【ｓｈｉｍｏｋａｗａ＠少しだけ計算に狂いが生じている。坂下夫婦の両方が死体で発見されたニュースは確認しているな。妻の方の顧客リストに赤崎蓮二の名前が見つかっている】

左に流れる七三分けの男が社内のＰＣでｓｌａｃｋ経由でチャットを始めている。

subterraneanssと名付けられたチャンネルには彼を含め五名の参加者がいるようだ。

【ｋｕｒｏｉ＠西早稲田信用金庫の最重要顧客。坂下夫婦が横領する際に真っ先に餌食にしていたけれど、その様子だと赤崎の方の誘導という線が考えられるってわけね】

それぞれ別の会社の社内ＰＣやスマートフォンアプリを利用してお互いに収集した情報を交換し合い、多面体の別側面における認識と知覚の誤差を修正しながら実数の切断面に有理数と無理数の極限値が設定された箇所では彼らが予測していた以上に社会構造に対して狂いを与えてしまい、バランスの崩れた複素数面に対して利益を抽出させてしまっている可能性があると冥源慎一郎は予測している。

【ａｎｎｏ＠とはいえ、敗者の裏で勝者が嘲笑うなんてごく当たり前の事実じゃないか。 ようはぼくらの意志ではなくナッシュ均衡が保たれないことを予測している人物がが曲線の内側に現れるということか。まるでそこが『ラプラスの眼』であるかのように】

【ｍｅｉｇｅｎ＠パレート効率性を破る為だけに構築された理論をぼく達がなぞっている。故に『地下街の暗殺者』である理由には存在を保証されているという事実が必要になる】

チャットルームの動きが止まり、どうやらそれぞれが社内のＰＣで秘匿チャンネルを利用しているということに警戒心を抱かなければいけないのだということに気付いてタイピングの手を止めたようだ。

【ｙａｍｉ＠でも。あの人は私たちの作るゲームになんて興味ないと思うなー。私たちはさ、ただ単純に十字キーとＡ,Ｂ,Ｘ,Ｙで必殺技を繰り出しちゃえばいいと思うんだけど。やっぱりお兄さん達はすっかり頭が硬くなっちゃっているね】

【ｓｈｉｍｏｋａｗａ＠残念だけど、霧子のいう通りだ。もし計算され尽くした美学なんてものが存在するのだとしたら結局のところそこには歯車の動きに一分の乱れもない普遍的な日常しか存在することが出来ない】

【ｋｕｒｏｉ＠些細な悪戯でほんの少しだけ零した悪意が暴発するって言われてもバタフライエフェクトなんかよりずっと信憑性のある現象が今起きているからね】

【ａｎｎｏ＠だから、目の前に起きている光景を誰かに話そうとしてもきっと伝わらないのかもしれないな】

【ｍｅｉｇｅｎ＠全く嫌になる。俺たちは単なる会社員でしかないって事実を思い知らされてしまうな】

【ｙａｍｉ＠そう、全てはあの人も思うがまま。お姫様がやってきて王子様を惨殺してしまうだけの他愛もないラブストーリー。どこにでもある話を私の掌の中で魔法に変えてくれる。とても小さな奇跡のお話ね】

チャットルームで送信されたメッセージの時刻が１０：３２：３７,１０：３３：０７,１０：３３：１９,１０：３３：３３,１０：３３：４９,１０：３３：５７,１０：３４：０９,１０：３４：２１,１０：３４：２１,１０：３４：２３,１０：３４：５２と六桁の素数であることに『闇街霧子』は勘付いてちょっとだけ悪戯をする。

世界で起きている奇跡の総数が限られているのだとしたら、彼女が見たいと感じる光景を大人達が邪魔をしにやってくるのかもしれない。

だけど、もし私にも小さな我侭のようなものが許されるのだとしたら閉鎖された平面の向こう側にはきっと運命の出会いなんていう偶然性の極地が存在するんだろうなって親友だった『舞川翔子』の言葉を思い出して彼女はそっと目を閉じる。

だから私は今たった一人で眠っていて、頭の中に住んでいる私の分身と出会うことが出来ないってことを嘆いたりしないで予定通りに後十八秒で目を醒ますと世界の法則に則って１０：３５：１１にメールを送る。

「李淵さんに我侭を言って一晩だけ身体を譲ってもらったんだ。目が醒めてもステージに誰も上がってこないなんて産まれて初めてなんだ。スポットライトを奪われないうちに蓮二さんは部屋を出たほうがいい」

全裸でタオルシーツだけを身にまとった『遥祐』が隣で同じ時間に目を醒した蓮二に忠告をする。

「こんな時間まで眠ってしまうなんて俺も若くはないな。名残惜しいがこれ以上お前を困らせるわけにもいくまい。先に出ることにするよ」

『赤崎蓮二』は立ち上がってシャワールームに裸のまま向かおうと握っていた遥祐の右手から手を離す。

普段ならタイチかユメコあたりが席を譲れと騒いでいるはずなのに、頭の中はとても静かでまるで本当に夢の中にでも入り込んでしまったみたいに爽やかな朝を遥祐はベッドの上で迎えているけれど、左を向いてベッドサイドのテーブルに置かれたメモ帳を見てこれが現実なんだということを彼は理解する。

──『狗神』に今晩のドレスを用意させてある。シャワーを浴びたら受け取る準備をしておいてくれるかい？君の喘ぎ声は確かに本物だった。私に遠慮なんてせずにチョコレートを食べにおいで。私は私との関係に対してとても寛容なんだ──

しばらくすると、『赤崎蓮二』は昨日の夜訪れた時と同じように深い赤のスーツジャケットを着てネクタイを締めた後に、ポケットから革製の財布を取り出して中に入っている一万円札を全てソファの前のテーブルの上に置く。

「少しだけ複雑な気分だけど、受け取っておいた方がいいのかな。出来たら今度は日曜日に会えるように調整してもらうことにするよ。」

馬鹿を言うなと『赤崎蓮二』は笑いながら言い残して、スイートルームを後にしようとする。

「そういえば、『喜仙恭二』とか言う奴はお前のところの知り合いだったか。うちの会社にＭＢＯをかけてきていたぞ。善人の顔がよく似合う連中のやることだ。軽くあしらっておいたが問題はなさそうだな。」

『赤崎蓮二』がスイートルームを出て扉のドアが閉まると同時に、スマートフォンが鳴り始めて時間が訪れたのだと言うことをベッドでまだ眠っている身体の持ち主に知らせにやってくる。

「おはよう。今日のパーティーには来られないそうだね。君たちが関西の連中と縄張り争いをしている間に私たちはすっかり足元を固めることが出来たよ」

「李淵か。一輝か純平あたりだとやりやすかったが、俺も運が悪い。『核家族』の連中も多分今夜は紛れ込んでいるぞ」

「全くもって彼らもしぶとい。西日本程度ならばくれてやるのにいまだに都会の味が恋しいと見えるな」

「くれてやるというよりも流石に俺たちですらそこまでは踏み込むことは難しいだろうな。三都を奪おうとしただけでこの有り様だ。舐めてかかれる相手ではないさ」

「『銀牙』の末裔ともあろうものが随分と謙虚な言い草だ。少なくともその件に関しては『紫峰』に一任してある。問題はやはり」

「『グラニューラヘッド』さ。帰国した理由が俺たちの完全制圧ときている。馬鹿げた妄想を現実に変えかねない」

「彼女は恒常的安定を望むだけだ。彼女自身の欲求ではなくＣＥＲＮの連中からのお使いだろう。」

「今日は随分と気前がいいな。パーティー前で浮かれているのかい」

電話の主が軽口を叩いて『田神李淵』を挑発しようと声色を変えると、まるでその様子を察知したかのようにドアベルが鳴り、時間が迫っているのだということを伝えにやってくる。

「李淵様。お待たせいたしました。身支度をお手伝いに参上いたしました」

『狗神』がまるでホテルマンのような出で立ちで配膳テーブルと一緒に部屋の中にやってきてナプキンを左手に抱えてベッドルームの『田神李淵』に向かってお辞儀をする。

「君にしては随分とタイミングがいい。銀色はアノニマスととても相性が悪い。もし彼の気が変わってしまったらパーティーが暴力で制圧されてしまうところだった」

『狗神』はベッドルームにうつ伏せになる『田神李淵』の傍によると、タオル越しにマッサージを始める。

黒い髪が真ん中で分けられてとても凛々しい顔立ちの『田神李淵』は満足げに『狗神』が彼女の身体を柔らかくほぐしていて、まだ陽が登りきる前の日差しがベッドルームに差し込んできている。

港の方から汽笛が聞こえてきて、お目当ての船が入港してきたということを知らせてくる。

「『ニスタグマス』。『震える眼球』。『Ｍｒ・Ｆｒｉｄａｙ』の所有する客船の中でも最も自由を謳歌し、選ばれた人間しか入ることの許されない海の上の楽園。『大和』に入港するのは実に十九年ぶりでしたか。前回は確か」

「そう君が産まれる前で、まだ私が少女で、この身体の本来の持ち主と恋をしていた頃の話さ。そして『ガイア』記録監査員の連中がこの国に渡ってきた年でもある。『出雲』は既に『天照』がお隠れになり、『須佐男』が力を失くしていた」

「そして『六分儀博士』と『忌野清司』様が出会い、『爆発する知性』に関する論文を共同で執筆した年でもあります」

「あはは。二人の偽善者の話を私の前でするつもりかい。彼らの功績は根こそぎ私が塗り替えたからこそ、感染者は感染者として人間を謳歌出来る」

「李淵様はやはり昨晩からあまり体調がよろしくないようですね。熱のようなものに浮かされていなければ良いのですが」

「『狗神』。君には叶わない。確かに頃合いというには些か時期が良すぎるのかもしれない。『ファシズマ』の完成を待つ必要はなさそうだ」

「ご随意に。すべてはパンの導く未来が決めること」

『田神李淵』は静かに目蓋を閉じて心地よいうたた寝の中へと沈んでいく。

視界をチラつく七色の羽が不整合な状況を作り出すのかもしれないと僅かにずれてしまったたった一秒間の出来事に惑わされている人格の一つを眠りにつかせながら港に入港する汽笛の音だけに鼓膜を集中する。

「ぼぉぉぉ！　おい、やってきたぞ！　あの船だ。『須佐男』を迎えに行ってこいってお上さまが煩くて『出雲』には長居出来なかった。あの人ずっとしくしく泣いてばかりでこっちの気が滅入るんだよ。で、どうやって乗り込むんだ？」

狭苦しいシトロエンの中から港の様子を伺っている『グミ』と『チョコレート』と『パイナップル』の三人はお互いに顔を見合わせながらフロントガラス越しに空を見上げる。

『アンダーソン』は後部座席の窓ガラスをハンドルを使ってなんとか自力で開閉すると、外に飛び出てシトロエンの屋根に登って空を見上げる。

汗だくになったせいか緑色のワンピースは汚してしまったので車内に脱ぎ捨てて素っ裸になり下っ腹の突き出た体型で彼女は雲ひとつない青空に浮かぶ黒い小さな点を追いかけて海の方へ飛びだっていく。

「さて、『ゼロリパブリック』はなぜあんな使いを寄越すのか。いっそのこと船の機関部ごと『死のエーテル』で乗っ取ってくれると早いのにさ」

『パイナップル』が運転席でハンドルにもたれかかりながらカモメに襲い掛かられそうになっている裸の妖精の姿を見て苦笑いを浮かべている。

「学生時代の同級生にお願い事とは『パイナップル』もヤキが回ったねぇ。そんなに『桜珊瑚』なんてものが欲しいのかい」

『チョコレート』が丸眼鏡のまま助手席でベレッタを分解して手入れをしている。

アタッシュケースに拡げられた拳銃のパーツはよく手入れされているのがよく分かり、彼の腕前も伺えるようだ。

「バカ言っちゃいけねえぇ。『八咫鏡』を追いかけてお前だってここまで追いかけてきたんだろうが。なんとしても中に入らないと話が進まねーだろがー」

『グミ』が後部座席で十二分にとった睡眠から目覚めて英気で満たされて意気込みが十分であることを『パイナップル』と『チョコレート』の二人に訴えかける。

「ところで『パイナップル』。『ニスタグマス』の甲板上に二人ほど兵隊がいる。あいつらの武装を確認できるか」

『パイナップル』は日光から目を守るための七色のサングラスを外すと、右目に緑色の照準器のような光が宿り、埠頭沿いのコンテナに停車しているシトロエンの車内から五キロほど先の『ニスタグマス』甲板の兵士二人に焦点を合わせる。

「あー。軍服は明らかに光学迷彩仕様の防弾タイプ、腰にはセミオートマチックタイプの自動拳銃、一人は単なるフルオートの機関銃に見えるけど、『ｇｉｇｎｉｃ.ｃｏ.』の表記あり。多分通常兵器ではないね。ってやばい。全員急いで退避！　すぐに『レ・ゼラブル』から脱出して！」

『ＭＤＭＡ』の三人は、『パイナップル』の合図で急いでドアを開けると、そのまま前転して車外に飛び出て避難しようとする。

彼ら三人が車から脱出する寸前で着弾音が聞こえると、彼らの改造シトロエンが爆発音と供に燃え上がる。

破壊されたシトロエンのボンネットが宙を舞いながらカモメと遊びまわっていた『アンダーソン』の頭上高くを通り過ぎて海の中に落ちていく。

「ターゲットの排除を確認。引き続き任務を続行する。渚、今日ぐらいは大人しくしておいてくれよ」

大きなコーナーソファの前のテーブルの上で一万円札が燃えている。

『狗神』がマッチの火を放り投げて手元の小さな本を読み上げて詠唱を完了する。

「これでしばらくの間『遥祐』様は惰眠を貪ることが出来るでしょう。肉欲に溺れすぎてしまうこともなくなります。李淵様のお手を煩わせるほどとはやはり教会令の影響が出ているようですね」

「全く口惜しい限りだよ。悪意の源を封じ込めたところで悪臭はいつでもどこでも溝鼠と供にあるはずだ。『磨崖甲鉄』を引きずり出せるところだったというのに」

「深淵はやはり汚しきることが出来ません。これではまるで『輝夜』様が正しかったとでもあなたのお父上がお説教をしに枕元に立ちそうではありませんか」

「魔術の徒とあろうものが、私の腰の月の痣に囚われているのかい。全く君は脚を引きずって街を彷徨っていた時と何も変わらない。『伏姫』と同じ首輪の呪いにでも掛けて犬としての使命を刻み付けたい気分だ」

「ご戯れを。いずれにしろ管理人は孤独に苛まれて発狂する頃合い。目を塞ぎ口を閉じ耳に蓋をする。李淵様には終焉の到来をご堪能下さいませ」

「何もかも甘いな。時刻犯罪が修正されてしまえば数を数えるものの何人が生きることが出来るかな。夕刻まで時間はある。一つ賭けをしようか、『狗神』」

コインの裏と表がくるくると周り宙を舞う。

ピタリと──ｆｅｉｔｈ──とスペルを誤った刺青が入った掌の上に金色の硬貨が張り付いて右手の平で伏せられる。

まるでスイッチが押されてしまったように奇妙な独り言が部屋の中で発せられる。

「宇宙には時間を報告しておいたはずだから、問題はない。収束してくることで君との距離を縮めることが出来なくなるってことを理解する事は容易い。わかっているね、『アネモネ』。けれど、案外肉体が破壊され尽くしたところで精神に関しては問題なくコミュニケーションをとることをやめる事はないはずだよ。入り口と出口はつながっているはずだし、君が何か杞憂を抱く必要なんてない。それはともかく誰かがドアをノックしてきたようだ。こんな時間に誰だろう。『アイル』、出来たら玄関まで迎えに行ってきてくれないかな。うん、もし知り合いだったら中に受け入れて見ず知らずの人間だったら丁重に尋ねてきた理由をいつもの模範解答を参照にして出来るだけ詳細に聞き出すんだ。まあ、そういうわけで、君が今、こうやってぼくに話しかけてきているっていう事実をうやむやにするわけにはいかない。何せ、もう七時から十二時までずっと会議を続けているはずなのに一向に答えがない。ここに意味があるのかどうかすらわからなくなってきたってさっき『セイヤ』がぼやき始めていたのを聞いていただろう。なぜか判別式を覚えることが出来ないからインターネットを利用して正確な情報を得るために、海堂くんを犠牲にしてしまったって言っているんだ。そんな事は何もかも問題はないはずだし、うっかり様子を聞きにきた調査員に失礼を働くわけにもいかないだろう。あれ、どうだった。そうか。君が新しい管理人になるかもしれないんだね。だったら確かに心配になって一度ぼくの仕事ぶりを観察することになってしまうかもしれないからね。いや、けれど、どこまで行ったって仕事は仕事さ。どんなものでも出来るだけそれで十分のはずだし、目的と手段を履き違えてしまって延命措置を繰り返しているぐらいならこのままいつかどこかで自動的に発動するプログラムでも作っていた方がマシなぐらいさ。それでもね、『アネモネ』。君が苦しんでいる理由は十二分に理解しているつもりなんだよ。煩わしい記憶になんて蓋をして生きていくだけの方法はあと三万五千六百二十四通りに渡ってハードディスクに記録されているのだから君が心配するようなことじゃない。ただ大切なのは概ね夢みがちな少女になりたがる連中っていうのは不可思議なコードを発見したいがために人生を無駄にすることを厭わないってことなのさ。ここがうんざりするような炎熱地獄に近い場所だとしても同じことだ。あ、『サエ』。エアコンのスイッチを入れてくれるかい？　ぼくがここまで汗を流しているって事実に気付いていたのだとしたらもう少し早くに行動することだって出来たはずだ。あーいけない。つい嫌味ったらしくなってしまう。ウジウジといつまでもつまらない問題を口にしてするべき問題と後回しにしているのは悪い癖なんだ。とにかくね、『アネモネ』。君がぼくの傍にいてずっと手を握っていてくれているって事はとても重要な問題なんだ。それは繋がっているという宇宙的法則的に基づいた変化を片付けられないエントロピーによって解体されてしまう可能性を未然に防ぐことがぼくの唯一与えられた仕事だからってわけじゃない。そうなんだ、『アネモネ』。君のことを愛しているからっていう陳腐な言葉をつい吐き出したくなってしまうぐらいに、ぼくは猛烈にどうにもならないぐらい憤っている。そうなんだよ、『アネモネ』。本当にぼくは今心の底から君のことを殺してしまいって思っているんだ、『アネモネ』。だから教えてくれ、さっきドアから入ってきた人の名前は誰なんだっけ？」

机の上には２７インチのデスクトップマシンがまるで何かと交信するかのように３Ｄグラフィックのスクリーンセーバーを映し出している。

六畳一間の狭苦しいアパートの一室にはベッドと机とソファだけが置かれていて茶色いソファの上に座っている四十代の男はもうかれこれ五時間に渡って独り言を話し続けている。

壁の薄いアパートの隣の部屋に住んでいる二十代の女性はいくら聞き耳を立てても明らかにたった一人で生活をしているとしか思えない中年男性の狂気の魅力から自分自身を引き剥がすことが出来ずにいるようだ。

きっとそれは孤独と言う病を売り歩く商人から手渡された不思議なノートが原因だったのかもしれないけれど、もうすっかりそんな事は忘れてしまって四十代の男はただ頭の中に記載されているアカシックレコードをなぞるようにして大袈裟な身振り手振りで話をしている。

「これはさ、多分実験なんだよ。どこかの偉い人か宇宙人が秘密裏にこんな小さな部屋の隅っこで繰り返している人体実験。だからいつか私にもお迎えが来るんだ。油断はしていられない。ずっと綺麗でいれば星の王子様とも出会えるかもしれない」

全身に刺青を施された身長百六十センチセンチで真っ白なＴシャツに三本ラインのピンク色のジャージ姿の女性が舞台の上で大袈裟な身振りと手振りでまだ誰も座っていない観客席に向かって大きな声で発話する。

「かんじんなことは、目に見えないんだよ」

とてもヒステリックな甲高い声で舞台下から怒鳴り声をあげているのは耳が隠れるぐらいのミディアムヘアの小柄な女性で少しだけ芯のずれた声のトーンに苛ついているというのを舞台袖と観客席にいる劇団員の全てが理解して修正を加えていく。

『円夜凪』という女性にとって自分を取り巻く全ての装置がメタファーとして感覚を支配しているのだという決定的な事実を意志の統一された機械であるのだということ共有しようとしている。

差し迫っている舞台公演に向けて『円夜凪』という人格を構成する一つ一つの素粒子が物理法則にいっぺんの狂いもなく正確に記号と配列のパラドックスを形成している。

日常の外側に配置された劇場装置が緩やかなカーブを描いて西の空へ沈んでいく太陽のように夜の訪れを告げて永遠を約束された二人を供給源に変えてしまうと、フレームの中に収まりきることが出来なかった人間たちを迎え入れるように口を開ける。

「『須佐男』様にお会いする為に、『穎』はだいぶ無茶をしましたよ。そんなお身体になってまでこの国を外敵から守り通すとは。けれど、私の血もそろそろ頃合いかと。今夜の主役に飲み干されてしまえば『穎』はまたしばらく力をなくしてしまう。『須佐男』様を癒すことが出来なくなる。」

「忠告、肯定。限界把握。故に、一心同体、此れ、正義也」

客船『ニスタグマス』の最底部の機関部の奥に設けられた十平米の寝室の中央に位置する天蓋のつけられたベッドに不死者二人が素肌で擦り寄るようにして座っている。

長い黒髪の『壱ノ城穎』は手術痕だらけで筋肉質の身体を誇示するように胡座を組んでいる『須佐男』の膝に頭を乗せて全身の力を抜く。

小さな頃から彼の為だけの巫女として育てられた『壱ノ城穎』は束の間の平和を楽しむようにして黒髪の毛先を弄りながら無数の歯車が剥き出しになった『須佐男』の顔をとても愛おしそうに鼻歌混じりに見上げている。

一際目立つ胸元の大きな手術痕を『穎』が左手で触れると『須佐男』はまるで決まり切った動作であるかのように右目から一筋の涙を流している。

「ねえ、ひかりさん。私は今日の遊戯はきっと上手く行くと思うの。そうしたら、鳳凰の血を手に入れて永遠の命を二人で半分こにしましょう。燃え尽きるまでずっと傍にいられると思うんです」

背中に大きな裂傷痕のある『黒炎リリー』は新しい鳳凰柄のチャイナドレスの背中のチャックを西野ひかりにあげてもらいながら将来の約束をする恋人同士みたいな台詞を吐いて右手の拳を握り締める。

「そうね。けれど、時間が来たらあなたはあなたのエーテルを使って会場に災禍を振り撒いてくれなくちゃ困るわ。お祖母様の血と結合させてしまえば、［千のプラトー］はまるでこの場所を『森』の奥深い場所のように妖魔の住処へと変えてくれるでしょうね」

「けどね、私悔しいの。産まれてから一度も遊戯場で本当の意味では勝てたことがない。まるで嘲笑うように私の全身を傷だらけにしたら今度は向こうが降参しましたと行って勝負を放棄するの。そうやって私はただ玩具みたいにして十三年間生きることだけを選択させられてきた。私の前の飼い主はそういう人だったから」

「『からくり峠』の少女たちの中で脱け出せたのは確かにあなただけだわ。けれど、出会った瞬間にそう感じたから私はあなたにお祖母様の旧い血を手渡したの」

「ねえ、ひかりさん。私はあなたの傍に一番長く一緒にいられた魔術師ってことになるのかしら。もし、あなたが私から全てを奪う時が来たら、私の血液と肉片はあなたの中で生きられるようにしてほしいな」

『黒炎リリー』、『黒蜜夕』は、右の肺に宿っている『火のエーテル』と左の肺に棲みついている『災血のエーテル』を混ぜ合わせることで黒い炎を産み出すことが出来る。

災の力によって不確定要素を操作して作り出される炎は熟練すれば自由自在に炎の温度を絶対零度から高高度の熱原体まで作り出すことの出来ると西野ひかりの知識を得ることで自らの力の制御方法を知った『黒炎リリー』は今までとは違う自分に自信を漲らせる。

いわゆる『魔術回路』持ちは左の肺胞に奇妙な粒子を産み出す遺伝子構造を持った人種の総称で、彼らは基礎元素とされている火、土、水、風の精霊素たるエーテル粒子体を肺胞に生成される細胞のアミノ基の中で合成していく。

複雑な術式や詠唱を施すことで基礎エーテルと既存の原子や分子と結合させながら魔術と呼ぶべき現象を作り出せる彼らの中にはさらに稀有なエーテルを右の肺胞の中に産み出すことの出来る人種が存在している。

固有エーテル持ちは独自の粒子体構造をまるで超科学とでも呼ぶべき状態へと変化させていわゆる通常の『魔術回路』持ちとももちろん何の回路を持たない常人ともまた彼らの作り出した科学という人間の叡智の結晶とも違う現象を作り出すことが出来る。

西野ひかりは、エーテルという出力機能の構造に対する理解を他の回路持ちを凌駕していた祖母の知識を使って魔術師たちの能力を最大限度までに引き上げることに成功してきた。

生成されるエーテル量が常人の十倍から二十倍を優に越える『銀牙』の種族などを別にすれば、『魔術回路』は合理的な配列と配置によって指数関数的に能力を増大することが出来る。

だから、未熟なままで基礎元素と固有エーテルの合成比率に関する問題をおざなりにしてきた黒炎リリーもまたほんの少しの西野ひかりの手助けによって能力を格段に飛躍することが出来た。

西野ひかりはこの遺伝子構造のデザイナブルソフトウェアと呼ぶべき事象を自らDoublePlatonicSuicideと呼称する。

『ａｅｍｅｔｈ』というウィルスによって感染してしまった彼女の悪意は情況を分析して、原状を解析して、状態を変化させていく。

まるで術者が持っていた自我という幻の個体を彼女の意識から追い出すようにして、ゆっくりと西野ひかりの術式によって犯していく。

故に構造においても方法論においても手段においても通常の『魔術回路』と一線を画す彼女の魔術的能力を揶揄するようにして、彼女と知り合った人々は『外側』と呼ぶようになった。

だから、もし『黒炎リリー』が背中と腹部の裂傷痕を刻み続けたあの男ともう一度戦うことがあったのならば、黒い災禍をもたらす炎によって『人間無骨』を焼き尽くすことが出来るのかもしれない。

『黒炎リリー』はいまだに疼く傷跡の痛みに耐えるようにして、西野ひかりの［千のプラトー］をゆっくりと頭の中に受け入れる。