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「さぁ、お疲れ。みんなが仕事頑張ってくれればこうやって会社の経費で飲み放題食い放題だ。これからも遠慮なんてしないで遊び回るためにガンガン頑張ってくれ。俺たちはさ、人に褒められるような仕事じゃないのかもしれない。何処かでユーザーを利用している。けど、だからだな。後ろめたく思っちゃいけないのは。思いきり金を稼ごう。これからもよろしく。よこかわぁ。そうやって酒に呑まれてると女にモテないぞ。とにかく気をつけて帰れよ。木山、明日の早番よろしく頼むな。俺は休みだ」
「あ、鷺沼さんずるい。大丈夫ですよー。土曜日でも私はちゃんと出勤しますから。ではみなさん、波玲さん歓迎会お疲れ様です。シフト覚えてないですけどー、明日も遅刻なんてしないでくださいね。あ、奏水ちゃん。顔青褪めてるけど大丈夫?」
 鷺沼と木山が地鶏居酒屋のあるビルの入り口で「イマコイ」の早番運営メンバーを集めてぼくの歓迎会を締める挨拶をする。奏水が何か思い詰めた表情で木山と話をしているけれど、あまり酔いが深まらないうちにぼくは皆にお辞儀をしてジップアップパーカーのフードを被り宮益坂を降りて渋谷の雑踏に紛れていく。急激に身体が冷えていく。親密な関係性から距離を取らなければいけないと考えていたのは確かだ。ぼくは思考の片隅に研ぎすまれた殺意が棲みついていることをとうとう言い出せなかった。誰にも邪魔をされたくないと考えていることを憎しみなんて安っぽい感情にだけは変えたくなかった。誰も愛してはいけない。誰も憎んではいけない。まるで、呪文のように反芻している言葉はきっと次の瞬間には掻き消えて全く別の姿をしている。ポケットからイヤホンケースを取り出してスマートフォンで音楽を再生される。街の雑音が遮断される。笑い声。足音。車のクラクション。電光掲示板から流れるJ―Pop。吐き気を抑えて悪魔達の呼び声に反応する。
「ねぇ、どうして浮気なんてするの。私のこともう嫌いになったんでしょ。離れるのだけは絶対に嫌。あなたは私のものなのにどうして嘘なんてつこうとするの」
 何度も追いやろうとしてきたはずなのに頭の中でぼくを暗闇に引き摺り落とそうとする誘惑が呼びかけてきて交差点の信号の色や車のヘッドライト、ウィンカーが光が視界を埋め尽くしていることだけがぼくを現実に繋ぎ止めている。聞こえてくるのは歩くスピードと同じビートと何処かで聞いたレコードから切り取られたメロディで逃げ出すことを許さないベースラインが鼓動を抑えるようにって余分なことを話すなって湧き上がる衝動を嘲笑っている。リリックが打ち消してくれる彼女の歌声は鼓膜まで届く前にぼくだけを街から削除してようやく自分だけが誰にも見えていないんだってことを理解する。横断歩道の信号が青に変わって歩き出して、向こう側やってきた苛立ちをあからさまに露呈した会社員の肩が当たるけど、透明な存在であるぼくを彼らは気にも留めていない。息苦しく理由なんて誰かに聞かなくたってわかっている。何度も叩きのめされてきた現実を忘れてしまわないように刻み込んで京王線渋谷駅まですれ違う人々がなぜぼくのことを無視してきたのかを理解する。ぼくには役目があり、話してはいけない傷跡があり、穢してはいけない過去に怯えている。必要なのは恐怖であり、立ち向かわなければいけない困難であり、ぼくは彼らのことを蔑ろにしてはいけない。どうか誰にも疎まれることのない答えだけを愛させてくれとぼくは心の中でたった一人で父と母の名前を思い返して誓おうとする。
「君には酷い思いをさせた。消えない傷跡を埋め込んで、抗えない想いを刻みつけてさえいれば離れられると何処かで思い込んでいたんだ。舌先に血反吐の味が苦渋を舐めさせにやってくる。だから、もう黙れ。お前のことをぼくがどんな風に考えているかなんて知らないくせに知ったような口を聞くんじゃない」
 東横デパートの入り口前の横断歩道の信号が青に変わってマークシティー方面へと歩くぼくは思わず頭の中で響く声に反応して大声で叫び出し、透明であることから耐えられなくなって感情をぶち撒ける。すれ違う顔の見えない人々が驚いてぼくの方を見ている。何も意味がない。何も変えることすら出来ない。喜びをぶつけてしまえば、彼らはぼくの名前を覚えてくれるのだろうか。視線があった瞬間の記憶を大切に抱きしめてあげさえすれば過去を乗り越えられるのだろうか。これ以上暴力に気を許してはいけないと理性が思考を乗っ取り怒鳴りつけている。これ以上は何も伝えられないとどうにか諦めて歯を食い縛り、ぼくを見つけた中年女性の会社員から睨みつけながら離れて京王線のエスカレーターで改札階へと移動する。
「ね、だから言ったでしょ。あなたは私のことしか愛しちゃいけないの。どうして奇妙なことばかり考えて逃げ出したりなんてするの。ずっと本当にあなたのことだけを愛しているわ。お願いだから壊したりしないで。あなたが憎んでいるのは私のことなの」
 クラクションが鳴り響く道路の中央でしゃがみ込んでしまった四十代の女性会社員が身動きが取れなくって何人かの親切な男性が駆け寄っているけれど、ぼくは気にもかけずに目を閉じて呼吸を整えて聞こえてくる女の呼びかけだけに応える。エスカレーターで一番上まで辿り着く頃にはもう誰もぼくのことを思い出す人はいなくなっていて京王線の改札が見える頃にはいつの間にか呼吸を荒げている自分に気付いていつもそうしてきたように溶け込む努力をする。消えていくことは怖くない。忘れられていることは繰り返してきたはずだ。改札を通り抜ける頃にはやっぱりぼくは誰でもないぼくになって酔いすぎた自分を戒めるように口元を抑える。ホームに着くと同時に電車の扉が閉まり二番戦にあった電車が発車してしまうけれど、一番線には既に次の電車が停まっている。行ってしまった電車を追いかけるように京王線渋谷駅後部車両から先頭車両へと向かっていくと、ホームの中ほどの降車ホームに一人の男が立っている。既に二番戦からは電車が発車しているので、降車ホームに残っているということはかれこれ10分ほどその場所に止まっていたことになる。よく見ると、ぼくと同じ灰のパーカーを着ていてフードを被り下を俯いている。当然ながら降車ホームに残っているのは彼一人で他には誰も見当たらない。駅員が不審がらないのも不自然だけれど、何よりもまずぼくとそっくりの、いや、本当にぼく自身としか思えない容貌の男で、パーカーだけではなくスキニージーンズとそれにバスケットスニーカーまで同じものを履いている。もし、こんなことを考えても構わないのならば、それはドッペルゲンガーと呼ばれる瓜二つの自分であり、見てはいけないものであり、知ってはいけない存在になるはずだ。整えたばかりの鼓動が高鳴り、疑念が湧き、ぼくが捉えている現実が紛い物ではないことを示すかのように構内アナウンスが鳴り、一番線の電車がの車時間が近づいていることを知らせてくる。目を奪われている相手に何か声を掛ければいいのだろうか。けれど、どうやって呼びかけるべきなのかがわからずぼくは戸惑いながらも停車中の電車に乗り込み、それでも降車ホームから一歩も動こうとしないぼくと瓜二つの男の姿に真っ直ぐに見つめたまま立ち尽くしてしまう。終電までにはまだ時間がある。急いで乗り込んでくる会社員や若者ですぐに京王電鉄急行吉祥寺行きは人で溢れてしまい、ドアのすぐ傍にたったまま男の姿から目を離せないぼくを怪訝そうに睨んでくる中年男性がいたけれど、咳払いにすら反応する気にはなれなかった。やがて車内アナウンスが流れ始めて一番線の電車の扉が閉まる。降車ホームの男をガラス窓の向こう越しに眺めながらぼくは決して出会ってはいけないドッペルゲンガーの姿を見送る。電車が渋谷駅を離れる直前で俯いていた男が何か笑みを浮かべて独り言を話していたような気がして怖くなり、イヤホンから流れてくるビートとリリックの世界に没入しようとする。

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