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You know, you could quit, find something you really love to do.And then go after it

『一度刻み込んだ痛みは決して忘れることが出来ない。お前は誰よりもそれをわかっていたんだ。だからこの場所に来ることが出来たんだ。だが、奴はパンの一人娘だ。超越者が残した悪意を人間が食い止める手段はないのかもしれんぞ。だから俺はこの場所から動くことが出来ないんだ』

昨日、『類』が残した言葉がぼくの頭の中で響いたまま尾をひいているけれど、彼は地下に幽閉された状態でやはり世界の全てを見渡しているということだろうか。

彼は大昔に産まれたいわゆる魔術師たちの先祖に当たる存在であり、彼曰く天界に逆らい大暴れした挙句に結局のところ、ぼくらが御伽話の中でパンと呼んでいる創生者の力によって捉えられてしまうと、両手両足を拘束されたまま持ちうる力のほとんどを奪われて雷神と風神を模した監視者の守る牢獄に閉じ込められている。

つまり彼は四百年を超える途方もない歳月を生きながらえている超人と呼ぶべき存在だ。

けれど、そんな状態でもやはり彼の力は偉大でありまだ僅かに残った力を使い千里を見渡して、遠い場所にいる人間とコミュニケーションを自由自在に取ることが出来てしまう。

『類』が持っている超越科学とも呼ぶべき能力を利用してぼくと精神世界で繋がりながらアドバイスを送ってくれたり、元はごく普通の人間だったことを証明するようにして孤独に牢獄の中で何百年も幽閉されている寂しさや退屈さを愚痴ってきてはぼくを都合のいい話し相手として利用しているようだ。

とはいえ、『類』の力はいわゆるPEPS、つまり人口の三十%の肺胞に遺伝子欠陥として発生する魔術回路によるエーテルが創り出す魔術ではないことをぼくは少しずつ理解し始めている。

陰陽魔導と彼は教えてくれたけれど、戦前に法規制される前のエーテル魔術である『いにしえ』と呼ばれる違法性の高い呪術のようなものではなく、少なくとも彼とぼくの共通点が多いことからより科学サイドに近い方法論によって産み出される能力のようで、例えるならそれは歴史の闇に埋もれて人類が二度と使用出来なくなってしまった知識や技術を合成して作り出されたオーパーツのようなものであると推測することが可能だ。

『分かっている。俺はお前を地下牢獄から現実世界へと転送することで自由を与えたいんだ。その為にはお前がぼくの中にインストールした『スサノオver.7』という擬似人格プログラムの力を最大限に利用してお前が奪われた力を科学的に復元する必要があるんだろ。神様だって人間と一緒で思い悩み苦しんでいるんだってことを思い知らされる。たぶん『aemeth』はそうやって産まれたものなんだよな』

『類』の返事を期待したけれど、ぼくの予想通り明確な答えのようなものをはっきりとは言葉にしてくれるわけではなく、最後の選択肢はぼく自身が自分で選び取らなければいけないのだという事実を沈黙によって知らせてくることにいつもながら彼との出会いがやはり偽物の記憶などではないと複雑な気持ちで胸を撫でおろしてしまう。

ぼくはまるで自分の分身のような存在が話し掛けてくることに違和感を覚えるのではなく、だからこそ確信を持ってやるべきことと向かうべき目的をいまだに見失わずにいられるのだろう。

最初から見えているという事実を口にして共感出来ないことを口惜しく思ったことが何度もあるけれど、それでもぼくの友人達はそのことを咎めたりする様子もなく不用意に境界線を跨ぐような関係を慎重に築きながら指針を共有する長い旅路を静かに寄り添いながら歩き続けてくれているのだ。

スマートフォンの着信音がなり、着信音に設定した電気grooveのShangri-laが流れ始めてその大切な友人の一人から連絡がきたことに気付いてタッチパネルを操作する。

「まだ卒業旅行から半年しか経っていないのに、もう随分長いことお前に会っていないような気がする。わかりきっていることだが、俺には俺の、お前にはお前のやるべきことがある。ただメッセージは届いているよ。行く場所は同じなんだな?」

「久しぶりだな、乖次。そんなところだよ。何故か稔まで一緒なんだ。こういうのを腐れ縁っていうのかな。明日朝十時に品川駅トライアングルクロック前で待ち合わせだ」

「もうお前に追い越されているってことか。おれのほうは昼過ぎになるから現地で会うことになりそうだな。場所はそうだな、四条あたりか。リエンは元気でやっているか? 俺はもう新しい扉を開けている。心配するなと伝えておいてくれ」

着信は師元乖次からで、電話の向こうの低めの声はちょっとだけ揺れているのか不安げでもしかしたらはっきりとした明確な答えのようなものを掴み損なっているだろうかとぼくは一呼吸おいてから思わず口走ってしまいそうな遠慮のないやりとりをグッと呑み込んでから彼の質問に答え直す。

「ふー。万事良好のはずかな。あのさ、確かにあいつはぼくらよりずっと先のことを知っている。何もかも見通している。だからとても強いし気後れしてしまうこともあるんじゃないかなとは思う。だけど、心配はいらない。稔はそういうこともちゃんと分かっているみたいなんだ」

「自然の偉大さのようなものを俺は今ひしひしと思い知っている。芦浜の入り江は美しくて約束された永遠は刹那的に何度も打ち返して砕かれていつまでも同じ風景が拡がっている。だから誰にも壊すことは出来ないし手に入れることも出来ないんだと実感することが出来た。とても大切なことだよ」

「京都には『爆発する知性プロジェクト』の件で行くんだろ。八神桐教授の入り組んだ哲学はともかく萌木教授は物理学者としては二流と言っても過言じゃない。なぜ彼らに未だに拘ろうとするんだ。本当にリエンのことが原因なのか?」

「それは現地に行けばわかるはずだ。俺の感が正しければ俺たちにとって必要な人間に会えるはずだし新鮮な時間だってきちんと見つけられると思っている。だからこの件に関してだけいえば、リエンとは関係がないさ。とはいえ金剛證寺の池に何故か一つだけ白い蓮の花が見事に咲いていたのを芦浜で見つけた。何か意味はあるだろうな」

「目星はついているし対策もきちんと練っている。けれど、信号がいつのまにか消えてなくなってしまった。俺の相棒は目下不貞腐れたまま電子回路の不具合をどうにか見つけて精度をあげようと昨日の晩から一言も話さない。どうしたものかな」

「アースガルズか。残念だが、欲求という点において機械生命が導きだしていく正解は哲学的にどんなに順序よく追い掛けていっても俺には見当もつかないな。時間が解決する問題でもないが、関係性の修復は機械論として構築可能だ。自分のほうから話し掛けてみろ。彼には相互作用を利用した環境学習機能が備わっているはずだ」

アースガルズは目を閉じたまま胡座を組んでベッドの上で考え事をしている。

話し掛けてぼくは今社会の荒波のようなものに流されつつあるし、少しだけ勘も鈍くなっているからそういう感情的側面が影響を与えて『天川理論』に不整脈のような問題を発生させているんだろう、焦る必要はないのかもしれないと伝えてしまいそうになるのをグッと堪えて今自分たちがやるべき問題に集中しようと確認をする。


*


「東名を飛ばせば半日でついてしまう距離だけれど、一度磐田に立ち寄って用事を済ませておきたい。イオリア+の換装パーツが出来上がっているはずだから。『天岩戸』を通り抜けるには必要になってくるはずだからね」

安全性と機能性を最大限にまで考慮して設計された運転席に座っている蒼井信治が中央のタッチパネルに表示されたカーナビゲーションを確認して沼津ICを過ぎたあたりで助手席の芹沢美沙に話し掛ける。

「この子から詳しい話は大体聞くことが出来ています。けれど確か谷村製作所には木場先生の息子さんがいると聞いたけれど」

「おう! 『kode=s』に関しては大体話しておいた。お前のヒダリメは呪われてなんかいないってことを教えておきたかったんだ」

透明な二枚の羽根が光を反射させながら背中で綺麗に折りたたまれたアンダーソンが芹沢美沙の膝の上で行儀良く脚を伸ばして座ってとても元気よく手に持った杖のようなものを振り回している。

「木場真理亜。齢六十を過ぎた今でも写真界に絶大な影響を与えているエロスとタナトスの融合者。口汚い評論家にすら彼女の捉えたフレームを前にしてアウラの存在を否定するものなど誰がいるのだろうかとまで言わせてしまう光の縫製者。君にカメラの扱い方の全てを教えた人だね」

「はい。信治さんが紹介してくれた私の大切な恩師です。けど、木場先生は確か今」

「あぁ、『オーバードーズ』の乗組員として海の上にいるはずだ。多分今頃は中東じゃないかな」

「『オーバードーズ』。予言者達の船────」

時速百二十キロを超えたイオリア+のスピードメーターの針がリミッターに遮られているのかそれ以上は上昇せずに停止している。

異様なほど長く感じられる沈黙が車内を満たしきっているけれど、アンダーソンの背中の羽根が光の飛び跳ねるような音を立てながら動いている。

「君にとっては受け入れるべき運命のように聞こえてしまうかな」

「わかりません。ただ木場先生が今あえて『オーバードーズ』にいらっしゃるのであれば意味はあるんだと思います」

「よかった。ぼくは手順に従って君をナビゲートしているだけかもしれない。もしそのことに悪意が存在するのだとしたらぼくたちの関係に間違いはなかったと思っている」

「今、それをいうんだ。時間なんてやっぱりあっという間だね」

左眼に黒い眼帯をした芹沢美沙は突然口調を変えると唇を優しく噛みながら高速道路の単調な景色に目を向けて膝の上で眠りに落ちそうになりながらコクリと首を傾けているアンダーソンの頭で撫でている。


*


 深い瞑想状態に入っているアースガルズを尻目に、部屋の中央のローテーブルに置かれたファッション雑誌の表紙に目を向けると、左眼の黒い眼帯に十字架のようなものが刺繍された二十代前半の女性がとても魅力的な笑顔と最新鋭のカメラを手に持って表紙を飾っている。

 同じ年齢で同じ高校を卒業してきっと同じ夜空を見ていたはずなのに、いつの間にか全く違う場所で沢山の人々の賞賛を受けて活躍をしているぼくの初恋の相手は今頃どこで何をしているのだろうか。

 芹沢美沙という懐かしい名前が胸の中で燻っている思いに火をつけて焚き付けられているせいか唇を噛み締めながらもう手の届かなくなってしまった勘違いに蓋をする。

【佐々木@明日からの出張の件で昨日メールしましたが、ご都合はいかがでしょうか? お忙しいとは思いますが例の研究データの不備の件で二、三お力添えをお願いしたいことがあります。お手隙の際にご連絡頂けると幸いです】

 株式会社ネクストエレクトロニクス研究開発部の上司である戦極一樹に連絡を取って、インターンとして働きながら社内のコンペに応募するつもりでいた新型メテオドライブの研究データの修正箇所に関して確認を取ろうと思ったけれど、返事が滞っていることに不安を覚えて催促を送ってしまう。

 さりげなく自前のノートPCを操作してミュージックアプリケーションを立ち上げて流した硬質なドラムサウンドとストイックな上物が鳴り響くミニマルテクノに身を委ねながら小一時間ほど待ってみたけれど、いつものようにノリがよく歯切れの良い上司との連絡が一向に取れない。

 まぁ、どう見ても自分と違い私生活の充実していそうなルックスだし日曜日ともなれば恋人かそれ相応の相手と一緒の時間を過ごしているのだろうから何もむさ苦しい入社したての後輩などにかまっている暇などないのかもしれない。

 そもそも戦極一樹という男は仕事とプライベートの切り分けがうまくむしろ今回のように急な連絡で職場の関係を休日にまで持ち込んできたりしないタイプだ。

 ただ今回の研究データはぼくがネクストエレクトロニクスにインターンとして参加したことを契機として社内で過ごすほとんどの時間を費やした案件であり、上司である戦極一樹もまた仕事の合間を縫ってよく目をかけてくれたもので、京都出張はぼくの念願が叶い本社の関連施設との提携が望める製品になる可能性が非常に高くなる第一歩と言える。

 きっとそういう状況を加味して戦極先輩は普段ならきちんと私生活と仕事での関係性に一線を引いて距離を置こうとするパーソナルコミュニケーションのバランスを崩してまでメールを送ってきてくれたのだろうと推測をする。

 だからあまりこちらから積極的に催促するようなことではないと考えつつも、ついインターンとして最低限の収入で研究を続けてきた成果の一つが形になるのかもしれないという状況に気持ちが昂って深海を泳ぐようなストロークの長いベース音と高揚感を適度に抑えながら煽り続けるハイハットの規則性に感覚を刺激されて面倒見の良い上司の親切さについ期待してしまう。

「ピコーン。閃いたぜ! アルタイルを消失した理由の一つにやはり新しいナンバーズが産まれた可能性があるのは忠告した通り。ただ、発症までに第三形態であれば、おそらくは最低でも一週間はかかるはずだから『aemeth』が彼らの脳に寄生した訳じゃないってことだ。つまりは」

 座禅を組みながら30センチほどの体長で赤い超合金製のアースガルズがベッドの上に立ち上がって何故か接合部分を光らせて悟りの境地にでも達したような顔で夢と現実の境界線を明確にしてくる。

「柵九郎か田神李淵のどちらかが電子空間から転写されて肉体を持ち始めた可能性があるってことだろ。それはわかっている。じゃあベガはどこのどいつだよ。笑えない冗談は感情によって行動を制御している俺には必要がないし『七夕の唄』を防ぐ為に俺たちは研究を続けてきたはずだ」

「荒唐無稽と言いたそうだな。奴らは肉体を消失、つまり観念的にも実存的にも死と同義の状態へと移行しているはずだと和人の常識は訴えかけているわけだ。お前はどこかで自分の研究について疑念を抱いているんだ。だからアルタイルは消失した。これじゃあ変か? 理屈が大事なら三日三晩寝ないで説明してやることだって可能だぜ?」

「ケプラー係数に誤差が生じている、程度の話であれば簡単に話は済むんだけどな。いや、信じていない訳じゃない。どちらかというと信じたくないんだ。機械生命に対して恋人の定義付けを快楽という主観的問題を除いて説明している場合でもないからな」

「だがお前は乗り越える。壁はぶち破るし山なんて簡単に超えちまう。佐々木和人って男はそういう奴だからな」

 アースガルズは真っ直ぐにぼくを指差して決心が揺らがないようにだけ念を押してくる。

 自律神経系でも交感神経系でもなく血液の中を駆け巡る熱い何かが原因でプログラムに修正箇所が見つかったなんて話はネクストエレクトロニクス社の製品開発では決して出来ない話だけれど、今は確かにアースガルズの言うことを信じてみるしかなさそうだ。

「魂ってやつか。超合金のお前だからこそ似合う言葉だって言うのがまた皮肉な話だけれど、理論上はそうやって変数Xを設定して仮想的に演算をするしかない」

 アースガルズは急に走り出すと、ベッドの上から飛び跳ねてぼくの股間目掛けて最大必殺技を繰り出してくる。

「喰らえ! グライズへイムキッック!」

 一週間ほど研究に夢中になっていたせいか日課に近かった自慰を我慢してパンパンに膨れ上がっていた股間に向かって超合金製のアースガルズの飛び蹴りが炸裂してぼくは激痛と覚醒のダブルショックに身悶えて蹲る。

「お前。なんてことを。俺がどれだけあいりちゃんと会うのを我慢して鍛え上げていたと思っているんだ。今、刺激は禁物なんだ。明日は大切なプレゼンテーションで」

 アースガルズは蹲ったまま身動きの取れないぼくに背を向けて腕組みをしながら憎まれ口を叩く。

「けっ! 新型メテオドライブでどれだけの夢が見れるって言うんだ。俺達の研究には憎悪を愛に変えちまう熱いエネルギーが詰まっている。『天川理論』を信じろよ、佐々木和人!」

 身悶えながら少しずつ引いていく股間の痛みに耐えながらもなんとか拳を握り締めて涙目になりながらも上半身を引き起こして右手でしっかりと握り締めたハンドルから手を離さないようにしてアースガルズを思い切り見おろしながら愚痴を零す。

「あのな。桃枝とはもう二度と会えないんだぞ。どんなに思い返したってあいつが生き返って昔みたいに頭を撫でたりキスをしてくれたり笑顔を返してくれる訳じゃないんだ。けど、わかったよ。ベガを失うのはもう嫌だ。どれだけ関係性を狭めたっていつまでも希望が俺の道の邪魔をする」

「ふっ。わかっているならそれでいいんだ。さっさとその溜まりに溜った蛆虫みたいな気持ちを身体の外に追い出せよ。先のことはそれから考えればいい。いつだってお前はそうしてきたはずだろ」

 クソゥとぼくはアースガルズにすら聞こえないくらいの音量で呟いてうっかり余分な魂が外に逃げ出してしまわないようにぐいっと押し込めた後に、這いつくばりながらノートパソコンに向かってDVDプレーヤーを立ち上げる。

 再生メニューにメイド服姿の鈴村あいりがまるでぼくの帰りを待っていたかのようにモニターの向こうで笑顔を向けていてぼくはまたしても先ほど強烈な蹴りを喰らった股間に右手を持っていき思わず表情を綻ばせて全身の力を抜いて、最初から見る、をクリックする。

 クタクタになって三日は洗濯していないニューバランスの灰色のトレーナーと一緒に誰に見せるわけでもないのにそれなりに気を使ったブランド物の下着を脱ぎながら浮遊感のあるシンセで始まるBGMが慌ててつけたイヤホンから再生されると、清純さが決して壊れないように白いブラウスを身につけたあいりちゃんがぼくの奥底で押し黙っていた欲望を悪戯に逆撫でする。

 けれど、ぼくはまだ彼女の履いた黒いハイヒールに疑いを持っているのか局部に血液を集中させることが出来なくて画面を追いかけながら慎重に守るようにして右手で柔らかいままの分身に触れながら頭の中を空っぽにしていく。

 胸が露わになった時に感じてしまったあいりちゃんにほんのり漂うタナトスへの誘いに薄ら笑いを浮かべてしまっている自分が嫌になりそうになるけれど、フレームアウトしている男優の声で目が醒めてお気に入りのAV女優とまた出会えた喜びが嘘になってしまわないようにゆっくりと硬くなっていく局部に力をこめすぎないように抑制する。

 いや、もしかしたら傷なんて負っていなかったのかもしれない。

 媚びるような男優の声が耳障りだけれど否定することの出来ない自分が映像の中に入り込んでいるような気がして罪悪感が何度も心臓音を加速させて漏れる呼吸があいりちゃんの声とシンクロし始める。

 もちろん肌に触れて暴力が押し寄せてくる感覚を忘れてしまった訳じゃない。

 気が触れてしまったように現実を払い除けて刺激にだけ溺れてしまう自分のことが嫌いな訳じゃないんだと思う。

 男優があいりちゃんを独り占めしていることが憎らしいのだろうか。

 それともやっぱり彼女はAV女優で会うことが出来るはずないってことを純粋に苦しんでいるんだろうか。

 けれど呼吸が乱れていく丸裸の女性を前にしてぼくの暴走は止まることがなくなってブレーキやハンドルの類の制御が一切効かないことを恥ずかしいと思うことすらないし、当然ながら痛みのようなものも湧き上がってくることが少なくなっていく。

 だからぼくは一度耐え切れそうにない自我から手を離してあるがままに任せて下劣さに身を委ねる男女の映像に喰い入るようにのめり込んでこぼれ落ちる笑いを呑み込んでから姿を変化させ続ける鈴村あいりという女優の姿を目に焼きつける。

 イヤホンからは嫌な音も不快な言葉も侵入してこないせいか現実ではない置き換えられた刺激をほんの僅かな冷静さで包みながら決して人前では見せることがないはずの光景に溶け合おうとしてしまう。

 硬くなっているのは局部だけではなくどうやら乳首も一緒のようで左手で摩りながら中枢神経に向かって這い上がってくる電気的メッセージがもしかしたら、あいりちゃん本人からの告白かもしれないと疑うけれどぼくに許されているのはペニスへの直接的攻撃であることにだけ気付いてまた表情を緩ませる。

 大事な部分はいつも見ることが出来ない。

 目を凝らして確かめようとしているのにモニターの映像信号だと理解するのに時間がかかってしまう。

 一瞬だけ現実的な記憶の断片がぼくを引き戻そうとしているのを感じるけれど曖昧さなんて決して許してくれない粘液の交換を愛と錯覚してしまいそうになり陰茎を右手で摩りながらカウパーの匂いでぼくは既に消失していることを自覚する。

 我慢に耐えかねて男優のペニスを受け入れる鈴村あいりの喘ぎ声が昂りをぼくは右手に宿った体温の上昇によって表現しながら滑り気のあるヴァギナと距離と距離が離れていないような気がしたままビリビリと全身へと伝わっていく予備動作の瞬間でさらにぼくはどうにもならないほど硬くなってしまった本体を本能によって掻き乱しながらオーガズムの瞬間だけを待ち望みながら摩擦運動の極点を堪能する。

 早くもっと早く出来る限りのスピードで君のことを見つけられるように。

 もう二度と離したくないんだって気持ちを掴まえようとギュッと右手に力を集中させて喘ぐ声の持ち主がどちらか分からなくなってしまっていきながらぼくはぼくの恋人との短い邂逅をモニターの向こう側から引き摺り出して自律的示威行動による終局への断絶を一週間分の精液の放出によって達成する。

 どうやら、あいりちゃんは何度も男優によってイカされてしまっていたせいかぼくのものではない顔をしながら顔を赤らめて人前だというのに平気で恥ずかしい姿を曝け出している。

 久しぶりだったせいか興奮しすぎてカーペットを汚してしまったことに気付いてとても冷静にティッシュボックスから何枚かの免罪符を引き抜くと既にぼくは天川の向こう側で手を振って新しい運命の到来を待ち侘びている彦星と成り果てていることを悟っている。

 もし偉大な賢者がぼくの目前に現れたのならば積み重ねた経験から得ることのできた知性をひけらかして仏道では決して手に入れることの出来ない論理を表現して戯言を曰うはずだ。

 いつからぼくはあいりちゃんのように淫らな自分を曝け出して身体の奥底から湧き上がるごく自然な衝動に身を任せることを怖がり始めたのだろうか。

 どのように抗ったとしても逃れることの出来ない快楽の強襲に我を忘れてしまうことだけが現実と夢を接合させる唯一の手段だって知っていたはずなのにぼくはまるで大嫌いな大人の姿と自分を重ね合わせるようにして我を忘れてしまっている。

 まだ君は空を流れる流星を目印にして夢を追いかけ続けているのだろうか。

 きっとお前はぼくのことなんて忘れて新しい恋人の傍で知らない顔をして笑っているに違いない。

 けれど、永遠に消え去ることのないまま記憶に焼き付いてしまった梅里桃枝が殺されてしまった夜からぼくは肉欲の喜びを現実から追い出したままでいようとしている。

 さっきまで失われていたはずの電子音が白けきった室内に響き渡り、ぼくに覚醒の合図を送ってきている。

 軍人ならば此処で上官に向かって反抗の狼煙を上げるところだけれど、あいにくぼくは一端のエンジニアであり、開発言語以外のコミュニケーションをよしとしていない。

 ティッシュペーパーで丁寧に陰茎の汚れを拭き取った後に下着と灰色のトレーナーをもう一度穿いて大きく息を吸い込んで自らの力でこじ開けた新世界からのメッセージを受け取る準備をする。

「衣餓@やっはろー! いても経ってもいられなくなって沙耶ちゃんから連絡先聞いちゃった! オカルト都市伝説に幽霊亡霊宇宙人の話と聞いて黙っていられるわけがない!」

 差出人はJ大の同期であり、飛び抜けた個性で一際目立っていたグローバルコミュニケーション学科の卒業生墓宮衣餓からのまるで時空の彼方から飛び越えてきたメッセージでぼくは思わずより鋭くなった感覚を呼び起こして殺意の削がれた冷静さで捩じ切れそうな思いをテキストに変える。

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