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18.What is moral is what you feel good after and what is immoral is what you feel bad after.

「やられましたよ。本当に口惜しい。我々を心の底から蔑んで馬鹿にして見下している。やつは本気で逃げ切る気なんですよ。まったく」

四ツ谷警察署は大慌てで騒がしく各署員が動き回っている。

突然署内に送り付けられてきた長方形の箱型に納められていた変死体の対応に追われて四日前に発見された死体との関連性まで浮上している為か、何故、署員の目を掻い潜りこんなものが署内で発見されたのかも分からず電話が鳴り止むことがない。

「我々が今案件に直接手を下すことは有り得ない。だが、いくつか『執務室』の技術とよく似たものが漏れ出ていると考えられる。その件に関する情報提供は惜しまないつもりだよ。岩澤警部補」

「そうはいってもこっちはほぼお手上げ状態だ。四日前の件も含めて辿った証拠はほとんど足がつかない。今回の死体も恐らくそうだろうと科研の連中が嘆いているよ」

「その様子だと開発室の関連までは突き止めているのだな。とはいえ、恐らく彼は私たちというよりも学者の連中の暴走に等しい。彼らは自らの力でチルドレ☆ンに近づこうとしている」

「そんな難しい話は私たちにはわかりませんよ。私たちはただガイシャの無念を晴らしたい。それだけですよ」

岩澤警部補は突然彼にかかってきた電話に応対し、捜査が進展しない状況を憂いている。彼の長い警察人生においてもまったく異質の事件が発生しているのだということを思い知らされる。

「例のホシですけど、よくいえばどこにでもいる学生さん、けど悪くいえば彼もこの状況で以前と変わらないどころかもっと積極的なサークル活動をしてるんですよ。だからある種異常なんです」

新谷刑事が取調べ室の岩澤警部補の元に近づいてきて尾行の進捗を伝える。

「奴さんは一筋縄じゃいかない学生さんだな。どちらにしろ、あのきちがいじみた死体のおかげで彼どころじゃない」

「突然、宅配便を装った形で箱型の届け物が送られてきたと思い、女性警察官が中身を確認したら頭部を割られて上半身が切り裂かれた死体が入っていたと」

「そうだ。ご丁寧に頭の中には聖書の切れ端が詰め込まれて小腸は取り出されて切り取られた子宮と繋げられたまま血のシャワーを浴びる死体だ。心臓には電極まで埋め込まれて脈をうっていたんだ。とびきりの異常者だ」

「そして目的がはっきりとしてる。明らかに俺たちバカな大人を揶揄っている。心の底から悪事を楽しんでいるんだよ。俺でもナ、こんなやつは初めてなんだ。正直震えがとまらんよ」

取調べ室に岩澤警部補の為に特別に用意された灰皿には煙草の吸殻がこんもりと溜まり彼のイライラが伝わってくる。

出世に響くと言われてもどうしても辞めることのできない煙草の本数が彼の不安を象徴しているようで署内で叫び散らす警察官たちの中で諦めるように彼はもう一度煙草に火をつける。

「映像は完パケで構わない。ぼくたちの思った通り、『天才発見くん』をベースにプログラムしなおした回路が見事に嵌ってくれた。これは奴のコピーそのものだ。だからこそ、梨園には追いついていないってことがやつには伝わるはずだ」

一夜開け、午前の授業を簡単に終えたぼくは『現代視覚研究部』でみなと映像の再確認をする。

「頭をなぞるだけでこっちが発狂しないようにするのが大変だったんだ。心底いかれてるのか思えば誰しもが当然だと思う思考回路で満たされている」

乖次がソファに腰掛けて出来るだけ挑発的な態度を崩さないようにしながら部室のモニターで流れる映像に目を凝らしている。

「映像研と話してわかったのはこれはメディアというよりも生命活動に似たものでござる。恣意的な印象操作は出来そうな箇所は見当たらないし出来るだけ多くの人が見られる場所に置くのがいいのではということになったデござるよ」

白河君と『塚元敬』先輩は昨日の夜かなり遅くまで続けた編集作業で何度も繰り返しみたにも関わらず享受させる相手があまりにも限定的な映像作品のせいか彼らも客観的に作業することが出来たということをみなに伝える。

「ラブレターみたいなものってこと?」

沙耶が相変わらず窓際で本を読みながらぼくに質問をする。

「表現の仕方はおかしいかもしれないけど、恐らく彼にしか伝わらない言語で彼になら理解できるメッセージを載せた。そういう意味では個人的なものであることは確かだね」

ルルがバイオマシンは有機コンピュータ理論という観点からこの映像にランダムに入り込む信号を解析して乖次と梨園が編み上げた哲学的観念をぼくと白河君がより純粋なコンピュータ言語を使用してこの映像作品は作り上げられている。

相互通信的要素が存在することでこの循環する色と記号の配列は世界と自体を区別して影響を受け合うことが出来る。

始まりと終わりのある生命活動の転写は外部からの電気信号の影響により、個体識別性を獲得することが出来るはずだということをぼくらは三日三晩かけて練り上げたことを痛感する。

「和人はすごいね。怒りや悲しみに振り回されずきちんと私たちの話に耳を傾けてくれた。もし感情に振り回されて犯人を探しに出たりすればきっと思う壺だったんじゃないかな」

「どうだろう。非人間的判断かなって罪悪感に押し潰されそうですごく苦しかったし、今もどんな選択が正しいのかなんてわかってないよ。TVドラマに出てくる探偵みたいにかっこよく事件を解決できたら最高なんだけどさ」

「あはは。お前はそういう奴だ。俺もこの一ヶ月抜け出せない暗闇の中を過ごしていたからこそ、暴走にブレーキをかけられた」

「でも、なんとなくだけど、このままじゃ終わらないって気がしてる。自分の手で解決しないといけない問題がある気がしている。きっとぼくは犯人と目の前で邂逅しなくちゃいけないんだと思う」

「ねえ、桃枝ちゃんのことと梨園のことはやっぱり繋がっているのかな。だとしたら、思っている通り私たちが標的、というよりも和人を狙っている」

「そうだとすれば、二人には心当たりがあるのでござろう。梨園殿の参加していたプロジェクトには和人氏と似た境遇のものがいるデござるな」

「あぁ。『柵九郎』だ。どうだ、稔。お前はあいつを俺たちが尋問か何かをすべきだと思うか。もしくは無条件で殴りかかるか」

「二人には確信に近い予感がある。けれど、少なくとも梨園殿の件が理由はともかくとしても自殺であることは間違い無いのだし、桃枝殿の件は警察当局がまるで尻尾を掴めていない。昨日、小生が取調をキャンセルされた理由は知っているデござろう?」

「ニュースやネットの情報でな。どうやら同一犯の犯行だと断定している。だが俺たち以外で梨園の件と桃枝の件をつなぎ合わせて考えている人間がいるとは思えない」

「それに最も疑っているのは爆発する知性プロジェクトのことね。『大和』有数の学者たちが集まっている極秘裏のプロジェクトはわたしも聞いたことがあるわ」

「八神教授にそれとなく探りを入れてみたけれど、全貌自体は掴めていない。『柵九郎』がなんらかの形で関わっていることしか俺たちにもわかっていないんだ」

「だから彼を疑うことしか今のところは出来ないってわけね。学内の生徒に乖次がこうやって映像作品でアプローチをしようとしたのもそのため」

「そうなんだよ、本当にね。馬鹿馬鹿しくなるけれど、ぼくはあの放心状態の、もちろん今も安定しているとは言えないけれど、この状況で乖次の立案に乗るしか方法がなかったんだ。まるで梨園が予めこのことまで予期していたみたいにね」

「和人氏は土曜日の時点では中に犯人が残っていたと後で聞かされたでござるな。ポストの鍵で中に入れる選択を選んでいたらもしかしたら結果は変わっていたかもしれないでござる」

「うわ。稔がとうとう言っちゃった。けどさ、私だってそれを和人だけのせいにすることは出来ないよ。目の前で殺されていた、もしくは殺されてしまう危険性も存在してたってことだよね」

「量子的実在性。哲学的命題でも倫理的問題でもない。やはりあの瞬間はぼくの選択の問題でしかなかった、だからもはやぼくは絶望の中に落ちている一縷の希望だけを選択することしか出来ない。桃枝だけではなくぼく自身の反応すらも計算している、ぼくはあの部屋の異様な状況を見て一瞬で確信した」

「けっ。ようやくわかったか。和人。俺は機械生命だ。お前があのビデオを見た時から俺は確信していたぜ。必ず合理的決断に基づいた最大効力の選択を取るってさ」

「残虐であり狡猾、数奇ながらに異常、巧妙にして悪虐。悪意そのものを完全に理解している。きっとこの事件の犯人が『改造医療実験体非常用革命的人間兵器試験番号零肆玖番』なんだ。そうさ、ぼくはなんの変哲もない人間だから選ばれた。彼とは反対に沢山の力を後から与えられて」

──お前にはチルドレ☆ンさえ凌駕しつつある『古代種』たちの情念と情動と何人たりとも会得することが出来なかった古代の秘術の全てを授けるつもりだぞ、和人──

「まったく世話が焼けるのね!  データベースの管理は私がいなくちゃ何も出来ない! 『ドグラマグラ』の深淵に辿りつきなさい! 三つ指つかせたいなら魅力的なお話で私を納得させなさい!」

「けど、俺たちがお前の元に集ったのは偶然なんかじゃないんだぞ! お前が自らの力で選び取ったんだ! おい! 『ロキ』! 『トール』! 起きるんだ!」

「ふぁぁぁい。ねぇ、和人は本当に強いね。涙の意味を理解しているんだ。君は決して自分の為には涙を流さない」

「いぇぇぇい!俺様にはわかっているぜ! 最高の男は背中で語るんだ。何もかもハンマーだ! 目醒めは最高の気分だな!」

「君たちは本当に最高だね。けど、そうさ。だからってこの身体に流れる『phoenix』と右手に刻印された『アウラ』だけはぼくだけの力なんだ。このまま絶望の底で快楽だけを貪るナレハテになんてならないさ」

笑い声が部室に響く。

最初に沙耶が笑い、ルルが続いて、乖次が声をあげて、白河君が吹き出している。

強烈な緊迫感に自分を見失わないようにと、こっそりと小さな歪みを沙耶は差し込んで弛緩させる。

今はきっと熱病にほだされてしまい冷静さを失わないだけの理性が必要なんだろう。

「さて、相変わらずの和人の暴走を見せつけられたところで俺はやはり『八神桐』教授とコンタクトを取ろうと思う」

「『萠木蘭』教授も確か爆発する知性プロジェクトには参加していたはずでござるよな。確かタンパク質のアミノ基に関する研究の第一人者としてでござる。あのエロイ身体には見合わずかなり精微な論文を残していたはずでござるな」

「生命の最小素子をアミノ酸と仮定した場合、タンパク質の複合的産物である生物はアミノ基を超常性の象徴として結合された精密機械そのもの、っていう論旨のものだったかな。私もチラ見。けど、かなり難解なのも確か」

「神様! 私を助けてください! ってお祈りしても確かに何もしてくれないほどの小ささだ! わかるぜ、無機物の俺にもな! そいつは在るんだ!」

「それだけ理系畑の彼女がよりによって哲学科の八神教授とコンビを組んでる。私たちと同じようなことを考えているかと思えば、あだ名はボニー&クライド。本当に自分たちの欲求の為なら平気で人でも殺しそうな二人」

「そうさ、横尾先輩の論文とも繋がってくる。想念の泡が作り出す神話の世界だ。抽象的概念は連結して新しい価値を産み出していく。乖次、ぼくも同行するよ」

「ボニーはご機嫌ななめだぜ。お気に入りの硝子の容れ物が粉々に砕け散ったばかりだから「それでも構わないさ。相棒のエロ教授にもデートに誘われている。これ以上大切な問題を後回しにする訳にはいかないな」

「小生も見届ける権利があるでござる。親友二人が大人たちの野望に巻き込まれているのだとしたらただで済ます訳にはいかないでござるからな」

「相変わらず暑苦しい。じゃあ後は男どもに任せて私たちはカフェでお茶でもしてこよう。うっかりおかしな美容液でも渡されたら大切な青春の時間を奪われてしまう」

「あはは。言えてる。ではでは頑張ってね。むさ苦しい男子諸君。美女二人、いや三人の為にも必ず尻尾を掴んで来なさい。梨園はきっと私たちの進む先で待っていてくれているわ。それと明日の夜は空けておいて。とっておきのパーティがあるからさ。文化祭前に息を抜こう」

ぼくと白河君と乖次はルルと沙耶を置いて『現代視覚研究部』部室を出五号学舎にある『八神桐』哲学科主任教授の研究室へと出向く。

午後の二時を過ぎたこの時間であれば彼はパイプを加えて哲学的命題に基づいた深く重い思考の渦を探究していることだろうと乖次は言う。

トントン。

「入りたまえ」

ガチャリと研究室の扉を開けると、中には予想通り『萠木蘭』助教授が黒いデスクトップモニタと観葉植物の置かれた机の前に縦縞に紺色のストライプで相変わらず胸元を大胆に性的アプローチを忘れないルックスで立っていて、奥には『八神桐』教授がイギリス英国風の茶色いスーツを着てパイプを咥えている。

両側の壁にびっしりと隙間なく置かれた本棚に囲まれてお互いに何か真剣な話をしていたのか険しい表情でぼくら三人の方を振り向く。

「あら。早速私に甘えに来てくれたのかしら。心の拠り所を見つけようとするのは大切なことね。科学的に未解明な事態はまだ沢山存在しているわ」

「担当直入にいえば、ぼくたちは貴方たちが学外で参加している研究プロジェクトのお話を伺いに来ました」

『八神桐』教授がパイプを置き表情がより険しくなる。

『萠木蘭』助教授から普段見せている女性的柔和さが掻き消える。

乖次が切り込むような口調で二人に語りかける。

「貴方たちは梨園が何故自殺という選択肢を選んだのか知っているのではないですか」

乖次が質問をした瞬間にほんの少しだけ鬱陶しそうな表情をした萠木助教授をぼくは見逃さなかった。

というより、彼女はもしかしたらほんの少し罪悪感のようなものを抱いているのかもしれない。

「難しい質問だな。彼女が理想的調和状態を志していたのは事実だし、彼女の理論に多くの人が同調していた。けれど同時に急進的な連中と対立をしていたのも事実だ」

「その中に『柵九郎』がいたという訳ですね」

乖次が投げかけた直球を受け流すようにして『八神桐』教授は立ち上がりブラインドを右手の人差し指と中指で拡げて外の風景を覗きみる。

「彼のことは私から謝りたいわ。虐殺器官のことは知っているかしら。柵君を筆頭とした急進的な連中は田上さんの戦争装置という考えを否定する為に人が人である限り殺意や悪意のようなものからは逃れられないと定義した」

「だから流通や防疫によって社会を制御しようとした群体としての人類ではなく個体としての人間に対する思想を彼らは支持した訳だ。私自身も彼ら、特に条件付きで賛成している」

「法整備という枠組みを超えかねない価値基準に対する研究を私たちが続けていくべきかを急進派は科学者の知的好奇心の探究という観点から刺激してきたの」

社会と人という問題をどのように位置付けていくのがより効率的であるのだろうかということだろうか。

スタンドアローンコンプレックス。

人間は孤独というものを何処かで愛していながらも集団から切り離された状態で生きていくことは出来ない。自分自身と全く同じ姿を、アダムのコピーであるイブを求めながらも智慧の実を貪るのは自分だけでありたいという原罪から逃れることは出来ないのだと『柵九郎』を中心とした急進派達は問い続けたらしい。

「もちろんそのことが田上さんの自殺に繋がっている訳ではないと思うわ。けれど、彼女は急進派と保守的革新派の闘争の狭間でその先にある小さな歪みのようなものを発見してしまった」

「ぼくたちは彼女が目指したハーモニーを実現する為に『現代視覚研究部』で共同研究を続けてきたつもりです。彼女が恐らく一番最初にその歪みを見つけてしまうと何処かで気付いていながら」

ぼくが『現代視覚研究部』を作り、活動を続けてきた理由を簡単に述べると、『八神桐』教授が頷いて明確に話をする。

「√2と呼ぶべき空虚に田上君は囚われてしまった。恐らくその責任は私たち学者の方にあるだろう。だからこの場を借りて謝罪したい。特に、乖次君、君にはね」

「とにかく、例え事故や事件によって疑念が産まれたのだとしても、このまま私たちは屍者の帝国を目指し続けるでしょう。だから田上梨園さんの犠牲は私たちにとっても重く受け止めるべき問題なのよ。貴方たちと話せてよかったわ」

「一つだけ聞きたいでござる。『柵九郎』なる学生はエーテル持ちではないでござろうか」

『八神桐』教授と萠木助教授が顔を見合わせて驚いている。

「そんな話は聞いたことがないわね。カトリック系の教会の息子さんだからむしろそういった考えは異端だと思い否定しているのではないかしら。確かに君にとってはとても繊細な問題ね。白河君」

やはりというべきか、桃枝の殺害現場の呪術的光景には『魔術回路』を擬似的に生成しようとしていた横尾先輩にも通じる人間の能力の平等さに対するある種の不整合性に対する強烈な負の感情のようなものがぼくには感じられてしまった。

それはきっと『魔術回路』だけではなく、完全に近い梨園の思想やもしかしたら自分とは違う日常を送る人間に対する憎悪なのかもしれないと考える。

「だとすれば、やはり一連の事件を繋げているものはやはり一つしかないことになる。うまく引っかかってくれればいいのだけど」

うっかり独り言を漏らしたぼくに気に止める様子もなく、このことで何か不都合な問題が生じるのでなければ私たちは君を歓迎したい、いつでもぼくのゼミに来てくれと『八神桐』教授は乖次に告げている。

『萠木蘭』助教授はぼくのことを心配そうな目で見つめているけれど、さっきまでの真剣な純粋な学者として表情ではなくいつもの女性的な笑顔を浮かべて八神教授の机に腰掛けながらぼくらを見守っている。

「分かりました。梨園の件はぼくたちも受け止めていく問題です。何もかも見通していたような彼女のことをぼくたちは追いかけるばかりだった。新しい世界を見せてくれるかもしれないという期待が彼女に枷をつけていたのかもしれない」

ぼくが後悔している言葉を乖次はとても前向きで正確な言葉に変換して大人たちの意向を逆撫でしないように修正する。

「梨園が残したものは受け継いでいくつもりです。教授たちの考えも理解出来ました。プロジェクトの件は前向きに考えさせてください。とにかく今日のところはこれで。失礼しました」

ぼくと白河君と乖次はお辞儀をして『八神桐』教授の研究室を出て、行動の結果から生じるプログラムエラーを怖がる必要なんてないんだという確信をぼくたちは手中に修めることが出来そうだと理解する。

「これが澪先輩の作った『ポロ』なんだ。『アウシュビッツ』なんて名前をこの研究室につけた理由がなんとなく分かったよ」

耳までかかるショートカットに胸元にアルファベットが書かれた紺色のパーカーにデニムジーンズという服装のとてもボーイッシュな女性が三角フラスコの中で心臓、脳髄、臓器、皮膚、眼球などの生命に必要な内容物が渾然一体となった不可思議な物体を指差して無邪気に笑っている。横尾深愛が研究室に戻ってきてすぐに彼女の姿を発見する。

「乃亜か。君は確か『インディペンデンス』に渡り、ダビデ像が持つ完全個体の限界なんていう無茶な研究をしていたんじゃなかったか。わざわざ私のような差別主義者の元を尋ねるなんて、さてはシオリたんの差し金かな」

「彼女が中沢乃亜ね。女性でありながら運動性能効率においてほぼ完璧な肉体を持つパーフェクトヴァルキリー」

横尾深愛が研究で三日三晩寝ていないということがよくわかる疲れ切った表情で応対し、潮凪雫が傍により中沢乃亜の上腕をパーカー越しに触る。

「あはは。だけど、筋肉の組成に於いて女性が男性を上回ることはない。だから『夢見る機械人形』。そうして諦めを希望に変えたくて私は素体である人間を最大限に活かす研究をしてる。負けっぱなしは悔しいからね」

フラスコの中から奇妙な鳴き声が聞こえてくる。眼球とおぼしき部位から涙を流してゆっくりと瞳を閉じていく。

「今日がちょうど二週間。どんなに研究を重ねてもこれ以上私が完全なゼロから作り出した『ポロ』という新種は生命活動が持続出来ない。私はこうやって罪を重ね続けている」

横尾深愛は項垂れながらがくりと腰を落として丸椅子の上に座り込む。

疲れ切った顔で涙を流して磨耗した心を慰めようとする。

『潮凪雫』は頭を掻き毟りごっそりと掌に抜けた毛を見て、水三十五リットル、炭素二十キログラム、アンモニア四リットル、石灰一・五キログラム、リン八百グラム、塩分二百五十グラム、硝石百グラム、硫黄八十グラム、フッ素七・五グラム、鉄五グラム、ケイ素三グラム及びその他少量の元素がかき混ぜられた青色のドラム缶を素手で殴り右手の拳から血を流す。

「本当に発狂寸前ってところかな。澪先輩はこの生命に自分の思念をコピーしているんだね。二週間に一度死んでしまう自分を見ている。鏡の国から抜け出さないままあなたは大人であり続けている」

「光なんて見えない。パパはこの研究をバビロンの塔の頂上でミカエルにキスをする行為だと言った」

「私たちは間違ってるんだよ! そんなことはもう分かってる。でもどうして古代に存在していた超文明に高次元からエネルギーを取り出す技術が存在していたのかを突き止める為にはこの研究は必要なんだ。博士だって分かってくれる筈なのに」

「私は脚が長いから階段を二段飛ばしであがれちゃうんだ。とても便利だけど気付いたら踊り場で後ろを振り返っていつも一段ずつあがってくる人を見つめてる」

横尾深愛は何かに気付いたように立ち上がり実験の観測データをキーボードに数値を入力してアプリケーションを立ち上がらせ詳細な記録をまるで機械のように目で追って間違ったデータと記録がどこにあるのかを見つけ出そうとする。

「思ったより早くカメラが帰ってきてくれた。やっぱり私はこのカメラじゃないと駄目なんだ。自分で選んで手にしたもの。少しだけロマンチックに酔いしれたいのかな」

芹沢美沙は明治通り沿いの中古カメラショップで受け取った一眼レフカメラを手にして池袋方面に歩いている。

首元に蜂の刺青の入った女性が隣に並んで芹沢美沙と手を繋ごうと右手で左手に触れる。

「君にしては少し珍しい。何もかも自分に必要なものだけを選んで進める人。誰もが羨ましく思うはずだよ、君の強さは」

「私の左眼に住んでいるのは守護天使で私に服従する最強の戦士。なんだかそういうつまらないことを思い出しちゃった」

傷痕が消えない気がして黒い眼帯の奥の左眼のことばかり気にしてしまう。

そんな仕草を茶化すように蜂の刺青の入った女性はほんの少しだけ笑いを浮かべる。

靖国通りを渡って明治通り沿いを真っ直ぐ進むと灰色の鳥居が見えてくる。

「先生は昨日私が封じ込めた断層をどう思いましたか。なんだか丁寧に封じたつもりなのにすぐバラけてしまいそうです。そもそもなぜあんなところに次元断層があったのでしょう」

サメ型のリュックを背負った女が星屑柄のもんぺを履いてまるで空襲にでも備えるようないでたちで正座をしながら質問をしている。

ふぁぁと花園神社の境内でまだ陽が落ちないうちから黒猫が欠伸をしている。

「あれは回路を持たない人間がノルム体へ強引に侵入した時に生じる風欠さ。過負荷を掛けられた思念が正常な状態へ戻ろうと感じた時に位置エネルギーがデストルドー反応に収束するようにしてマイナス反転する。そいつを利用してテレポーテーションする技術を得意とした村落民がいたはずだ。名を確か」

古い古文書を黒猫は右手からするりと出してガシッと石畳の上に押さえつける。襟に大きな飾りのついた南蛮服に身を包む鼻立ちのしっかりした青年の絵が書かれている。

「天草と書かれていますね。彼の名は私の宇宙では大罪人として磔の刑にされています」

「ここでも似たようなものさ。だが彼は件の技術を利用して難を逃れている。ぼくと同じで暗い場所を好む者。あまり褒められた人間ではないね」

「先生は悪なのですね。見た目によらずとても悪い波動を感じます」

黒猫は思い切り手足を伸ばして毛を逆立てると鳥居のほうから歩いてきた黒い眼帯をつけた芹沢美沙にすり寄る。

サメ型のリュックの女は身を隠すようにして楠の木の影に隠れて芹沢美沙と蜂の刺青の入った女性に背中をさすられている黒猫のことを覗いている。

黒猫はカプリと芹沢美沙の右手の人差し指に噛み付いて小さな歯形をつける。

すっとすぐに手を引いた芹沢美沙の指先にほんの少しだけ血が流れる。蜂は芹沢美沙の右手を取って人差し指を口元に運んで舌先で丁寧に血を吸って唾液と一緒に吐き出す。

「これがルル殿の言っていたパーティでござろうか。フライヤーだけ置いて彼女たちは先に帰ってしまったでござるな」

ぼくらが『現代視覚研究部』の部室に戻ると、会議用テーブルの上にはA5サイズのペラペラの紙にフライヤーが置かれている。


Apocalptic Sound vol.4

"Apocalyptic Sound vol.4

@ 20000V

2013/10/31(sat)

Adv ¥2000 Door ¥2500

Open18:00 Start 19:00

ACT:

Dub Detox

Oneside Suprised

BycleDays


ぼくはフライヤーを手に取って裏面を確認する。

──パーティへようこそ。ゲストは三人分取っておいたからぜひ肩の力を抜いて楽しみに来てね。『ミルキー』も君たちが来るのを待っているよ! ──

ルルの文字で書かれた招待状にルルと沙耶の似顔絵が投げキッスをしていて英字──See You Tomorrow──と添えられている。

ぼくはポケットにフライヤーを折り畳んでいれて乖次と白河君に明日の予定を確認して部室を出る。

まだ塞がれないままの床下の骸骨が寂しそうに天井を見つめていて、ぼくはそろそろ彼を床下から引き摺り出して穴を塞がなくてはいけないなと考える。

横尾先輩の論文に書かれていた酷く難解な量子テレポートに関する記述を思い出してトントンと肩を叩いて明日のパーティのことを考えて笑顔になる。

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