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蟋蟀の鳴き声だけに酔いしれて

いつの間にか毎日の喧騒が静かになっている。

インボイス法案によって取引先と依頼先を明示しなければいけなくなってしまってからというもの、色々と不都合な現実は削除されている。

どちらの翼を折るかということで何ヶ月か連続負けてはいるけれど、今月は勝てそうな気がしている。

こんな試合で負けてしまっても意味がないが、左翼と右翼を判別するという意味において給料は妥当かもしれない。

そうは言っても俳句とは一体何であろうか。

師匠、北大路翼曰く、これは自分を嘲笑する遊びなのだという。

大人の嗜みだろうか。

なぜならば、俳句は松尾芭蕉が初め、小林一茶によって定義され、石川啄木によって解体された庶民の遊戯である。

例えるならインスタントラーメンだ。

平安から広まっていた詩吟から派生した。

元々は中国から伝わった文化であるが、当時は当然ながら貴族だけが余暇を潰す遊戯として発展していた。

短歌や狂歌がその原型であるけれど、江戸時代後期に入り、松尾芭蕉はその遊戯性を旅を下にして大衆に伝搬させた。

当時の文化背景を考えれば、文化に携わる活動がそもそも貴族文化である。

俳句においても最も顕著だが、日本という文化圏は海外からの文化の流入をカスタマイズしたものが多い。

詩吟→俳句だけではなく、安土桃山時代に奨励された海外文化の流入はその後、能や歌舞伎といった手法で日本人なりにアレンジされている。

また近年でいえば、科学技術や映画などもその奔流にあたると言える。

典型例がガラパゴスケータイと言われた折りたたみ多機能携帯だろう。

日本人なりに衛星電話がカスタマイズされて、ミニマム化して、モディファイされて、インフラに取り込まれている。

この辺りの変化を俳句という文化が短歌からカスタマイズされた点で非常に興味深い。

盆踊りは日本舞踊からの類型ではあるけれど、インスタントラーメン発祥が日本であることも踏まえて、日本人にはこういった島国化する既成概念の摘出という行為が優れた一面があるのかもしれない。

音楽でもクラシックという分野があるが、あれも当然ながら貴族の嗜みで庶民のものではなかった。

ビートルズによってドラッグカルチャーの伝搬と共に音楽はポップミュージックとして体系化された。

俳句にも似た背景があるように思う。

まるでラーメンの変化系でも作るようにしてカップラーメンが作られた。

確かにお互いに麺類というカテゴリーにおいては似た背景を持っている。

だが、食べてみれば一目瞭然ではあるけれど、カップラーメンとラーメンは別物である。

簡易性や利便性と言った領域を機能性によって拡張している。

俳句はあくまで大衆文化であった。

余暇を持った商人たちの間に広めたのが当時の身分制度で最上級に位置していた武士階級の松尾芭蕉だ。

士農工商という身分制度に基けば、商人は最も身分の低い地位だ。

だが、当然ながら大阪の例を取るまでもなく、武士階級を上回る富裕層が多かったのも事実だ。

越後屋やなどはその典型で、名前の通り今でも見かける商人家系だ。

さて、そんな問題に基づきエタヒニンという身分階級がある。

大阪や関西圏では実は馴染みのある問題であるが、部落差別という問題がある。

江戸時代に実際にエタヒニンとして戸籍登録されていた人間の子孫が今でも差別を受けている。

現在では比喩表現として劣悪な仕事階級の人間をそう論じることもあるが、関西圏にある差別は全く別物である。

部落同盟や同和問題と呼ばれ、エタヒニンの身分差別は非常に深刻な社会問題だ。

この辺りは中学の公民などで習う義務教育レベルの話なので東京民として言及は程々にしたい。

同和問題の深刻さは関西圏に住んでいる人間にとっては深刻だ。

部落同盟には暴力団まがいの団体も多く、飲食店などでそういった話に触れた場合、関西圏では商売はできない。

あっという間に彼らの餌食になり、何もかもが人権問題にすり替えられ剥奪される可能性すらある。

部落差別は現在も残っている深刻な社会問題だ。

関西では馴染み深い差別も関東圏では全く意に介されることもないが、当然ながら持っておかなければいけない知識。

エタヒニンという用語自体の使用すら関西圏では危ぶまれる。

気をつけなくてはいけない問題と向き合っていくのも関東民の役目かもしれない。

中学義務教育で知ることの出来る事実ではあるので、無知は避けたい。

ぼくらがどういった現実と向き合わなくてはいけないかという深刻さを左翼問題として取り扱うことも難しい。

身分差別の問題を話しするという点で私たちが選べる選択肢について考えるべきなのかもしれない。

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