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16. (cosθ+i sinθ)n = cos nθ + i sin nθ

「お姉ちゃんはやっぱり嘘なんてついていなかった。天使様を呼び出すんだとしたら順番通りに儀式を実行するだけだった。私のエーテルを邪悪なものだって罵ったりしなかったのはお姉ちゃんだけだったもん」

『舞川詩乃』は自室の床に藁半紙を拡げて蝋燭を立てる。

儀式用に買っておいた新しい黒いゴシックロリータは多分先月二キロ増えた体重のせいでウエストのあたりがキツくなっているけれど、天使様はそういう罪もお許しになってくれるはずだって考えながら右手の人差し指に甘い息を吹きかける。

思っていた通り、きちんと身代わり人形を悪い方角へ置いたおかげで人の気配を近づけさせないように出来たから蝋燭に火がついてくれる。ネットのDoppelgängerってWebサイトに貼ってあった怪しげなリンク先のサイトで調べた眉唾物の儀式だったけれど、うまくいきそうだ。

自分の力でちゃんと魔法が発効されたことが嬉しくなってしまって、ニヤケ笑いが止まらない。

これならお姉ちゃんみたいに可愛くなることだって出来るかもしれない。

スカートのジップが少しだけ下がってきてしまいそうになるので思い切り息を吸ってお腹を凹ませて力を入れると、二ヶ月前に自宅で前髪をバッサリ切って案の定ひどくおかしな髪型になったけれど、学校で私の髪型に気づく人なんて何処にもいなくなって悲しくなった思い出と一緒に作った手作りの毛筆と本当は三百ミリリットルの血液が必要だけれど、もし貧血気味な私がうっかり必要以上の血液を抜いてしまって倒れたりしてしまったら元も子もないって考えてオレンジ色の墨汁の中に裁縫用の縫針を使って人差し指をチョコっと刺して手に入れた赤い液体をポタリと垂らして私の地毛で出来た筆を使って藁半紙に666という文字を中心に向かって円を描くように書き込んでいく。

「詩乃は私と違ってすごく不器用。だからなんでも真剣にやらなくちゃダメ。人に伝わるまでちゃんと自分の意志を伝えようとすることを諦めないこと。それだけで詩乃の周りはちゃんと明るく変わってくれるはずだよ」

お姉ちゃんは自殺する前日に私の部屋に小熊がプリントされたパジャマを着て遊びにきて、また友達に裏切られたんだって報告を優しく諭してくれた。

そんなの無理だよっていうととても柔らかい胸の中でギュッと抱きしめて私がまた太ったってことをさりげなく教えてきた。

その夜にこっそり二人で食べたドーナツの甘さのことが忘れられない。

だから天使様に私はお願い事をする。

もう一度だけ、もう一度だけちゃんとお姉ちゃんとお話が出来ます様にと熾天使を降臨させたいって私は思う。

電気を消して真っ暗闇が訪れる。

私は手と手を組み合わせて目を瞑り、666を中心にして集まり出した奇妙な雰囲気から逃げない様にお姉ちゃんに教えてもらった秘密の呪文を唱えてお祈りを捧げようとする。

「『Atom Heart Mother』さぁ、教えて。この扉の向こう側の世界を」

大和の上下水道は世界的に類を見ない高度な完成度を誇り都市の地下を縦横無尽に走り回り、適切で衛生的な水道設備を住人たちに与えている。

水洗化率は90パーセントを超え、水道水を飲料水として使用しても体調を崩す人間はほとんどいない。

機能的で合理的なシステムという点において大和の上下水設備はほぼ完成されている。

流れそのものを制御し管理し運営することは国家という巨大な生き物において最も重要な器官を抑えたに等しい。

『八神桐』と『萌木蘭』は豊島区下水道施設のとある一角で頭に分厚い本を乗せて両手を上に掲げながら合言葉を唱えると、コンクリートの壁に迷彩された扉が開いて内部へと案内される。

「相変わらず悪戯好きの麦藁らしい秘密基地の作り方。いくら、インフラを占有し、国家から主権を取り返すのが目的とはいえ、こんなハイテクの時代にわざわざこんな酷い場所を選ぶなんて常軌を逸しているわ」

縦縞のストライプスーツというシックな出で立ちにも関わらず防毒用ガスマスクを被った『萌木蘭』は同じ様に下水道を歩くには不釣り合いな英国紳士風のスーツを着た『八神桐』にくぐもった声で愚痴を零しながら同じ様にガスマスクを被ったタイトなスキンスーツを着た男に先導されて都市の空洞を利用した秘密基地内部を歩いている。

「ふははははは! お前たちはそんなことだから国家に自由という権利を奪われ仕事などという義務を与えられた飼い犬と成り果てるのだ! いいか、思い知れ! 謝りたいと思え! とぉぉ!」

三メートルほどの高さの通路の剥き出しになった配管の上から二十代前半の女の子の声が聞こえてきたのかと思うと、ガスマスクを被った三人の前に右の頬にハートマークのペイントがされたガスマスクを被る小柄な女の子が現れる。

「東京レジスタンス首領、『麦藁素子』。私たちが『爆発する知性プロジェクト』で使用していた研究所を再利用するとはね、君の情報網には恐れ入る。さすがは『神出鬼没の流動体≒マスターオブフロー』の異名を取るだけはあるな。けれど、その挫いた足ではしばらくではまともに行動すらできまい」

うううと挫いた右足を両手で抑えながら呻き声をあげる麦藁素子は専用ガスマスクとまるで現代版忍者の様な出で立ちで現れたけれど、高所から飛び降りた影響ですぐに行動を開始することは出来ないようだ。

「ぐぬぬ。貴様から全てを奪ってやるつもりがこの私と手を組むことを選ぶとは。私は大和のフロー全体、つまり流通システムにより洗練を加えて、精神にすら可視化された影響を与えることのできる高度な浄化システムを導入するつもりだ。ついてこい、かつて数々の実験体が脳髄の拡張実験のために不遇の人生を送ることになった場所を生まれ変わらせてやった。ここが私の研究所、『ピンクフロイド』だ。流通を制するものは全てを制する!」

ガスマスクを被った麦藁素子は脚を引き摺りながら八神桐と萌木蘭とタイトなブラックスキンスーツを着た男の三人を引き連れて研究室へと案内する。

二十メートルほど配管が剥き出しになったコンクリートの廊下を歩いて行った先の研究室は空気が浄化されているのか『八神桐』と『萌木蘭』の二人は息苦しさから解放されるようにガスマスクを脱ぎ捨てて内部を見渡してみる。

無数の機器やモニターやコンソールが周囲をぐるりと囲いこんでいるけれど、一際目立つのは中央の円柱状の水槽に逆さに吊られた女の子で『麦藁素子』が近づいていくと、とても嬉しそうにぶくぶくと息を吐き出してとても嬉しそうに笑いながら話し始める。

「どこに行ってたの!私の傍から離れないって約束したでしょ。ねえ、今日は誰を連れてきてくれたの?」

『麦藁素子』はガスマスクを外して素顔を晒すと円柱にべたりと張り付くようにキスをして水槽の中で入院患者が着るような服装のまま両手を水色の液体で埋め尽くされた水槽の内側のガラスに触れてほんの束の間一人きりで放置されたことを怒るようにして頬っぺたを膨らませている。

「相変わらず可愛い奴め。世界はお前の我侭で出来ている。もっと自信を持つんだ。生命のスープの中でならお前は歳を取ったりもしないんだぞ。何を慌てることがあるのだ。今日は『東京レジスタンス』の新しいメンバーを紹介する。二人とも学者だがなかなか使い勝手は良さそうだ。トウとモエだ。おい、『スケアクロウ』。こやつらにアレイスターの力を見せてやれ」

『スケアクロウ』と呼ばれたブラックタイトスキンスーツの男が円柱の隣にある青いボタンを押し込みぶくぶくと水槽内部の泡の量が増え始めたのかと思うと、中に入っていた女の子を包み出して液体がピンク色へと変化していく。

女の子は逆さまに吊るされたままで両手を胸元で組んで目を瞑り歌い始めて研究所内に彼女のとても美しいハスキーボイスを響かせると研究所の外側から引き込まれた透明な配管を走る汚水の色から悪性のバクテリアが消滅して透明な液体に変わり配管の液体から水分を供給されるように水槽の周囲に置かれた植木鉢で萎れていた植物たちに精気が蘇り始めて白い花や赤い花や青い花が咲くと今度はまるで進化が促進されるようにガラス状の粉末になって砕け散ってしまう。

『八神桐』は黒縁眼鏡を右手の人差し指でクイっとあげると水槽の中で目を瞑って歌う女の子を覗き込んで彼女の姿をしっかり確認すると植物たちが進化を促進されてガラス体へと変化したように闘争の歴史によって血塗られた『八神桐』と『萌木蘭』の心を癒し始めていく。

「完成していたのだな。彼女がいるのであれば、全てが変わる。西田死織いや、もはや忌野蘭魔と読んでも誰も怒るものはいまい、彼女に託されたキネマスコープまでの道筋の実現を阻むものは誰もいなくなる」

「ふははは。その通りだ。これが本土決戦用最終兵器彼女『アレイスター・ミストレア』である。彼女は必ず未来会議における我々のシンボルになるはずだ。世界は彼女の歌声で包まれてラブ&ピースだけで埋め尽くされる」

『麦藁素子』が両手を重ねて円筒状の水槽の中の『アレイスター・ミストレア』を見守っている様子にちょっとだけ『萌木蘭』は一抹の不安を感じて提言する。

「私たちが六分儀先生の義に背いてでも手に入れたかった宇宙神子。こんな場所でなければ殺されていたかもしれない。私が謝るわ。けれど、やはり道程は困難で溢れている。『ルナハイム』はきっと私たちの味方とは言えなくなる。それにVR∃Nだって必ずアレイスターに接触しようと考えるはず。彼女は守られる必要があるわね」

『萌木蘭』の忠告に麦藁素子は『アレイスター・ミストレア』の入っている水槽に背を向けて彼女の醜く焼け爛れた上に鼻が削がれていた素顔を晒し真っ直ぐ真摯な疑いのない表情で二人と対面すると、『八神桐』と『萌木蘭』は一瞬だけ目を背けそうになってしまうけれど、しっかりと彼女の顔を見つめ返して麦藁素子の返答を待っている。

「その辺りは量子の仕事だ。町中に常識を塗り替えるだけの絵をたっぷりとばら撒いてやった。世界はすでに私たちが考える普遍性によって劣化すら許さない状況へと突入している。『宇宙図書館≒クィーンオブメディア』の名は伊達ではない!」

「もうまた量子ちゃんのお話ばっかりする。ちゃんと私のことを構ってくれないともう歌ってあげないんだからねっ!」

円柱状の水槽の中で歌い終えたアレイスターはふてくされたように口を尖らせてぶくぶくと泡を吐き出して溺れるフリをしようとする。水槽の中の液体が水色へと戻り始めると、『麦藁素子』は再びガスマスクを被り安心した様子で水槽の隣に備え付けられたPCモニターでアレイスターの生体反応とスキャニングした身体に現れているロールシャッハテストのような黒い影を見つけると保存した画像をリンクしたメールを宇宙図書館へと添付する。

「また地下室の引きこもりから無理難題が送られてきたよ。今回は、どう見ても鯨にしか見えない。私は『シロナガスクジラ』の潮吹きで世界を革命へと導かなければいけないのか。素子は私にインランロリババアになれというのだね」

池袋のとある空き地の土管の中に座り込んでいるベレー帽を被り、Baptismaとプリントされた赤いロゴと切断された右足から血が吹き出している絵柄の黒いTシャツに緑色のタータンチェックのスカートと黒いタイツと赤い革の靴を履いた小柄な女の子はペロリと舌舐めずりをしてスマートフォンに送られてきた黒いシミのようなものを確認すると、何かを思いついたようにノートパソコンで『シロナガスクジラ』にもヘリコプターにもコッペパンにも見える画像データを01だけに組み替えてしまうと、二十代から三十代の一週間の性交渉に関する回数とオーガズム体験に関する折れ線グラフと色記号を整合させるようにして無意味な乱数だけを排除してしまうと、そのデータを元に抽象的な図柄を生成する。

作成した絵柄にゴシックフォントを利用し──Free Sex Shorten your life! ──と黒い文字でテキストを配置すると、とても意地の悪い顔をしたコンドームのキャラクターを描きたして先程の図案を元に作成した七色の折れ線グラフを背景にしたステンシルアートを作成する。

出来上がった画像をPCで確認して、したり顔で右手を口元に手を当てニヤケ笑いをこっそり浮かべているのは『渋澤量子』で後は夜を待つばかりだと地下施設から送られてきた『シロナガスクジラ』の暗号のことを思い浮かべながら土管の中で横になり眠りについて夢の中へと没入していく。

彼女の首の後ろには『Kode S』という文字の下にバーコードのようなものが肌に刻み込まれている。

『宇宙図書館』は深淵から聞こえてくる微かな単調な信号が何処からか聞こえてくるのを目蓋の裏側で感じ取っている。

「私たちはこれに乗ってこの場所に連れてこられたのね。白鯨型海遊船『ホエールトーン』。日本近海をこの海底探査船が泳ぎ回っている。けど、あんな事件の起こった後じゃ海自の探査船が彷徨いているから、深さ二百メートルより浅い海には浮かびあがることが出来ないと卑弥呼さんは言っていた」

「ぼくの衛星経由である緊急用通信機器もこの場所では役に立たない。たとえ、『ホエールトーン』を利用しても東京に帰る手段は今のところないんだ。やはり引き返すことしか出来ないのかな」

『蒼井真司』と芹沢美沙は卑弥呼の暮らす海底一万メートルの世界から海底エレベーターを利用して中継基地までやってきたけれど、地上へ戻る手段が見当たらないことを理解して途方に暮れている。

「そんなことはないよ。ねえ、確か『出雲』でお前は大巫女様から勾玉を手渡されたはずでしょ。そいつは隠と陽の二つ存在しているのだから片方が呼び掛ければきちんと応えてくれるはず」

勾玉? という顔をして芹沢美沙は首にかけたネックレスを胸元から取り出してみる。

青い石で出来たペンダントヘッドを右手で握りしめて世界のどこかに存在しているはずのもう片方の勾玉と思いをシンクロさせようとする。 淡い光が右掌の中で輝き出して海底五千メートルに存在する『ホエールトーン』中継基地から青く真っ直ぐな光が空に向かって放たれる。

「こちらブラヴォーワンでござる。海底より予測通り救難信号をキャッチしたでござるよ。『イエローサブマリン』の準備が良ければ、さっさとお姫様を救いに行ってくるでござる。小生のメリーゴーランドファンタジーに続くしかないでござるよ、和人氏! 夢は叶う!」

大和海域最南端の海上二千メートル上空でAH-64Eが空へと伸びる青い一筋の光をキャッチして無線通信を地上へと送り届ける。

静岡県浜松市の海岸付近で小型の黄色い潜水艇の発進準備をするために悪戦苦闘をしている小太りの男が海底から放たれた青い光を確認して笑顔になる。

「ありがとう。白河君。もう片方の勾玉が呼んでいるんだね。ぼくが道案内をしてあげなくちゃいけない。きっとこの分なら海が荒れるようなこともないだろう。『イエローサブマリン』の処女航海にはぴったりだと思う」

ポケットの中に入っていた赤い石の勾玉を取り出して佐々木和人は黄色い潜水艇の運転席に乗り込むけれど、まるで彼の決心をへし折るようにして海原付近に体長五十メートルを悠に超える無数の足と一つの頭に大きな口だけがついた巨大な海獣が現れて凪の海であった静岡県沖海岸に嵐が襲い掛かろうとしてくる。

「天使様が! 天使様がきてくれた! 私を救いに暗闇の向こうからやってきてくれた!私を助けてくれる!!」

『舞川詩乃』は真っ暗な自室で祈りを捧げて頭の中に聞こえてきた──ウラヤマシイ──というひび割れた大きな声を聞いて歓喜に溢れて涙を零して蹲る。

姉である『舞川翔子』はもう戻ってこないのだということを何度もかみしめるようにして泣き叫びくしゃくしゃになった藁半紙の上に涙を落とす。

666と書かれた文字は水分で滲んでしまい、ビリビリに破かれてしまうとまるで何かの起動スイッチが入ったようにして『舞川詩乃』の部屋が光に包まれて、彼女の自宅のすぐ近くのビルの解体工事現場からコンクリートのビルが破壊されて崩れ落ちる大きな爆発音のようなものがして彼女の意識を現実へと呼び戻してくる。

「そうだ。ダン。お前はずっと一人で戦ってきた。見せてやれ、お前の力を。『エレンレイ』が帰ってくるぞ!」

ヘルメットを被った現場監督の一人が煙草を口に咥えながら空を見上げて西の空へと飛び去っていく光の巨人を見送りながら頬を伝わる涙か汗か分からない液体を拭いながらバラバラに解体されたコンクリートガラを片付けるように指示を送っている。

何もなかったフリをして彼はこの後この場所に建てられる新しいビルの形を思い描いて少しだけ笑顔になる。

「浜松沖に巨大なエネルギー反応の発生及び高速で移動する同程度の熱原体を確認。エレンレイおよび『ギガマキナ』と思われます」

「『ギガマキナ』の出現で周辺の海域汚染がレベルEを突破。海上自衛隊が緊急避難勧告を発令しているな。また上空を高速で移動する『エレンレイ』の影響で超音波が発生。周辺地域に電波障害などを発生させている模様だ」

六本木ヒルズ最上階フロアで大小様々なモニターでグラフや数値を観測している男女二人がオレンジ色のヘルメットを被り無線インカムを利用して大和海域に出現した『ギガマキナ』と池袋周辺から突如現れた光の巨人の観測状況をモニタリングしながら過去の海獣出現履歴とデータを参照して対策を練っている。

おそらく経済活動に甚大な被害が出ると思われる高エネルギー反応の出現に男女二人は二○一○年に行われた六本木ヒルズ大規模改築工事によって提案され幾たびも『エレンレイ』及び大海獣が引き起こす未曾有の事態から大和を救ってきた六本木ヒルズ最終形態への移行の決断をひとまず保留している。

「あーあ。やっぱり詩乃は『ミカエル』様にお願い事をしたんだね。西の空が黒い雲で埋め尽くされている。翔子はこうやって思い込みだけで世界を塗り替えちゃうよく詩乃のことを心配していた」

「うん。霧子だって何も聡美に天使たちの言葉を聞かせたかった訳じゃないと思う。だってあんな風に屋上から跳んでしまうなんて」

「それは言わない約束。私たちが霧子の嫌な部分を覆い隠せる方法を翔子にだけお願いしようとしていた。聡美のことだけを責める訳にはいかないでしょ。あの子は恋がしたかっただけなんだから」

「じゃあ私たちはやっぱり霧子の言いなりになるしかないのかな」

「翔子は『お願い事』をされて地面と意地を張り合ったまま壊されるしかなかった。聡美はクラゲたちの生贄にされてしまった」

「じゃあ藤乃も若菜も次は自分の番だって思っているんだね。さようならってちゃんと伝えたかったな。だって私はもう時間が来てしまったから」

『内藤恋花』は自宅のバスルームで左の手首を買ったばかりの剃刀で切り裂いて四十二度のシャワーを浴びながら意識を失ってスマートフォンを真っ赤に染まったバスタブの中へと落としてしまう。

十七歳の女子高生の背後から追いかけてくる誰にも理解することが出来ない(病)ってものに怯えるようにして目を瞑ったまま精華女子高校の制服をビショ濡れで立ち向かうことの出来ない現実から逃げ出すようにして霧のように立ち込めていた闇の中へ堕ちていって街の中から彼女はすっかり姿を消してしまうことを選んでしまう。

「お父さんはもう帰ってこないのよ。会社をあまり仲の良くない同僚の人に奪われてしまって私と『小夜』の前から姿を消してしまったの。だからね、『小夜』。もうあなたは現実なんて見る必要がなくなってしまったわ。お母さんの言っていることを理解してもらえるわね」

赤崎千枝は自宅のリビングルームで一人娘の『小夜』の瞼を丁寧に針と糸で縫い合わせるようにして閉じてしまう。

赤崎家からは時間という存在を伝える機器がすべて取り除かれて隔離されてしまったようで、もう二度と学校へ通うことは出来ないのかもしれないと光と一緒に言葉を失ってしまいそうな『小夜』は母親の言葉を聴きながらそんなことを考える。

瞼の裏にはさっきまで捉えていた蛍光灯の光がうっすらと残っていて幻みたいに今まで見た景色と母親の笑顔とこれから見るはずだった夢の景色が投影されて映画みたいにスクロールしながら彼女の心を癒そうとしていて、『小夜』はそんなたった一人の映画館で上映されている未来予想図を笑顔で楽しんでいる。

だからなのか母親の言っていることをよく理解することが出来ず、もしかしたら彼女はこのまま両耳も塞がれてしまうのかもしれないとやっとのことで訪れた恐怖から逃れるようにして両手で耳を抑えて必死になって襲いかかってくる現実から自分自身を取り除こうとして大声で叫び始める。

「ママは諦めちゃダメ! 私がずっと傍にいるよ! だからいなくならないで! ママは私がちゃんと守ってあげられるから!」

『蒼井真司』は右腕につけたOmega スピードマスターで時刻を確認すると、十六時二十三分でようやく自分自身を確定することの出来る現在を取り戻して中継基地で呼吸を整えている『シロナガスクジラ』の胸鰭あたりに隠れた入り口から内部へと侵入して六畳一間の和室とチャブ台がある奇妙な空間へたどり着く。

入って右手は海水が侵食してきていて小さな漣が立つようにして押しては返し引いては戻りながら波音を静かに響かせている。

「私たちは『ニスタグマス』から落下してこの場所に運ばれて助けられたんだ。お前は気を失っていたから何も覚えていないだろうけれどな」

『アンダーソン』がひらひらと小さな羽を動かして左奥にある戸棚から急須と木製の皿に盛られた煎餅を取り出してきて、チャブ台台の上に置くと、胸元の青い勾玉が一筋の光を空に向かって放たれたままの芹沢美沙と『蒼井真司』は畳の上に座って『アンダーソン』が注ぎ入れたお茶に口をつける。

ズズッと音を立てて『蒼井真司』が熱いお茶を飲もうとすると、波に揺られて真っ赤な『桜珊瑚』が漂着してくる。

「やぁ、また会えたね。ぼくは奇跡的に爆発には巻き込まれずこうやって海の中を漂って百億分の一の確率でどうやらまた君と出会うことが出来たみたいだ。珊瑚の剣はしばらく持っておくと良い。ぼくと君を繋ぐ目印になってくれるはずだから」

芹沢美沙はお茶には手をつけず、立ち上がって海底五千メートルまで自力で辿り着いた『桜珊瑚』を抱き抱えると、チャブ台台の上に置いて海から届けられた素敵なメッセージを理解して後は『シロナガスクジラ』に任すことにしようと決心をする。

六畳一間の和室が大きく揺れると、ゆっくりと白鯨型海遊船『ホエールトーン』は前進をして深海を泳ぎ始める。

巨大な哺乳類の王様は決して暗闇を恐れることなく突き進み、ゆっくりと上昇するようにして淡く光るプランクトンがすまう生命のスープを前進している。

海底には彼を邪魔するものはいないけれど、もう少し陸地に近い海に近づけば、小型の魚や中型の軟体動物が彼の行手を遮ってくるかもしれない。

そうやって彼らを捕食している最強の肉食獣にもし不運にも出会ってしまったらいくら『ホエールトーン』と言えどもただでは済まない。

肉を裂かれ骨を断ち切られる可能性があるかもしれない。

けれど、白鯨型遊覧船『ホエールトーン』には使命があり、青い光が進路を決定している限り決して動きを止める訳にはいかないだろう。

芹沢美沙は赤く輝く『桜珊瑚』にちょっとだけうっとりとしながらどこからか聞こえてくるキシャーというホオジロザメの鳴き声に耳を傾けながら胸元で光っている青い光を信じようと決意する。

「ほら、追いついた。ここまで来ればいつでも人間たちに出会える。『ぷるぷる』、お前には星の欠片を渡しておく。もしこの先一人になって道に迷ってしまった時はぼくのことを思い出すといい。先生はお前の話ばかりするようになってしまったからたまには違う街でお酒でも呑むことにしよう。お土産に買った都営バスのバックミラーがあれば仲間も集まってくるかもしれない」

サメ型のリュックを背負った女は池袋芸術劇場前の広場に座り込んで、かつて神座琴子と呼ばれていた『ぷるぷる』と一緒に日本酒の一升瓶を開けて酒盛りを始めてしまう。

普段は花園神社以外ではしたなく路上でお酒を飲んだりすることは先生からきつく禁止されているけれど、これから始まるお祭りのためにたくさんの買い出しをした二人の女は礼儀なんて気にすることなく自由気ままに人生を謳歌しようとする。

少しだけ生温い風が吹いて池袋芸術劇場前の広場を吹き抜けて残暑の嫌な気配のする街の雰囲気を吹き飛ばしてしまおうとする。

血の匂いが大好きなサメ型のリュックの女は傍においたバックミラーでチラチラと周りに集まっている人々を確認してとても心地よくお酒を飲んでいる。

バックミラーにはよくゲームセンターで見かけるライダーススーツを来た不良たちが集まってとても下らない話で盛り上がりながら格好をつけているようで、サメ型のリュックの女とぷるぷるは思わず可笑しくなって噴き出してしまう。

きっと彼らにも夢があってこれから先ハリソンのような鮫に食い殺されてしまう日がやってくる時があるのかもしれない。

けれど、彼らは七人ではなくて八人揃っているようで、決して素数ではないので、きっとなんとかなるのだろう。

「けどさ、未来なんてみてもどうせあいつは私のこと置いていく気だよ。どんどん先にいっちゃうんだ。せっかく京都からずっと追いかけてきたのにいつのまに突き放されている。あいつの目には他のやつなんて映ってないんだ。でもありがとう。『星の欠片』とかいう石ころは大切にするよ。私にはそれぐらい小さな夢できっと十分だと思っているんだ」

『ぷるぷる』は『lunaheim.co』で行われた数々の新製品開発の結果嫌になる程付き合わせられた人体実験のことを思い出して思わず愚痴を言う。

電流を流されたり空を飛ばされたり針を打ち込まれたりたくさんの痛い思いをしたけれど、バックミラーは必要がなさそうだと渋々納得して池袋芸術劇場前の広場でサメ型のリュックの女に注がれた極上の日本酒に口をつける。

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