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06. Phantasmagoria Moth GateFrom world`s end girlfriend『 The Lie Lay Land』

「ダメじゃないか。歯車が狂わされているということを君はよくわかっていたはずなのに。先生から君の削除を頼まれた理由はもう理解しているよね?」

サメ型のリュックを背負った少女は冷たい憤りを浮かべて白と黒のストライプのネクタイと紺色のスーツを着た男にそう忠告をする。

サメ型のリュックの目がギロリと動きあたりの空気を少しだけ濁らせる。

「そうですね。私たちは確かに今まで歯車について誤解をし続けてきたのかもしれません。噛み合わせの悪いものをお互いに干渉させ合うことで辻褄を合わせ、そうしてその嘘をまた塗りつぶす為に古い歯車と新しい歯車の可能性を否定し続けてきた、だからこそ彼女があの場に呼ばれ彼は未来から来たという事実をあのような形で彼女に伝えたのではないでしょうか。未来から来たという言い方は少しだけ語弊があるかもしれませんが」

ガチガチと噛み合わせを確かめるようにして、サメの頭部が動き出し、まるで獲物を待ち構えているかのように、鋭い金属音をあたりに響かせてスーツの男の警戒心を煽っている。

「まあ、ぼくには詳しいことはよくわからないよ。けれど、先生が言うには君の予定外の行動ですら、あの子が見てきた世界の中に含まれていたんだろうってことみたい。とにかく、面倒くさいし、このまま新しいパンをあのキチガイ野郎に届けてあげたいから、そろそろハリソンの出番ってことでいいかな」

後ろに背負っていたサメ型のリュックを抱き抱えるようにして、過剰に獲物を食いかかろうとする海の王者を宥め始める。



「いずれ、あの黒猫ですら把握出来ない事態が迫っている。きっとそういうことでしょうね」

スーツの男は最後の言葉になることをあらかじめわかっていたように用意された脚本どおりのセリフをサメ型のリュックを胸に抱えた女の子に伝える。

「おしゃべりはもう終わりかい。それなら、もう始めてしまおうよ。君には一足先にステージを退場してこのカーニバルの一部始終を見ていてほしい。ハリソン、久しぶりのニンゲンだよ、よく味わってあの小憎たらしい白いドレスのキチガイ野郎に新しいパンを届けてあげよう」

サメ型のリュックは、ホオジロザメへと姿を変えてそのままスーツの男の上半身を一口で食べてしまう。

本当に一瞬で腰から上を抉り取られたスーツの男の下半身から酷い悪臭とあたり一面を覆い尽くすようにして血液が噴水のように撒き散らされる。

ホオジロザメはまるでその血の海を泳ぐようにしてスーツの男の上半身を体内に残さず呑み込んでしまいながら再びリュックの姿に戻り、女の子の胸の中に飛び込んで、そうして、女の子はとても大切そうにホオジロザメだったリュックを抱きしめる。

スーツの男の悪臭はホオジロザメの胃袋の中で彼の脳味噌や頭蓋骨や膵臓や心臓や二つの肺やたくさんの血液や神経線維と一緒くたに混ぜ合わせられて、リュックの中で気色の悪い音を立てながら消化され、そうして、また新しい世界の入り口を作るためにリュックの中にとても大切そうにしまい込まれる。

しばらくその気色の悪い消化音が続いた後に、サメ型のリュックは大きく口を開け少しだけ大袈裟なゲップをして、その音と一緒によく焼けたパンの匂いがサメ型のリュックの口部から漂い出して女の子の鼻を刺激する。女の子は涎を垂らしながら、リュックの中を漁り中から真っ白で柔らかそうなパンを取り出して一口だけ味見をする。

「うーん。味はイマイチだけど、パンが大好きで大好きでしょうがないあの貧乳のクソビッチにはぴったりの新しいパンだ。これなら本当に今度こそあのキチガイ野郎をあそこから引き摺りおろせるんじゃないかな。そうしたら、きっとあの忌々しい歌をぼくたちの世界から完全に消滅させてやることが出来る。先生だってきっとそう望んでるに違いないんだ」

すっかりと体内に残された血液を吐き出しきると、あたり一面を血の海に変えてしまったスーツの男の下半身はその役目を終えるようにして地面にバタンと倒れこむ。

悪魔に取り憑かれたという事実は彼の上半身にとってきっとSF小説の中に存在している昆虫人間の吐き出す息のように最後の瞬間まで彼を追い詰めていたのかもしれないと赤い池の中に倒れ込んだ下半身がそう告げているようだった。

サメ型のリュックの女は見下すような目線を下半身に投げかけてその場を静かに立ち去る。抱きかかえたサメ型のリュックは彼女から離れる理由がまるでなさそうな素振りでじっとしたまま、そうしてまた背中に背負われて一息も乱さずに小さな裏路地から姿を消してしまう。

その場所にはもう血の色でびしょびしょに染まった紺色のスーツを着た下半身しか残されていなかった。

サメ型のリュックを背負った女の子は新しい白いパンをもう一口だけ食べて、そのふわふわとした柔らかい味の確認をしてこれから始まるゲームの主役たちの為に大切な希望を届ける仕事を速やかに実行し始めた。

相変わらず街には忌々しい歌や綺麗ごとを並べる戯言や救いの手を懇願するお題目で溢れかえっていたけれど女の子はサメ型のリュックと一緒に新しい世界の扉を探せという先生の言いつけを律儀に守っている。

おそらくさっきすれ違った男の子とはまた会えるような気がしていて、ニンゲンを食べた後だというのに、ちょっとだけ楽しい気持ちを背負いながらこんなことはもしかしたら初めてのことかもしれないね、と独り言なのかそれともさっきのホオジロザメに伝えているのかわからないセリフを呟いてみた。

ゆっくりと扉が開く音がして、あたりの『アセチルコリン濃度』が少しだけ下がり、血の海を見て欲情しているはしたない気持ちを戒める事が出来ているけれど、逆さまになっている時計の針を見つめていると、ぼくにはぼくの、わたしにはわたしの仕事があるんだと白く濁った夜の空気と一緒に血の海とサメ型のリュックと新しいパンを届けるためにテレビ局へ向かう。

まだあのキチガイ野郎は寂しそうに蹲って誰かの帰りを待っているんだろうか。

今日収穫したこの白くて柔らかい新しいパンを届けてあの嫌味ったらしい笑顔が綻ぶ瞬間を見にいくのは私にとって何よりの楽しみなんだ。

テレビ局へ行くのは本当に久しぶりだけれど、白いドレスは未だにシミひとつ汚れひとつないままなのだろうか。

少しだけ駆け足になり、勢いよく電車に飛び乗り二番線のドアが閉まるぎりぎりのタイミングをまるで見計らったように真っ白な人たちで溢れかえった電車の中に紛れ込む。

あれれ、テレビ局へはこちらの電車で良かったのでしたっけとありったけの笑顔でとなりのお婆さんに話しかけると、ええ、そうよ、あなたの行きたいテレビ局はこの電車で間違いないわと丁寧な優しい声で教えてくれる。

「けれどね、各駅停車なので、あまり急いではいけないわ。一駅一駅ドアが開くたびにどんな人たちが降りて、どんな人たちが乗ってくるのかきちんと確かめることにしなさい。そうすれば、今度こそ間違いなくあなたはテレビ局へ行くことが出来るはずよ」

白髪で猫背の矍鑠としたお婆さんは次の東中野駅で笑顔とともに会釈をして茶色い杖をつきながら降りてしまった。

きっとお婆さんにも思い出のたくさん詰まったパン屋さんがあってお婆さんはそこに行きたかったのかもしれないと女の子はそんなことを考えながら電車に揺られる。

大久保駅では若い男の子が一人だけ降りて反対の言葉を使う人たちが何人か乗り込んできた。反対の言葉を使う人たちはとても強そうでなんだかとても悲しい気持ちになり、そういえばあの時置き忘れられていた黒い自転車はどうなったのだろうと苛立ちを隠せなくなってきてとても恥ずかしい気持ちで電車の中で縮こまりながら、わたしが行きたいテレビ局のある新宿駅でドアが閉まりそうになるところを慌ててまた飛び降りる。

あたりを見回してみても、今度は彼の姿はなくて誰かとすれ違ったりはしないのかもしれない、けれど、ぼくは強く生きなければいけない。

先生の言っていた通りこのパンはきっと何かの希望を植え付ける役割を担っているよ。

そう、女の子はまた独り言を呟いた。

あのね、テレビ局はね、この新しいパンみたいにね、白くて柔らかい方がぼくは好みなんだ。

今日もニンゲンを食べてぼくはとても疲れているんだ。

だからハンモックに揺られるみたいにね、うとうとと眠たい気持ちをいつものあの子守唄みたいに慰めてほしいなって、ぼくはそう思うんだ。

そんなことを女の子はホオジロザメだったリュックとおしゃべりしながら歩き始める。

笑い声やすまし聲やニヤニヤしちゃう悪巧みを彼と話していると、テレビ局が言っていたあなたのことは全部許してあげられます。

だから何も気にしないであなたらしくいることを忘れないでくださいねって言葉が反響して、ビルの隙間から聴こえてくるとても悪い人たちの優しい喘ぎ声と混じり合ってしまうから、テレビアンテナが共鳴させている特殊な周波数にチャンネルを合わせてみたくなっちゃうよねって、とても可愛らしく笑いながら女の子はようやくやってきたテレビ局の麓で一息ついて大きくて威厳のある二股の建物をついつい見上げてみる。

彼らはもうそろそろここまでやってくるだろう。

ぼくは先についてパーティの準備をする必要がある。

さて、四十五階まで一気にエレベーターに乗ってこの新しいパンをあのキチガイ野郎に届けに行こう。

あいつはもう白いドレスを着て、南展望室で、『形而上に存在している記号と配列のパラドックスに関する簡単なラブソング』の準備をしていることだろう。あいつには沢山の借りがあるのだと高速で駆け上がっていくエレベーターでホオジロザメと一緒にガラスの向こうの世界を見送りながら、ドキドキした気持ちが抑えられなくて、けれど、このことであなたのことが許せるようになるわけではないよ。

怒っているわけでも哀しいわけでもないけれど、とにかくわたしはあなたの言っていることを正当に評価するための簡単な儀式が必要になるはずだと信じているんだよ。

だからわたしはここまで先生の言いつけを守って歩いてきたんだ。

そうやってホオジロザメに伝えたかった言葉を呑み込むと四十五階に着いたという合図でエレベーターの扉が開く。

「ねえ、わたしにはさ、やっぱりその白くて柔らかい新しいパンが必要なんだってやっとわかってきたみたい。エレベーターの中でお話していたことは全て本当のことで、だからこそホオジロザメと一緒に来てくれたんでしょう? わたしの方はもう準備は出来ているわ。さあ、こっちへきてその新しいパンをわたしにわたしてちょうだいな」

白いドレスのキチガイ野郎はとうとう本音を吐いてみんなに植え付けるはずの希望について、女の子に二、三の簡単な質問する。

いつもどおり、おなじ場所で、時間どおりに、手筈は進めているのよね?

「あはは、そんなことはもう問題じゃない。『TV=SF』の連中が既に暴走してしまったことはおまえだってしっているのだろう? 脚本家は速やかに削除するように先生たちがもう決めてしまった、そら、新しいパンだ、今度の日曜日もそれが必要なのだろう? お前にとっては取るに足らない出来事だろうけれど、ぼくにとってそのパンは命を削って作り上げたパンなんだ。ちゃんと味わって食べて欲しい。それがお前のあの忌々しい歌には必要なのだろうしさ」

とても美しい清らかな佇まいで新しいパンをサメ型のリュックを背負った女の子から受け取り、白いドレスのキチガイ野郎は小さくて可愛らしい口で一口パンを食べ、よく噛んで咀嚼すると、あっという間にそのパンを食べ終わってしまった。

そこにはきっと叶えられなかった夢や縋り付いても結局引き剥がされてしまった希望や残酷だけれどありつくことの出来なかった未来などがたっぷりと詰まっていてその触媒を通して歌を歌うことになんの恥じらいすら持っていないかのようにゆっくりと満月がささやかに照らす光にチューニングを合わせて、白いドレスは『形而上に存在している記号と配列のパラドックスに関する簡単なラブソング』を歌いだす。

規則的なリズムに呼応して明滅する彼女の歌声が停戦を促すようにして、南展望室から見下ろす東京の街並みを凍りつかせるような空気であたり一面に浸透させていく。

夜遅くのビルの灯りにはすっかり蝶々の華やかなイメージが霞んでしまいそうで、例えば今この瞬間にこの白いドレスが南展望室の窓ガラスから飛び降りてしまったとしても、その歌声は固定された周波数の中で永遠に生きることを選ぶだろう。

女の子はそのことに悲しむのをもうやめて出来たら、この瞬間にぼくの元を訪れて病んでしまった恋の欠片が縫いこまれていく姿に目を閉じてしまいながら聴きいってみることにした。

なんだか暖かい気持ちでいっぱいになってお腹が空いたけれど、そういえばもうパンは食べてしまった。

あとは出来たらあの忌々しい歌を希望と呼んでいるすっかり盲目になってしまった人たちへの感謝の気持ちを届けにいく必要があるんだ。

ありがとうなんて照れ臭いけど、いまはその言葉を素直に届けてあげたいってそう思っているよ。

ホオジロザメはギロリと女の子を覗き、そうして何も言わずに目を閉じる。

「これで、このチャンネルはあなたたちのことをもう死んでしまったと思っている人たちが自由に使えるようになるはずよ。私は次のステージまで少しの間身体を休めておくことにします。あなたはあなたの仕事を続けてくださいね」

テレビ局の真下では、こっそり覗きに来た連中のカーニバルが既に始まっていて、汽笛隊や太鼓の音や割れたシンバルの音がひどく喧しく鳴り響いていて、真っ暗な葬儀服に身を包んだ人々が、白いドレスとホオジロザメの邂逅をまるでかき消すようにして、道路の真ん中を占拠しながら、彼らの主張通りに誰もいなくなってしまった夜の一部を渡り歩いている。

先頭で先生たちの誰かの遺影を抱えて歩いているのは三口兎で、赤い眼で何が正しいことなのかを真剣な眼差しで真っ直ぐ前を見つめながら歌いながら歩いている。

そこにはなんの迷いもなくて、お布施や世迷言の類で手に入れられるものは何もないんだってこれは狐と狸が皮を剥がされて騒ぎまわっている連中への天罰なんだって人間性を失ったばかりの三口兎は思い知りながら、遺影を抱き抱えてカーニバルの先頭を歩き続けている。

誰も逆さまのまま生きることは出来ないし、ひっくり返ったばかりの夜が管理している抉り取られた周波数の過失について、ただ誰もいないはずの街に向かって突き刺すだけの鼓笛隊の演奏はテレビ局に対して訴え続けていて、サメ型のリュックを背負った女の子はその様子を眺めながら、自分の居場所を探し回って歩く連中をいつかホオジロザメの餌にして、新しくも古くもないパンで世界中をぼくたちが作った嘘みたいな希望でいっぱいにしてやるんだって目をキラキラさせて決意を固めている。

ぼくたちの先生はきっと、今頃、真心と、一緒に楽しくお酒を飲んでいるのかもしれないなって思うと少しだけ悔しかったけれど。

白いドレスは、『形而上に存在する記号と配列のパラドックスに関する簡単なラブソング』を歌い終えるとにっこりと微笑んで南展望室のはしっこにある喫煙室まで歩いていき、小さな銀色のハンドバッグから細長いタバコを取り出して火を点ける。

サメ型のリュックを背負った女の子には、まだ煙草の煙が嫌いでゴホゴホと咳をして煙たい顔をして、夢を見ているなら醒める時間だよとホオジロザメに話しかけるけれど、彼のギロリとした眼はそのまま眠りこけているのか眼を開けようとしない。

そろそろ帰らなければ、先生たちが次の仕事を他の誰かに頼んでしまうかもしれない。

白いドレスの寂しそうな顔を尻目に同情心はほどほどにしなければいけないよと自分に言い聞かせて空から近い南展望室のエレベーターに乗り込んで地上へと帰る。

ガラスの向こうのすっかりカーニバルの人々がいなくなってしまった夜空を眺めていると、ホオジロザメがゆっくりと小さなゲップをして、また新しいパンを作ってくれた。

彼女は腹拵えにそのパンを一口で食べてしまい、苺ジャムの入っている小さなパンに恋い焦がれていると、またいけない癖がでていますよってホオジロザメに注意された気がして気恥ずかしそうに笑顔を溢してみようとする。

そうこうしているうちに、エレベーターは地上に着き急いで外に出るといつのまにかカーニバルはいなくなっていて、後ろのテレビ局は営業時間の終了した東京都庁に変わっていた。

入り口には黒くて大きな犬がいつのまにか座り込んでいて、主人なんていつまで経ってもきそうにないのに、大人しくその場で何かを牽制するようにまっすぐと女の子の方を睨んでいて、だから、もう振り返るのは辞めて、前を見て進んでみようとする。

都庁前の通りにはこんな時間ではとても人が少ないようなので、女の子とホオジロザメにとってはとても都合がよいので、真っ暗で静かな夜の帳の中をいろいろなビルを眺めながらたくさんホオジロザメとおしゃべりをしてゆっくりと先生の暮らしている夜に夢が開く神社へと帰ることにした。

卵型のビルの威圧的な態度なんて知らないふりをして通り過ぎて、西口ガード下のトンネルに入るとホームレスが三人ほど寝転んでいて、ホオジロザメが目を醒ましたようだから、黒い大きな犬に言われた通り呑気に路上で気儘な路上生活を楽しんでいるホームレス三人の上半身をホオジロザメに喰らい尽くしてもらうと、あたり一面はまた血の海になってはしたない気持ちでいっぱいになってしまった。

どうやら、この季節にこんなところで眠り込むのはまだまだ危険がいっぱいでこんな救いようのない目にもあってしまうんだなと思うと女の子は涙が止まらなくなってしまい、その場で立ち尽くしながら、わんわんと大声を出しながら泣いてしまった。

その間もサメ型のリュックは気色の悪い消化音を立てながらホームレス三人分の垢で汚れた皮膚や何日も洗っていない髪の毛や栄養価の低い食事ですっかり腐蝕してしまった内臓や長い路上生活でぼろぼろになってしまった脛骨や脊髄や脳髄と一緒に混ぜ合わせて、新しくも古くもないパンを作ってくれた。

女の子はたくさん涙を流してしてしょんぼり項垂れていると、カメラのシャッター音が聴こえて、涙を出し尽くしてすっきりと憑き物の獲れた女の子の顔を照らしだした。

そんなことは初めてなので、照れ臭く笑っていると、カメラを抱えた左眼に眼帯をしている女の人が近付いてきて、優しく対応するべきかそれとも毅然とした態度で敬いながら殺害の機会を伺うべきか考えながら、あれ、もしかすると、血の海でぴちゃぴちゃとはしゃぎ回っていることを叱られるのかなと思い直して、どうやら彼女は先生の知り合いの匂いがするので、思い切り笑ってさっきの新しくも古くもないパンを一つ差し上げることにして、サメ型のリュックからパンを取り出して彼女に手渡そうとする。

「そのパンを頂くことはわたしには出来そうにありません。それよりも早くしないと黒い犬に捕まってしまいますよ、彼らはとても狡猾ですから」

眼帯の女の人は毅然とした態度でぼくを突っぱねようとするので、女の子ははっと息を呑んでそこから急いで立ち去ろうと決める。

「君はぼくと同じで此処にいてはいけない人だ。それなのに。どうしてぼくよりずっと辛そうな顔をしているのかな。本当に急いでパーティーの準備をしなければならない」

「そうですね。とはいえ、一刻を争うというほどではないと思います、彼らの死体を一つ一つ確認してからでもまだ間に合う程度の些細な忠告として受け取って下さい。あ、それと、黒猫なら、今頃神社の裏側で仲間たちと宴の準備をしていると、このルリイロスカシクロバの標本を頂いた男性から聞いています」

女の子はとてもびっくりして頷きながら、

「へー。やっぱり先生たちの知り合いなんだね。こんな時間にこんな場所を歩いている人なんて滅多にいないからとても不思議だったけれど、先生は酔っ払ってしまうとぼくの顔も忘れてしまうことがあるから早くいってあげなくちゃ」

トンネルですれ違った女の人は、もしかしたら世界の平和を守るヒーローかもしれないし、誰かが仕組んだ絡繰の中で踠き続ける大罪人かもしれないし、やがて訪れる歯車の乱れる原因かもしれない。

とても綺麗な人だったから思わず友達になろうとする卑しい気持ちを見透かそうとするホオジロザメに歯を食いしばって抗議の印を一生懸命示してみた。

ひょっとしたら、ぼくはちょっとだけ強くなり、ちょっとだけ大人になり、そうして、ちょっとだけ寂しさを覚えたのかもしれない。

先生の教えを律儀に守り続けてきただけじゃなく、きっと自分勝手な大人の仲間入りを果たしてしまったんだろうとすっかり子供心に戻ってニンゲンを食べ過ぎてしまった自分のことを褒めてあげたくなったけれど、とにかく早く先生たちの宴に合流して今日あったことをお話にいこうと思うんだ。

下らない話でみんなで大笑いしたり難しいお話をする人たちを貶したり太陽を盗んで世界を混乱させる話をした後に先生の有難いお話を聞いてすごいねぇってうなづいたりしたいなってそんなどうでもいいお話をして、最後は神社の冷たくなった石畳みで寝転がりながら夜空でも見上げたい気分なんだ。

ねえ、ちゃんと聞いてる?

歌舞伎町の入り口では太鼓を叩いたり笛を吹いたり歌を歌いながら今日あったことを報告し合っていて、もしかしたら既に通り過ぎた過去の中で出会った人が混じっていたような気がするけれど、あまり気を取られていけない気がするので、仕方なくちらちらと横目でみながら、とにかくネオンの中に早く溶け込んであいつらに捕まらないようにしなければいけない。

だからいつものようにマクドナルド脇の道から忍び込んでしまえば、黒人たちが勝手に結界を発動させてぼくの姿を元に戻してくれるだろう。

とにかくあまり目立ち過ぎてはいけない。

確かにぴかぴかすることは良いことだけれども、光の中ではぼくの姿も私の姿も曖昧で扉がどこにあるのかも分からなくなってしまう。

だから早くネオンの中に溶け込んでサメ型のリュックと一緒に先生たちのところに急いで戻ろう。

だって、もう黒人たちが仕事を始めているようだし一息ついて出来るだけ普通の子のふりをして紛れ込もう。

いつのまに、気の抜けた炭酸水みたいな顔をしている連中を刈り取ろうとするくわえ煙草のお兄さんや次のお客さんを待ち構えて潔く蝶々になろうとしている女の人の間を駆け抜けて、相変わらず誰の目にも止まらないことにとくにびっくりするわけでもなくもちろん悲しくなるわけでもなく、ただ単純にこっそりとネオンになるふりをして歌舞伎町の中を相変わらず呆けた顔で歩き回るのはとても楽しい気持ちになってしまうよね。

だからさ、あのね、今も隣にいるのが君ならよかったのにね、ってホオジロザメにこっそり話しかける。

そうすると、三角の公園の神社から狐の顔が覗き込んでいたような気がしてお久しぶりってついつい言いたくなってしまうよ。

ぼくはね、いつもどおり透明でやっぱり誰も気付かれることはないけれど、そんなに悪い気持ちにはならないし、このまま地下組織まで遊びに行って、細かくきざまれた悪い気持ちを取り除く任務を引き受けようという考えすら頭の中を横切ってしまうけれど、そんなことはお構いなしに、ゴールデン街の入り口で、罪深い外の人の共鳴音にちょっとだけ笑顔を漏らしてしまう、そんな普通の女の子なんだよ。

少しだけ寄り道をしたい気持ちとみんなの顔を覗いて歩きたい気持ちで、一番街を首を左右に振りながら歩いていると、とらのあなにはプロレスラーが群がっていて明日の試合の結果を教え合っていて、無性にところかまわず喧嘩を売りたくなったけれど、たくさん怒られたら困るから目を瞑ってそれでも人にはぶつからないことを確認にして、なんとか駐車場脇を通り過ぎて、ゴールデン街を抜け出してみる。

神社の下の交番のおまわりさんは非番のようで、きっとどこかで油でも売りながらいけない薬のことを噂しているんだろうな、いつまで経ってもこの街のおまわりさんは悪い奴らと区別がつかなくなってしまって困ってしまうなぁ。

なんてことを考えていたら、ひどく透きとおった声で鳴く先生のお孫さんが待ち構えていて、境内へとあがる階段の前でぼくに話し掛けてきた。

「こんばんは。今日はお月様が綺麗だからみなさんもすっかりお酒に呑まれている頃合いでしょう」

お孫さんの吐く息と石段が触れる音はいつみても柔らかく気持ちの良い音がして、いっそのこと食べてしまいたい気持ちになる。

ひゅうひゅうと歩くその後ろをついて石段を登っていき、夜が開く神社の後ろ姿ばかり眺めていても仕様がないので、境内を奥に進んでいくと、相変わらず真っ黒な毛並みが綺麗な先生がこちらを振り返り、ぼくのことをじっと見つめている。

「おかえり、ぼくの大切な娘よ。今晩の夕食はたぶんぼくらにとってあのお月様には到底届くことはないだろう。けれど、白いドレスもカーニバルも君とホオジロザメには叶いっこない。今日は何もかも忘れて酒を飲み交そう。もう既に君の収穫してきたパンを楽しみにしている連中も集まってきているよ」

神社の目の前の石畳みには、姿の見えない異形のものや声を出すことの出来ない静かなものや息を忘れた冷たい生き物などが集まっていて二酸化炭素と酸素の中に混じっている先生のお孫さんは『アセチルコリン濃度』をあげないように慎重に今晩の宴が始まる合図を女の子のほうに送る。

だから、サメ型のリュックを背負った女の子はリュックを石畳みの上に降ろし、先生の用意してくれたお酒に口をつける。

そうして、今日はゆっくり休んで明日また新しいパンを食べに行くことにしようと考えていると、いつのまにか声にならない静かなものたちの怒りも過ぎ去っていて、世界からあぶれてしまったものどもがはしゃぎ回り夢が開く神社の境内を真っ黒な夜が覆い尽くしていた。

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