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04.Panorphelia

毒蜘蛛の刺繍がされている黒い眼帯をした女子生徒が魔術科棟三階の音楽室へと入っていく。音楽室からはショパン/夜想曲第二番が漏れ聞こえてきている。ピアノの流麗な音について誰かに伝えたいけれど、弥美はとても深刻そうな顔をして青褪めた表情のまま今日は帰らなければいけない、もし私の傷跡のことを怒っているのならば私は償いをする必要があると言い残して先に下校してしまった。時計を見ると、時間は16:23になっていて、ぼくは魔術科棟には用事がなければ普通科の生徒は簡単に出入りすることが出来ないという理由で、予言は本当かどうか確かめるために普通科棟2-Bまで寄ってみないかという阿久津の誘いを断って一旦教室へと戻ろうと忘れていた荷物を取りに再度魔術科棟に立ち寄ってみる。二階の魔術科棟と普通科棟を結ぶ連絡通路の入り口で、さっきこっくりさんを実行した際に頭の中に直接イメージを送り込んできた狐面の男が予言で示していた黒い眼帯の女子生徒、芹沢美沙がなぜか魔術科棟まできているのを発見し思わずこっそり後をつけてしまった。普通科棟と魔術科棟は同じ学校の敷地内にあるけれど、魔術対策基本法第20条に記載されている教育機関における使用制限の一部解除という項目のより厳密な環境創成という観点から、魔術科生徒のエーテルの部分的使用と許諾が許されている。それでも七星学園校内での生徒同士の校舎内での自由な交流というのはほとんど認められておらず、行き来をするには担任もしくは用務に関係する教員から交流許可証にサインをもらう必要があり、お互いがお互いの授業内容などを知る機会ももちろんほとんどない。合唱コンクールや体育祭や文化祭の類で一緒に参加するような行事は特別に用意されてはいるけれど、おそらく七星学園が目指している普通科と同等の教育の提案がなされながらもなお、魔術回路を持った生徒たちのより専門性の高い能力育成といった理念が際立ってしまっているためか、普通科も回路持ちもごちゃ混ぜに通うのが通例である他校のようなある意味平等な関係が成り立つという理想はないに等しい。けれど、そんな貴族意識すら増長しかねない学園理事長の強引な教育方針に惹かれて七星学園に入学を希望する学生は普通科、魔術科共々に年々増加の一途を辿っているようだ。高度な教育システムとは裏腹に自然と差別や区別のようなものが発生してしまうという側面を緩和する為に学校では『どうとくのじかん』という特別課外授業が用意されていてぼくら七星学園の生徒は夏休み前の一日を使い、全校生徒の参加が義務付けられている。だから、もちろん芹沢美沙という普通科に所属しているはずの生徒が放課後のこんな時間に魔術科棟へ出入りしているというのはとても奇妙に感じられて、彼女が二階の連絡口から三階へと向かい、音楽室にまで入っていく一部始終をつい眺めてしまった。狐面の予言では自分たちの全く知り得ない情報まで入手することは出来ないけれど、彼女のクラスメイトだという阿久津の記憶からランダムな文字が抽出されてしまったのだろうか。なぜか運命的なものを感じてぼくは音楽室の中をこっそり覗いて予言の中で語られた少女の姿を掴み取ろうとする。

とても優雅な合成魔術だった。ピアノの鍵盤一つ一つから精霊が溢れ出て音楽室中を包み込んでいる。より汎用性の高い言語を使って表現するのであれば、実体化したクォークの集合体がデータ解析された上で可視化されているのだろうか。高度の錬成がなされなければ成立しない精霊を随伴させる音楽にぼくはつい吸い込まれそうなほど惹きつけられてしまう。あんなに生き生きとしたエーテル粒子体を見るのは初めてでキラキラと輝く光の粒が芹沢美沙を包み込んでいる。けれど、彼女はとても素っ気なくもしかしたら音楽室で起きている現象そのものに気付いていないのかもしれない。ケラケラと笑い転げている光の精霊が黒い眼帯の女子生徒が読む本の上で飛び跳ねていても彼女はお構いなしでページを読み進めていく。きっと彼女にとってはありふれて当たり前の光景でもしかしたらもう既に見慣れてしまったことなのだろう。フランツリストは中世ヨーロッパを代表するピアニストの一人ではあるけれど、現代に彼の残した楽譜が再生されたとしてもこうやって空間を震わせて光を踊らせて鼓膜を刺激し続けている。音楽教師の未完成な演奏でもここまで再現出来るのだとしたら、きっと彼が実在していた時代のピアノの音色は神の息吹にも等しい光景を映し出していたのかもしれない。

「けど、少し大袈裟な景色だな。響木はおおかた変形魔術の類を利用しているのだろう。クォークを精霊化させるなんてスピログラフを使った精神干渉系だろうか」

楽譜の類も高度に洗練されたものならば確かに記号と配列を正しく並べることで成立する術式の類と見てもおかしくないけれど、視覚現象がなんの科学的媒介も使用しないで此処まで具象化するとなると相当の魔術的熟練度が必要になりそうだ。七星学園の教員たちはやはり一人一人が一筋縄ではいかない能力を持った魔術師だというのは本当らしい。高度の具象化には生贄や小動物の触媒を使用するものも多く社会環境が発展した現在では滅多にお目にかかれない代物だというのは魔術史などを通じて当然ながらぼくらは知っている。このレベルの具象化が実現するにはおそらく芹沢美沙を依代として光の精霊が呼び出しているに違いない。だとすると、彼女の足元に拡がっている影がほんの少しだけ暗さを増しているのは気のせいではなさそうで、響木は黒い眼帯の芹沢美沙に混入している何らかの特殊性を利用して自身の術式を極限まで高める類の魔術を実行している可能性があるようだ。

違法魔術という存在がある。例えば、ぼくが暗がりでこっそり楽しむ変形魔術を公共の場で行なったり他人に向かって使用したりするケースもそうだけれど、基本的に魔術は然るべき場所で然るべき時に実行される必要性があり、ほとんどの魔術の自由な使用はぼくらの住む世界では魔術対策基本法によって厳しく制限されているのが実情だ。それは例えば火のエーテルを利用した火炎の合成などは現代では科学の力で代用可能であり、ライターなどを使用すれば誰でも簡単にその環境を手に入れることが出来るにも関わらず公共の場で魔術回路持ちだけが自由にそれを実行できる権利を持つのは平等社会の実現に反するという法的側面から規制されている問題ではあるけれど、その中でも特に人間の精神に働きかけるより違法性の高い錬成魔術というものが存在していて、今、ぼくが音楽室で見ている光景はまさしくその違法魔術の典型だと思われる類のものだ。ほとんどの場合は依代となる人間の精気などを吸い取ることで術式の効力を増加させたり属性を変化させて危険度を増してみたりと言った具合に使い方によって著しく社会環境に損害を与える可能性すらあるものが多く、ぼくら魔術回路持ちが社会環境やシステムに依存しない形のエーテルの使用を制限されている理由も戦前から存在するそう言った違法魔術の影響が大きいようだ。

ぼくは音楽室の外側の掲示板に貼られたプリントを一枚剥がして裏面の白紙部分にボールペンで簡単な探知魔術『一縷の希望』を記入して紙飛行機を折ってみる。こっそりと音楽室の引き戸を開けて紙飛行機を中に飛ばすと光の精霊がプリントに書かれた術式の匂いに惹かれて紙飛行機の上に乗り出して行く先を操作しようとする。ふわふわと音楽室を誰にも気付かれないまま飛んでいくと、芹沢美沙という普通科の学生の黒い眼帯にコツンと当たり、紙飛行機は光の精霊によって分解されて消え去ってしまう。どうやら彼女の左眼には何処かで誰かが仕込んだ術式の類もしくはそれに付随する特殊な科学的技法が混入しているようで、響木という女性教師は彼女の左眼を利用して何かしらの精神干渉系違法魔術を実行しているようだ。とても些細な悪戯のようだけれど、もしかしたら彼女は芹沢美沙という女子生徒に恋をしているのかもしれない。ぼくの飛ばした紙飛行機に気付くことが出来ないほど音楽室はたった二人だけの空間に満たされていてなんだかぼくはとてもいたたまれない気持ちが芽生えてくる。ぼくはそっと音楽室を後にして、下校の準備を整えて下駄箱まで後ろを振り返ることなく歩いていくと、一年生の下駄箱付近に水恩寺リリカと知野川琳を発見する。

「ねえねえ、西野さんの話をしたことあるっけ。お前と違ってすごく私に優しいんだよ。いつもロマンチックなことばっか言ってくれるの。今度ね、普通科の子を暗がりに連れて行ってあげて欲しいって頼まれたんだよ」

「なんでそんなことするんだよ。真司さんが嫌がるんじゃないか。あの人はあまり騒がしいのは好きじゃないだろ」

「えっとね、彼女たちは魔術科と普通科がこんなに厳しく区分けされているなんておかしいって思っているんだって。だから、真司さんみたいな魔術科でもうまくみんなと馴染めない人と仲良くなってもっと魔術科のことを知りたいって思っているんだって」

「絶対なんか悪いこと考えてそうだな、その西野って人はさ」

「悪いことを考えていたら私にちゃんと教えてくれるもん。西野さんはエーテルがあまり好きじゃないって言ってたよ。エーテルがあるだけでまるでその人が特別みたいな扱いになるからってことなんだけど、だから私みたいな喩え魔術回路持ちだったとしても人には認めてもらいにくいエーテルのことが気になるんだって。それは彼女が紹介したい普通科の先輩が抱えているものと同じだって言うんだ」

「まぁ、それならなんとなくわかるけどな。お兄ちゃんはさ、凄腕の魔術師だったし、ぼくはずっと劣等感ばかりだったから。蛆虫みたいな気持ちを歌いたくなるってことだろ」

水恩寺はヘンテコな歌声で空を見上げて目を瞑って、※1”My baby’s got the bends Oh, no”と歌い上げていて、知野川琳がそれを見て隣でけらけらと腹を抱えて笑っている。身振り手振りを大袈裟に水恩寺は彼女の気持ちがどこかで誰かに伝わりますようにと、有名な英国人の歌を誰もいなくなった放課後の下駄箱でとても気持ちよさそうに歌い続けている。

「あれ? 黒灯さんだ。今度、普通科のお友達に頼まれて真司さんに紹介したい人がいるんです。放課後にまた琳と一緒にお伺いします。きっと彼女たちも暗いところが好きな二人だと思うんです」

「真司さん、迷惑だったらちゃんと断ってくれていいと思うよ。あそこはなんだか真司さんの居場所って感じがするから」

同じぐらいの背丈の水恩寺と知野川が交互に似たようなことをぼくに伝えてくる。あそこはぼくの居場所ではきっとないけれど、もしかしたら何か悪い歯車の噛み合わせがこっそりとぼくの傍に近寄ってきて眩しくて目の開けることの出来ない光を当てようとしているのかもしれない。逃げ出す場所はとっくにないけれど、それは一年前に力を試されるように遭遇した百獣の王の剥き出しになった牙みたいにぼくに無力感のようなものを植え付けようとしてくるのかもしれない。例え、ぼくが鮫だったとしても陸の上で彼に勝てるものだときっと存在しないだろう。

「大丈夫だけれど、例えば魔術ショーみたいなものを求めてくるのだとしたらきっと期待には応えられないと思う。普通科の人々にはそんな人々がいてたまにぼくらを試そうとしてくる」

少しだけ捻くれた心が新しい出会いの種のようなものに不安を感じて拒絶しようとしている。それはきっと君たちにもよくわかっていることだろうと言いそうになり、水恩寺の涙目を見てちょっとだけ気持ちを平穏な状態へと戻そうとする。さっきの歌の中にこめられている想いを拾い集めてもし傷のようなものを見つけたら腐ってしまわないように注意をしながら彼女の提案を受け入れる。

「魔術に興味があるとは言っていたけれど、自分で触ってみたいって感じでしたよ。私たちがこっそり暗がりみたいな場所で何をしているのかなって気になってしまうらしくて。あの場所は誰でも訪れることはできるけれどやはり特有の雰囲気は普通科にも伝わってしまうみたい」

「変でしょ。大体は気持ち悪がって寄ってこなかったりするのにさ」

「だから西野さんがお手伝いしてくれているんでしょ。きっと西野さんが嫌いなのは自分の力を試そうとしない魔術師のことだよ」

「じゃあぼくにはあんまり興味がないだろうな」

「琳のは、悪戯ばっかりじゃん。黒灯さんは合成魔術を作るのがとても上手だって百舌さんも褒めていたもん」

「あの人は研究ばっかりで巡音さんの影に隠れちゃうよ。CRASSなんて入ったら狭い道しか通れなくなるのにさ」

「あ。またそうやって私のこと傷つけている」

半ベソをかく演技をしながら水恩寺が知野川をからかっている様子を後にしてぼくはちょっとだけもう一度体育倉庫のほうに行ってみようと第一グラウンドの方へと歩いていく。多分、この時間ならちょうど用務員さんが今日一日で無駄になったプリント用紙のゴミを燃やそうとしているだろうからおかしな気分を紛らわせるために話しかけてみるのもいいかもしれない。学校の内側の外側からぼくらをみている用務員さんの話には少しだけ興味が湧いてしまうことがあっていつもうっかり聞き込んでしまうことが何度もあった。今日も用務員さんは毎日の日課になっている校内で捨てられてしまった紙を焼却炉の中に突っ込んで燃やす作業を一人で黙々と行っている。体育倉庫の脇にある小さな用務員棟は校内の雑務を一人で行っている彼だけの為に用意されている秘密基地みたいにひっそりと隅っこに設置されているせいかほとんど誰も近寄ることはない。きっと昔からこの場所で七星学園の生徒たちが知らない場所で何か特別な秘密を世界の中心で守るみたいにして彼は過ごしている。

「今日は黒い煙があまり出ていないんですね。要らないプリントだけだったら白い煙しか出ない。当たり前の話だけれど、あなたはいつもそれを守り通している」

青い作業服に身を包んだ用務員さんはぼくの方をチラリとみた後に、学校の裏門を見るようにと顎とトングで指し示す。珍しく彼が特に何かを話すわけでもなく、まるで重要な任務を与えるように促してくるのでぼくは迷わず裏門の方を覗いてみる。そこではクラスメイトの宝生院と男子学生が口論をしていて、裏門を出たところの住宅街の路地でとても感情的になりながら宝生院がまるで子供が大人に甘えるように両手で男子学生の身体を叩いてうまく噛み合うことのない歯車を元に戻そうと必死になっている。多分クラスの男子生徒の中ではかなり人気の高い美人の宝生院がみせる感情の爆発のようなものを男子学生が必死で抑えるようにして抱きしめている。余計なものを見てしまったなとぼくは用務員さんの方は気にせずに暗がりのある体育倉庫の二階に上がることにする。

「ずいぶんと空気が荒立って刺々しているな。お前なら分かるだろ。心の奥の方がムズムズするんだ。何か変なものが入って来たような気がする」

天宮がたった一人で暗がりの中央で胡座をかいて座っている。歯を食いしばってとても悔しそうにしているけれど伝えたいことが分からず行き場所に困って結局この場所に来てしまったみたいだ。まるでぼくみたいなので分かり合えないってことを共有している気分が少しだけ心地よく感じられ様子を伺うだけにしようと思ったのについ茶色い古くなった応接用ソファに座り天宮の直感にぼくは出来るだけ誠実に応えようとする。

「狐がやって来たんだ。あんなことは初めてでびっくりして少しだけ怖くなっているけれど本当のところはすごく楽しみなんだ。ほら、海の王者は陸では自由に振る舞えない。けど、空を飛ぶ力を手にした気がするんだ」

「お前はそれが楽しいんだな。私はどうしてもブレーキを掛けるんだよ。壊しちゃった方がいいって意味なんだろけどさ」

「ブレーキがなくなった瞬間のことを想像するんだ。その先には何にもないって知ってるはずなのにね」

「はは。お前は大人だな。私にはそんな風には割り切れないよ。こういう嫌な気持ちがあると熱くなるんだよ。お前はやっぱり冷めている訳じゃないんだな」

「そうだ。そいつは毒蜘蛛みたいなやつだ。獲物を喰らう隙をじっと伺ってやがる」

阿久津が階段から登ってくる。よく見ると右側の隅っこにはいつのまにか伊澤も相変わらずまったく光の当たらない場所で体育座りをしている。ここは暗がりという場所でもう学校の授業も終わって何もすることが学校内には残っていないはずなのに何故かこの場所に集まってきている。話すことはたぶん何一つなくて光が当たらないことが心地よいのかみんな黙って蒸し暑さに耐えているみたいでとても馬鹿馬鹿しい。家に早く帰ることも出来るのに埃っぽくて湿っぽくて風通しの悪いこの場所でまるで世界のどこかに眠っているかもしれない秘密を探してぼくたちは沈黙と物音と裸電球の光を通してお互いのことを知ろうとしている。

「ジキルとハイドって知ってる? 暗い場所と明るい場所で話す言葉の違う人のこと」

伊澤が口を開いてまるで裏切り者でも探すような口振りでこの場所に集まったぼくらを刺激しようとする。素直であることは罪深く、純粋であることは扱いにくく真っ直ぐに進もうとすれば疑われる。だから仕方なくまるで校内の隙間に出来た抜け道を見つけて傷口だけは見えないように隠しながらぼくらは伊澤の提案に乗るようにして阿久津の持ってきた藁半紙を囲んでこういう時にとても最適な魔術を錬成しようとする。

「2812番──銀色の弾丸が指し示している歪んでしまった向こう側の恋人──。ぼくらはここに興味があって来ている。誰一人嘘なんてついていない。触媒として詠唱言語として発火装置に使用するのは十七音だ。大丈夫かな?」

まだ何も書かれてない藁半紙を覗き込んでぼくらは簡単な術式を合成しようとする。中央に小さな円を描き北側に座った人物の私物を置いて中心点を定める。十六方位に基づいて任意の方角を向いたときに思い浮かぶ一文字を定めた後、『雪、鉄、星、月、針、女、裁、殺、人、桜、闇、烏、奏、原、痛、火』という任意の漢字をぼくが北側、阿久津が西側、天宮が東側、そして南側に伊澤が座り、雪を南にして順番に書き込んでいく。ぼくらは藁半紙を囲んで手を繋ぎ、目を瞑り術式の発効に必要な十七文字の北側に座っているぼくが詠唱する。

「音が鳴く木下闇には人が来ず」

ペンが時計と同じ方向に廻り始めて藁半紙の中心を軸にして法則から脱け出そうとする規則性を見つけようと意志を持って嘘をついている人物を探し出そうとする。発火装置に選ばれた十七文字はぼくの意識に干渉することで空間に存在している違和感を見つけ出そうとちょっとだけ宙に浮かんだボールペンが風切音を立てて唸り出してぼくら四人は呼吸を合わせて息を吸い込みタイミングを合わせるようにして事前に確認した言葉を発声する。

「──嘘をついているのはだーれだ──」

風切り音がゆっくりと唸るのを止めていくとポトリとボールペンが落ちて停止する。ぼくらは恐る恐る目を開けて術式によって発行された違和感の出所を確認しようとする。

「南西西。阿久津とぼくの間で阿久津寄り。君が本当はどこか違う場所に何か違うものを求めているはずなのにこの場所に迷いこんで来ている。毒蜘蛛が這いずり回っているところを教えて欲しいってことかな」

阿久津が図星を刺された顔をしているけれど、特に動じる様子もなくぼくの問いかけに答えようとしてくる。

「難しい質問だな。お前たちとは違う理由なのは理解出来るけれど、嘘という訳じゃない。他にこの魔法から分かる答えはあるのか」

『原』の反対側に配置されているのは『女』という文字が書き込まれている。ついさっき裏門でみた宝生院真那の姿を思い浮かべる。方角的にはほとんど同じ場所ではあるけれど、阿久津の求めている毒蜘蛛に関係するような事柄が宝生院と繋がりがあるのだろうか。

「この術式で出来るのは嘘をついている人間の居場所の特定とその場所にあった文字と他の文字の位置的な関連を推測することが出来るぐらいだから細かいところまでは分からない。ちなみに南西西に原と関連する物か事が君は嘘つきだと断定された原因になっているはずだ」

「南西西だとすると、魔術科棟の南側あたりってことか。一階は魔術資料室、二階は美術室、三階は音楽室だな」

天宮が指し示された方角にありそうな箇所をピックアップする。原の両隣は奏と痛の文字。文字から類推することが出来そうな音楽室はさっき見てきた通り、響木先生と芹沢美沙がいるはずだ。文字の示す通りだとさっきみた光景と記憶が重なってしまう。ぼくらがいる体育倉庫の二階という高さを考えるとやはり美術室の方が妥当な理由があると考えるべきだろうか。

「魔術科棟だとすると、阿久津くんが入るには職員の許可が必要だね。もうそろそろ五時を廻るよ。たぶん許可は出ないだろうけどどうする?」

「君が一番納得出来なそうな顔をしている、伊澤くん。というより阿久津の望みを叶えてあげたいのかな」

「俺はここにあまり来るなって言うなら簡単だぜ。毒蜘蛛の様子さえたまにみられれば俺はいいんだ」

「なんだかそれじゃ私は納得できない。明日まで持ってたら捻くれてぐちゃぐちゃになる。私はいつもそうなんだ」

右手で拳を作り左手の平を叩いている天宮が不満そうに憤りを露わにしている。三人ともどうしていいのか分からず帰る訳にもいかず不安そうに空気を汚して焦りを滲ませて誰かの何かを待っている。とても居心地の悪い空間にぼくは痺れを切らして意を決する。

「これはあまり好きな方法じゃないんだ。それに教師にバレたら停学ぐらいは食らってしまう。けど、一応一つだけ方法はあるよ」

阿久津の顔が明るくなる。罪悪感が過るけれどそれが阿久津に対するものなのか自分の手を汚してしまうからなのかぼくは自分で判断するのが難しくなる。

「ふふ。やっぱりあるんだ。君はすごいね。天宮さんに通路ごと破壊させるのかと思った」

ふぅと溜息をついてぼくは保留している判断をなんとか固めて状況を打破する為の方法をみなに打ち明ける。大袈裟過ぎないように出来るだけ冷静沈着を装いながら。

「この解体魔術には生贄が必要なんだ。愛着のあるものが一番効果あるし、連絡通路の結界は熟達した教師のとても高度な錬成陣が使われているから強度を増す必要はある」

「あぁ。なんとなく言いたいことは分かったよ。迷っている理由もとりあえずは」

「うん。君がここにきている理由の一つの毒蜘蛛を生贄として使用する。ぼくが知っている限りであれば、連絡通路に使われているレベル3の結界は-245番──原始的な誘惑を誘発する魔女の吐息──で解体可能だ。我侭な魔女は愛なんていう陳腐なものが大好物なんだ」

「あはは。愛か。キスぐらいはした事があるけれど女のことなんて何にもわかってないぞ」

「まぁ、大切なのは欲求って事だと思う」

「毒蜘蛛を愛しているのか。俺は。あいつはな、もう5年も一緒なんだ。小食だし飼うのも楽なんだよ」

「ますます魔女が欲しがってしまう」

「俺はそこに行けば毒蜘蛛を飼わなくて済むと思うか」

「魔術は絶対じゃない。けど、君の嘘がそこにあるのは本当だと思う」

阿久津はぼくの率直な意見に押し黙る。誰かに与えられる答えではなく自分で選ばなければいけない正解があって判断を保留することが求められていないことを理解してまるで突然訪れた事象の特異点につかまってしまったみたいに静止して頭の中に浮かんだ言葉が形になるのを毒蜘蛛みたいにして待ち構えている。

「いいよ。分かった。お前が見せたい場所に連れて行ってくれ」

藁半紙をもう一枚取り出してきてぼくはスマートフォンのカメラ機能を利用して245番を鏡文字を使って裏返しにして書き込んでいく。中央には直径10センチほどの円を描きばつ印を書き入れて、周囲を──ななほしがくえんまじゅつかとうれんらくつうろれんせいじゅつしき1529ばんとうたつふかのうなひかりのまもりがみ──という言葉を裏返しにしてボールペンで記していく。本来術式の構成要素を解析する為に使う術式を反転させ実行することでバラバラに分解してしまうことが出来る-245番を任意のメルセンヌ数を使って囲い込み逆さまの信号を送り届けるように指令を逆算する。

「では、生贄をここへ。伊澤くん、済まないけれどぼくの鞄の筆記用具入れから術式用の縫い針を持ってきてくれ」

阿久津が暗がりの右奥から黒い箱を持ってきて、伊澤くんがぼくの鞄から筆記用具入れを取り出して藁半紙の前に集まる。天宮はパシパシと拳で掌を叩きながら胡座をかいてこれから起こる物事を見定めようとしている。

「さようならって言っても人の言葉なんてこいつには理解出来ないよな。今までありがとう、タケシ」

藁半紙の上に阿久津が毒蜘蛛を放つとタケシはまるで自分から供物を捧げるようにして中央の祭壇へと歩いていき、ぼくは伊澤くんから手渡された裁縫用縫い針よりすこしだけ長い針を毒蜘蛛の胴体目掛けて突き刺して術式の書かれた藁半紙を体液で汚す。

「さぁ。後は君の血液が必要だ。指先を突き刺して毒蜘蛛の体に垂らすんだ。魔女を呼び出して吐息によって完全性を崩壊させる」

ぼくは今度は短い縫い針を阿久津に手渡して儀式の実行のために必要な触媒をすべて藁半紙の上に収束させるための指示をする。まだ息があり脚をばたつかせている毒蜘蛛に阿久津の血液が垂らされて黒い体が赤く染められていく。ごくりと三人が息を呑み、ぼくは深呼吸をして息を整えると体内にあるエーテル粒子体を十二分に循環させて一気に詠唱を開始する。

「エルゴプラクシマプラズマテトラプラグエルマニエリスムルエルゴエルエッサイム」

藁半紙の上に黒い竜巻が巻き起こりまるで毒蜘蛛から生気を奪いとるようにして何もかも呑み込むような空気の対流によってあっという間に藁半紙の中央で足掻いていた毒蜘蛛から身体の自由が奪われていきほんの一瞬で黒い節足動物の身体がぺしゃんこに潰れて藁半紙の上が体液によって塗り潰される。術式の発効が行われて過負荷を略奪する為の案内状が生成される。

「お前をみていると出来ないことなんてないって気分にさせられる。どうなってるんだ、こんなの科学なんかじゃ説明がつけられないじゃないか」

阿久津が驚嘆しながら感想を述べて失われてしまった彼の相棒の顛末を嘆き悲しむ様子すら奪われてしまったというような表情で状況を簡単に説明する。

「これを持って連絡通路に行って結界に投げつければ消失探知から再生成までの間の三分間は侵入可能になるはずだよ。たぶん警報装置もならない。君の毒蜘蛛に対する気持ちは伝わったよ。けど、くれぐれも職員には見られないようにだけは注意してくれ」

ぼくは奇妙な形に体液が拡がった藁半紙を拾い上げて阿久津に向かって生贄を使った術式がきちんと発効されたことを誇示するようにして目の前に提示する。赤と黒が混じった不自然な模様がぼくにはまるでいつかみせつけられた金獅子の喉仏に頬白鮫が食らいついているエーテルの奪い合いのように見えている。ロールシャッハが開発した投影法が暗がりに集まったぼくと阿久津と天宮と伊澤に別々の未来を見せようと藁半紙に記号と配列のパラドックスを与えている。

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