけの言葉を発している『隗没』を奪い去り、速度の限界点まで到達しようとする二人の戦いを少しだけ中断する。

「あなたがこの世界に違和を持ち込んだのね。死織さんはそれを必然と呼んでいた。例え私たちがこの世界から削除されてしまうのだとしても。当たり前の話だけど私はそれを素直に受け入れられない」

『隗没』がペッと三島沙耶に唾を吐くと、唾液がぐるぐると唸りながら回転して光弾に切り替わって三島沙耶を襲い掛かる。

三島沙耶は少しだけ首を傾けるとかわした光弾が後方にあったカーテンと窓にぶつかりジリリと奇妙な音を立てて分子構造を崩壊させる。

赤いカーテンと向こう側にガラス窓が存在していたという痕跡ごと三十七階のスイートルームから消し去って光弾は消滅する。

「お前たちの世界では五十年ほど後になれば産まれる他愛もない技術だ。とはいえお前たちが持っているものを俺たちは持ち合わせていない。欠けたパーツが完全に組み合わさった宇宙なんてものは見たことがないな。お前たちはどこにそれを持っている。教えろ」

『隗没』は右目から涙を流して言葉を話す。

涙腺から放出される生理的反応の操作を覚えた『隗没』はスイートルームに少しだけ緩和した空気を与えて欠落という状態について三島沙耶と共有しようとする。

「さぁ、夢の続きを始めるとしよう。現実はここで途絶える。私の意識だけが世界そのものとなる。みろ、ゆっくりとこの宝玉に光が集まり始めた」

再び『ラーマーヤナ』が右手の印を変えると、左手に持った宝玉が光を集めていく。

青い身体の奇妙な動きによって一瞬だけ隙を作ってしまった三島沙耶は怪しげな光に視線を奪われたかと思うと、目前に槍が迫ってきていることに気づいて間一髪で身を翻して致命的な一撃を味わうことなく空間が紫色の不可思議な空気で満たされていることに気付く。

「だから、お前が大嫌いなんだ。いつもそうやって冷静さを装って本能を汚す」

真後ろから中沢乃亜の右腕が『毘沙門天』の強化外骨格を貫いて直径十センチほどの穴から血液と臓器の一部が溢れ出して三島沙耶は痛みで床にうずくまる。

息つく暇もなく中沢乃亜の黒いブーツが倒れ込もうとしている三島沙耶の後頭部から襲い掛かろうとするけれど、ぎりぎり残っていた反射神経で身体を反転させて仰向けにセルリアンタワー三十七階スイートルームの天井を見上げる。

「五パーセントだけあげておいた出力はこの為なんだ、意識を乗っ取ろうとしていたお前の臭いがぷんぷんと漂っていた。激痛がきっかけになって覚醒を促す。ちなみに、乃亜が本気なら私は一撃で粉々に分解されているから」

『毘沙門天』の眼光に赤い光が宿って認識世界と知覚世界の位相が重なり合っていく。

中沢乃亜は『ラーマーヤナ』へと実像を切り替えて床から天井を見上げた三島沙耶の視覚に入り込んで次元の隙間から呼び出された宝槍を三島沙耶の頭部目掛けて突き刺そうとしてくる。

両手の拳を中央でぶつかり合わせるように渾身の力で叩きつけると鋭く尖った槍の刃先がバキリと折れて垂直に振り下ろされた殺意が消失する。

「逃げずに正面から精神攻撃を受け止めようとするとは。けれど、神の力の一端は人間であることから逃れられぬお前程度が防ぎ切れるものではないと理解しているのか」

シャリンと錫杖が鈴の音を鳴らす。

現実ではなかったはずの腹の風穴に喩えようもない激痛が蘇ってくると、そのまま胸部まで裂傷が発生して『毘沙門天』の外骨格を破壊しようとする。

意識が虚構によって呑み込まれて真理が塗り替えられ始める。

死者の扉が開いて三島沙耶の身体から急激に体温が奪われていくと、世界が完全な暗闇に向かって収縮を始める。

「沙耶! 起きてよ! そろそろ流れ星が来る! 多分、予定通りなら『白い閃光』がこの道を通るんだ。沙耶ってば。起きてよ!」

うなされるようにして身体を揺らされて起き上がると目の前には眼鏡をかけた小学校六年生の佐々木和人の顔が見えて、叔父さんに買ってもらったという天体望遠鏡が彼の向こう側で宇宙の動きを見つめている。

「え? なんで? どうして? 『白い閃光』? ここはどこなの?」

「ここって。学校の裏山だよ。七星小学校の。今日は二十三時三十二分ちょうどに『白い閃光』が東の空に見えるから一緒に見ようって約束しただろ。ほら、もう二分前なんだ。起きてよ!」

「あ。そっか。けど、和人。どうしてその望遠鏡を持ち歩いているの? それは二年前のあの時、和人が自分で壊しちゃったはずでしょ。だって、君の叔父さんはもう」

幼き日の佐々木和人の顔がドロドロに溶け始めて海馬に針が突き刺さったような激痛が走る。

〇・三秒間だけ失われていた現実の認識が電流によって再開を始めて聴覚野に直接響く声によって『毘沙門天』がハイブーストモードに切り替わっていることに気付く。

全身を奔り回る鋭い痛みと共に寝転がったままの三島沙耶が天井へと振り上げる左腕のビームサーベルが『ラーマーヤナ』の二番目の右腕を切り落とす。

一つだけ失われた高次元が四次元時空に追い付かれてしまうと、再び認識と知覚が融合を始めて跳ねるように飛び起きた三島沙耶が捉えた世界が三十七階のスイートルームに切り替わる。

およそ速度という定義において限界を超えた鬩ぎ合いが次々に行われる。

「聞こえてるな。常時接続なんてお前は俺にまだまだ未練がたらたらだな」

「小学校の時の方が痩せててカッコ良かったかもしれない」

「『毘沙門天』からお前の脳内を計測し続けているが興味深すぎて後でたっぷり拝ませてもらう」

「ほら、もっと私を知りたいのは和人の方だ」

「言ってろ。それよりハイブーストモードで出力五十パーセント。勝てても後がきついぞ」

「お願い。後十パーセントだけ出力を上げて。たぶん、耐えられると思うから」

佐々木和人の声が少しだけ途絶える。

『ラーマーヤナ』が切り落とされた右腕を接合しようと傷口と二本目の腕を繋ぎ合わせる。

「迷い。お前はいつもここでぶつかる。限界をすぐに自分で決めてしまう」

「道具だと思えば、計測結果に狂いが生じる」

ぽんっと佐々木和人は左肩を叩かれる。

「お前ならばその先もすでに算出しているはずだ。感じたままに行動しろ」

佐々木和人の右手がほんの少しだけ止まってEnterキーを押す。

「わかった、けど、心が壊れるってことを甘く見るなよ、沙耶」

これでいいんだなと何かを確かめるように和人が師元乖次の顔を覗く。

肩まで黒い髪を延ばした乖次がニヤリと笑いながら和人の方に手を乗せる。

「ありがとう。帰ったらまた星を見に連れて行ってね」

『毘沙門天』の眼光の赤い光が赤さと鋭さを増していく。

意識と行動のレベルに誤差がなくなり、考えることと行動の結果が同時に存在する時間軸へ移動する。

斬りたいと思った瞬間に三島沙耶は『ラーマーヤナ』の一番目の左腕と右腕を同時に切り落としている。「因果律を操作出来る思考状態を人の身で操るだと? バカな。そんなことをすればお前の脳は過去と現在と未来の区別がつけられなくなる。時間という概念がお前を人であることを定義しているはずだ。そのままの状態を維持すれば……」

と『ラーマーヤナ』が何かを三島沙耶に告げようとした瞬間に彼は首を切り落とされて、頭部がゴロゴロとスイートルームに転がって『隗没』の前に転がる。

「なんだ、俺とやっていることに違いはねージャネーか。佐々木和人。こちらが遠慮をする必要はなくなったな。戦争は必ず終局を目指す。最果てでまた会おうぜ」

三島沙耶が勢いを止める間もなくビームサーベルで『隗没』のいる空間を切り裂く。

歪んだ時空のほんの少しだけ先を読んでいた『隗没』が奥歯に仕込んだカプセルによってすでに頭部をテレポーテーションを終えている。

「彼は私の意識の向こう側で時間の外側に存在していた?」

「その通りだ。あばよ、低級民族」

『隗没』の声だけがスイートルームに響いてゆっくり残響ごと消え去ってしまうと、活動限界を迎えた神格性強化外骨格『毘沙門天』に身を包んだ三島沙耶が赤いカーペットに俯けで倒れ込む。

バタリという音で気を失っていた中沢乃亜が目を覚ましてあたりの惨状をすぐに理解する。

「私の力が足りなくて、沙耶が壊れるまで光を追いかけた。なくしかけていた心の在処を私は探してしまっていたんだ、きっと」

重くなった身体を無理矢理動かして三島沙耶の元に乃亜は駆け寄って俯せの身体を仰向けにひっくり返す。『毘沙門天』がプシューとガスの抜ける音をさせて三島沙耶の素顔を露わにする。

頭部から血液が溢れ出していて多分普通の二十七歳よりも大人びた彼女の顔を赤く染めていて、まるで人であることを辞めさせようと襲いかかっているようで中沢乃亜は三島沙耶から目を背ける。

「少しだけ遅かったが、手遅れではなかったようだな」

スイートルームの入り口から声がして乃亜が振り向くと横尾深愛が銀色のアタッシュケースを持って立っていて、そのまますぐに三島沙耶と乃亜の元に駆け寄ってくる。

「気絶している。多分、神格性装備の影響だと思う。沙耶の身体で耐え切れる訳がない」

「わかっている。そのために私がきたんだ。まだ意識と思考の分離は完全には起きていない。今から間に合うはずだ」

「和人の兵器はどんどん強力になってきている。私でも制御するのがやっとなんだ」

「乖次が帰ってきているんだ。もうブレーキは役に立たない」

横尾深愛が三島沙耶の首筋に打とうとしている手が少しだけ震えているのを見て中沢が手を握り、震えを止めようとする。

横尾が深呼吸をして、迷わず首筋の頸動脈に安定剤を注入する。

「『ガイガニック』が相手なら和人一人じゃ戦える訳がないね、確かに」

「そうは思わない。ただルールがより厳密になるだけだ、乖次は余分なものを許そうとしない」

「聞こえていますよ、『記号と配列の魔術師』、横尾深愛先輩。ブレーキが必要ないのはあなたの方では?」

『毘沙門天』の通信機からとても冷たくけれどとても合理的な印象を与える男の声が聞こえる。横尾深愛は唇を噛み締めて血液の苦みを口に含む。

持ってきたもう一つの薬剤を三島沙耶にもう一度注入しようとすると、強化外骨格、『毘沙門天』が分子崩壊して目の前から姿を消して全裸の三島沙耶の姿が露わになる。

至る所から血が流れ出しているけれど、おそらく『毘沙門天』の生命維持システムが機能していたせいか致命傷には至っていない。

「乃亜、ベッドから毛布を一枚持ってきてくれ」

横尾の呼びかけに乃亜がスイートルームのキングサイズのベッドへ毛布を取りに立ち上がる。

「ちなみに、アセナピンを〇・〇〇三ミリグラム、それからクエチアピンを〇・〇一五グラムだけ増やして処方して下さい。少なくとも脳幹に損傷が残り意識が破壊される事態は避けられるでしょう」

乃亜が持ってきた毛布をかぶせて三島沙耶の身体を暖める。

横尾の顔にほんの少しだけ残っていた明るさが消えて好奇心という獣に覆い尽くされようとする瞬間を乃亜は見逃さず、西田死織が彼女に告げた言葉を反芻する。

「もしお前たちが天才で他のやつとチャウなら、何も問題はナいんよ。自分が思った通りの道筋を歩いたらええ。けど、どこかでもし普通の人間と一緒にスゴソー思うとるんなら話はべつや。お前はお前の声なんて聞かんで人の話をちゃんと聞いとったらええ」

異例中の異例、特例中の特例は『コンビニエンスストア』の面々にそう告げて彼女たちの甘えを一切取り除こうとした。

「今、シオリたんの言葉を思い出しているんだろ。あの時、シオリたんは私に人間でイロッテ言ってるような気がしてなんだかまた距離がずっと遠くなったような気がしてしまったな」

あははと乃亜は笑って、妙に察しの早くなった横尾を見てとても窮屈そうに思えてしまって、『フリープレイ』に取り込まれていくうちに私たちが持っていた狂気の行き場所が今、沙耶に全て受け渡されたのかもしれないってそんなことを考えた。

「私たちと違ってこの子はすごく普通の子なのに、私たちよりもずっと簡単にこうやって狂気の壁を乗り越えてしまう。壊れるってこと、壊すってことを彼女は全然恐れていないんだ」

三島沙耶の顔に精気が戻り始めて少しずつ冷えていた身体に温かみが戻っていく。

多分、西田死織から一番遠い場所にいる三島沙耶がシナプスの電極による接合を限界まで引き上げられて尚、息をしている、鼓動を止めていない。

きっとまだ彼女は三島沙耶という人格を残している。

「まったくその通りだ。沙耶は私たちと違ってシオリたん、いや、西田死織に追いつこうとは思っていない。彼女はいつも彼女のまま居続ける。自分が一つの歯車になったように役目を果たそうとする」

乃亜は、正拳突きを繰り出す時に、上段回し蹴りで対象を排除しようとする時に、脳髄から伝わる命令が何度も繰り返し通った道筋を身体が覚えきっていて正確に同じ道筋をなぞろうとすることを思い出して、三島沙耶の頬に触れる。

「深愛先輩は私たちの前では全然甘えたりしないね。ずっと気丈に振る舞って私たちを引っ張ろうとしてくれている。だから、いつの間にか自分が通ってきた道筋を忘れている。辿り着くべき目的地とは違う場所で誰かの役割をなぞろうとしている。違うかな」

分かっているという顔をして乃亜を見つめて思い悩んだフリを横尾深愛はし始めて、さっきとは違う薬剤の入った注射器をギュウッと押して三島沙耶の体内へと液体を放出する。

「君のいう通りであれば、私は沙耶の頸動脈にこの薬剤を注入して、彼女の人格をもう一つ増やす手伝いをする。眠っている煩悩に優しく愛撫しようとする」

「うん。ポロを作った時の深愛先輩はそうやって迷いなく人間の枠組みを簡単に飛び越えていた。まるでそうすることが最も人間らしい行為なんだっていうようにして」

「その結果私は生命の形を捨てた生き物を生成し、たった二週間で廃棄処分にしてしまった」

「進化の極限のなれの果て。試験官から産まれた深愛先輩の好奇心。いつも悲しい声で泣いていた」

「私が後悔をしていると思うか」

「そうじゃないから深愛先輩は自分の形を変えようとしている」

「私が壊すことに躊躇い始めていると」

「ううん、治すことを罪だと感じている」

もしかしたら師元乖次のいう通りの分量で三島沙耶の静脈から侵入させたスマートドラッグの薬理効果が身体中に染み渡っていれば彼女の意識から精神という領域を剥離させていたのかもしれないと横尾深愛は見知らぬ道に入り込もうとしている自身を振り返り薬剤の入った注射器をパキリと折って口を開く。

「私は神の領域に当然ながら近づきたいと考えているし、シオリに遅れを取るわけにはいかない、いや違うな、私が目指す頂きにあるべきものを具現化させたいと考えている」

「それはポロとよく似た刹那を創造するって意味なのかな」

「悲しみを与える為に産まれる生物。生命という道徳的定義とはまるで真逆の結果だな」

「だけど雫さんは救われたんだ。彼女の心はポロが食い尽くしてくれたから壊れずに済んでいる」

「知覚することそのものが狂気に繋がる出来事を通して雫は人と接することを、理解し合うことを、諦めた、だから生物の形を辞めたポロに命を繋ぎ止められた」

三島沙耶の目が開き、彼女の意識がセルリアンタワー三十七階のスイートルームに舞い戻る。

まるで彼女の辿り着いた高次の次元に漂っていた言葉を拾い集めるようにして三島沙耶ははっきりとした口調で話し始める。

「私たちが向かうべき場所、死織さんが提示した世界の向こう側、『未来会議』を私たちは『コンビニエンスストア』を捨てて手に入れる」

横尾深愛と中沢乃亜がコクリと頷いて手を握り合う。

スイートルームのガラス窓は中沢乃亜が突き破ったまま割れていて、渋谷の夜景に浮かぶとあるビルの屋上に魔法少女が立っている。

「乃亜が負けて、沙耶ちゃんが勝ってしまった。多分死織お姉様は先に進んでいる。私まで神様になれっていうんだ、あの人は。機械生命と心中か、獣人と愛の逃避行、どちらを選んでも地獄なのに私の行く先はずっと決められているんだよ。ねえ、『竹右衛門』、こういう時はどうするべき?」

頭の上のヘリコプターをブルルと唸らせながら巡音潤の周りを巡音家当主である長女から送られてきた誕生日プレゼントである通信用小型霊獣、『竹右衛門』が飛び回っている。

「まずはマジカルステッキを手に入れるべき! 王子様のキスのことはそれから考えよ」

はぁぁととても嫌気の差すような溜息をついて、ハート型のアクセサリでコメカミにBB弾を打ち込んで中距離空間跳躍によって巡音潤はビルの屋上を渡り歩きながら渋谷の夜に消えていく。

夜空に浮かんでいる『ムーン』はまるで大きな眼球のように渋谷の街を見下ろして夜が終わるのを待っている。

「なあ、モノアイ。お前はどの世界を切り取る気でオルンヤ。まさか並行宇宙の向こう側で見知らぬ自分に会いたいなんてイワんよな。ようやく偽物の左眼の呪いから解き放たれたって感じやロ」

西田死織が渋谷駅前のスクランブル交差点の中央ですれ違った芹沢美沙に問いかける。

彼女の黒い眼帯にはドロドロに身体を溶かしてしまったような奇妙な形の生き物が刺繍をされて生命の尊厳のようなものを訴えかけようとしている。

「異次元に存在していた二十四人の一人はひそやかな呪いで『預言』を狂わせようとしていた。けれど残された私の左眼が私のいるべき場所を教えてくれる、それだけですよ、西田死織さん。鮫でも猫でも未来でも私のいる場所なんて見つけられるはずはない。私はただこのカメラでこの世界を記録し続けるだけなんですから」

「ホならエーんよ。うちはまたお前まで『ガイア』から離れようとしているように見えてしゃーナインヤ。誰かが決めた筋書きを自分の頭で考えたって思っている奴はどこにオルンヤロナ」

ふふふと気味の悪い笑顔を溢して芹沢美沙が夜空を見上げる。

まだちゃんと見えている彼女の右の眼はようやく左の眼に聞こえてくる声の正体を見つけられたような気がして、芹沢美沙はまるで違う時空を貫いて世界に干渉しようとする重力のように聞こえてきた命が途切れてしまう場所へ誘う声をなんとか払い除けて明るいままの月を見上げる。

神様がもし願い事を届けるのならば、きっとこんな夜なのかもしれないって芹沢美沙は自分の形を取り戻した左眼にこっそり話し掛ける。

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