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「あぁ。はい。大丈夫です。なんだかお酒を飲みすぎてしまったのかもしれなくて」
 青醒めた表情の奏水を木山が心配して背中をさすり介抱しようとしている。波玲が「イマコイ」のメンバーに別れを告げて立ち去って駅の方に消えていく。奏水は彼に何かを伝えたかったけれど、うまく言葉に出来ないもどかしさと吐き気と胸焼けで息が詰まるようで苦しいけれど、奏水には原因がどうしても分からなかった。横川のじゃれあいには付き合う気にもなれなくて彼が心配を装って話し掛けてくることがもう受け入れることが出来ずに無視をした。鵜飼と鷺沼は奏水に反応すらされない横川と揶揄う鎹と一緒に何かよく分からない話で楽しそうに盛り上がっている。木山だけが奏水の傍から離れずにとても心配そうに話し掛けてくれる。
「無理はしなくていいから。鷺沼さんたちに付き合って呑み過ぎちゃったんでしょ。まだ奏水ちゃんは大学生だしね。あーいうおじさんたちと一緒にお酒呑むのは大変だよね。大丈夫、私が楽になるまでついててあげるからさ」
「ありがとうっす。けど、そこまでじゃないです。なんかすごく身体が冷えちゃって。お酒のせいなのかな。変な気分だけど、ちょっとしたら落ち着くと思います」
「うん。ならよかった。なんかさ、みんないい人たちだけど、こうやってお酒呑んだりすると、やっぱり気を使うよね。疲れちゃうなぁって時は私もある。あ、お水飲む? ちょっとそこの自販で買ってくるよ」
 木山が奏水から離れて自動販売機までミネラルウォーターを買いに行く。鵜飼と鷺沼と横川と鎹が話していることが妙に勘に触る。こんなことは初めてで出来たらその場に倒れ込み眠りたいと思ってしまうぐらい気分が悪かった。立っていられない。今すぐに耳を引きちぎり、くだらない話をする連中を罵ってやりたかった。怒りがこみ上げてきてどうにもならない。爆発しそうで自分自身のことを抑え切れる自信がなかった。屈辱的な気分を味わっているけれど、それが誰のせいなのかも分からなかった。波玲がパーカーを被って街に消えていく姿を思い出すと少しだけ楽になった。奏水はもしかしたら波玲のことが好きなのかもしれないと気付いてしまう瞬間に木山が彼女の口元にミネラルウォーターを差し出してきた。
「少し呑んだ方がいい。木山、奏水のこと送ってやれよ。俺たちはもう一件行こうと思ってるけど、それどころじゃないよな。奏水、きつかったら自分で言わなきゃダメだぞ。まあ、俺も昔はな──」
「鷺沼さん、了解。私は明日早番なんで大丈夫ですよ。奏水ちゃんが悪い男にお持ち帰りでもされないように責任を持って守ります。ほら、ちゃんとお水。ちょっとだけでも口にして」
 鷺沼が奏水の肩に触れて優しい言葉をかけてくる。木山に言伝をしてから他の三人の後を追い、波玲とは逆に宮益坂を上がっていき男同士四人ではしゃぎながら遠ざかっていく。木山が彼らのことを見送りながら奏水にペットボトルのミネラルウォーターを奏水の口元に運ぶ。一口だけ呑んで喉を潤したお陰でどうにもならない怒りがいつの間にか静まっていてけたたましい金属音が鳴り響くような頭痛も少しはマシになった。木山がとても献身的に奏水の背中をさすってくれることでどうにか心を落ち着かせることが出来た。逃げる必要性だけはどこにもないと奏水はそう思った。
「あ。一人で帰れると思います。今は少し気持ちが良くなくて不安定だけどしばらくしたら落ち着くんで。大丈夫です」
「そんな青ざめた顔で何を言っているのかな。私は責任をもって君を送り届ける役目があるの。タクシー代ぐらい会社に請求したって文句言われないから大丈夫だよ。家はどこだっけ?」
「お姉ちゃんが来てくれるみたいです。メールしたら迎えに来てくれるって。駅は自由が丘だけど、二人で暮らしてて。だから──」
「そっか。って後で鷺沼さんになんて言おうかな。とはいえ。お姉さんなら私の出る幕はないか。ここで待ってたら来てくれるの? 私はそれまで一緒にいてあげようか」
 奏水は嘘をつかなくてはいけないと思った。出来るだけ巧妙に決して解き明かせることのない技術を用いて決して本当のことが見えてしまわないようにだけ注意をして木山のことを騙さなければいけないと考えた。そうでなければ誰も救われない。自分で選んだ道を肯定する手段は彼女にはたった一つしかないとそう信じ込んでしまった。もしかしたら、彼女は私のことを背負いこむ羽目になるのだろう。それでも構わないはずだからはっきりと木山に偽りの情報を植え付けなければいけないと彼女は誰にもバレない嘘を口実にして木山と別れることなんだろうと受け入れるだけの準備を整えた。だから奏水には頭痛の原因だけが理解出来た。
「お姉ちゃんが最近車を買ったんです。日産のサクラって小さい車。気分悪いよって伝えたら元気にメールくれるって言ってて。だから、此処でしばらく待ってます。木山さん、安心して帰ってもらって平気ですよ」
「わかった。まあ、鷺沼さんは面倒見がいい人だからこういうのは放っておくと後でうるさいので。明日は出勤だよね。朝九時から。遅れないで来てね」
木山は寂しげに奏水に別れを告げると、鷺沼や鵜飼とは逆に渋谷駅方面へと宮益坂を下っていく。すっかり奏水のいうことを信じてくれたようで疑う様子もなかった。うまく人を騙さなくてはいけないという気持ちはメールオペレーターという職業に就いてから実感できた。大学で講義を受けているのは法学と呼ばれるもので、社会運営に必要な仕組みを学ぶことで将来に活かせるものだ。もちろん奏水は真面目な学生というほどでもないけれど、単位を落とさないようにそれなりに真剣で講義録はマメにノートにとっている方だし、教授との関係だって良好に保つ努力をしている。友人に対してだって彼女はそつなく何事もこなし、講義に関してだけではなくサークル活動に対しての積極性も評価されている。とにかく、彼女が昼間通っているH大学では極力嘘はつかない努力をする必要性がある。法律によって社会は運営されていて、正義の基準こそが彼女が学ぼうとしている学問だからだ。だが、親からの仕送りだけでは交友関係にだって制限が付いてしまう。そのために始めたアルバイトは友人から紹介されたメールオペレーターという職種だった。いわゆるマッチングアプリケーションに登録した男性会員が送ってくるメールに対して返信内容を作成して一般登録女性の代わりに業務として男性会員の話に付き合うというものだった。男性のほとんどは女性と関係に夢を見ているし、性的なものも含めて不慣れであることを自覚している。高圧的な態度に出る会員も少なくはないが、コミュニケーションによって改善可能であることがほとんどで奏水は持ち前の生真面目さから取り組んだことが上司に評価されて時給に反映された。
「奏水ちゃんは男の人の気持ちを察してあげるのがすごくうまいね。お客さんはこういうメールを貰ったら喜ぶと思うよ。寂しかったり、女性と付き合うのが苦手な人がほとんどだからあまり上から目線でものをいうのは良くないんだ。その辺りが本当に上手だね。鷺沼も褒めていたよ」
 鵜飼という上司は奏水がアルバイトで勤務した時から彼女の新人教育を担当していて、マッチングアプリケーションでのいわゆるサクラ業務に関するイロハを教えてくれた。面白半分で始めたアルバイトではあったけれど、奏水にとっては新鮮な世界で結果として大学の友人たちが働いているファーストフード店や書店などでのアルバイトに比べて高額な時給がもらえることも都合が良かった。洋服屋や趣味に費やすための給料を簡単に手に入れることが出来た。架空の女性のふりをして男性会員と話をするのが、最初は抵抗感があったし、二十代の大学生にとってはあまり見たくもない性的な話題に触れてくる男性会員も少なくはなかった。けれど、鵜飼という上司の言う通り、男性側が送るメール内容に対して気持ちを想像することは奏水にとってはそれなりにやり甲斐を感じた。会いたいと催促してくる男性会員には嘘をつく必要があった。女性の仕事や体調を理由に会う約束が反故になってしまう理由を自分なりに作って断ることで会話を引き延ばす方法を考えなければいけなかった。ほとんどの男性会員はデートの約束が台無しになってしまうことに対して激怒したりクレームをつけてきたけれど、大抵の場合は女性とのメールでの関係を継続することを望んでいた。もしかしたら、彼らは女性と本当の意味で出会えるとは思っていないのかもしれないと奏水は考えるようになった。
「そうっすね。なんか大学の友達とかにはこういうやつあんまりいないけど、どうして私が嫌なことをわざわざ伝えてくるのかなって気持ちを想像すると面白くて。変な人が多いんですね、こういうアプリを使う人って。誰かと仲良くなるぐらい簡単なのにこの人たちってメールでしか人と繋がろうとしないんですね」
 奏水の分析には同じ職場の鷺沼や木山も感心していて頭の良さが評価されたのも嬉しかった。簡単に高額の時給がもらえることを単純に喜ぶことが出来たし、同級生たちと食事をする時にもちょっとだけ自分の立場が向上しているようにすら感じられた。私は頭がいいんだと心の何処かで思っていたのかもしれない。大学の友人たちにも着ている服装が毎月のように新しいものに変わっていることを指摘された時の気持ちは男性会員とメールをしている時と似たものだと知ったのはずっと後になってからだ。
「ねえ、奏水ってまじ頭もいいし、センスもいいよね。私は奏水と友達で良かったなって思ってるよ。これからもよろしくね」
「あはは。瑞香だって可愛いじゃん。このセーターどこで買ったの? 今度一緒にお買い物行こうよ。パフェの美味しそうな店見つけちゃったんだ」
 奏水の参加している文化系のサークルで知り合った友人は彼女を中心にした話題をすることが多かった。ルックスに関していえば、学内で男子学生の評価が高くなるのも大抵の場合は奏水で友人たちも同意してくれた。彼女が周囲に与える影響を好ましく思う友人とショッピングやカフェに出掛けることで彼女の人気はますます評価された。センスのいいファッションと居心地のいい空間を選ぶ気遣いを友人たちが褒めてくれることを奏水は容易に受け入れることが出来た。有り体に言えば、彼女は人生において与えられた役割を期待通りに演じることになんの抵抗感もなかった。欺瞞や偽善の入り込む余地がない学生生活を彼女は誇らしく感じていた。
「男性会員の方から会いたいと言ってきた場合の対応を工夫する必要があるんですね。状況と設定に応じて辻褄のあうメールを作成するということなら理解しました。女性会員に対する印象に誤解を与えないフォローも必要と。やってみます」
 波玲は一ヶ月ほど前に入ってきたアルバイトで周りの上司と同年代だったけれど、すぐに職場の雰囲気に合わせて奏水がそつなくこなしていた業務をとても合理的に反応して仕事をしていた。鷺沼から仕事内容を説明されたことに対する返事が少しだけ気になって奏水は波玲のことを遠目から観察するようになった。まるで自分のしている普段の行動には理由と意味が存在していて無意識的に行なっていることが本当はきちんと考えた末のことだということを指摘されているようで不安を感じた。波玲は煙草を吸い、パーカーやジーンズとスニーカーといったラフな格好で出勤していたけれど、年齢的な問題と職場内での立場も考慮した上での印象を操作しているのかもしれないと気付いてますます興味を持った。とても丁寧に仕事をしている様子が隣の席に座っている横川と比べると酷く大人びていることも奇妙だった。彼は社内の人間がどういう気持ちを持っているのかを理解した上で自分の言動を作成しているように思えた。奏水は遠巻きに心を偽った上で人間関係を維持しようとする波玲の行動を観察することがアルバイト中の新しい楽しみになっていた。波玲は社内での関係に一定の価値基準を元にした心の壁のようなものを形成しているように思えた。一通り観察をし終えた奏水は出来る限り仕事に専念するようにした。波玲に興味を持たないようにしよう。私とは関係のない人だ。
「あの。私は今日早めにあがらなくちゃいけなくて。ログを遡って返信が止まっているユーザーを動かして欲しいんですよね。一斉は横川君がやるんで、波玲さんは手打ちで一件ずつやってほしい。理由があると思うんです。何か傷つけることを言ってしまったとか会話の内容を無視しているとか。優しくしてあげてください。きっと彼らも寂しくてアプリを使ってるんですよ」
「わかりました。あぁ、それ、なんとなく分かります。別に機械みたいになんの考えもなしに返事をしているわけでは確かにないです。ちゃんと考えて不器用にどうにか繋がりを求めている。会いたいってうまく伝えられる方法が分からないってことですよね」
 あぁ、そうですって奏水は波玲の返答に同意をしそうになって踏みとどまり、サークルの女友達と主催した温泉旅行企画の為に14時で退社しなければいけない日に奏水は初めて自分から波玲に話し掛けた。彼の考えていることに奏水は心が痛んだ。いや、違う。私はそういう意味でユーザーと接したい訳じゃない。あの人たちは画面の向こう側にいる魂のない人間で私の女友達とは違う。だから、私がどんなに優しくても傷つけて悲しいとか苦しんでいないかなんてことまでは考えない。せっかくの楽しい時間の前に余計なことを考えなくちゃいけない時間が奏水は本当に嫌だった。波玲という男は私が知ろうとしなかった世界を見せようとしている。つまらなくて興味を持てないし、私が大切にしてきた価値観を蔑ろにしている。入社した時に感じた波玲の第一印象を奏水は変えなかった。冷たくて魂のない人間。きっと深い関係にはなれないだろう。
 木山が立ち去ってしばらくの間宮益坂の脇道から逸れた渋谷の路上で奏水はうずくまり、気分が悪くなる原因について考えていた。波玲の言動がどうしても心に引っかかってしまったらしい。彼のアルバイトに対する態度は不自然で私の考えていることとは違う。将来、私は大学を卒業して正しい生き方をするはずだけれど、波玲の話している生真面目な常識には違和感があった。それに彼は絵を描いていると話していた。芸術家と呼ばれる人間だと人前で話していた。テレビに出たりTwitterで有名な人はフォローをしている。彼らには意見があり、主張が見えて、自分にとても自信を持っている。まっすぐとブレない姿勢で誰にも流されない意志を感じさせて私には到底近づけないものだって初めから分かっていることを伝えている。けれど、波玲はどうだろう。彼の絵には何が描かれているんだろう。高尚で鼻の高い居丈高な印象がするけれど、私と一緒にメールオペレーターの仕事をしながら芸術家なんだと話す彼の気持ちがどうしても分からなくて頭痛がした。ユーザーとメールをしながら目の前の返信を消去して片付けていく。頭の中に産まれた違和感を奏水は渋谷の路上でうずくまって記憶から削除を始める。
「ダメだ。帰ろう。やっぱり解決しない。あの人のことで頭がいっぱいになっている。私はこの気持ちを恋愛だって思わなくていいんだ。二十個も年が離れている。私らしく全然ない」
 奏水は立ち上がり、家に帰ろうと思った。正直に言えば、お酒はそんなに呑んでいなかったし、まだ騒ぐ元気だってある。まっすぐに副都心線に乗って要町にある自宅までは帰る気にはなれなかった。何処か寄り道をして帰ろう。簡単に暇が潰せて三センチほど呑み残したレモンサワーの酔いが覚ませるぐらいの場所がいい。確か宇田川町にゲームセンターがあったはずだ。終電までさっきまでの嫌な気分を紛らわせていられるなら明日もちゃんとアルバイトに行けるはずだ。何かすごく悪いことをしたいと考えていた自分が恥ずかしくなってしまった。鷺沼の視線が少し気になってしまった。服装には気をつけている。化粧は薄めで自己主張を出来る限り少なくしていたい。私はあなたになんの敵意も持っていない。だから、お願いだから、私のことを知ろうとしないで欲しい。奏水は少しだけ自信を取り戻して渋谷の街を歩く。クラクションの音が心地よい。街を歩く人々が意味のない会話をしている。私はちゃんと此処にいて誰にも邪魔をされていない。きちんと光が見えて音が聞こえている。キラキラとした雑踏がまるで私みたいだ。呼吸が安定する。胸の高鳴りが気にならなくなる。出来ることなら小さな愛がほしい。お財布の中には小銭が入っている。
「あれ。奏水ちゃんだ。みんなと一緒に呑みに行ったと思っていたのに一人で帰るの? ねえ、だったらもう少し遊ぼうよ。まだ終電までは時間があるでしょ?」
 波玲だった。灰色のパーカーにデニムのジーンズにバスケットシューズ。服装はカジュアルだけれど、年相応で嫌味がない。何処か表面的で本心を見せようとしない。ただ、妙に声のトーンが明るかった。職場や歓迎会の時の波玲とは違っていた。気軽に奏水に声をかけてきてまるで心を見透かしたように近づいてきた。何も言い返せなかった。私はこの人と一緒にいたいのかもしれない。頷いてから、奏水は伝えたかった気持ちを素直に打ち明ける。
「ゲームセンターに行きませんか? 一人じゃ寂しくて。一緒にいて欲しいです」
「うん。よかった。ぼくも同じことを考えていたんだ。確かアドアーズ。宇田川町だよね。UFOキャッチャー。昔ぼくもよくやったなぁ」
 嬉しくて口元を緩めそうになるので意地悪な顔をして返事をして波玲が手を繋いでくれるのを待った。何も言わなくても伝わる気がしたけれど、やっぱりきちんと波玲は期待を裏切ったりはしなかった。奏水の求めていることをしてくれた。嬉しい訳ではない。ただ思った通りに事が進んでいることを素直に受け入れることが出来た。汗で湿った手のひらを波玲はどう思っているだろう。きっと私が今思っていることを同じことを波玲は考えているはずだ。打ち明けてしまえるのならそうしたかったけれど、今は出来るだけクレーンゲームの景品のぬいぐるみのことを考えていたい。早く会いたい。歩くスピードを速めているはずなのに波玲は文句ひとつ言わずに私についてきてくれた。よかった、彼は私に嘘なんてつく必要がない人だ。
「あれが欲しいです。食パンマンの下で見えなくなっているやつ。黒いの。取れますか?」
「あぁ。バイキンマンか。アンパンマンの方がずっと簡単そうだし、ドキンちゃんなら腕の見せ所なんだけどな。奏水ちゃんの好みが少し分かった気がする」
 店頭の一番目立つ位置にあったクレーンゲームのガラス窓に張り付いてバイキンマンが救われて欲しいと奏水は願うことにした。食パンまんの笑顔には偽りがない。片思いをしているドキンちゃんには見向きもしない癖に真っ白で清潔で絶対に騙したりなんてしませんと堂々とした態度を崩したりはしない。ぬいぐるみがひしめきあって息苦しそうで助けてあげられるなら私は手を貸してあげたい。ポケットから波玲が小銭を出してまずはバイキンマンに覆い被さっている障害物をどかしてくれる。とても器用な性格で間違いがない。几帳面だってことが分かるし、細部まで気にして人付き合いをしている。波玲から感じた第一印象は間違いがなかった。奏水はもう一度これが恋だということを再確認する。
「本当だ。もう食パンマンがいない。あいつは嫌いなんです。だってドキンちゃんは──」
「報われない恋を楽しんでいる。ぼくはもう大人だから彼女のことをそう捉えられる。手に入れられるものなんてごく僅かだ。持って生まれた環境だけを愛するために優しい王子様が必要だって話は少し窮屈に感じるかもしれないね」
「あぁ。はい。まぁ、そうです。私は知っている世界だけで十分です」
 波玲は優しく微笑んでもう一度クレーンゲームを始めて、埋もれていたバイキンマンを救い出そうとしてくれる。何度か挑戦をして悪戦苦闘をしながら三千円ほど躯体に注ぎ込んだあたりで食パンマンの笑顔が見え始める。奏水は嬉しくて気持ちを伝えたくて波玲の着ているパーカーの裾を掴んで彼女を渋谷の街から救い出してくれたみたいにしてそっと優しい手つきでガラスの箱に閉じ込められて埋もれているバイキンマンを掴み取る。思わず嬉しくなって取り出し口まで駆け寄り、アームに引っ掛けられて落ちてきたバイキンマンを手に取る。ギザギザの歯で笑っていてきっととても悪いことを考えているに違いない。本当のことは誰も知らない。気がつくと波玲は奏水の手をとっている。冷たくて体温が感じられないけど、優しさが滲み出ている。何も言わず黙って波玲の横顔を覗く。強く握り返す。もう嘘つきは何処にもいなくなった。私はちゃんと自由で誰にも遠慮なんてする必要がない喜びを知っている。
「よかった。結構時間かかっちゃったけど、欲しいものが手に入ってよかった。まだ終電まで余裕はあるけどどうする?」
「え。あの。はい。すごく嬉しいです。ありがとうございます。この子は大切にします。えっと──」
「ん? どうしたの?」
 私は誰にも束縛なんてされていない。そう感じたはずなのに息苦しさが奏水を追い詰めている。残酷な結末に置いてけぼりを食らうお話なんて好きじゃない。私はちゃんと自分で答えを選んでやりたいことをやっている。波玲は絵を描いて生きている。私の頭の中に産まれた疑問をアーティストなら教えて欲しいと伝えたい。波玲が握ってくれている優しい手のひらが汗でびっしょりと濡れている。逃げ出したい。今すぐ此処から立ち去りたい。私はどうしても波玲と一緒に──。
「えっと。あの。はい。終電があるから帰ります」
「そっか。それじゃあ行こうか。駅まで送るよ。家はどこなの?」
「副都心線です。地下鉄。嬉しいです」
 波玲は何も返事をせずに奏水の手を引っ張って宇田川町のゲームセンターを一緒に出てセンター街の方へと戻っていく。土曜日の二十三時前でまだ人は多い。クラブやカラオケや居酒屋で夜を越そうとする人々が今日は何も気にならない。波玲のことばかりを見てしまう。さっきより距離が近くなった。吐息が聞こえている。きっと私の鼓動も伝わっている。冷静に呼吸を整えてこれ以上考えていることを読まれたくない。ちょうどゼンモールの脇を通り、センター街に戻ったところで、バイキンマンをリュックの中に入れたいので一度手を離す。汗で濡れた手のひらのことをなんとなく誤魔化しながら波玲の顔を覗きたかったけれど、素直に顔を向ける気にはなれない。けれど、冷静さを取り戻していつも覆い隠している素直な気持ちが外に出ていってしまわないようにだけ気をつけてからそっと波玲の気持ちを確認しようとする。
「あのね。やっぱり君は誰にも気にされていないよ。たった一人しかいない。ぼくが傍にいてあげなくちゃ駄目なんだね」
「え? どうして急に? 波玲さん、私は別に──」
 いっそのこと自分から誘おうかなとは思って言い出しかけた言葉が口から出て波玲にきちんと届く前に手をもう一度掴み取られて今度はさっきより早い速度で歩き始める。センター街の中心部を眺めながら波玲は何かを探していた。そんな気がした。奏水は自分のことを何処かで気にしてくれていると期待していた自分が馬鹿みたいに思えた。信じてもいいんだってさっきは伝えてくれた癖にすごく大人みたいな顔をして私は本当は何処にもいないんだってわかっていることを当たり前のように伝えてきた。どうしてなんだろう。波玲だけは違うはずだ。バイキンマンがちゃんと私のリュックサックの中に入っているのは運命なんだ。書き換えることなんて出来ない。強く手を握られて奏水は幼い頃パパに連れて行ってもらった小学校のことを思い出す。ズル休みをしようとしたけれど、パパはどうしても許してくれなくて、私の我侭なんて全然聞いてくれなかった。ママはいつも本当にずるい。私の代わりなんて何処にでもいるくせにママだけは替えが効かない。パパはそういうことを言いたくて小学校に無理やり強引に私を連れていったんだ。許せなかった。私はさっきまで浮かれていた自分のことが大嫌いになって涙を流してしまいそうになる。もっと強く手を引っ張られて急にさっきよりも大きな声で波玲がすごく逞しい男の人の声で伝えてくる。
「ねえ、ちょっと路地裏のビルに用事があるんだ。付き合ってくれない?」
「え。なんで? だって電車がもう終わっちゃいます。私は家に──」
 有無を言わさない感じの脅迫めいた雰囲気が奏水の口を閉じさせて何も言わせてくれない。渋谷の路上ですれ違って肩がぶつかった五十五センチの金色のネックレスと青いX-largeのパーカーと青いGuessのジーンズを履いた男は隣を一緒に歩いていたナイロンジャケットとピンク色のパーカーと紺色のチノパンを履いた友人とはしゃいでいるだけでやっぱり私には興味がない。波玲は何も気にせず、誰にも咎められずにABCマートが入っているビルの裏手の路地に奏水を連れて入っていっていき、雑居ビルの狭間の路地に人がいないことを確認すると左に折れて暗がりを覗こうとする。奏水は思わず表情を緩ませる。笑顔になる。やっぱり同じことを考えていたんだってすごく大切なことを波玲は絶対に間違ったりしない人なんだって奏水は心を許してしまおうとする。路地裏の一番奥の光の届きにくい場所で波玲は脚を止めて奏水をセンター街側のビルの壁際に立たせるとさっきとは違って怒りに満ちた表情で奏水を真っ直ぐに覗き込む。やっぱりどうしても奏水は笑うことしか出来なくて波玲が唇を奪う瞬間にはすっかり心が溶けて表情が消えてしまっていた。
「嘘はつかないんだな。だったらよかった。口を閉じて」
「あの。電車のこともういいですから」
 奏水は波玲の舌先が入り込んでくることを拒む必要がなかったことを知っていて、パパは本当にこんな日が許せなかったんだろうって今頃になって気づいてママの傷つくことをしている自分の姿が堪らなく嬉しかった。蛇みたいに私の舌は動き回って波玲の感情を受け入れてどうにもならない劣情を唾液と一緒に混ぜ合わせてどちらの吐息なのか分からない荒々しい暴力のことを好きになってしまう。いやらしいことをしている自分のことを波玲が求めていることを奏水は全身が震えるほどに感じている。その日は偶然焦茶色のフレアのミニスカートで波玲が下着の上から履いていて硬直した局部が当たるのを感じてしまう。曲がったことが許せないのなら口を閉じればいいのよとママは言っていた。ズル休みをしようとしていた理由をママは知っていて、パパは私には内緒で学校に行かない私のことを相談していた。だから、なのかもしれない。奏水が嫌悪感を呼び起こして波玲の行動に抑制が効かなくなる瞬間を予め奏水は知っていたし、我慢に耐えきれずに直接触ってくるのを予感していた。実際にその通りに動いて指先を当ててきたことすら拒むのを辞めようと思った。けれど、ここは渋谷の街で誰も見ていない裏路地だ。酷くつまらない演技をさせられている気分になって全く気持ちが入らなかった。これ以上は出来ないと思った瞬間に波玲は強引に奏水の下着を脱がして左手の指先を奏水の湿り気のないヴァギナに触れてきた。そういえば、先週友人たちとナイトプールに遊びに行くついでに陰毛は綺麗に残らず剃っていた。だから今度は奏水が怒りに任せて波玲を突き飛ばそうとした。
「あははまじウケる。俺ぐらいになるとこんぐらいは当たり前でさ」
「いやいや。それまじ半端ないっす。さすがっすねー」
 まだセンター街の光が届く路地を二人組の男が歩いていくのに気づいて波玲が強引に力を入れて奏水の口を塞ぐ。突き飛ばそうとした手も掴まれていて思ったより力が強いことに驚いてしまうけれど、何より奏水は何か思い違いをしている。私は波玲のことを受け入れている。バイキンマンを取ってくれた時の波玲の優しい笑顔が思い浮かんでくるけれど、よく考えてみると声には抑揚がなくて奏水は何も考えていなかった。迂闊だったと奏水にはようやく気付いて「黙っていろ」と耳元で脅される頃には路地裏には何故か誰も近づいてこなかった。奏水は誰にも見られていない。暗がりで光の当たらない場所で強引に奏水のヴァギナに指先を挿入してくる。波玲にはもう心を許してはいけないすら感じたけれど、奏水は唇を意志とは無関係に奪われて舌先は粘膜の接触によって伝えたい感情の出口を塞がれている。左腕は骨が軋むほど力を込められて掴まれているのが恐怖を思考に感染させている。だが、右腕にはまだ波玲から感じる父性を受け入れない意志があり、どうにかして波玲の膨れ上がる劣情を弾き返すことが出来るはずだ。指先が濡れていない膣に入り込むのを遠ざけようとして波玲の左手の暴走を食い止めようとする。「やめろよ」と叫び出そうとしても波玲は一切力を緩めずに奏水は自分が女であることを悔いる瞬間がやってこないように抵抗して波玲がとめどなく欲情に溺れていくことを全力で否定する。途端に左腕を掴んでいた波玲の右手が奏水の左頬に激痛を与える。口の中に血液の味がして奏水は我に帰り、パパがズル休みを止めていた理由をようやく思い知る。
「無理だよ。意味が違う。君は選択を誤ったんだ」
「え? なんで、ですか。私は──」
 波玲が奏水の奏水の頭髪を掴み取って強引に薙ぎ倒そうと腕力を行使して身体を強引に振り回す。抵抗しようと力を込めてみても筋力の差を思い知ってしまうだけで叫び声を上げればいいんだと理解した瞬間に今度は左頬を殴打される。見た目からは想像がつかない波玲の暴発に怯えを感じてしまった奏水はそのまま強引に頭髪を引きちぎられるほどの力で押し倒されて波玲に馬乗りにされるとパパが言っていたことがどうしても受け入れられなかったことを溢れ出る涙と感じたことがない激烈な感情によって奏水は理解する。
「お前は普通に生きなくちゃダメなんだよ」

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