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「さあ、我々の夢と同じもので作られた我々の儚い命はどのようにして終局を迎えることになるだろうね。九郎、君がこの世界に帰ってくるまでに輝夜の呪いは癒されているだろうか。私は父上の遺言がまた豚どもの餌になる前に駒を先に進めるつもりだよ」

『田神李淵』は『ニスタグマス』第一階層で行われている狂宴を『狗神』と供に歩きながら数を数えている人間を探し出そうとする。

カテゴリー2と呼ばれる彼らの所業が『aemeth』によって感染者数を増やしてきたかを『田神李淵』は探し出そうとしている。

「コ²ロナがもし発見されてしまえば、この船とて無事では済まされません。少しずつ我々の思い描いた絵に近づいているのではないでしょうか、李淵様」

『狗神』にとって、人間という生き物が抱えている心という不可視の器官を理解することは容易かった。

彼は『田神李淵』を筆頭とするVR∃Nの技術によって産み出された半獣半人ではあるけれど、野犬として本能に基づいた行動によって生きていた時代に『狗神』は『田神李淵』の施したほんの少しの優しさを媒介にして『魔術回路』がもたらす神秘の結晶とでも呼ぶべき獣人化契約を果たし、犬の姿から人へと変化することが出来た稀有な存在である。

通常、表皮や骨格の形成に至るまで、エーテル粒子体が各器官の細胞にあるアミノ基と結合されることで、高速での縮退と増殖を繰り返しながら分裂した体内細胞は人と獣の融合を活性化し、骨組織や神経組織をより原初の人類に近い形へと覚醒を呼び起こし、獣人という状態を達成する。

だが、『狗神』は人間という種族を基盤に産まれた獣人ではなく、街で飢えを凌いでいたシェパードの遺伝子が強制的に人間のDNA構造を模写することで、二足歩行及び頭蓋骨の肥大化によって犬科の持っている遺伝的特性を持ち合わせたまま獣人へと変化している。

哺乳類である以上、体内の循環器官や消化器官の構造及び各関節や神経伝達組織に決定的とも呼べる構造の矛盾は見当たらないにせよ、人間とその他の生物の本来的差異とは精神構造と呼ばれる未だ人類ですら完全に解析することの出来ていない未解析の領域に関する問題である。

だからこそ、本能に基づいた純然たる法則に基づいた意志によって行動原理を決定する構造変化を遂げる前の自分とは違い、社会的規範や他者との関係性において発生する理性に基づいて本能を制御することで意識を生成し、より複雑な行動パターンを獣人化に至る過程で彼は獲得することになった。

深層学習などによって広範囲な知識を得た『狗神』が彼の能力を遺憾無く発揮するためには、やはり人間の精神構造の極限値に関する問題にまるで取り憑かれたように終始する『田神李淵』との主従関係が最も効率的な選択肢であると言える。

だからこそ、野犬としていかなる法則にも従属することのなかった彼は人間と融合することで得た叡智を彼の主人である『田神李淵』に捧げようと決めている。

それは飢えに苦しみながら路上で見つけた他愛のない餌の喰らう時の本能に支配された生への渇望ではなく、まるで終わりへと到達することを目的とした自我の破壊そのものであるかのように『狗神』の意識へと働きかけている。

「さて、『狗神』よ。九郎が深淵より発見したウィルスに感染してタガを破壊した『ナンバーズ』たちが自由を謳歌しようとしている。我々はこの客船が巡航する東京湾上での虐殺を堪能するとしよう。果たして何人が生き残ることが出来るだろうか。ほら、見るがいい。過去に取り憑かれたアノニマスが災いを振りまこうとほくそ笑んでいる。至高を求めた悦楽者が人形から逆算された人間に永遠をインストールしている。射抜かれた左眼が見せる幻影が千年の時を経て、憎悪を熟成させているんだ」

中世に開発された偉大な共鳴器のような音色が『ニスタグマス』の船内を包み込む。

揺らぎをまとって境界線を瓦解させて理性と本能を交差させてしまうと、規律と規範によって抑制されていた欲望が構造の外側へと導き出される。

本性と人為の産物が舞台上で、人間という意識を従属者たちに披露している頃、西野ひかりは小瓶に籠められた災いと執念によって合成された詩を強化ガラス性の床に埋められた美的結晶を足蹴にしている共振する人格たちに届けている。

聴覚に異質な不協和を取り込んだ乗客たちが脳内を侵食されてしまうと、宴に集った人々の眼球が縦横無尽に震盪し始めて、制御不能な状態を弦楽器の音響によってギリギリ繋ぎ止められる。

もし、この場からPhysisの演奏するハーモニーが失われてしまったら、彼らの不安定な感情は途端に暴走を許して他者の存在が失われるまで続く殺戮の美酒に酔いしれる機会を与えてくれるかもしれないと汚いぬいぐるみを抱いた小さな女の子は耳元まで伸びた黒髪とヒエラルン酸によって引き延ばされた顔の皮膚の老人と手を繋ぎながらあくびをしている。

血の匂いが充満してどうにもならない悪臭を漂わせている会場を瘴気によって陽気さを覆い隠すような七色の小さな羽が飛び去っていくと、その日一番の大歓声が船内後方に位置する大遊技場の方から聞こえ始める。

時計の針が十一時三十五分を回って、ガラスの靴を履き忘れたシンデレラが鏡の向こうの自分を探し当てようとして不死者を戦いの場に送り届けようとしている。

円形の闘技場の正面に位置する大扉が開くと、中から二メートルを超す大男が現れて、威厳と風格を手に持ったまま狂気によって発動するギリギリの意識によって震盪する『ニスタグマス』たちが咆哮して暴力の源の登場を興奮と覚醒をもって受け入れようとしている。

「さて、奏。君が法則の外側から来た化け物であるのならば、彼はその法則の最大値を示す魔物と呼べるはずだ。震盪する眼球たちは君たちのもたらす儀式を楽しみにしている。百二十パーセント中の百二十パーセントを見せつけられて何人が正気を保っていられるかぼくらの今後の目的のために重要な布石だ。より不確定な要素の多い君が生き残るという選択肢に賭けることでぼくは利益を手にすることが出来るはずだね」

黒髪のオールバックの『手塚崇人』という男が賽子を空中に放り投げようとすると、どこからか見えない意志が入り込んできて賽子の回転に不規則性を与えるとDie is CastというTシャツを着た『手塚崇人』の掌に偶然性が吸い込まれていく。

円形闘技場の中央には腕組みをして漆黒の炎によって身を包んだ物理法則の枠組みでは感じ得ることが出来ないはずの光景によって自らの姿を具現化させている。

「お前が振り返ってはいけない過去に会いに来た時に、俺は世界の調和と破壊を象徴するために人の形を求めていた。視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚を手に入れた代償に人には見ることの出来ない腕でお前たちとは違う可能性へと進化を遂げた。伊達にあの世は見てないぜ。賭けはお前に勝たせてやる。俺が『理界奏』だ、よく覚えておけ」

観客席右手前方の司会席には眼鏡をかけた兎の顔の獣人が冷静沈着にバトルの行方を解説しているけれど、会場の熱気に流された緑のレオタードをきた黒髪パッツンの実況が興奮して実況席の会議用テーブルに足をかけてマイクで『理界奏』と『須佐男』の名前を大声で叫ぶと、さらに加熱した円形闘技場の観客席が怒号に近い耳をつんざくような歓声で包まれていく。

例え、光の失われた両眼を持った男がこの場に居合わせたとしても日常の外側にやってきたのだということを堪能しながら興奮する身体を抑えてじっと闘技場の上で始まろうとしている臨界点に関する白熱をじっと見据えようとするだろう。

彼の隣に座って年代物のアブサンがミネラルウォーターを混ざり合って白濁したカクテルを口にしながら黒い眼帯をした芹沢美沙が暗闇をまとって存在が希薄な親友の姿を感じ取っている。

「ねえ、もしかしたら私のプレゼントしたとても小さな歯車の刺繍された黒い眼帯をつけた妖精がこのパーティーに紛れ込んでいるような気がする。こっそり忍び込んで誰にも見つからないようにいつもみたいに悪戯をしようとしているみたい。彼女のサンダルにはいつでも彼女の居場所がわかるようにと小さな鈴をつけてあるんだ」

芹沢美沙の言う通りいつの間にかパーティーに紛れ込んだ異分子たちですらこぞって巨軀を自慢にしている男と不可視の腕を生やした男のぶつかり合う姿を垣間見ようと集まり始めている。

人混みの中をするりと飛び回っていく『アンダーソン』になんとかついていく『MDMA』が二階観客席最前方に現れて、赤いレオタードのお団子頭のレフリーがマイクで試合開始の合図を全力で叫ぶ様子を見下ろしている。

「始まったねぇ。奴らが戦っている隙をついてなんとかあの左側のVIPルームに一人で大男に見惚れている女の部屋に突っ込みたい。『アンダーソン』何かいいアイデアはあるか」

仮眠をとって元気になった『アンダーソン』が丸眼鏡の『チョコレート』に耳打ちをして天井に吊るされた巨大なシャンデリアを指差している。

ニヤリと『パイナップル』が笑顔をこぼして、『グミ』が数珠丸をカチャリと抜いて波紋の怪しげな光を確かめる。

きっと切れ味になんの迷いも混じってないのだろうと『MDMA』の三人組は頷いて円形闘技場で行われている未体験ゾーンが会場全体を包み込んで狂喜乱舞する観客たちの異様な熱気で包まれて誰も何も見えなくなるその機会を伺おうとする。

『チョコレート』はベレッタのアタッチメントを変えて一世一代のスタントを決行する意思を固めていく。

開始とともに咆哮する『須佐男』の口から光弾が射出されると、正面で腕組みをして身構えている『理界奏』の正面で光の塊が静止して圧縮されていくと弾け飛ぶようにしてエネルギーが消失して小さな光の粒子が飛び散っていくと同時に宙に浮いた身体を制御して空中から攻撃的意志そのものを呼吸の休まる暇もないほど連続して『理界奏』は浴びせかけるけれど重厚な筋肉の鎧をまとった両腕を交差させて『須佐男』は何もかも防ぎ切ってしまう。

絨毯爆撃のように不可視の衝撃波で手術痕だらけの肉体を誇示する『須佐男』を中心にして円形の武闘場が破壊されて埃が舞い上がり始める。

視認することの出来ない暴力が暴発して鋼鉄の肉体を蹂躙し続ける様子に観客たちは固唾を呑んで見守ることしか出来ず、爆発音が響く派手な戦闘とは裏腹に逸脱した幾何学形が支配する空間からやってきた混沌の使者と改造され改訂さて改変され改悪され続けた守神が切り離された大他者の享楽を踏みにじるようにして猛り狂うような舞を踊り続けている。

「それじゃあ準備はいい? 私があの中に飛び込んで気を引いている間にあなたたち三人はシャンデリアを打ち落としてそのまま空中ブランコで左から一個目の部屋に突入するの。ちょっと危険だけれど、多分それが一番いいと思う」

『アンダーソン』がふわふわと空中に飛びながら座禅を組んで意識を集中すると、七色の羽に光が収束していって彼女の身体は光の波動に包まれ始める。

彼女はそのままふぃっと飛んでいく光景を後追いすると、『チョコレート』は天井目掛けてベレッタの照準を合わせて一際歓声が大きくなった瞬間を狙って銃弾を撃ち放つと、ワイヤーロープが天井に突き刺さって弧を描くようにして『MDMA』の三人は二階客席からVIPルームに向かって空中を滑空する。

彼らの後ろで葡萄酒や蒸留酒や気泡酒を呑んでいた『ニスタグマス』が揺れ動き続ける眼球運動で捉える視覚情報と周期的に変化し続ける『ヘルツホルム』によって刺激される聴覚情報に耐えられるお互いを罵り合い貶し合い貶め合いながら殺し合いを始め出す。

災いがやってきて今日がその日だってことを分からせるようにアノニマスが高笑いをしながら歩いている。

強化ガラスが血の色で埋められて注ぎ込まれた月の滴によって構成された新しい人間の姿が見えなくなってしまうと、闘技場の歓声が静まり返って細く美しいワイヤーロープで吊り下げられた『MDMA』と『アンダーソン』のすぐ傍をシャンデリアが真っ逆さまに落下していく。

「お前たち羨ましい。いつも楽しそう。オレはここしか居場所がない」

撃ち落とされた天からの光のすぐ上にはとても醜くて嫉妬に満ち溢れた痩せ細った生き物が座っていて『アンダーソン』と目が一瞬だけあったけれどそのまま地上まで音もなく落下していくと、円形闘技場で命を削りあっている『理界奏』と『須佐男』の頭上に到達した瞬間に二人の圧倒的な暴力を前にして完全に粉砕されて豪華客船に紛れ込んでいた不穏で歪な醜悪な生き物は有限な命を奪われて『ニスタグマス』から退場する。

「お前はいつもそうやって人のせいにしてばかり。あんな危ない場所にいられる勇気はあるくせに何もしないでずっと突っ立っている。笑われることなんて気にしなければいいのに」

円形闘技場の周囲を取り囲んでいた観客席の何人が一体彼らの存在に気づくことが出来たかどうかは分からないけれど、滾るような熱気と壊れそうなほどの怒号と奇声がきっと彼らの姿を覆い隠して、『壱ノ城穎』がたった一人で玉座の真横に座っているVIPのガラスが『MDMA』の三人に蹴破られると割れ飛び散ったガラスは朱雀の有翼種である『壱ノ城穎』の美しい肌は一切傷つけることなく永遠を約束された時間の中で生きながらえる至高の存在を映し出す『八咫鏡』を『アンダーソン』は発見する。

「どうして私を助けようなどと思った。この紫の鏡に映る腐敗した私の顔がそんなにも疎ましいか。時間が奪われるという地獄を私が味わい続けていることに同情でもしにきたのか」

勢いをつけ過ぎてVIPルームの奥まで激突した『グミ』、『チョコレート』、『パイナップル』の三人はガラスの破片にまみれて頭を抱えながら痛みが引いてくれるのを待っている。

『アンダーソン』はゆっくりと七色の羽を使って『穎』の傍まで近づいていくと背負ったリュックの中から『桜珊瑚』の剣を取り出して『穎』に忠告をする。

「鏡の中に映っている君の姿は偽物だよ。紫色の鏡はいつの間に月の光を長いこと浴びてないせいで本当の姿を映し出すのを忘れている。きっと歴史の渦に呑み込まれていった君の妹が『輝夜姫』の呪いの在り処を探し出してくれるはず。それまではこれで我慢してね」

『アンダーソン』が『桜珊瑚』の剣を振りかざして『八咫鏡』を軽く叩くと紫色の額縁で装飾されていた神器が時刻管理人の手を離れて呼び起こされる。

鏡の中に映し出された『壱ノ城穎』の姿は皮膚が爛れ落ち腐敗した姿などではなく薄く透き通るような襦袢を着たありのままの姿の巫女へと変化している。

「どちらにせよ私はまた若さの牢獄の中に閉じ込められる。二度と脱け出すことの出来ないのならば、永遠を供に生きるあのお方を最後まで貫き通すだけだ。有栖が少女たちの夢を叶え続けるのならば、私もそうやって願い続けることしか出来ないというべきか」

時計の針がちょうど十二時を指して終局の鐘が近づき始める。

すでに人智を超えた戦いへと発展している大遊戯祭の頂上決戦によって円形武闘場の大部分は破壊されて『須佐男』が喰らい尽くそうとする瘴気を吸い取られた影響から周囲で歓声をあげていた『ニスタグマス』たちのほとんどが力を奪われてまるでシャンデリアの上で嫉妬に溺れていた生物のように精気を失ったままただ天上天下唯我独尊とでも表すべき逸脱した空間を無気力のまま眺めている。

「やはり『コ²ロナ』が発生したようですね。心を奪われた者たちが正気を失って命の尊厳を奪い合い始める。外に漏れ出ることさえ許されない阿鼻叫喚の地獄絵図。きっと北斎あたりならば喉から手が出るほど見てみたかった人間性の極点。李淵様、そろそろ約束の時間です。『班目元帥』の潜水艦が迎えに来る頃でしょう。第四階層まで引き下がる頃合いです。『花江』様が非常口でお待ちです」

殺し合いに敗れて命の途絶えた『ニスタグマス』たちが息絶えて倒れている船内を悠然と歩いて『田神李淵』は非常階段付近で灯籠鬢に髪を結んだ獅子が描かれた艶やかな着物姿の女性が血液で濡れた銀色の簪を持って立っている。

彼女の足元には首筋から血を垂れ流す男と女の死体が横たわっていて、『田神李淵』と『狗神』に気づくと彼女は小さく会釈して二人を第四階層へと案内しようとする。

「おばんどす。李淵はんならギリギリになる思うて、うちも少し楽しんでしまいましたさかい。そこのお犬さんからしたら血の匂いが気にのうてシャーないやろうけど我慢しはってな。後片付けはレンとユウコはんがやりますさかいうちらは先を急ぎましょ」

彼女の傍にはサングラスをかけた角刈りの男が立っていて胸元の膨らみから拳銃を携帯しているようだけれど、硝煙の匂いなどは感じられず、無言のまま『田神李淵』と『狗神』を導くように非常口から階段を降りて和服姿の花江と彼女の用心棒である『深作耀司』が客船最下層部まで案内をする。

「『赤い星』の艦隊だけでなく先ほど発生した放射性物質の存在に気付く部隊も現れるはずだ。国籍不明の『Mr・Friday』の船だ、無事では済むまい。沈没するまで何人が生き残れるか分からないが彼はこの船の終焉を最後まで見届ける気だろうな。『LovE』氏の見たい世界だけを見せ続けるための『ニスタグマス』。いわば、私たちとは対極の存在だな」

いつの間にか殺意と悪意は見分けがつかなくなり、ほんの少しの溜息と憂鬱が苛立ちに入り混じって螺旋状に絡めとられた欲望が船内を満たしきっている。

それは安易に消費されうる不可思議で実態のないどこにでもある日常の風景の裏返しとしてまるでこっそりといつの間にか忍び込んで増殖したウィルスみたいに『コ²ロナ』を植え付けた行動を支配する。

それを持って生きることを選べば喜びや楽しみを苦しみや悲しみや怒りと引き換えるに得ることが出来るけれど、希釈された個性が隣の誰かと判別のつかない顔を産み出して、頂上にたどり着くことだけを愉悦と感じる最大限の優しさで満たされた人格を形成し始める。

「私たちは大人として、暴力が行使される瞬間を最後まで見届ける必要がある。『LovE』よ、お友達といつでも此処から抜け出して構わない。この日この時はすべてお前の為に用意したものなのだから」

『Mr・Friday』の素顔を知るものは少ない。

彼は暗闇に紛れているわけではなくただ誰も彼の顔を知らないと言うだけではあるけれど、表舞台に立つことはない彼にとって傍で彼自身を象徴し続ける『LovE』氏の存在を無くして彼を語り尽くすことは疎か『ニスタグマス』に辿り着くことすらできないだろう。

「ありがとう。私はあなたの傍に居続けるつもりです。失くしたものも手にすることが出来ないものもきっとあるけれど、その為に私はあなたに選ばれたのですから。死に魅入られた『魔術回路』が抜け道は用意しています。どうか、最後まで彼らの雄志をごゆっくり見届けてください」

『Mr・Friday』のVIPルームの奥まった場所からブルーのフリルスカートと白いニーソックスの狭間に存在する絶対領域を強調した魔法少女が現れる。

真っ白な肌と真っ黒な髪の毛と吸い込まれるような瞳を持った彼女は『LovE』氏の傍に近づいて円形闘技場で行われている咆哮し身悶える『須佐男』と人間が想像出来る悪意の姿を出来うる限り越えようと実体を再構成し続ける『理界奏』の死闘を見届けようとする『Mr・Friday』と『LovE』氏の二人を杞憂する。

「ユーフォリア。今は『LovE』って呼べばいいのかな?魔法の使えない私たちにとってこの場所から抜け出すのは至難の技だよ。一応、私の大切な召使に救出はお願いしてあるけれど、早めに準備しておくに越したことはないと思う」

『LovE』氏が、──わかりました、お願いします──と旧友にとても丁寧に頼みごとをすると、黒髪の魔法少女、巡音潤はハート型のアクセサリーを取り出してコメカミにB.B.弾を撃ち放ち、VIPルームから『ニスタグマス』甲板上へと一瞬でテレポーテーションする。

真っ黒な海に囲まれた東京湾上で彼女は満天の星が輝く上空に向かって指笛を吹いて彼女の願い事をテレパシーで送信する。

「こちらイエガー。爆撃要請の承認を感謝する。ターゲット1は太平洋を南下して南シナ海の『赤い星』前線基地へ向かうものと推測される。大和領空圏及び領海権内での作戦行動につき、ファットマンを発射後、即時空域を離脱後、エンデに帰還。『コ²ロナ』が発生している。撃墜しても誰も文句は言わんさ。離脱後のジャミングは任せたぞ、チリペッパー」

シベリア海峡付近の太平洋上空五千メートルを国籍不明と思われる戦闘機がトマホークミサイルを搭載して編隊すら組まず南下している。

彼のさらに上空五千メートル上を飛行しているのは人工筋肉比翼で太平洋上を偵察している無人飛行機で暗号回線を通じてモールス信号を周囲の海域に拡散している。

まるで完成された魔術のように張り巡らされた警戒網を掻い潜って『ラグランジュポイント』を偽装する為に電磁波がまるで太平洋上でかつて行われた奇襲攻撃を再現しようとトラトラトラ! と信号を送ろうとしている。

「ねぇ、リリー。あなたの災いのエーテルとお祖母様の果たせなかった情念が炎症を起こして身体を焼き尽くそうと呪いをしっかりと暴走させてくれたわ。きっとあなたは私の傍に最も長く居続けた魔術師ってことになるのかしら。もし私があなたの全てを奪う時が来たのなら、あなたの血液と肉片は豚どもの餌にしてあげるべきなのでしょうね」

狂気によって支配された虚無が創造性の行き場を無くして生命の断絶という行為を味わい続けることで脳内の欲求を満たそうと暴れ回っている。

実態のない恐怖がそこら中を泳ぎ回っている様子を西野ひかりが嘲笑っているけれど、死の奔流は徐々に拡大して円形闘技場で狂熱に浮かれている観客たちまでも侵食し始めると、揺れ動き目的を見失った眼球によって視点が四散したまま分解されて中央で行われている『須佐男』と『理界奏』が作り出す幻想を見据えている盲目の男を刺激している。

「さぁ、空の上から終焉の時がやってきている。モールス信号に乗せてこの場所を見つけた人格が虚偽を発見して探査任務に合格したんだ。ぼくらもそろそろ船を離れる必要がある。聴覚の限界まで達した暴力が最大限度にまで達するはずだ。耳を済ませるんだ、ぼくたちはここで一緒に命のやりとりを行って見えない声を感じ取ろう」

上空五千メートルの雲の上で亜音速飛行を徐々に緩めながら、太平洋上を周遊する異物へ照準を合わせ始めた戦闘機のパイロットが地上から消滅してしまう災いによって消滅してしまう無数の魂が沈んでいく海の底のことを思い浮かべながらゆっくりと右手の親指に力を込める。

「この船が海の藻屑へと沈めばG20がほくそ笑む。最後の瞬間をよく味わってみろ、『Mr・Friday』。これがサーからの最後の贈り物だ。アディオス、アミーゴ」

戦闘機の右翼に配備されたトマホークが切り離されて発射音と供に漆黒の空を切り裂いていって既に大量の血によって贖罪を始めた『ニスタグマス』目掛けて音速へと近づいていくと、海上を漂う屍者の帝国を蹂躙しようと戦争装置の極点を剥き出しにして喰らい尽くそうとしながら爆炎をあげるミサイルは一切の照準を狂わすことなく音速の壁をあっという間に超えていく。

「ほら、聞こえない眼が話していた通りだね。愚者はここでお互いを傷つけ合って行き場所を見失ってしまうの。空から天使がやってくるよって子供たちが騒ぎ回っている」

そうやって芹沢美沙がまるで御伽噺みたいな現実について話し始めると極大の爆発音が響いて円形闘技場の天井が破壊され真っ白な絶望が中央で威厳を保ったまま立ち尽くす『須佐男』の頭上に振り下ろされてくる。

身体中が傷だらけになりながらも一切の精力を失うことのない海の守神が右手を掲げるとジェットエンジンの点火されたミサイルを掌で受け止めて握り潰されようとする鉄塊が圧縮されるように引き裂かれて『須佐男』の身体全部を巻き込むように轟音を響かせながら大爆発を引き起こす。

あたりが炎熱と爆風によって常態を破壊されて限界まで引き上げられた臨死体験を拡張して、生という刹那の喜びを眼球が震盪し続けている獣へ思い知らせようとする。

「ほら、言った通りだ。ここでは眼が見えることなんて何の意味もなさない。最高のアトラクションが僕たちの傍で最大限度の刺激を搭載したまま暴れ回っているだけなんだ。さぁ、甲板に出よう。『執務室』第七管理官がきっとぼくらを出迎えてくれる」

斎藤誠は芹沢美沙の右手を掴んで立ち上がり後方部分が破壊されて傾き始めた船内から脱出しようと狂おしいほどに壊れてしまった挙句に意志を剥奪された亡霊たちの間を練り歩いて死と絶望の予感を切り裂いていく。

強化ガラス製の床に横たわった死体が二つに裂けてしまった豪華客船の底部へとずり落ちながら落下して『Mr・Friday』が作り上げた人間性の極地を披露する海上の人工楽園が陥落する。

悲鳴も怒号も間に合わず、助けを呼ぶ声も届かずに崩壊だけが法則となった空間を『アンダーソン』は優雅に飛んでいき、真っ黒でタイトなボディスーツに身を包んだ『グミ』、『チョコレート』、『パイナップル』の三人が剥がれ落ちていくコンクリートを飛び跳ねながら、『MDMA』がターゲットに選んだ──ジャクソン・ポロック=The Moon Womanの強奪へと向かう。

「ようやっと、ワシの出番じゃ。『数珠丸』がポケットいっぱいの宝物をほしがっちょる。いくで。次元断裂刀で一切合切ワシらのギャラリーまで持ち帰ったる」

『グミ』が携えていた『数珠丸』を鞘から引き抜いて、虐殺と殺戮の祝祭日『Bicyle Day』で溢れ出た血液と体液によって汚されて足蹴にされた超現実主義の悲願を手に入れた画家や個人体験の感覚の分離を目指した絵描きやカメラを手にすることが出来なかった光の探求者たちが埋もれていている強化ガラスを一気に切り裂いていく。

「行くよ! 私たちはこれにかける! The Moon Womanは私たち『MDMA』が頂いていく!」

『パイナップル』が『シャッターチャンスのエーテル』を使って両手の指で作ったフレームの中に次々に名画たちを納めていく。

『チョコレート』がベレッタで弾丸を撃ち放ちひび割れた強化ガラスの亀裂を加速させて名画たちを守り続けてきた伝統と革新の誤解に関する些細な野望を引き剥がしてしまうと、『グミ』が『数珠丸』に呪詛の言葉を呟いて真っ白な閃光に包まれた刀身をThe Moon Woman目掛けて振り下ろす。

「ねえ、嘘みたい。私はもっと早くにひかりに殺されるものだって思ってたの。なのに、ほとんどの人の命が無くなってしまったこの場所でたった二人で誰にも見ることの出来ない光景を眺めている。私たちはお魚になってこの暗い海の中に沈んでいくんだよね」

「そう。二人で一緒に海の中を死体になって彷徨うの」

「ぷらとにっくすぅさいどですね?」

「いいえ、だぶるぷらとにっくすぅさいどですよ」

船首付近で抱きしめ合いながら瓦解していく『ニスタグマス』から海中へと落下していく二人の女性を『理界奏』は黒い翼で宙を舞い、見えない腕で抱えている『手塚崇人』と無数の命が失われていく瞬間を見下ろしている。

悪魔のような両翼をバサリバサリと動かしながら、まるでやっと出会えた王子とお姫様みたいに両腕で『壱ノ城穎』を抱えた『須佐男』が明るく輝く満月に向かって消えていくのを駆けつけた救助ヘリのパイロットが見つけたけれど、きっと悪夢でも見てしまったのかもしれないと避難梯子を登ってくる黒縁眼鏡のTVスターを救うことに専念する。

「危険な場所にばかり連れてきて済まない。どうしてもぼくは暗闇で生きるってことを君に伝えたかったんだ。意地悪なことなのかな」

「そうは思わないけれど、私が光をまだ捨てていないってことをきっとあなたは恨んでいると思っているの。それはきっと」

「身体を重ね合わせるたびに感じてしまうような些細なことさ」

「じゃあ私たちはちゃんと生きてこの場所から帰るべきなのね」

「そういうことになる。だからどうかお姫様。ぼくの手を離さないでいてくれると嬉しい」

多分、それはたった一つの違いが産んだ小さなすれ違いで全く同じ思いを抱えていた二人の指先が重なり会う瞬間に訪れたとても僅かな歪みによって芹沢美沙は断裂していく『ニスタグマス』の甲板上から光の届かなくなった暗闇へと落下してもう何も見ることが出来ないっていう時間から引き剥がされてしまう。彼女が海の底へと落ちて行こうとするときに彼女の鼓膜に小さな鈴の音が聞こえてきて聞き覚えのある小さな妖精の声が彼女を掴み取ろうとする。

「いっちゃだめ! 君はまだ生きるの! 今度はもう私のことを離しちゃだめ!」

咄嗟に胸元まで『アンダーソン』を引き入れた芹沢美沙はどうにもならない状況に周囲を囲まれて脱け出すことの出来ない海の底へと沈んでいきながらぼんやりと彼女が初めて左の眼球と出会った時のことを思い出しながらゆっくりと目を閉じて気を失ってしまう。

「あーあ。結局今回も運命の恋人には出会えなかった。合計で48³人も殺してしまったのに心を奪うことは一人も出来なかった」

レンがジェットエンジンを搭載した救命ボートの上でハンドルを握っているユウコと背中を合わせてもたれかかっている。

「あなたに出来るのはそれぐらいのものよ。大きな願い事はウニカに任せなさい。ほら、こんなときにぴったりの歌を彼女が作ってくれたでしょう。私たちは新しい部屋に引っ越してしまうだけ。簡単な話よ」

海上ではかつて豪華客船としてたくさんの人間に享楽を与え続けてきた『ニスタグマス』が炎上しながら鉄の塊となって沈んでいく。救助ヘリや救助艇がいくつか集まってきているけれど、そのどれにもまともに息をしている人間のようなものは見当たらず、ただ金によって定められた適切な救済措置を与えられたものだけが選ばれたという事実をかみしめるようにして海域から離脱していく。

「ごきげんよう。悪の秘密結社たるVR∃N筆頭、『田神李淵』殿。私が『人類の敵』『赤い星』独立部隊所属『斑目士尾』元帥である。そして彼があなたたちを月の呪いから解き放つ救世主様だ」

「お初にお目にかかる。輝夜の宿敵、五月姫の亡霊、『田神李淵』。喜仙からの伝言を承ってきた。このままでは佐知川ルルのバイオノイドが軍部に配備されてしまう。完全人道兵器『永遠』の実戦投入を妨害せよとのことだ。今日から俺もお前に乗ることにする。大東衛士だ」

重なり合う二つの亡霊が引き剥がされて分裂をする。

もともと一つであったものたちが決して逃れられない宿命によって遮られたまま月まで還ることの出来なかった男と女を呪い始めている。

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