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Either way whichever way, no harm no foul. Cos either way, it’ll be one hell of a ride. I’m ready.

「さっきの人が真織さんなんですね。何だか不思議な雰囲気を持っていたけれど、彼自身は自分のことが何の変哲もない人間だと思い込んでいる。狭間で生きることがどんなに大変なことか分からないままいようとしている」
 芹沢美沙は立ち寄ったホテルの一室で窓際の席に腰掛けて外の景色を眺めながらまるで独り言のように谷村真織の印象について話している。
「彼は昔からそうなんだ。わざとかと思っていた時期もあるけれど、そうじゃない。彼の運命がそうさせる。歯車として生きることになんの恥じらいも感じていないし迷いすらない。ただ彼の見ている景色がもしかしたら人と違うのかもしれないと真理亜さんのことを知っている君なら理解出来るかもしれない」
 蒼井真司は先にシャワーを浴びて宿泊するホテルのアメニティとして用意されたバスタオルで濡れた髪の毛を拭きながら芹沢美沙の問いかけに答える。
 二人にはもう既に以前のような親密な距離は存在せず、その隙間を埋めるようにしてアンダーソンがケラケラと笑いながらベッドの上をとても小さな身体で転げ回っている。
「とにかくこれで『パン』の悪戯を止めることが出来るんじゃろ。人間はな、『ヘルツホルム』の住人みたいにまた自由な世界に戻ることが出来る。真織という男は自分の役割に忠実過ぎることを何処かで気にしておった。それはきっと美沙、お前のことをな──」
 陽が落ちて夜の帷が降りた磐田市に稲光が走り、雨が降り始める。
 髪の毛を拭いていた蒼井真司の手が止まり、椅子の上に座ってぼんやりと外を眺めている芹沢美沙の悲しそうな横顔を見て蒼井真司は溜息をついて渇いた笑いを浮かべる。
 もしかしたら歯車なんてものを信じていなければ芹沢美沙は黒い眼帯で覆われた左眼のことを憎んでいたのかもしれないと二人は想いが通じあっていた昔みたいに全く同じ気持ちのまま雨の降り始めた窓の外の景色に目を向ける。
 
 *
 
「戦極先輩のご実家が京都市内にあるのは聞いていたけれど、随分大きな家なんですね。俗にいう、おぼっちゃまってやつですか。けど、彼からはそんな気配が全く感じられなかった。親御さんとうまくいっていなかったんですか?」
「あの人は昔からそうなんだ。誰にも頼らないことを信念みたいにしてる癖にして他人の面倒ばかり見ていた。一樹先輩がこの家の跡取り息子であることももちろん関係しているだろうけど、あの人の夢のせいかもしれない。まるで呪いみたいにしてあの人はいろんなことから目を背けていた。悪い意味じゃなくてとても良い意味で」
 ぼくは京都市内でレンタルすることが出来た喪服のネクタイを緩めながら、隣に並んで真珠のネックレスをつけて同じく喪服姿の四月(一日)紫衣に話し掛けることでどうにかまだ整理のつかない頭の中を平静に保とうとする。
 そんな素振りを見抜いたのか四月(一日)紫衣はぼくを導くようにして前に進み、戦極一樹先輩の弔問に訪れた人の列に参列する。
「先輩の死体は首が切り落とされていた。犯人は当然ながらまだ捕まっていません」
 ちょっとだけ出遅れて四月(一日)紫衣の隣に並ぶとほのかに彼女の匂いが感じられてぼくは不謹慎な感情が湧き上がってきてしまったことと自分が話している事実の整合性が取れずに思わず目を閉じて漂ってきた白檀の香りの方に意識を傾ける。
「死因は背後から鋭利な刃物のようなもので心臓を貫かれて即死だそうだ。つまり首を持ち帰ったと思われる犯人には何かしらの意図があるとしか思えない」
 厳かなお通夜の雰囲気にそぐわない会話をしていることに列の脇に立っていた親族が気付いたのか咳払いをしてぼくと四月(一日)紫衣に注意を促してくる。
参列の先頭付近まで歩いてきたあたりで四月(一日)紫衣が見覚えのある顔に気づいたらしく軽く会釈をして六十代後半の女性と視線を交わし合う。
「もしかして戦極先輩のお母様ですか?」
「あぁ。私と一樹先輩がまだ学生だった頃に一度だけお世話になった。顔を覚えてくれていたんだな。先輩に似て聡明で礼節を重んじている印象だったが、そうか、やはり涙は流していないか」
 真っ黒な礼服とタイトなミニスカートと黒いストッキングに黒いハイヒールで肩あたりまで伸びた茶色いパーマヘアの四月(一日)紫衣がまず参列の先頭から一歩前に出て、規則的なリズムで会場に鳴り響く木魚の音に合わせるように焼香台の前に近づくと左手に並んでいる戦極先輩の親族に向かって一礼をしてからお焼香をあげて手を合わせる。
 戦極先輩の親族は口を真一文字に結んでとても険しい表情をしていたけど、母親と同じく涙を流しているものは誰もいなくて此処が葬儀会場であるのか一瞬だけわからなくなるぐらい別れの気配のようなものが感じられなかった。
「戦極先輩は家族に愛されていなかったってことなんですかね、こういうのって」
「それはちょっと違うな。むしろ理解しあっていただろう。涙を流したい人間は此処には大勢いそうだし、実際瀬戸際で踏みとどまっているに違いない。だが一樹先輩には頭部がなかったんだ。誰一人これが最後だと思いたくないのかもしれない」
「遺影の笑顔、仕事中は絶対に見せてくれなかったです。多分、優しいってこういうことなんだろうなって教えられた気がします」
 だったら先ほど見かけた母親の訝しげな表情はもしかしたらぼくの胸の中に出来た喪失感と出どころは似ているのかもしれないと考えて、隣の四月(一日)紫衣の横顔をチラリと目をやると、頬に涙の跡があり、ぼくは見てはいけないものを見てしまったように前に向き直る。
 視線の先には頭の禿げた中肉中背の中年男性と黒髪の二十代後半の背広姿の男性がノートとペンを手に取って三十代前半の男性に挟み込んでいて、四月(一日)紫衣は何かに気がついたように三人の方に歩み寄ろうとする。
 見覚えのある背広姿の男二人には確か警視庁捜査一課の刑事で三年前に殺された梅里桃枝殺害事件の際に取り調べをぼくに対して行った二人であることに気がついてぼくも四月(一日)紫衣の後を追う。
「わかりました。お忙しいところお話を聞かせて頂きありがとうございます。お恥ずかしながら犯人の行方は未だわかっていません。ただどうしてもご家族にお話を聞かせて頂きたくこちらまで出向かせて頂きました。ご兄弟はもう何年も貴方達家族とは連絡を取っていない。それだけ分かれば十分です」
 確か岩澤とかいう頭の禿げた刑事が苛立ちを隠せずにポケットの中から煙草を取り出そうとした瞬間に隣の好青年風の刑事が未だに煙草の止めることが出来ない未熟な先輩刑事の軽率な行いを止めに入る。
「えっともし怨恨の線でしたらご家族に被害が及ぶ可能性もあると考えて我々だけご実家に立ち寄らせて頂きました。情報の提供ありがとうございます」
 ネクタイを緩めた喪服姿の岩澤刑事が左手でボサボサの頭を掻きむしりながら口惜しそうにでっぷりとした唇を噛み締めてそのまま戦極家の敷地の外へと歩いていくと、新谷が儀礼的な笑顔で名刺を三十代の男性に手渡した後に軽く会釈をして岩澤刑事の後を小走りで追う。
 どうやらぼくの姿には気付くことがなかったようだ
「紫衣ちゃんか。久しぶりだね。こんなところに来てもらったのに兄貴の頭はどこかに持ち逃げされたらしい。馬鹿げている。大したものが詰まっているとは思えないのになぁ」
 銀色のよく整えられた短髪とどことなく一樹先輩の面影を感じさせる三十代前半の男性が四月(一日)紫衣に気がついて申し訳なさそうな表情で軽く頭を下げて目を細める。
 いつも自信に溢れて背筋をぴんと伸ばしてマナーに厳しく真摯に仕事に向き合っていた一樹先輩とは対照的に妙に気弱そうな態度をしている。
「相変わらず進二はお兄さんが苦手なんだな。いつも怒られてばかりだったのをまだ気にしているのかい。それとも」
「違う違う。まぁ、確かにこんな事件に巻き込まれたんじゃ自分を責めたくなる気持ちが湧かない訳じゃない。ただ、もう十年も前の話だ。兄貴と縁を切ったことと今回の事件は別の話だよ」
 少しだけ決まりが悪そうに右手を振って俯き加減になった男性が右脚で地面の砂利を払いながら愚痴のようなものを零す。
 どうやら彼は一樹先輩の弟で四月(一日)紫衣とは顔見知りのようだ。
「だったらいい。もし私を気遣っているならと思ってね。一樹先輩は進二とは違って聡明でとても男らしい人だった。卑怯なことなんて一切考えなかったし他人に恨まれるような人間ではない。それだけを伝えたかった。行こう、佐々木君」
 憎しみなんてものが簡単に人間の心を澱ませることを四月(一日)紫衣は知っているのか、親族の一人が失われた場所には相応しくない態度と言葉で戦極進二を傷つけてからぼくの方を見て戦極家の敷地内から出ようと誘ってくる。
「わかっているよ。兄貴はあんたみたいな人を受け入れられる人だ。俺たちは普通に生きたいだけだ。二度とうちには近づかないでくれ。此処は悪魔が息をしていい場所じゃない」
 背中越しに聞こえてきた一樹先輩の弟の声には耳を傾ける気すらないのか、四月(一日)紫衣はぼくより二、三歩ほど前を歩いて出来る限りこの場に留まることを避けるようにしてまるで戦極先輩が生前にそうであったように背筋をピンと伸ばして堂々と歩いて行ってしまう。
 気後れしてしまっていたら置いていかれるのかもしれないと何となく考えて、ぼくは足取りを早めて四月(一日)紫衣の隣に並んで横顔を覗く。
 いつの間にか涙の跡が消えている、いや、もしかしたら彼女は泣いてなんかいなかったのかもしれない。
「────────えっと」
「実はあの家族は私のことを嫌っていてね。おかしな話だが、こんなことでもなければ口を聞くのも嫌がっただろう。なぜかわかるかい?」
「いえ。わからないです」
「それはね、私が天才と呼ばれる生き物だからさ。常人とは違う考えで生き、厳しい戒律の元で日常を送り、明確な目的を達成することを生き甲斐とし決して妥協を許さず凡百な死生観とはまるで遠く及ばない場所で息をする。君はどちら側にいたいんだい?」
 言葉に一瞬だけ詰まりそうなり、喉元に鋭いナイフが突き立てられたと感じた瞬間にぼくははっきりとした口調で四月(一日)紫衣の質問に答える。
「ぼくはあなたの傍にいたいと思っています。だからちょっとだけ迷っています。悲しみに溺れてしまい前に進めなくなることが必要かどうかを」
「才能とは自分の意志で勝ち取るものだ。自分の頭に嘘をつくことをよしとしない。少なくとも私はそうやって生きている」
 国道沿いに出て車通りが多くなったあたりで、四月(一日)紫衣は右手をあげて通りかかったタクシーを呼び止める。
 ぼくらは何も言わずに停車したセダン型のタクシーの後部座席に乗り込んで並んで座り、スッと息を整えて心拍数が乱れないように姿勢を整える。
「どちらへ行かれますか? 今日は本当に変わった日や、あんたみたいな眼した女性をさっきも乗せたばかりやわ」
 タクシーに乗り込むと、四月(一日)紫衣は軽く息を整えてからぼくの方に顔を向ける。
「佐々木君。もしよかったらこれから私の部屋に来ないかい?」
「あ。えっと。はい。もちろん喜んで」
「じゃあ運転手さん。五条までお願いします」
 タクシーの運転手がルームミラー越しに四月(一日)紫衣を見た後に、それからぼくの顔を覗き込んでちょっとだけ口元を緩める。
「ほらみてみい。行き先まで同じや。けど、あんさんは京都の人やな。さっきの女性は東京の人やったわ」
 タクシー運転手がメーターボックスのスイッチを入れてバックミラーとルームミラーで後方を確認する。
「戦極先輩はやり残したことがたくさんあったでしょうね」
「運命を知らないというのは残酷なことだ。いつ生まれていつ死んでしまうか。誰にも分からないことでも私ならちょっとだけ先が見えて知っている」
「だったらあなたは天才でぼくは普通の人間なんだと思う。先のことなんて何にも分からないんです」
「そうか。君は自覚することが嫌いかい?」
「そうじゃないと思います。ただ過ぎてしまったことを捨てるなんて到底出来ないってそう思うだけなんですよ。あなたは違いますか、四月(一日)先輩」
 四月(一日)紫衣は右手を顎のあたりに添えていつの間にか世界の片隅で誰も知らない秘密でも見つけてしまったように小さく頷くと、他愛のない運転手の言葉には耳を貸さずにぼくの右手にそっと左手を乗せて体温を伝えてこようとする。
 あぁ、多分また何かいけないことに意志が負けて流されてしまって、どうにもならない甘い香りに惹かれているなとぼんやりと考えながらも手のひらを裏返して彼女と手を繋ぎ、出来るだけ余計な言葉と空気が後部座席に近寄ってくることが出来ないように力を込める。
「やっぱり落ち込んでいるんですね。天才と言ってもあなたは人ではない訳じゃない。何か大切なものを失ったはずなのに何も変わらないでいることなんて出来るはずもないのにいつもと同じであろうと懸命にしている。そういう感触をしています」
「君は案外余計なことを言う。悩み事なんてない素振りをして人の心を覗き込むのが上手なようだ。口は達者だが、心は弱くて頼りがない。それでも君は選択をするんだな」
「なぜかは分かりません。ただ今日はそんな日のような気がするから、だから一生のうちに何度あるか分からない特別な日なんだとしたら離さないようにしていたいんです」
 ふっと笑って四月(一日)紫衣は気恥ずかしそうに俯いて横顔を長い髪で隠した後に何か独り言のようなものを呟いてぼくにそのことがバレないように窓の外を眺める。
 タクシーの運転手がウインカーを出してゆっくりとハンドルを回しながらバックミラーを覗き込んでアクセルを丁寧に踏み込み車道に合流する。
「あんたは違うんかい。なら儂が間違っとるんやな。烏丸やったら大通り抜ける方が早いやろうからそんでええ。頭のええやつのやることはよー分からんわ」
 北山通りから京都府立植物園を抜けて賀茂川を渡ったところで左折して川べりを歩く京都の人々の様子を眺めながらぼくは戦極先輩はどうして殺されてしまったんだろうということをようやく整理のついた頭の中で考え始める。
 ぼくはいつも正解だけを選べるように努力をしてきたつもりだし、どんな状況に追い込まれたとしても最善の選択肢が消えてしまう前に脚を前に出して進むべき道を決めてきたはずだけれど、すれ違う人々の声に耳を傾けていたらもっと違う現実の中を生きることが出来ていたんじゃないかって後悔とは違うけれど迷いに似ている胡散臭い自分の意志ってやつを指標に進んできたはずだ。
 戦極先輩の棺は本来ならば死に顔が参列者たち拝見出来るように頭の部分だけが四角く切り取られているはずなのに白い布で覆われて中が見えなくなってしまっていて、本当に彼の死体がその場所にあったのかどうかですら判別がぼくにはつけられなかった。
 東京の自宅で戦極先輩が殺害されたのだとしたらぼくはその犯人を知っているのだろうか。
『あぁ。お前は必ずそいつを知っているぞ。忘れようとしても忘れられる訳がない。お前が改造医療実験体革命的人間兵器肆零玖番の身代わりとして選ばれたものである限り、カルマからは逃れられない。必ず隣人に不幸をばら撒きお前を特別にしようと追いかけてくる。逃げられるものではない』
 脅迫めいた残酷な運命を淡々と語り掛けてくるのは脳内に概念存在として棲みついている『類』という苗の古代の魔導師だけれど、ぼくは彼の問いかけに応じる気がないことを示すために隣に座っている四月(一日)紫衣の左手の指をぼくの右手と絡めて異質なものが入ってこないように体温だけを頼りに思考を研ぎ澄ませる。
 『類』はある日、宇宙から飛来した古代種という呼ばれる生物から超常的な力を与えられて人間を超えた生物に生まれ変わりながらも、己の力を過信した挙句に『ガイア』を創世した神々の末裔によって手に入れた力の能力の全てを奪われてぼくらの卒業した七星学園の神人棟地下に幽閉されている。
 彼が天界と呼称する領域は恐らく論理物理学として仮説を立てるのだとすれば、高次元に保存された粒子振動がもたらした重力変動源と推測され、もっと俗な言い方をするのならば、集合的無意識に存在する普遍的心理状態の一部と捉えることも可能なはずだ。
 古代において『類』が彼の獲得した超科学を利用して、『大和』の概念的体系化に対して精神攻撃を仕掛けたのだと仮定すれば、『ガイア』が一つの生命体として防衛本能を働かせて彼を排除しようとしたのだろう。
「頭を切り落とされる時、一樹先輩はきっと付き合っていた彼女のことを思い出しただろうな。私が家族に先駆けて彼の訃報を知っていたのは私の一つ上で一樹先輩と同い年の彼女のことを知っていたからなんだ」
「じゃあ戦極先輩は自分にとって大切なものは何かを知っていて、犯人はまるでそれを持ち帰るみたいにして頭部を切り取り身体と離れ離れにしてしまった。まるで絶望を思い知らされるように殺されたってことでしょうか」
「それは少し大袈裟かもしれない。というよりも、死と絶望が同義であるのならば文字通り彼の思考は器官と分断された訳だ。やはり人が絶望をつかみ取れるなんて幻想に等しい」
「俺のものを何故奪い取るんだ、もし戦極先輩が絶命する瞬間に考えていたことがあるのだとすればきっとそう思っていたでしょうね」
 四月(一日)紫衣はタイミングをずらされたみたいに儚げな顔をして溜息をついて運転席の方を覗き込んで前方の様子を窓ガラス越しに確認をする。
「あ、運転手さん。あそこの信号で停めてもらっても良いですか?」
 京都弁のちょっと癖のあるタクシー運転手に四月(一日)紫衣が声をかけると、ゆっくりとブレーキが踏み込まれて烏丸通り沿いのコンビニエンスストア前で停車する。
「人が死んだ日いうんはな、誰とも会ったらあかん。幽霊っておるやろ。そいつがな、生きとるやつをうらやましがんねん」
 ぼくはタクシー運転手にお礼を言うと、四月(一日)紫衣が左手でぼくの去勢を張った大人びた偽善的な行為を制止して財布から一万円札を出すとチップとして釣り銭ごと渡し二人揃ってタクシーを降りる。
 触れていた手が離れた瞬間にちょっとだけ寂しさのようなものをなんとなく感じたままで名残り惜しくなり、やはりぼくは自分で選んでこのタクシーに乗っていたんだと実感する。
「同居されている方はいないんですか?」
「ん。この部屋は私が一人で借りている。とにかくありがとう。来てくれて。狭いけれどあがってくれたまえ。中に入ったらコーヒーでも淹れるよ。私たちは少し静止した時間のことを気にしすぎていると思う」
 マンションの部屋の鍵を開けながら四月(一日)紫衣が気恥ずかしそうに笑顔を作り、ぼくを招き入れる。
 玄関から入ってすぐ右手の扉を開けるとリビングがあり、15帖ほどの広さの端の方に青いソファがあり、彼女に案内されるままぼくはゆったりとけれど心を落ち着けるようにして腰掛ける。
「ありがとうございます。お構いなく」
 ぼくはなんとなく手持ち無沙汰のままソファに座って部屋を見渡すと、茶色い木製のリビングボードの上に十代前半の頃と思しき四月(一日)紫衣の写真が飾られている。
 写真には四月(一日)紫衣の他に二人の男性が一緒に写っていて彼女を守るように肩に手を置いている。
「彼らは私の親代わりと言ってもよくてね。二人ともとても優秀で恩師でもある。知性という点に関して言えば、彼ら以上に聡明で博識豊かだった人間を未だに知らない。とても懐かしい写真だね」
 なんだか妙にその写真が気になり、向こう側の世界に魅入られるように見つめていたぼくのことを呼び戻そうと四月(一日)紫衣がコーヒーカップを二人持って木製のテーブルの上に置き、写真のことを説明しながらぼくの隣に座る。
 タクシーの中でも鼻腔を刺激していた彼女の匂いがまたぼくを誘惑するみたいにして漂っていることをぼくは出来るだけ気にしないように意識を逸らそうとする。
「今時、写真をわざわざプリントしてあるのが珍しくて。デジタルフォトフレームでもなくきちんと写真立ての中にいれている。それに、だった、という過去形も気になります」
「そうだね、もう彼らには会うことは出来ない。一人は亡くなってしまったし、もう一人は私が裏切ってしまったも同然だ。きっと私のことを嫌っている」
「大切な人だったんですね」
「どうだろう。ただ私に変わるきっかけを与えてくれた。よくも悪くもね」
 喪服姿のままぼくの隣に座っている四月(一日)紫衣は木製のテーブルの上に置かれたリモコンを操作してオーディオアンプのスイッチを入れて音楽を再生させる。
「ロバートグラスパートリオ、No Worries。これはライブアルバムですよね。ピアノの音がとても自由で飛び跳ねるみたいでもしかしたら今みたいな時に聴くにはぴったりの曲かもしれないですね」
 四月(一日)紫衣は厚い唇が印象的な口元を緩めてまるでぼくの言葉数が多いことを責めるみたいにして吐息を漏らすと黒いストッキングを履いたままぼくの方に身体を向けて座り直して真っ直ぐとぼくの眼を見つめる。
「もしかしたら時間を止めてくれるような気がしてしまうな。いつまでもこうしていたいって時にはぴったりかもしれない」
「あぁ。それはなんとなくわかります。あの、紫衣さんは写真たての彼らのことがまだ心の中に棲みついているんですか?」
 ぼくがそういうと、四月(一日)紫衣はコーヒーカップに口をつけて口紅が白いマグカップを汚すのを微かに気にして木製の机の上に置くと、ゆっくりと深呼吸をしてそっと瞼を閉じて左手の指先で彼女のトレードマークと言っていい厚い唇に触れて軽快で跳ねるようなピアノの透明な誘惑に身を委ねる。
 深く潜るような沈黙が部屋の中を満たしてしまう。
 逃れられないのかもしれないとぼくは気付いてしまい彼女のようには目を閉じることが出来ない。
 苛立ちや苦しみやもしかしたら煩悩のようなものもこの場所からは切り離されている。
 暗闇ではなくダウンライトの柔らかい光がまだぼくの視界にしがみついている。
 けれど、ほんの少しだけ気を抜いた瞬間にとても冷たい温度が青いソファに投げ出していたぼくの右手の指先を這うように近づいてきて背筋を脅迫するように四月(一日)紫衣はぼくを誘惑する。
「どうだろう。少し意味が違うかもしれない」
「なんとなくそんな気がしてしまって。違うのかな」
「駄目じゃないか。君は頭の中で理解できていることを私に何もかも任せようとしている。それでは少し男らしくないと感じてしまうよ」
「いえ、そういうわけじゃなくて──」
 否定的な感情が四月(一日)紫衣の冷たすぎる体温と一緒に脳髄を痺れさせようと浮かび上がってきた瞬間にぼくはいつの間にか四月(一日)紫衣に唇を奪われて湿った唇が悲しさに耐えきれなくなって力を失っていることを教えるようにして意志を持った舌先が侵入してぼくの透き通るような魂を穢してしまう。
 これは通過儀礼なんだと本能がぼくの理性に逆らいながら命令を下して四月(一日)紫衣の舌先を絡め取ってきっとずっと昔は、気の遠くなるような時間の向こう側では一つだったんだってぼくら二人の唾液が混ざり合う。
『憂鬱には力があり、孤独には願いがあり、渇きには記憶が必要だろう。お前はまだ光を失っていない。死を思うことを恐れる必要はない。受け入れたとしても君はまだ』
 現実ではないと錯覚しそうになった瞬間に自我を放棄してぼくは夢中になって彼女の右胸あたりに手を伸ばしていて四月(一日)紫衣がまるでその時が来るのをずっと昔から知っていたみたいにやっぱり笑みを溢す。
 ぼくのものか四月(一日)紫衣のものか分からない吐息が荒くなり鼓膜に届き始めたのを合図にして四月(一日)紫衣は喪服のジャケットを脱ぎ始めるので、それもやっぱり決まっていた出来事だって嘘をつきながらぼくは彼女のブラウスのボタンに手をかけて一つずつ壊さないように外そうとする。
 さっきまで掴むことすら出来ないと信じ込んでいた四月(一日)紫衣から漂う匂いがちょっとだけ遠のいたと気付くと同時に彼女の唇がぼくから離れて唾液を忘れないようにと今度は彼女の右手の人差し指がぼくの唇に優しく触れる。
「あ。待ってください。自分で脱ぎますから。わかっているかもしれないけれど、ぼくは貴方のことを知っています」
「まだ余計なことを言おうとするな、君は。本当に困った子だ。私はね、この時間が堪らなく愛おしいだけだよ」
 この感情のことをなんて呼んでいたのだろうとぼくが喪服のジャケットを脱ぐと紫衣の指先がぼくのワイシャツのボタンに伸びていて冷たさを感じるより前に右胸の乳首あたりを紫衣の右手の人差し指が刺激してぼくは思わず小さく声を漏らす。
 ブラジャーだけになった紫衣の白い肌をどこかへ逃してしまわないようにぼくは両手でしっかり掴み取ってから存在を肌と肌の触れ合う瞬間によって感じ取ると、ゆっくりと背中に手を回してフックを外し上半身をあらわにされたぼくの身体に引き寄せてもう一度唇を重ね合わせて理性を奪われる時間に溺れていく。
 彼女は答えのことを知っているみたいだ。
 ぼくの局部は既に記憶とは切り離されて限界まで硬直して彼女を待っている。
 ベルトが緩められていることも気づかないうちに彼女の右手はぼくのペニスを包み込んで嫌味なぐらい快感を送り込むみたいに今度はぼくの右手を誘導しようと襲いかかってくる。
 だからぼくはどうやら彼女の言われる通りに、いや、正確にいえば、混ざり合った唾液がそうするべきだと伝えてくる通りにぼくは右手を四月(一日)紫衣のスカートの中へと延ばして黒いストッキングの上からとても臆病に彼女の機嫌でも伺うようにして指先で湿り気があるのを確認しながら彼女がそうする理由を知ろうとする。
 ほら、君は何も知らなかったわけじゃないだろうって彼女が耳元に唇を這わせながら囁いてくれる。
 いえ、ぼくは待ち望んでいただけなのかもしれないですと息を呑み込んで黒いストッキングをほぼ無意識に脱がしながらぼくの罪悪感を騙してしまうと、この先が決して天国へは繋がっていないってことを四月(一日)紫衣の濡れたヴァギナの感触で思い知る。
 私はきっと貴方のことを忘れてなんかいないと思いますと暗闇が視界をようやく奪い取ってぼくは捏造されていた欲望を四月(一日)紫衣の身体を通じて理解する。

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