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「呪谷くん。大丈夫かね。さっきから一人で俯いたまま笑いっぱなしじゃないか。君の悪癖だということは理解しているけれど、さすがに少し気味が悪い。どうにかならんかね。それ」

「あ。えっと。だって。おかしいです。私のガラスの靴なのに。ポプリじゃ無理ですって」

バーコード禿頭の田辺茂一が営業周りの途中で立ち寄ったカフェでコーヒーを飲みながら、向かい側の席でもじもじと身悶えながら俯いて頼んだアイスカフェラテにもほとんど口をつけずにニヤついている呪谷紀子に小言を言うと、ふっと顔をあげて縁無しの大きな丸眼鏡をクイっとあげて愛想笑いで田辺茂一に応えようと口元を不自然に歪ませると両手でガラスの靴の形を作るようにして自分の手元には届くことのなかった短距離空間転移装置の所有権を主張している。

「まぁ、その件に関して私はノーコメントだ。だが、君の反エーテル逆算装置”カースト”は魔術回路を持った人間に対して絶大な効力を発揮出来る反面、そうではない人間に対しては無力に等しいと言っていい。にも関わらずもともと有能なエーテル使いを見出す為に尽力していた呪谷家の子女である君が執行人として選出されてしまうとは今の世の中はどうにもわからんな」

「大丈夫。エーテルは誰にでもある。私は必ず勝てる」

まるで執行対象を排除することに関してはなんとも思っていないかのように呪谷紀子は田辺茂一の杞憂を一蹴してしまう。呪谷家にとっては、魔術回路と呼ばれる特定の人間に突然変異として発生する劣性遺伝は決して特別なものではなくまるで光と闇のように表裏一体の構造としてそもそも誰のDNAの中に刻み込まれているはずの遺伝情報であると呪谷家の長年にわたる魔術回路研究の成果によってそう判断している。生物は常に特定環境下での繁殖率を向上させる為に、優性遺伝的構造とは別にある一定の確率でその裏返しである劣性遺伝を発症することで、突発的な環境変化に優性種が対応することの出来なかった時の可能性を担保し続ける。セントラルドグマによって遺伝情報が模写される過程にはおそらく劣性遺伝に関する機能も含まれているのではないだろうかと推測の元に、呪谷家は遺伝情報に魔術回路が存在していると証明されている人間以外に対してもエーテル発症可能性に関する研究を続けてきた。”涙を知らないメビウスの輪”と称される呪谷紀子はその成果であり、彼女自身はその大きな縁無しの丸眼鏡の奥に潜む眼力によって他者の体内に潜んでいるまるで呪いのように埋め込まれていた能力の根源を引き出して最大限にまで自分の力として吸収して活用しようとする。国家安全機構人材発掘研究室”Caste”所属、呪谷紀子はそのようにしてたくさんの人間に呪詛を施して肉体と精神の限界を凌駕させようと試みてきた。まるで檻の中で車輪を回し続けるハムスターでも観察するようにして。

「とにかく、今日の私は君の付き添いだ。普段、私のもう一つの仕事の方にも手を貸してもらっているお礼といってはなんだが、君の執行を一番近くで見届けることとしよう。それが亡くなられた君のお父様への手向になるだろうな」

田辺茂一の気遣いに遠慮がちに呪谷紀子は右手を振っていて、笑顔を作るのが下手な彼女の口元はいつもよりちょっとだけ気を許したみたいに緩んでいて感情をコントロールするのに失敗したのか彼女は悲しさと喜びを履き違えて表現しようとしているのかもしれない。呪谷紀子は氷の溶けかけたアイスカフェラテにちょっとだけ口をつけてカフェの支払いを済ませようとする田辺茂一の後ろを追いかける。途中何もない場所で転びそうになっているのをお店の店員が心配そうに近づいてこようとするけれど、彼女はそんなことには気を止めずにひょこひょこと歩きながらジャケットのポケットの中で転がっている球体状のカーストの手触りを楽しみながら薄ら笑いを浮かべている。

「もしもし大河?私だけど。ねえ、この賭けどう考えても私に不利なんだけどどうしても受けなくちゃだめ?私が生き残ったらNiner Factoryごと私に譲ってくれるっていうのはいいとして、緊急時特命排除係第二種として派遣されるのがどうしてよりにもよってスリーアクターズなの?それに執行人って呪谷の次女だし、やっぱり私が勝てる見込みが低すぎるよ。あなた本当に私を排除する気でいるってこと?」

蓮花院通子は突風が吹き荒ぶ森ビル屋上のヘリポートで彼女の所属するマフィアグループ※8E2-E4のボスである九条院大河に連絡をとり、富裕層の遊戯に巻き込まれて死野川家が主宰する執行賭場の賭け対象として選ばれていることに不満を漏らしている。執行理由であるE2-E4の表向きの顔、貿易会社Niner Factoryに関する重大な秘匿情報を私的に悪用した為という項目の心当たりのあるものを指折り数えながらこの状況を抜け出すための打開策をなんとか捻り出して生き延びるための算段を立てようとしている。

「すまないが、通子。この件は決定事項だ。千羽の爺さんの悪ふざけに巻き込まれたら俺も断れないんだ。もし生き延びることがあったら約束は守ってやる。とりあえず賭け金は全額お前が生き残る方に積んであるから安心しろ。いいか。最後まで諦めるな。俺から言えるのはそれだけだ。それじゃあ今忙しいから切るぞ」

ヘリポートの中央で通話を突然遮断された蓮花院通子の呆気に取られる表情をビルの屋上の端っこから眺めている十草総悟は正義の天秤制度が法案化し、実際に運用されている理由をまざまざと見せつけられる。森ビルの屋上にはこの遊戯を楽しむ為に集まった富裕層たちがそれぞれ一風変わった仮面をつけて集まっているともに、ビルの上空を飛び交うヘリによって中継されている会員制の配信サイトで賭け金がリアルタイムで報告されているのを十草総悟はスマートフォンで確認している。

「私たちは公務員であるとともに、かつて死野川家という国内の暗部を一手に牛耳り、必要悪としての扱われてきた殺人や高掛金の人身売買、人体実験といった種々様々ないわゆる欲望機関を公的に運営するために作られた国家殺人機構”エディプス”よ。ここでは人一人の命は些細な値段に過ぎない。問題はいかに生きることに飽きてしまった富裕層たちの刺激を充足させることが出来るかという条件を満たせるかどうかだけ。賭け対象として選ばれた執行対象者、蓮花院通子すら自らの命が失われてしまうかもしれない可能性を楽しんでいるようにも思えてしまう。総悟くん、君の探している同居人さんはこの近くにいるんじゃないかしら」

「ぼくたちが一緒に住んでいた場所はもう少しだけ喧騒から切り離されていたけれど、今の彼女はきっとこんな場所を好むような気がしている。アイシャさん、なぜ人間は進化の果てに原始的欲求を忠実に実現出来る社会を作り上げてしまったんだと思いますか?」

「殺す、食べる、生かす、身体を重ね合う。もしかしたら欲望を最も素直に受け入れているのが富裕層だとあなたは感じるわけね。にも関わらず人間は高度に洗練された科学と知識の牙城を作り上げて選別と淘汰を実践してきた。確かに遺伝的にみれば人間はそれぞれに個体差など持っていないに等しい。能力的な問題はほとんどの場合環境因子が決定すると考えられているわね」

「だとしたら富裕層のこういった試みは自らの環境を劣化させてしまう装置になりかねない。死野川家はそうやって人間の善性を否定しようとしているように思えてしまいます」

「そうね、昔、名のある作家が善とは何かを定義しようとしていたわ。いわく、善という表面的印象を取り除いて考えるのならば、それはある何かの価値観を持続するための意志だと。つまり、”エディプス”は合法的に殺人を日常化することで共食いという絶対的人間の腫瘍的側面すら肯定しようとした。総悟くん、私たちは間違っていると思うかしら?」

「どうでしょうか。確かにここに集まってきている連中に悪意のようなものは感じられない。TV SFで行われていたような干渉的社会改革的側面すら持ち合わせていません。欲望を充足させたいという根源的行動原理に基づいて彼ら富裕層は蓮花院通子に対して財産の一部をBetしている」

「自分が善人であると肯定するために彼らは仮面を被り正義の天秤制度を利用しているというわけね。悪という美学そのものが死野川家の企みによって解体され始めていると捉えるべきかしら」

勝利の美酒という言葉があり、勝者には無常の喜びと快楽主義に則った対価が与えられる。けれど、グラスが空になった途端に断続的な喜びの瞬間は失われて、永遠の約束の日々は無残にも引き裂かれる。森ビル屋上には集まったシャンパングラスを手に持った富裕層たちを嘲笑うかのように突風が吹き荒れて、向かい風によって数少ない髪の毛が揺れ動く田辺茂一が彼より背の低い呪谷紀子の肩を持って無表情のまま立ち尽くしている。彼らにはいまだ勝利の美酒は与えられていない。そのことをはっきりと宣告するようにして森ビル屋上に輸送用ヘリが近づいてきて、上空から三人の女性が滑空してくる。彼女たちはまるで忍者のようないでたちのウイングスーツ姿で寒空の六本木上空へと降下してくると、森ビル屋上の鉄骨の上に降り立ち、ウイングスーツを脱ぎ捨てて、それぞれ赤、青、黄色のレオタードとマスク姿へと変身する。一斉に森ビルに集まりシャンパングラスを手にした富裕層たちが歓声をあげて、執行が開始されるカウントダウンが開始する。すると、今度はマオ、タオ、リオを運んできた別のヘリが再び森ビル上空に近づいてきて縄梯子が降ろされて、蓮花院通子は制限時間の表示されたリングを持った右手で縄梯子を掴み取り、森ビル上空でホバリングする輸送ヘリによって3メートルほど宙に浮いた形で固定される。六本木の夜空が黒く染まっていき、日没とともにヘリポートの灯りが灯されて大歓声の渦の中、蓮花院通子の法人指定による執行願いが開始される。田辺茂一が呪谷紀子の背中を軽く押すと、彼女は縁無しの丸眼鏡のブリッジをクイっとあげて話し始める。

「あの。私は別にあなたたちのことに恨みはないですし、見たところ、あなたたち三人に魔術回路のようなものは見受けられないですよね。だからちょっとズルをして屋上に集まったお金持ちの皆さんの中からエーテルを吸い出して反エーテル逆算装置”カースト”の力を最大限に発揮したいと考えているんです。いつも私は”カースト”に頑張ろうって気持ちを吸われちゃってどうにもこうにも元気が出ないんですけど、ここに集まったたくさんの人々からちょっとずつエーテルを拝借してこの場所の物理法則に干渉することで私は私じゃない自分を作り出してあなたたち三人をあっという間に始末します。時間なんてかけたくないし早く終わらせたいと考えているし私にとってあなたたちは不必要な生き物だと思うんです。だってあなたたちはエーテルのことなんて信じていないから。エーテル粒子体は血液中を流れる微粒の光子として20世紀初頭に発見されました。けれど、高精度の電子顕微鏡を利用したとしてもおよそ20000分の1の確率でしか可視化されず、長年に渡って存在そのものが未確定な粒子として高等論理物理学では適切な研究が行われてこなかった人類が共有している未知のエネルギーとして扱われてきた問題です。けれど、日本のDr.横尾によって、エーテル粒子体の存在確定性を一般化出来る理論が2014年に発表されると、学会ではローレンツ変換における慣性系Sを一定の数値で固定化した場合、エーテル粒子体の存在確定率を標準値より向上させることが出来る研究が進められます。私が持っている”カースト”はDr.横尾の理論に基づき、半径50m圏内に存在するエーテル粒子体のローレンツ変換を適時適切な値で演算し続けることで、私が今手にしている黒い球体の中に情報を保存してより高高度なエネルギー体へと変換することのできるエーテル粒子体逆算機能を備えたいわばブラックボックスとして機能させることが出来ますが、もしあなたたちが私に対してほんの少しでも恐怖の感情を抱いてしまった場合、”カースト”に収束されたエーテル粒子体はローレンツ変換を加速してミンコフスキー空間を生成し、観測者によって形態と形状を変えたイメージを作り出す固有エーテル、”ノロイダニ”を発動します。つまり、あなたたちが私の言葉を聞いた瞬間に現在記憶野にイメージした恐怖の形そのものが具現化してあなたたちをその場で食い殺します。お願い。”ノロイダニ”この人たちを食べちゃって」

呪谷紀子は執行が開始された途端に、まるで魔術の詠唱でも始めるようにしていつも無口な自分の殻を食い破り、突然勢いよく話し始めて右手の平に乗せた真っ黒な球体にエーテル粒子体を吸収させるために、森ビル屋上に集まった富裕層たちの中から体内に魔術回路を持った人間を自動的に探知させると、安全で機能的な社会生活を送るうちにいつのまにか使われなくなってしまった彼らのエーテル粒子体から対称性を取り除くことで体外へ放出、非退化によって圧縮条件が固定化された光子が”カースト”内部へと保存された瞬間に呪谷紀子はひきつった笑顔を見せて真っ黒な球体から投射される漆黒の獣に自由を与えて解き放つ。獰猛な番犬のような形をしたエネルギーの塊が森ビル屋上で三方向に散らばっていくけれど、マオ、リオ、タオの三人は彼女たちの頭の中で膨れ上がる恐怖のイメージに打ち勝つようにして森ビル屋上の鉄骨から飛び跳ねると、襲いかかってくるマイナス符号によって生成された猛獣たちにむかって鋼鉄製の投擲武器を投げつける。

「さっそくしかけてきた!黒い犬が襲いかかってきてるー!」

「どこにも逃げられないなら迎え撃つ!消えてなくなれ、黒い熊!」

「まぁ、とりあえずさくっと壊しちゃいましょう、黒い兎たち!」

呪谷紀子の”カースト”から溢れ出してくる大きな力に抗うことの出来ない弱気から抜け出すことの出来ない象徴がよだれを垂らして唸り声をあげて噛み付いてこようとするのを赤いレオタードのマオは真っ黒なクナイを投げて消滅させていく。少しでも意志を他人に委ねてしまったら気力を奪われてしまうとスピードを緩めることなくクナイを投げ捨てるスピードをあげていく。マオのひたむきさにほんの少しだけ目を奪われているうちに目の前に迫ってきて両腕を大きく広げて掴みかかってこようとする真っ黒な塊に押しつぶされてしまう前に青いレオタードのタオは右手に持った小太刀を逆手のまま切り裂いて突き抜ける。目を離した瞬間にいつのまにか今いる場所が奪われてしまわないか集中力を切らさないように気を張り詰めて少しでも安全な場所を確保しようと周囲に気を配り続けているタオと目まぐるしく動き回るマオのことを気にする余裕もないぐらいに黄色いレオタードのリオは大量の狂気に取り憑かれた暗闇の使者たちから逃れるようにしてマキビシを放って一つずつ確実に動きが消えてしまうように仕留めていく。森ビルを三方向から取り囲んでいた三人のちょうど対角線上を結ぶようにして呪谷紀子が右手に載せた黒い球体から次々に漆黒の獣たちが暴れ回りながらお団子頭のマオ、額で黒髪を揃えたタオ、茶色いパーマヘアのリオの三人を襲い掛かるように噴き出していくのをヒルズに集まった仮面を被った男女たちが歓声をあげて、巷ではお目にかかることの出来ない極上のエンターテイメントに酔いしれている。

「私が危険だと感じているのはやっぱりここなのかもしれない。だから私は自分の仕事に対して気を緩めることが出来ず、どんな執行条件であったとしても排除係と執行人のバランスが失われない状態を維持しようとしている。けれど、この場所ではその徒労も無駄になるわね。人の死はやっぱり自分の外側に追い出されてしまう」

「それを堪能するために彼らがこの場所に来ているのか、忘れてしまったのかは確かに大きな問題ですね。けれど、排除係の三人はそうではなさそうですよ。もし少しでも気を許してしまえば238メートル下まで落下して路上で野垂れ死ぬんです。だから彼女たちから恐怖は永遠に消え去ることがない。”Caste”の餌食になったままだ」

マオがスピードをあげながら襲いかかってくる黒い犬を消滅させて、ビルの北側にちょっとずつ距離を詰めていき、タオが慎重に身体を動かして危険な場所から回避しながら、”Caste”が見せる咆哮する巨大な熊を切り裂いて、リオが少しでも不安因子がなくなるように緻密な職人芸で小動物の気配を絶つことで、呪谷紀子を追い詰めていくと、縁無の大きな丸眼鏡をクイっとあげて位置をずらしてようやく今日初めての素直な笑顔を見せた呪谷紀子が少女の顔から大人の女の顔へと変化してスリーアクターズと呼ばれる三人娘の奮闘ぶりを喜び始める。

「第一試験は合格ですね。呪谷家に伝わる呪法によってあなたたちは自分自身のイメージを容易く打ち破って壁を乗り越えてきてくれる。”Caste”と私がこの程度の心理戦で敗れてしまうようなブラックボックスであっては私は困るのです。お爺様たちからしつけられたようにあなたたちも精神の限界を超えて壊れた心と正常な頭を同時に維持しながらより高みに登りつめて今あなたたちが存在している場所を呪い続けて欲しい。そうすることで、”Caste”はセカンドフェイズに移行することが出来る。さて、可視化されたエーテル粒子体は確かに肺胞の毛細血管がまるで電子基板のように張り巡らされた形で光子を生成する魔術回路から生み出されてきますが、では優性遺伝によってエーテル粒子体を生成せずに済んでいる毛細血管に一定の刺激を与えることで血流を制御したとすればどうでしょうか。確かに正常な体の証拠である呼吸系は一時的に不整脈を引き起こしまともに息を吸うことすら困難な状況を作り出すますが、けれどいわゆる劣性遺伝とは違う血液の流れによって産まれる血流回路にはあなたたちが予測し得なかった効果が産まれると我々呪谷家は200年に及ぶ嫡子に対する投薬と脳の伝達系に対する電気刺激によって発見することが出来ました。つまり、疑似的に魔術回路に模倣された血流によってエーテル粒子体によく似た隠子を生成し、まるで電流のように全身に隠子の混じった血液が流れ込んでいくと、脳髄及び神経系により高負荷な状態を産み出して感覚情報を偽装するために拡張させることで、私は私だけの魔術回路を産み出すことが出来るのです。そう、私の二つ目の固有エーテル”※00紀子の食卓”をとくとご堪能あれ」

そういい終わると、紀子は急に息を乱していつのまにかスリーアクターズの三人に取り囲まれてしまう。マオがクナイで首筋を、タオが小太刀で脇腹を、リオが右手で喉輪を掴み取ろうと王手をかけた瞬間に身体機能の向上した呪谷紀子は2メートルほど後ろに跳躍してマオの背中を取ると右足で思い切り蹴り飛ばし、そのまま勢いを殺さずタオに裏拳を使って顔面を殴りつけて、目前まで迫ってきたリオの喉輪を強靭な握力を使って握り潰そうとする。

「なんで。消えたの。この人。黒い獣さえ殺せば終わったはずなのに」

「もういやだ。顔を殴るなんて私お嫁に行けないよ、こんなんじゃ」

「やめて。殺さないで。お願い。私はあなたと戦う気なんて」

不気味なほど大きな声で呪谷紀子は突然表情を崩して笑いながら、スリーアクターズの三人の脳味噌に徹底的な嫌悪感を植え付けようと”Caste”を最大出力で発動させて、まるで呪谷紀子の身体に渦巻く怨念を増幅させるようにして彼女たちとそっくりな黒い人形を投射してマオ、タオ、リオの三人に乗り移らせると、殴り続けて弱ったリオを投げ捨ててそのまま履いている黒いハイヒールで彼女の腹を蹴り飛ばす。

「わかったか。おい。死ねよ。死にやがれ。このまま何も言わずに自分のことが大嫌いになってここから飛び降りろ。お前たち程度が私の体に触れようなんて百年早いんだ。どうだ。思い知ったか。徹底的に自分が生きてきたことを後悔して血を憎み体を呪い心を壊したまま懺悔しろ。紀子様にたてつこうとしたことが間違いだったと詫びたままこの森ビルの屋上から飛び降りて自殺しろ。いいか。お前たちは呪いの怖さを理解していない。私がどんなに毎日削られた心の中で生きているのかわかっていない。苦しみに悶えながら怨念を燃やさぬように笑いを排除して喜びを歪ませながら生きようとしているのかお前たちには欠片すら知り得ることはないんだ。わかったら、私のいうことを聞いてこの場で立ち上がり、迷うことなく自分自身を否定しろ。わかっているか。これは催眠なんかではない。思い知れ、お前は生きていること自体を肯定することが出来ないと心の底から思っているはずだ。私に近づいた自分たちが悪かったと命を持って詫びをいれろ」

呪谷紀子はもう一度リオの腹を思い切り蹴り飛ばして表情を歪ませながらタオの顔に唾を吐き捨てて、”Caste”に焚き付けられた呪いで口汚く罵ってマオに浴びせかけると、彼女たちを強引に立ち上がらせてむやみやたらに富裕層たちを煽り立てて彼女たち三人に向かって自殺をせがむように呼びかける。呪谷紀子の怨念が感染して富裕層に伝達されると、彼らは一斉にスリーアクターズの三人に声を揃えて”自殺!自殺!自殺!“というコールを発生させる。終始笑顔から解放されることがないぐらい喜びに満ちた呪谷紀子は大歓声を増幅させたまま執念が解消されたことを思う存分と堪能し、脳内のアドレナリンとエンドルフィンの過剰分泌に笑いが止まらずふらふらと森ビルの屋上の中心まで歩き始めると、呪谷紀子はそのまま蓮花院通子の執行を実行しようと富裕層によって自殺を煽られる三人の姿には一切目もくれずに、今度は興奮が最高潮に高まった富裕層たち無差別にエーテル粒子体を搾り取って、怨嗟と怨恨と嫉妬と怨念と情念と憎悪を一つ残らず“Caste”内部へと収束させていく。

「もうだめ。あいつはだめだよ、頭のおかしいやつだ。大河。私、絶対殺される。逃げられないと思う」

蓮花院通子は輸送ヘリから垂れ下がった縄梯子からスマートフォンのイヤホンを使って九条院大河に思わず最後の連絡を取ろうとする。彼女の右腕につけられた白いリングにLEDで表示された時間は5:27となっていて、いずれにしろ制限時間が終了すれば彼女はそのまま六本木上空まで連れ去られて地上へと落下させられてしまうだろう。蓮花院通子の電話の向こうでチィッと舌打ちする声が聞こえてきたかと思うと、九条院大河が彼女の連絡に応答する。

「わかった、五分も持たなかったとはね。俺の負けだ。賭け金は全部千羽の爺さんに取られるが仕方ない。一応、この時の為に緊急時特命排除係第一種は要請済みだよ。あと、二十秒後にはマナが出る。俺にはお前が必要だ、通子」

呪谷紀子は縄梯子の真下に到着すると、アイシャ・トルーマン・川上の合図でゆっくりとヘリが降下してきて、縄梯子が呪谷紀子の目の前まで降りてくる。ニヤニヤと笑いが止まらない呪谷紀子がポケットからカッターナイフを取り出してチキチキと黒い刃先を出して上に向かって振り回している。少しずつ地面に近づいていくヘリポートから蓮花院通子が賢明につま先で呪谷紀子を蹴り飛ばそうとするけれど、軽々と身をかわしながらカッターナイフを使って飛び跳ねながら呪谷紀子は脅しをかけている。輸送ヘリから垂れ下がる縄梯子に呪谷紀子が手をつかもうとした瞬間に彼女の後ろで誰か人の倒れる音がして縄梯子が蓮花院通子の足元で切り裂かれる。

「執行妨害命令受諾。184秒で完了します」

首元を縫い合わせて頭部と胴体がつなぎ合わせられた赤と白の襦袢姿の女性が両肩をはだけさせ両手に黒い包丁を持って呪谷紀子の後方から飛びかかってきて呪谷紀子の左手に斬りかかる。気を引き締め直した呪谷紀子は後ろに跳ねてずれてしまった縁無しの大きな丸眼鏡をくいっと左手で位置を直して、緊急時特命排除係第一種でありリビングデッドアサシン、宝生院真那の姿を冷静に捉え直して目の前の対象の潜在的能力の高さを瞬時に理解する。

「私。呪谷。絶対負けない」

宝生院真那の動きを察知しきれなかったことに対して呪谷紀子は出来るだけ冷静な顔を装いながら左手を顔の前で振って否定の意志を示すと、真那によって傷つけられた左腕の傷から流れる血を放置したままカッターナイフの刃をもう一つだけ出して殺意を漲らせる。

「死をもって穿つならば呪いも消え去りましょう。私たちに言葉はいりません」

「仕方ないです。私は今、心が息苦しい」

呪谷紀子は不調を訴えるように胸を左手で抑えて身体能力を向上させたままゆらりと宝生院真那にゆっくり歩いて近づくとカッターナイフを宝生院真那の胸元に向かってまっすぐ突き刺そうとする。黒い包丁が交差されて呪谷紀子が持っていたタングステン合金製の刃先が弾かれると、薄気味悪い笑顔を浮かべながら挑発するようにして後ろに跳ねて宝生院真那の左手で外に向かって振りかざす黒い包丁をガードしようとした左腕上腕を掠めて出血して”Caste”を染め上げる。そのまま呪谷紀子が出血した左腕のまま体を守るようにして前に出すと、今度は宝生院真那が右腕で突き刺してくる黒包丁が呪谷紀子の左腕上腕に突き刺さり大量の血液が噴き出して宝生院真那の顔に返り血をあびせかける。呪谷紀子は痛がる様子も見せずに舌を出してリビングデットアサシンを挑発すると左手から包丁を抜いて右に向かって飛んで宝生院真那の右肩にカッターナイフを突き刺すと黒い血が噴き出して”Caste”にふりかかり赤い血と黒い血が混ざり合い、”Caste”から呪谷紀子の姿を追いかけるようにして黒い残心が産まれて宝生院真那を左から殴りかかろうとするけれど、真那は左手を振り戻して呪谷紀子に与えられた苦痛から引き起こされた怨念の集合体を切り裂こうとする。呪谷紀子はそのまま宝生院真那の後ろに回って背中を蹴飛ばして宝生院真那を嘲笑う。

「そう。呪谷家が産み出した最も醜悪な怪物、紀子は固有エーテル”紀子の食卓”を発動させることで全感覚器官を麻痺させてしまう。いわゆる無痛症として痛みに決定的に鈍感になるだけでなくて、脳味噌で感じる恐怖という生命にとって最も必要な機能ですら極少の状態になるまで排除してしまう。彼女が普段感情を押し殺して生きようとするのはこの力を使った後の反動があまりにも大きすぎるから。ほら、見てごらんなさい。さっきまで笑顔でシャンパンを飲んでいた連中が凍りついているわ」

「もし外敵に対する恐怖を失ってしまったら、人は社会的関係を維持することが出来なくなる。いわゆる罪悪感や共感という機能は生物学的本能に基づいた真っ当な理性的判断。長期間戦場に出向いた兵士が感情を鈍麻させて他者に対して思考する機能を遮断する。それでは外敵に対して有効な戦略を練ることすら辞めてしまう」

「だから、呪谷紀子は自分を傷つけるという生物的本能ではあり得ない判断を取る。そうまるで、一個のキリングマシーンみたいに合理的で機能的にね。呪谷家は長年の研究によって人を呪うだけの機械を作り出したの」

十草総悟は自分自身に許された各Cortexの管理権限をなぜ宝生院勇生が彼自身に与えたのかを理解しようとする。彼は自分の意志で視覚や聴覚、嗅覚といった五感だけではなく痛覚や報奨系、中枢神経や自律神経も自分自身でパラメータを調整することが可能であるけれど、ほとんどの場合、宝生院勇生が現在のところ週に一度実施している適正値のままで、より人間的な数値を維持することでサンプルデータを取得することに協力している。けれど、目の前の呪谷紀子という二十代前半の女は人為的に脳髄のいくつかの機能を遮断されている。総悟はコンシャスネスフィードバッカー、つまり意識の交換に基づいた各機能のアップデートという余地を残している自分自身の機体性能を呪谷紀子と見比べることで自分がまだエーテルにしがみついた人間であるということを知ろうとする。

「お前はさ、死んでいるんだろ。痛いとか気持ちいいとか楽しいとかないんだ。私みたいじゃんか。どうやって呪ってやろう。けど、どうやらお前はエーテルで動かされているな。見せてみろよ、お前の本当の気持ちってやつを。痛いの痛いのとんでいけー!」

「実力は十二分に見定めさせてもらいました。もう十分です。残り27秒。ご覚悟を」

呪谷紀子が真っ黒な球体を載せた右手を差し出すと、二人の血液が混ざり合って赤黒く染められた”Caste”から呪谷紀子とよく似た形の黒い分身体が二体投射されて宝生院真那に襲い掛かる。けれど、宝生院真那は自分自身の身体を左足を軸にして赤と白の襦袢を風に舞わせて回転するように両手に持った黒い包丁で威圧的な空気を纏い嫌悪感を放出する怨嗟の化身を切り裂いて呪谷紀子との距離を一気に縮めると、頭部目掛け右手の包丁をつきかざす。呪谷紀子は左手に持ったカッターナイフで黒い包丁を弾き飛ばそうとするけれど宝生院真那の強靭な一撃に弾き飛ばされて間一髪しりぞけた刃先が右頬をかすって右耳の耳たぶを切り落とされる。さらに追い討ちをかけるように右手の包丁に気を取られた呪谷紀子の左脇腹に宝生院真那の左手の包丁が突き刺さり、肺の一部にまで貫通し致命傷を負う。蹲ってしゃがみこんだ呪谷紀子の頭部を宝生院真那の右足が蹴り飛ばして無残に転げ回りながら後方へと吹き飛ばされて呼吸器官に傷を負わされた呪谷紀子は食道に血液が溜まり呼吸困難状態に陥りながら、仰向けで月のない真っ暗な夜空を眺めながら死を覚悟するけれど、宝生院真那が空中から飛びかかってきて両腕で上から包丁を頭部目掛けて振り下ろしてきて止めを刺そうとして、呪谷紀子は咄嗟に両手の平を突き出して宝生院真那の振りかざしてきた包丁を受け止める。両目に突き刺さる直前で呪谷紀子は宝生院真那の狂気を受け止めて死に物狂いで力を込めて呪谷紀子を壊そうとしてくる宝生院真那の腕力に抗い全身の力を振り絞りながら右足で宝生院真那の腹部を蹴り飛ばしてしまうと、覆いかぶさっていたリビングデットの浅黒い身体の下から抜け出して出血の止まらない両手のまま徐々に失われていく血液の低下によって運動機能が制限されるのを感じながら命辛々その場から逃げ出そうとしてビルの端まで走り出していく。とたんに大歓声が起きて異変になんとか気づくことが出来た呪谷紀子は一切止まることのない本物の殺人機械を目の前にして驚きの表情を浮かべたまま全速力で走り寄ってくる宝生院真那に蹴り飛ばされて執行遊技場として周辺の囲い柵を取り外された森ビル屋上から突き落とされる。

「ふむ。もういいだろう。なんとか君の父親に対するご恩は返すことが出来そうだよ」

田辺茂一が蹴落とされた呪谷紀子の様子を見て投げ縄のようなものを投げていることなんて誰にも気づかず緊急時特命排除係第一種として執行対象者を守り通した宝生院真那が森ビル上空の蓮花院通子が捕まっている縄梯子まで飛び上がり、赤く染まった黒い包丁で縄梯子を切り落として蓮花院通子を抱きかかえたまま森ビル屋上へ着地すると、蓮花院通子の真っ白な左腕に巻かれていた白いリングに表示された制限時刻が01:56で停止して、屋上に集まっていたマスクをつけた男と女が歓喜に沸いたりショックで項垂れたりした人間劇を見せてたくさんの笑いとたくさんの涙が月のない真っ黒な六本木上空を彩っている。

「二分近くも執行時間を残しての決着となると、死野川家が用意した今夜の執行賭場で動いた額は小国の国家予算に匹敵する額かしらね。負けた人間は呪谷紀子のようにここから突き落とされて二度と這い上がることは出来ず、買った人間は命の値段を再確認してまた新しい刺激を求める。たとえ、そうだとしても私たち”エディプス”はこの場に公平で公明な執行が行われることを遂行していくだけだわ」

「アイシャさん。ポプリはこの場所には来なかったんじゃないかって思うんです。何故なのか分からないけれど、彼女はこの場所で行われていることに興味を持たなかった。そして死野川千羽がなぜ人を殺すのを辞めたがったのか理解できたような気がするんです」

「そうね。あそこで賞賛を浴びている蓮花院通子と息切れをしてただ呆然と血に濡れた包丁を持って立ち尽くしている宝生院真那の姿をみれば私もそれはなんとなく理解出来るわ。一角はその責務を負うようにこの賭場を動かしていると考えるべきかしらね」

上空を飛び交うヘリが次々に六本木ヒルズ上空から飛び去っていき、最後に残った輸送ヘリの中から大量の札束がばら撒かれて敗者となり仮面を被ったものたちが空から舞い落ちる金に群がりながら我先にと競いあいながら一万円札を握り締めようと他者を蹴落とそうと争い合う。

「ふん。わしは千羽のように大人にはなれんよ。こうやって亡者どもを空から見下ろしながら戯れをいつまでも眺めていたいだけじゃ。霧山よ。今日はこのままレインボーブリッジを通ってからこいつの為に夜空を堪能させておくれ。のう、LoVeよ」

白髪の長髪を後ろで結いてタキシード姿の老人が隣で狐の毛皮の黒いコートを着た三十代前半の女性が肩に寄り添って六本木ヒルズ上空から飛び去っていく。ヘリの音がすっかり止んで観衆たちの声も聞こえなくなった頃に森ビルの西側あたりから女の子が大声で泣き喚く声がして田辺茂一がゆっくりと突風吹き荒ぶ屋上からはるか248メートル下を見下ろしている。

「うぇぇぇぇん。負けちゃったよー。シンデレラは私だったのにー。いたいよー。死にたくないよー。誰か助けてよー」

田辺茂一が笑いながらいつのまにか呪谷紀子の身体に巻きついて命綱になっていたワイヤーロープを引き上げて血だらけで泣き喚いている呪谷紀子を救い上げる。涙で泣き疲れて腫れ上がった顔がビルの上までひきずりあげられるのに気づくと彼女はそのまま気絶して意識を失って森ビル屋上で田辺茂一の用意した医療班の到着を待って寝かせられる。同じくビルの北側では落下寸前で気絶したまま赤いレオタードと青いレオタードと黄色いレオタードの女性三人が秋の夜空の寒さに目を覚ましてふらふらと頭をふりながらゆっくり立ち上がってくる。

「ねえ、私の夢を教えてあげようか」

「なんですか、アイシャさん。今日も遅くまでお仕事ご苦労様です」

「こうやって誰も殺さずに偶然を利用して執行を速やかに手短に完了させ続けていくことよ。その為に排除係の選出はいつも万全の態勢で臨んでいるの」

「それにはやはりとても精密な作業が必要になる。笑えない場所でほんのわずかな希望だけを残そうとする」

「けど、それでも僅かな犠牲を私はとりこぼしてしまう。やはりその度に絶望に打ちひしがれてしまうわ」

「こんな場所だからですかね」

「そう、こんな場所だからよ。総悟君。今回の執行はあと二件。油断なんて許さないわよ」

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