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05. Með Blóðnasir

プリントに書かれた米澤と瀧川の名前に日常が壊れてしまったきっかけを目の当たりにして、また一気にぼくの脳味噌がぐるぐると回転して大量の情報を処理しようとするように熱を上げているのを感じる。

プリントを渡そうと振り向いた芹沢さんのマリオネットの刺繍の黒い眼帯が目に焼きつく。

「佐々木君。ずいぶん疲れた顔をしているね、勉強のしすぎかな?」

芹沢さんがぼくのことを気にかけてくれている? というのに、昨日あったことで頭がいっぱいでテンションがあがらない。

「ううん。そういう訳じゃないんだけど、なんだかいろいろありすぎてパニック状態。今日も芹沢さんの眼帯はへんてこなイラストだね」

ついうっかり軽率な発言。芹沢さんは恥ずかしそうに笑顔を溢して前に向き直る。

なんというかこんな笑顔を見られただけでぼくは報われたような気分になる。

「ということで今回の事件のことでマスメディアが押し掛けてきているようですが、出来る限り応答しないようにお願いします。特にうちのクラスはクラスメイトでしたから軽率な受け答えは控えましょう。よろしくお願いします」

相変わらずとても実直な三島沙耶がプリントに記載された瀧川と米澤の自殺に関する学校側からの注意書きについて説明をしている。

「あの、まるで操り人形が突然意志を持って完璧な形を求めるような死体でした、って私答えちゃったんですけど。なんてテレビ局だったかな」

出席番号二十六番、西野ひかりの唐突で不自然で不可解な発言にクラス中が静まり返る。

「私からは今後は注意してください、としか言えません。西野さんが何かそのことで処罰を受けるようなことは今の所は無いと思います」

西野もそれから三島もお互いにほとんど表情を崩さずに二人の唐突な消失に関する事件を当たり前のことを当然のように淡々と話し、クラスメイトたちの前で瀧川と米澤からおそらくクラスメイトのほとんどが感じとった印象である完成されたオブジェみたいな二人の最後の姿について西野の的確な感想をじっくりと息を呑んでぼくたちは静まり返って聴き入っている。

「そうですよね。私はあの二人と特に親しくしていた訳ではないけれど、やっぱり突然空席になってしまった彼女たちの机と椅子を見るとどうしていいのかわからなくなってつい。今後は気をつけますね」

何を言いだすかわからない西野ひかりにクラスメイトたちは様子を伺うようにして耳を傾ける。

「それではこれで職員室からの通達を終了します。各自よくプリントにもう一度目を通しておいてください」

死者の弔いには似つかわしくない三島の抑揚が感じられない説明が終わるとみな一斉に席から立ち上がり、帰り支度を始める。

なんだか今日の授業は昨日の一件を頭の中で整理するのが精一杯でまともに聞いていられなかった。

「相変わらず真面目だねー、沙耶は。そんなに硬かったら男の子にモテないと思うよ。ねぇ、時田君ってあんまりクラスに友達いないよね?」

ぴたっとプリントをまとめる動きを止めて、窺い知るような目を西野に向ける三島。

張り付いたような笑顔で答えを待ち望んでいる西野はなんだか仮面をつけているみたいだ。

「うん。たぶん。ただ、確か魔術科に幼地味の女の子がいたんじゃないかな。よく放課後二人で帰るのをみたことがあるよ。どうして?」

学級委員だからかそれとも持ち前の面倒見の良さからなのかクラスでも特に浮きがちな時田のことも三島は把握してる。

彼女は常に人としての理想形を体現しようとしているような気がしてしまう。

ときおりそんな窮屈な彼女をみてマザーテレサか何かを思い浮かべてしまう。

「ううん。なんとなくミステリアスだなぁって思ってさ。彼の手の形が綺麗だなって、ありがとね、沙耶。今度、この前のパフェまた一緒に食べに行こう。じゃあねー」

そんな風に三島に軽口をいい小さく右手を振ると、西野ひかりはそのまま教室を出ていってしまう。

後ろの席では白河稔がまだ席に残っていてノートに何かを書きなぐっているようだ。

ぼくは席を立ち、昨日あったことを白河稔に相談しようと歩み寄る。

彼の席の二つ後ろには中沢乃亜がいてクラスの女子たちとおしゃべりしている、まるでどこにでもいるとても普通の女子高生みたいに。

「白河君、後ろの範馬刃牙のことでぼくは一睡も出来なかったデござるよ。君はどうだい?」

白河君は、は! と直前までぼくの存在に気付かなかったのかぱっと上を向きやっとのことで夢から醒めたような顔をして目をパチクリさせながら眼鏡のズレをクイッと直す。

「あ、いや、それよりも昨日不思議魔法使いが使用していたパソコンから出力された交流証取得名簿でござるが。五月から不自然なほど頻繁に利用している生徒が魔術科、普通科含めて計三人。一人は魔術科1-β出席番号十四番水恩寺莉裏香、もう一人は魔術科2-δ出席番号四十番巡音花音、そして驚くことにもう一人はうちのクラス、十三番芹沢美沙でござる。あの名簿ならば意外と簡単にこの三人を割り出すことが出来たでござるよ」

よく見たら白河君の目の下はくっきりと黒い筋がついていてどうやらだいぶ寝不足らしい。

あんな出来事があった日にぐっすり眠れる強靭な精神力をもった人間がいるものならぜひお近付きになってみたいものだ。

「せ、芹沢? 芹沢さんが魔術科棟に頻繁に出入りしているの?」

瀧川と米澤が西野の言う通り──完璧な形を求めるような死体──になったあの日、渡り廊下から中庭の光景をデジタルカメラに収めていた芹沢さんの姿が嫌な予感として頭の中をよぎっていく。

そう、魔術科がもし、ぼくら普通科と接点を持ち、何かしらの術式を仕込んだとしたら、きっと普通科に共犯者がいると考えるのが妥当なんだ、そしてその容疑者と思しき一人がこのクラスにいる。

芹沢さんは彼女たちの操り人形みたいな死体をみていったいどう思ったんだろう。

「そうでござるよ。いつも佐々木氏は眼帯の模様ばかり気にしているデござるな。叶わぬ恋、小生もイタミイルデござる」

白河君に図星を突かれ、すぐに現実に戻るぼく。

状況とデータが告げる容疑者候補の名前が芹沢さんだったことに同様しつつも偏見によって鈍ってしまう判断力を失ってしまわないように、おそらくこの事件に関わっていると思われる魔術科側の容疑者二人に話を逸らす。

「水恩寺は聴いたことがない名前でござるな、けれど確か巡音は大戦前から続いている由緒正しい魔術家系の名前、筆頭魔術師とやらに、かの家系は何人も輩出していたデござるな。在学中の巡音家は確か三年生筆頭、巡音悠宇魔でござったか」

金獅子のエーテル、巡音悠宇魔は十月に行われる『チルドレン選抜試験』に選出されることが確実と言われている現学園の筆頭魔術師。巡音は名家、巡音花音とやらも一門ならば相当の魔術使いで考えてしかるべきであろう。

「ふむ。佐々木氏がどのような理由で彼らのことを知ろうとしているかは分からぬがもはや乗りかかった船でござる。芹沢氏の件はとりあえずおいて、魔術科の二人から当たってみるデござる。さて、まずは交流証の発行理由でござるか」

件の名簿には、クラス名と出席番号と名前以外にもう一項目記載があったような気がするけれど、一見した限りでは普通科にはない項目だった気がする。

「白河君。たしか例の名簿には先程の情報以外にもう一項目記載があったような。そちらの項目のほうは調べてくれたでござるか」

白河君は鞄の中からクリアファイルを取り出してボールペンでたくさんの殴り書きがされた名簿を取り出す、昨日の夜よほど煮詰まって作業したのだろう。

「ふむ。確かエーテルとやらに関する記載があったでござる。今回の情報のみならば小生でもなんとかなったデござるが、固有エーテルとやらは確か身内と学校関係者以外は普通知らないものと某掲示板でみたことがあるデござる」

魔術回路持ちのエーテルとやらには火、土、水、風の固有元素が存在するらしいけれど、稀に、つまり筆頭魔術師のような輩には、その個人だけがもつ固有エーテルが産まれることがあるらしい。

小学生の時、クラスに混じっていた魔術回路持ちが、うっかり校庭の片隅で誰にもバレないように自身の固有エーテル『砂のエーテル』で小さな城を形成していたのを目撃して気まずい思いをしたことがある。

彼は今ごろどこかの魔術訓練校にでも進学しているのであろうか。

「まず、水恩寺、彼女は『泥のエーテル」、珍しいけれど土の派生でござろう。次に巡音、残念ながら彼女の項目は黒く塗り潰されているデござる。まさか魔術科にいながら回路を持たない、とかそういうオチでござろうか。巡音家の子女がノーマルとは。何か陰謀めいたものを感じるデござるな」

「では白河君。魔術史基礎のレポートという名目で魔術資料室を利用したいというのはどうでござろうか」

きまりでござるな、と白河君が答えるとぼくらはそそくさと職員棟まで出向き、国語教師梶川にとても疑り深い目つきをされながらも、なんとか二名分の署名が書かれた交流証をゲットする。

普通科生徒用の渡り廊下入り口で、梶川から手渡されたマニュアル通り交流証を使用するとまるで電磁気が視覚化されたような結界がフイッと消滅する。

「小生、実は初めての魔術科棟。向こう側にはもしやステッキや箒をもった合法ロリ娘たちが魔法の言葉でお話する桃源郷が広がっているのでござろうか。ドキドキがとまらんでござるよ」

いやいや、白河君。

そもそも彼らは普段もぼくらと同じ生活をしている見た目はぼくらと、変わらない人間。

この学園の理念である──生徒個人の能力に従った独自教育を──なんてものがなければ、教室が別になるなんてこともなかなか。

まぁ、でも彼らからすれば自然と差別のようなものは当然ながら受けているのだろうけれど。

小学生の時に偶然見つけた砂のお城には扉と窓が一切なかったことを思い出す。

「まぁ、箒にのったおてんば娘がいるかどうかはともかく魔術科というのは全国でも珍しいのだから思いもよらぬ発見はあるかもしれないでござるな。先を急ぐデござる」

五十メートルはある二つの棟を繋ぐ渡り廊下、右手には神人科棟がまるで巨大な電子要塞のように光を点滅させている。

神人科棟中央からは大ホールと並ぶ『七星学園』におけるもう一つのシンボル『軌道エレベーター』が天を突き破るように伸びている。

神人棟の生徒たちである『コピーズ』とは名目上接触することはないに等しい。

彼らは一体ぼくらにどんな未来を期待しているのだろう。

左手には魔術科用渡り廊下がグルッと伸びていてその向こう側には中央図書館が見える。

ふと、魔術科用渡り廊下の前方をみると、小柄な女子生徒が普通科棟へ歩いていくのを発見する。

もしや水恩寺、もしくは巡音とやらであろうか。

先を急ぐぼくらは見知らぬ彼女をスルーして魔術科棟に侵入する。

「ここが魔術科棟。一見すると同じでござるが、たしかに生徒のブレザーやソックスに魔術の烙印とまで言われているロゴマーク、それにクラス表記が違うでござるな」

「ふむ。ならば、とりあえずはこのフロアの反対側の棟にある2-δに向かってみるデござる、巡音花音に直接アクセスしてみるデござる」

「なんと、佐々木氏。いくら魔術科とはいえ、女子に話し掛けるような特攻を仕掛けるつもりでござるか。小生、いつまでも佐々木氏についていくデござるよ」

特に挙動不審でなければ、制服の色が学年ごとに互い違いであるぐらいで烙印持ちかどうかは気付かれそうになく、一階はまだ授業中のクラスが多いせいか廊下は静まり返っていてすんなりとコの字型の棟の反対側へと移動することができ、魔術資料室や魔道具保管庫など見慣れない表記の部屋を通り過ぎて階段を登って二階へ上がり左に曲がるとすぐに2-δの白い掲示がある教室をいともたやすく発見することができた。

運良く2-δは授業が終わっているようで教室を覗くと生徒がまばらに残って談笑している。

「ねえ、白河君。あの子。あれはパソコンとお話していた例の痛い系魔法少女でござらぬか。このクラスでござるのかな」

昨日の放課後、視聴覚準備室でwindowsPCと霊界通信を行なっていた黒髪の少女は銀髪の超絶イケメン男子となにやら会話をしている。

「これ、手にいれるのがけっこう面倒くさかったんだからね。大河はこの後ひま? ちょっとお買い物付き合ってよ」

「相変わらず仕事が早いな。けど悪いな、この名簿は『E2―E4』と一緒にすぐにでも確認しておきたい」

「あっそ。お兄ちゃんには手加減なしって伝えておくー」

黒髪の不思議少女は銀髪と話し終えるとそのままぼくらが覗いている扉とは反対側の扉から教室を出ていく。

ちょうどぼくらがいる扉に男子生徒が近付いてきたので話しかけてみる。

「つかぬことをお聞きしますが巡音花音殿はこのクラスでしょうか」

「巡音? 彼女ならほら、ちょうど向こうから出て行った黒髪の。君たち普通科? 彼女を普通科にお誘いにでもきたのかな」

男子生徒は嘲笑うようにして彼女のほうを指差す。

機械と喋る女子生徒、彼女が巡音花音。まさかの発見に少しだけ動揺して白河君と目を合わせる。

「むむむ。彼女のエーテルが黒塗りである理由がなんとなくわかってきたでござる。もしや──彼女は──」

白河君は思慮深そうに考えこみながら一目惚れをした暗闇をまとう魔法少女のことを後ろからじっと見つめた後に銀髪の男子生徒を再度眺め、意気消沈している。

「顔を確認出来ただけでも今日はよしとするデござるか。もう一人の水恩寺のほうも伺ってみよう」

項垂れている白河君の背中を押して元来た道を引き返す僕ら。

コの字型に折れ曲がっている渡り廊下部分でぼくはまたあってはならない光景を目撃する。

左眼に黒い眼帯をした普通科二年の証である緑のチェックのスカートを履いた女子生徒、ぼくが疑念を何度も違うと追い払い頭の中から追い出そうとした芹沢美沙、ぼくが自分勝手なエゴに囚われていると知りながらもナイトになりたいと思うその人が、魔術科棟の三階へと登ろうとしている。

「今日はお互いにとって厄日でござる。というよりも昨日から巻き起こる出来事の情報量の多さに小生はパニック状態でござるが、けれど、どうせ食らうなら皿までといったところでござろう。彼女の、後を追うで選択肢は間違ってないでござるな?」

うん、と小さく頷いてぼくと白河君は芹沢さんにバレないように見つからないようにこっそりと後をつけることを提案する。

彼女はいったい何をしに魔術科棟にいるのでござろうか。

嫌な予感だけがぐるぐると頭の中を駆け巡っている。

階段を登って左右を確認して彼女の姿を追うと左側へと曲がり奥へと進む芹沢さんの後ろ姿を発見する、近付いて気付かれてしまったら何もかも終わってしまうような気がしてぼくは少しだけ歩幅を緩めながら歩き、曲がり角のところで半身だけ傾けるようにして彼女の行方を確認する。

あのね、芹沢さん。

ぼくは君に恋をしている、たぶんこれは本当の気持ちなんだ、そう心の中で唱えながら、彼女が入る教室の場所を確認する。

「どうやら彼女の目的地はあの教室だね、白河君。最後まで付き合ってくれるかな、ちょっとぼくはいま一人であそこまで行ける自信がない」

「もちろん、小生もふらふらでござるが傷を分け合うのが親友というものでござろう、心の友と書き心友、さぁ、いくデござる、この目でなにがあるか一緒に確かめるデござるよ」

ゆっくりと出来るだけ足音を立てないようにして芹沢さんが入っていった教室に近付くと第二音楽室と書かれた表記が見える。

なぜ? 音楽室? 普通科棟にもきちんと音楽室はある、ピアノの弾ける芹沢さんの姿はいまいちピンとはこない。

ぼくは引き戸の向こうから微かに聞こえてくる流麗なピアノの音を確認して本当に慎重にとても静かに引き戸を開けて彼女とおそらく魔術科の音楽教師なのだろう、二十代後半の女性の姿を確認する。

芹沢さんは何も言わずにピアノの近くの席に座ってに手にした黄色い帯の入った背表紙の文庫本を読んでいる。

「あの女性教師なんて名前だっけ。確か一年の合唱コンクール、魔術科との共同楽曲の時いたよね」

「うーん、たしか響木じゃなかったかな。ほとんど話さないけれどやたらとピアノはうまかったデござるな」

ひそひそと彼女たち二人の妙に親密で怪しげな空間を邪魔しないようにぼくらは話す。

彼女たちの話し声もぼくらに聞こえないけれど、何度もここで逢瀬を重ねているようなそういう雰囲気が音楽室の中を満たしている。

とても透明感のあるピアノ曲を綺麗に弾き終えると音楽教師響木は芹沢さんのほうをなんだか特別な相手をみつめるようにして静かな声で名残惜しそうに話し始める。

「実は、この魔法は普段はあまり使ってはいけないんだ。でも、今日だけは特別。たぶん、そうね、最後のお別れになってしまうと思うから。『いにしえ』魔術番号44/14『かつて88の吐息を従えた巨人』。よく聴いてくれると嬉しいな」

芹沢さんは本から視線を離してピアノのほうを見つめる。

彼女がようやく自分のほうを見てくれたのを確認する。

音楽教師響木は発効術式をエーテルの淡い光をまとったスピログラフで空中に描くと、彼女の周りに沢山の精霊たちが近付いてきて彼女の周囲がうっすらと光り輝いていく。

芹沢さんはそんな彼女を気に止めることもなく本の中に没入している。

そうして、響木はしなやか指先をピアノの白い鍵盤に落とし込むと、ゆっくり──フランツ・リスト=liebestraume―3 notturnos S.541──を演奏し始める。

「あれが魔術? でござるか。正直まるでアニメの中に出てくるような魔術でござらんか。見たことも聞いたこともないでござる、魔術科の使用する魔術のほとんどは我々の解析が済んでいるものばかり。合理性と機能性を考慮して魔術科のエーテルを使用した方が効率的だという局面以外では彼らの活躍に頼る機会は少なくなってきているはずでござる。しかし、あれでは…」

そう、魔術なんてものは中世の時代を生きた人間たちの世迷言、錬金術や神秘学なんてオカルトじみた者共が作り出した妄言にも等しい。

科学の進歩は目覚ましく過去に確認されてきた魔術現象のほとんどは科学の力によって解明され完全に代用可能なのだ。

確かに魔術回路を持った人間がいることは確かでありDNA構造の中に未知の塩基配列が昨今になって発見されてきているけれど、彼らがエーテルと呼んでいる力は電磁力や重力の類いなのだろうし精霊と呼ぶものはクォークやレプトンの類なのだと論理物理学の権威たちが次々に結論を出し始めている。

なぜ、そのような塩基配列が生まれどうして脳機能や細胞構造にそういった変化が産まれて肺胞にエーテルの結晶が宿るのかはいまだ研究途中ではあるけれどこの四半世紀にはおそらく結論が出ると言われている。

けれど、今ぼくら二人が目の前で確認している現象はそんな学者たちの長年の研究を無に帰してしまう物理法則などを無視した不可思議な現象。

高等物理の基本的な知識をいくら持ってしても理解することのできない現象に見える、あれはいったいなんなんだ?

「ごめん、ぼくにも全く理解が出来ない。目の前には明らかに分子構造を無視していると思われる生物が具現化している。それに響木のピアノの音が先ほどとは違う音色を奏でていると思う、たぶん気のせいなんかじゃなく。けど──」

そういえば、横尾先輩は魔術科にはいまだぼくらが解析出来ていない未知の領域が存在していると語っていた。

では、なぜ彼ら魔術科は普段からその能力を使わないのだろうか。

大戦後、抑圧的な待遇を受けている魔術回路を持った人々の中には、社会システムの合理的効率化の為のエーテルを使用する職務以外には得をするようことはほとんどないはずだけれど、大戦以前からあった一部の魔術回路持ちに与えられていた優遇処置と特権は、TVや国会などで盛んに議論されていくうちに少しずつ彼らに対する特別待遇は法整備と共に制限されているのが現状といえる。

その制限された領域の一つが今聴いているピアノの音色、ということなのだろうか。

「小生は、いくつか気になる文献をオカルト系Webで確かにみたことはあるデござる。『いにしえ』とやらには科学とは別の物理法則が書かれているのだと」

ネットの眉唾もの情報であればたしかにぼくもいくつかみたことがあるし、月刊ムーはぼくの愛読書でもある。

ただ、今、目の前で音楽室を満たしている現象はそれとも違う気がする。

響木が三つのノクターンの最後のフレーズを弾き終わるのと呼応するようにピアノの周りで踊っていた未知の生命体たちは軽快な笑い声ととともに教室を満たしている窒素と酸素とアルゴンとほんのちょっとの二酸化炭素の中に溶け込むようにして消滅していく。

「これで終わりかな。フランツリスト、千八百年代を生きた魔術師の一人ね。少しだけ彼の力を呼び出してみたの」

響木は立ちあがり、芹沢さんに近付いていく。

芹沢さんは響木が近付いてきたのに気付いてゆっくりと顔をあげる。

響木はそのまま芹沢さんの唇と自分の唇を重ねる。さっきよりずっと不思議な空気が音楽室中を満たすと、とても長い沈黙が訪れる。

「愛しています」

そうやって響木は芹沢さんに告げるとピアノの上に置いてあったファイルを抱えて音楽室を出ようとする。

「まずい。こっちにきたでござるよ! 白河君、なんとか身を隠そう!」

響木が教室入り口に向かって歩いてくるのでとても慌ててぼくらは反対側の扉に向かって近くにあった消化器ボックスの裏側に無理矢理身を隠す。

響木は音楽室から出るとそのままこちらに気付くことなく渡り廊下のほうへむかっていった。

「我々はなんてものをみてしまったデござるか。科学とは別の物理法則。たしかにあるのかもしれないでござるな」

クイッと眼鏡をあげる白河稔のキザったらしいセリフに思わず吹き出しそうになりながらも、音楽室の扉のガラス窓からこっそり中を覗くと夕陽に照らされてぼっーと顔をあげたまま窓の外を眺めている天使みたいな芹沢さんの姿が目に映る。

彼女は響木にキスをされた瞬間に何を考えて、今、何を思っているのだろうか。

ぼくがいまだ知り得ることのない法則に戸惑いながら、なんだかこれ以上は覗いてはいけないような気がして白河稔に合図を送り、その場から立ち去ろうとする。

「きゃあー!」

突然耳をつん裂くような女子生徒の悲鳴が中庭の方からぼくの鼓膜に飛び込んでくる。

ぼくと白河稔は急いで音楽室の反対側の窓へ駆けつけて中庭を覗き込む。

そして、ぼくらはまたしてもとんでもない見たことも聞いたこともない状況を目にすることになる。

「あれはうちのクラスの時田でござるか? 向かい合っている女子生徒はいったい何をしているデござるか」

中庭には時田学と彼の幼馴染である宝生院真那が向かい合って立ち尽くしている。

彼らの右手にはそれぞれ包丁のような刃物が握られ、宝生院真那の包丁は赤く汚れていて、時田学の左腹部のワイシャツは真っ赤に染まっている。

「たぶんこれしかなかったと思う。君がもし暗がりの連中から逃げ切れたとしても使ってしまった呪いの効果は永久に残る、きっと君の言う通りなんだ」

そうやって時田万部は右手に持った包丁の刃先をゆっくりと肉の感触が伝わるように少しずつ大切に宝生院真那の左太腿に突き刺していく。

途端に血液が彼女の白く柔らかな太腿を伝わって流れ出していくと、宝生院真那は苦痛に顔を歪めて痛みに必死に耐えている。

そして、太腿に時田学の包丁が突き刺さったまま今度は宝生院まんだがとても丁寧に優しさが少しでも混入してくれるように時田学の左上腕部へ刃先を突き立て笑顔を零す。

「これでいいんだよね? 私たちは間違ってないんだよね? 私のエーテルならこのまま二人でちょっとずつ呪いをかき消してしまいながらずっと一緒にいられるよ、私たちはもう誰かの言いなりになんてなりたくないよ」

時田学と宝生院真那は少しずつ二人に刻まれてしまった生贄の烙印をかき消すようにして包丁の刃先を体から抜き取ると、今度は宝生院の右腹部を時田学が、時田の左太腿を宝生院が、刃先を突き刺し、そうやって二人に刻まれた合計五十四箇所の烙印を包丁の刃先で何度も切り裂いて突き刺して身体中からその痕跡を掻き消していく。

血液が大量に流れ出て中庭を彼ら二人の血液で真っ赤に汚していく。

その様子を見ていた数人の生徒が大きな悲鳴をあげると中庭を覗く生徒で魔術科棟の窓が埋め尽くされる。

「え? 佐々木君に、白河君? どうしてこんなところにいるの? それにこの騒ぎはいったい?」

さっきまで音楽室に座っていた芹沢さんがぼくらの後ろに立っていて不自然な出会いに驚いている。

ぼくらは呆気にとられて茫然としたまま窓の外の中庭を指差す。

芹沢さんは窓を開けて身を乗り出してクラスメイトの時田まなうと魔術科の女子生徒が包丁のような刃物でお互いを滅多刺しにしている光景を目にする。

魔術科棟は叫び声をあげる生徒や制止する先生たちであっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図に切り替わり、悲惨で無残な彼らの姿を見て気絶してしまい嗚咽する生徒たちなんてまるで意に介さないように時田学と宝生院真那はお互いに刻まれた最後の烙印である心臓部を突き刺して包丁から手を離し呪われた血液で真っ赤に染まった身体を抱きしめ合い、そのまま唇を重ね立ち尽くしたまま絶命してしまった。

騒ぎを聞きつけて慌てて駆けつけた職員ですら彼らに近付くことも出来ずに、そのまま彼らを見つめて──まるでその完全な形を求め合うような彼らの肢体──から片時も目を離せず、魔術科棟はまた誰も言葉を発することが出来ない沈黙に包まれた。

芹沢さんは、その日常が壊れてしまったその光景をみてまるで自分の記憶と重ね合わせているのを楽しむみたいにして少しだけ口許を緩めていた。

ぼくはきっと彼女からもう目を離すことが出来ないだろうし、おそらくその小さな綻びをまた見つけようとするだろうと彼女の眼帯の操り人形の刺繍をみてそう思った。

気付いた時にはサイレンの音がどこからか聴こえてきて、ここから逃げ出すことの出来なかった二人の恋人同士を包み隠そうとする大人たちでいっぱいになっていた。

芹沢さんはやっぱりそんな光景をじっと見つめたまま何も言わない。

ぼくはいつのまにか独り言のように──ジムノペディアジムノペディアジムノペディア──とまるで壊れてしまった機械みたいに自分でも気づかないうちに同じ言葉を呟いていた。

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