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08. Peripheral Artifacts

二・〇の視力を維持したままの両の眼を使って路上を歩く死体を観察している際に生者を確認することは容易いことではない。無残に生を無益に消費している死体だけを省略して適切で新鮮な食材を見つける為に私は瞬きをするのも忘れてこの街を支配する運動法則を監視している。

「いや、死体というのは語弊があるな。むしろ死ぬことを忘れた生命と呼ぶべきか」

青髭と私が呼ばれるようになったのはいつの頃だったからか。

在仏中であったか、それとも帰国後のことだったか。無闇矢鱈に数を数えることに夢中になってしまうと、罪悪感によって縛りつけようと襲い掛かってくる食材が私に提供しようとしている人生の破片のようなものを見つけにくくなってしまう。

人間に存在している希少な部位だけを選び取り順序立てて適切な要素を皿の上に配置していく為には、食材が育った環境、生きてきた時間を通して身体と精神を作り出した影響を詳細に知り尽くして尚、彼もしくは彼女が何故私に調理されることを望んだのかを脳内で反芻させ反復し記憶に刻み込むことでしか私と食材の食物連鎖の関係性を定義することは出来ない。

故にこそ、生命を奪い去った死体の数を数えるという理性的な判断は当然ながら欲求の充足を与えてくれはするが、同時に本能を麻痺させて確保すべき領土を侵犯される可能性すら見失わせてしまう。

青髭という呼称を私が自覚することになったのは、やはり私の仕事を長年の間支え続けてくれている絢辻冬里の存在が大きいと考える。

私が意図的に混入させるミストーンを彼は敏感に感じ取り、彼の熟達した舌先に与える絵も言われぬ麻痺を拒絶することなく、それが私の追い求めているものの片鱗であることを理解してくれていることに私が彼を唯一のパートナーとして選びとるだけの理由を確信し、この街、いや、社会そのものを支配する運動法則を正常に運行しようとさせるからこそ起きうる異物の混入の伝達を私がこよなく愛する美術作品と同じように私の料理を通じて創意を与える思想的側面に介入させていることが恐らく私が青髭と呼称され、自称する理由であると言えるのではないだろうか。

「にくっ」

「まだっ!!」

アスファルトの上を歩くダンゴムシがもし声を持ち合わせていたら、あるいは人がその声を代弁出来るのだとしたら私は彼らとどんな会話をするだろうか。

食材が私に提供しようとしている人生を拒否することで、自己を否定しまいたいのだと彼らに嘆きの言葉を訴えかけるだろうか。

それとも私が全霊をこめて行う物乞によって彼もしくは彼女が施した供物が実は自分自身の姿そのものであるのだということを仲良く嘲笑うことになるのだろうか。

ダンゴムシはまるでこの街を支配する運動法則の外側から私達を監視して格子状に張り巡らされた状態に存在する隙間を螺旋状に縫い合わせるようにして自由そのものを堪能しようとしている。

どうやら概念上の存在であるはずの形而上学的な運動法則をダンゴムシたちは私に常に可視化してやろうとアスファルトの上を歩き回り存在を明示しようとし続けているのだ。

昆虫と私の差異を理解することが出来る様になるほど運動法則の詳細を理解に至る日など存在することを想像することの方が難しいのだと考えてこんでしまう。

「ねぇ!知ってる?」

「なにっ!」

「おなかすいたっ!」

「だめっ!」

首元の『蜂』の刺青がまるで騒ぎ出すようにはしたない気持ちが抑えきれなくなって、情念の染み付いた唾液ですらどうしようもないほどに欲しがっている自分の気持ちをどうしても銀食器越しに振動が伝わっていることをもし悟られてしまったらという恐怖でオードブルのピンクサーモンを口に運ぶことにとても時間が掛かってしまった。

美沙は私にいつもとてもとても意地悪で、彼女の吐く息、言葉、仕草に強烈に縛られてしまう。それだけなら、まだしも私は触れられてもいないのに欲情してしまう。

だからなのだろうか。少しだけ料理から気が逸れて、私たちの会話に存在すら気付かせることなくオードブルを置いてコースをスタートさせていた給士が今度はスープをテーブルの上に置く時に美沙の悪戯で微かにずらされていた私の意識で彼の姿を発見出来たことを偶然と呼ぶのは間違いなのかもしれない。

視認することが出来ない時間の象徴として彼はこの店のリズムの中をこっそりと歩き回っている。

「私にとって完璧な時間はきっと私が他の誰もあなた以外に感じ入ることが出来ない瞬間のことをいうんだって表現をしたら、あなたは私から離れることを選択するのかな」

触れられるはずのない傷口を見られて、赤い血液と白い肉片がほんの少しだけ膿んでいることを悟られて、美沙は茶色い透明な液体を銀のスプーンで掬う時にやっと私に彼女の中に眠っている欲情をはみ出させて音を立てて啜る顔を見せてくれたと、とても静かに息を吸い彼女の吐息を胸の中に入れてみる。

そうやって嫌々しく尖った感情のようなものを捨ててやっと彼女が無音を選択することを選んでくれたことが嬉しくて、細やかで美しく完璧な仕草から発せられる所為を見つめながら私自身もコンソメスープと一緒に喉を癒して呑み込み胃の中を満たしていく。

答えは当然のように返ってくることがなくて、今この瞬間に真っ白なテーブルを挟んで大切な食事の時間を共有しているのが私と美沙だけだと光すら溶け込ませて鮮やかな色彩を保とうとしている液体を沈み込んでいくように堪能する。

「彼女の名前は、『名切鏡荏』。『瞳孔の機能が生物学上の使用を逸脱していない眼球』。彼女の利き目は左眼で存命中の最期の健康診断では視力は二・〇。私が持ち合わせていない左眼。だから、私と一緒に口の中に運んで欲しい。きっと一人では食べきることが出来ないから」

美沙の告白は私にとって当たり前の事実を伝えたに過ぎないけれど、恐らく異性には見せることの出来ないであろう記憶の欠片を私にだけはこっそり与えてくれたことが、私が今すぐにでも触れたいと願っている気持ちを彼女によって見透かされるきっかけを作っているのかもしれない。

けれど例えそうだったとしても一緒の時間を過ごせることが嬉しくて丁寧に微塵切りにされた季節の野菜と一緒に何かを私と美沙を繋いでいる魂のようなものを数えあげるように口の中に運んでいきスープの最期の一滴を銀の匙の上に乗せて私は快く返事をする。

「きっと二等分にされた眼球はあなたの優しい左手の人差し指と親指であなたから取り除かれた時よりずっとあなたの存在を実感させてくれるはずね。少しだけあなたがあなたから離れる為のお手伝いをさせて貰うわ。出来る限り長い時間、私はあなたの傍にいたいと思っているから」

一呼吸を置いて、美沙はとても苦しそうに完璧な液体を口にして唇を少しだけ濡らす。

たぶんその苦しそうな表情が私にだけしか気付くことの出来ないことなのだろうと思いながら悦に浸りナプキンでわたしは私の口元の災いを拭い取る。

美沙は細かく裁断された人参を一欠片だけ残してスプーンを皿の上に置く。

過ぎ去ってしまった時間の中に住んでいた小さな女の子の処刑がやっと完了したのだと美沙は囁こうとする。

「わかったよ! もう負け! 全部アニキの勝ちだ! 帰ってゲームでもやろ!」

静寂によって支配されていた空間を渚は切断すると、アップルパイの最後の一切れを口にして夜が深まってきていることを懸念する。

カヲルも頷いて差し迫った領海権ではなく安易で夢のある領空権に関する兄弟喧嘩でまだ彼らの未成熟さでは届くことが叶わない帳が装う漆黒を穢さないようにと礼儀正しく口元を白いナプキンで拭き取る。

「ありがとう。『キリコ』が迎えの車を表に用意させているはずだね。『グリモワール』から消えた魔術の在り処を見つければ、彼も少しだけ元気を取り戻す。彼にとっては視えることだけが生きる価値なのだから」

カヲルは額を右手の人差し指で軽く叩いて非存在の等価値性を認めるように促すと、潔く席を立ち出口の扉へ向かって歩き始める。

入り口では絢辻冬里がすっと姿勢を崩さず待ち構えていてナプキンを右手に抱えたままカヲルと渚の退店に対して深くお辞儀をして、二人の作法と手順に問題がないことを無言で伝え彼ら二人に最大限の敬意を払い見送っている。

ファーストにふさわしい客であったことを綾辻冬里が全霊を持って立ち示す。

「じゃあね。君達はぼくたちとは違い特別な権利を与えられている。正確な数字と座標を見失わないように。『ポケ』、『チケ』、滑り台の下でまた会おう。さようなら」

渚がまるで分かり合うことのできる親友と引き剥がされてしまうように涙の混じる声でお別れを告げると二人は『Cogito ergo sum』から退出する。

「ありがとうございます。お二人の前途に多大なる祝福を」

先程まで店内を満たしていた無邪気さが掻き消えて、純粋無垢であることが断罪を意味する言葉ではないことを手前のテーブルに座る女性二人に儀礼と礼節を持って投げ掛ける。

スープ皿が片付けられた白いテーブルクロスの上にぽたりと一雫赤い液体が垂れ流されて真っ白な平面をほんの少しだけ汚す。

笑いや安寧が邪に入り込んでくる隙間は許されていなくて、『蜂』の刺青の入った女が痛みによって覚醒を促す為にこっそりと隠し持っていた鋭く尖った針の先が左手の人差し指に当てられたことについて誰も咎めるものはいない。

黒い眼帯の女は表情を崩さず『蜂』の刺青の入った女の左手を掴むと口元に招いて血液が外に溢れてしまわないように飲み干そうとする。

たぶん少しだけ先を急いだことを戒めたくて黒い眼帯の女は『蜂』の刺青の入った女の左手の人差し指に軽く歯を立てる。

出来るだけ丁寧に黒い眼帯の女が血を吸い取ってやると、まるで何かの魔法が現れるようにして人差し指から血液が吹き出るのは止まってしまい、芹沢美沙はゆっくり手を離し、手元のミネラルウォーターに一口だけ口をつけてテーブルに置く。

口に含んだ血液がワイングラスを汚してじわりと透明なグラスが赤く滲んで汚されていく。

「食事している姿をあなたに見せること自体がきっと贖罪に繋がっているのかな。男性と来る場合とはきっと違う感覚が私の中で問い掛けをしているの」

たぶん絢辻冬里は今日起こる出来事を予め詳細に予測していたのか用意していたワインがまだ未成熟なものを含んでいることも踏まえて友人が全く集中力を切らすことなく取り組んでいる儀礼的職務の遂行に微塵も遅れがないことを確認する。

窓ガラスの前に座る二人の女性客に提供するポワソンと供にあるべきワインの準備に取り掛かる。

キュイジーヌとフロアを支配している流れを遮断することのないようにとても透過性の高い醸造された白ブドウを冷えたアイスペールの中で起床の準備をさせて二人のテーブルに運ぶ。

彼がテーブルにつき真っ先に確認した赤いシミを見てシェフの仕事にまるで間違いがなく会う度に研ぎ澄まされているという事実に少しだけ驚愕してしまうけれど、そんな様子を一切外に漏らすことはなく、丁寧にコルクを抜き取り、二人のワイングラスに正確な分量を注いで、既に最後の仕上げに取り掛かっている鰯のポワレを迎えに出向く。

だから、赤いシミのついた白いテーブルクロスは取り替えることなく血液で汚れたワイングラスだけを下げ、絢辻冬里は奥に引く。

「まるで革命を超えた夜を迎えた朝の祝言のような気分を与えてやれる薬を開発することが出来れば私の人生の目的は達成されるだろう」

『Cogito ergo sum』の木製の看板の前に十九時五十五分に立っているのは茶色い紙袋を被り目の部分だけに空いた穴で待ち合わせに訪れるはずのパートナーを見つけようとしている男で、およそ食事には適さない茶色い紙袋のマスクというドレスコードを気にする様子もなく、もし正常さを逸脱している表面を咎めようとする連中が現れるのだとしたら自分自身の一部である『カミブクロ』に関する敵意に対して抗議の意志でも示すようにして、紙袋に空いた穴からギロリと鋭い睨みをきかせながら威嚇と拒絶を持って断罪と断裂を持ちかけるであろう。

待ち合わせの時刻を一分三十三秒遅れてついた『紫峰鳴海』の姿を確認すると、冗談でもいうようにピルケースから適切な栄養分の詰め込まれたカプセルを手渡そうとする。

「ありがとうございます。けど、大切なお食事の前にお薬はいりませんよ。まったく何の冗談ですか。私は理を外れたりしていません」

クククッと『カミブクロ』は含み笑いを漏らして『Cogito ergo sum』の木製の青い扉を開いて『紫峰鳴海』と一緒に店内に入る。

絢辻冬里は彼らが来る二十一秒だけ早く彼らを出迎える準備をしてゆっくりと軽く会釈をして二十時に予約されている店内左手奥のテーブル席へと二人を案内する。

『カミブクロ』は右手、紫峰は左手に座り、『カミブクロ』の右手の壁面には、黄緑色の背景にミニマムな記号が規則的に配置された美術作品が飾られている。

「その絵は、草間彌生『Fields in Spring』ですね。実物を見たのは私も初めてです。まるであなたの作り出すお薬みたい」

「私の作品はもっと野蛮で粗雑だよ。彼女のような繊細さがあればぼくの皮膚は君と同じ色をしているよ」

壁面に飾られた黄緑色の背景とオレンジと青い球体のランダムな配列と配置が空間に攻撃的な癒しを与えようとする美術作品を皮切りに二人の会話が始まっていく。

「『メディウム』。発信する素材。私たちは私たちが知り得る理から適切な箇所を伝達し、私たちが過ごしやすい流れを築いていく」

「その通りだが、相変わらず君は先を急ぐ。まだオードブルもワインも揃えられていない」

「あはは。いけませんね、私はつい流れをコントロールしようとしてしまいます。戦争病に取り憑かれてしまいがちなのはきっと私たちメディアに関わるものの宿命でしょうか」

気泡がぷつぷつと上昇して白葡萄が甘く透き通るように香る液体が二人のワイングラスに注がれていく。

『カミブクロ』は茶色い紙袋と微かに見える顔の隙間からシャブリを口につけてジャッケットのポケットに入った味覚すら制御しようとしていた傲りを大胆に切り離すようにしてピルケースを取り出し真っ白なテーブルの上に置く。

「例えば、ここが場末の定食屋であったとしても適切な脳内麻薬のコントロールによる感覚器官の制御で一流の料理店に作り替えることが出来る。全ては知覚と認識の問題でしかないからな」

「それではまるでありきたりで出口のない極楽浄土でも提供しているだけではないですか。夢の国で光に包まれたところで次の日には目が醒めてしまう」

シロギスのカルパッチョが細長く白い陶器の皿と供に提供されてまずは紫峰の前に、次に『カミブクロ』の前に置かれる。

『カミブクロ』はフォークとナイフで丁寧にシロギスを切り分けて口に運ぶ。

「ホワイトヴァルサミコと香草が与えるイメージによって私は進化に息詰まる青年に力を与えた。問題は切り分けられた流れを獲得することが出来るかどうかでは?」

少し意地の悪い『カミブクロ』の質問を丁寧に口の中で咀嚼しながら紫峰は彼女の示そうとする理を消化すると、シャブリと一緒に濾過された悪意を浄化するようにして『カミブクロ』に彼女の目指す到達点を提示する。

「けれど私には使命があります。正しく情報を整理しデザインされた流れの中にマスを導くことです。メディアが持つ権利を十二分に発揮するべきだと考えているからです」

『紫峰鳴海』ははっきりとした口調でキュイジーヌとフロアに干渉することで異質な流れを創出している空気を制御して、さっきまで統制していた流れの中に小さな異物を混入させほんの少しだけ真ん中のテーブルに居座っている咲耶姫と白牡丹に翳りを落とす。

『夷』か向こうでガラスの割れた音がする、『稀』に黒い鍵盤が白い鍵盤のサスティンと入れ替わるような倍音が垣間見える、『微』かに弦の震えと嘆きがこっそりと店内に垣間見える。

タキシード姿の絢辻冬里が『ダンテの小舟』の前に立ち『グァルネリ』を肩の上に乗せて不協和音を弦の振動に閉じ込めるようにして無伴奏のインプロヴィゼーションを室内に添える。

適切な反響と入射角が計算されている壁面と天井と床とテーブルと椅子の配置からなのか、一般的に音楽と呼ぶべきものが室内には一切存在していなかったことを来客者たちは誰も気付かなかったけれど、絢辻冬里の『グァルネリ』の音色を聴いて初めて空気を振動させる時間の切断が開始されたことに気付いて銀食器を持った手を休める。

ヘルツホルム共鳴器から発せられる空気の振動は芹沢美沙と『蜂』のテーブルに置かれたキウイフルーツのソルベに、『カミブクロ』と『紫峰鳴海』のテーブルの上に置かれたシロギスのカルパッチョに、適切な周波数を壁と天井と床とテーブルと椅子と『ダンテの小舟』と『セリンティーヌ』と『Fields in Spring』とマリアテレサ型クリスタルシャンデリアに反響させて反射角を変えながら変化を与えると、止まっていた銀の食器の運動エネルギーを再開させ、シャブリの気泡が決して途絶えることなく静かにグラスの開口部から小さな共鳴音を発信させる。

『蜂』は鼓膜に乗り移る気泡の振動に取り憑かれて『紫峰鳴海』は室内を漂っていた粘りつくような僅かな中低域の存在がグァルネリ』の弦の振動によって撹拌されて適切な周波数で混ざり合うのを確認した後に、カルパッチョと絡み合ったジュレを胃袋の中へと招き入れる。

『カミブクロ』は彼女に薬が必要ないことを再確認してヒビ割れたガラスのような繊細な空間にちょっとずつ子供心溢れた意図を混入させていく。

「使命というよりは遊戯だがね、私にとっては。遺伝子欠陥を抱えたものを気の向くままに調理する。思想という観点から言わせれば、青髭の作り出す料理と私の生成する薬剤に違いはないだろう。俗な言葉を敢えてしようするのであれば、エーテルは決して特別なものだけに与えられた個性の極点では決してないということだ」

いつのまにかバイオリンの弦がもたらす揺れは空気の中で立ち現れたり立ち消えたりする大気の一部として浸透していて絢辻冬里の革靴でカツカツと軽やかに床を叩く硬質なリズムと一緒に歌を奏でている。

「そうかもしれません。もし『メディウム』が雲の流れを支配していた時代があったとすれば、私たちはその場所に還ろうとしている。そうなれば私はきっと微かな電磁気の振動すら迷い込んでくることを許容するのを辞めると思います」

馬の立て髪が摩擦して木製の箱庭と共鳴した残響が居残っている間に、空間内に適切に配置されていく色相と色感が統一的な意志を持って青髭による制御を取り戻すことを促すようにして、『カミブクロ』と『紫峰鳴海』のテーブルにそら豆の冷製ポタージュが置かれる。

「そういえば、君の方で『TV=SF』に関して干渉出来る割合はどの程度になっている? 私のモディファイされたモデルたちの影響がマスメディアとのリンクを強めている可能性があるな。光が影を無視できなくなってきたというべきか」

二人ともポタージュにはまだ口をつけずヴァルサミコが口腔内を退出するのを、シャブリを通じて見送ろうとしている。

「私は強力な第三勢力が必要になるだろうと考えています。刺激を欲するが故に、『透明な絶望』を追い回していてはじきに視聴者の心的ストレスは過剰な狂気の供給を求めてコストゲインが割りに合わなくなる」

「馬鹿らしい。だからこその『TV=SF』だろう。神の鉄槌を究極的破壊兵器だと与え続けて、遊戯性を失うつもりか。彼らはやはり興味本位によってスペクタクルを享受できなければいけないと思わんか」

『紫峰鳴海』は大きく溜息をついて、グイッと黄金色のシャブリで胃の中を満たそうとする。

『TV=SF』の一般開放チャンネルはタイムテーブルを見失い、適切な運動法則を欠いている可能性を増大させている。

社会に無数に増殖した『メディウム』が考えている、というよりも感じてきた法則性は複雑さのみを追求する自律進化する機械であったはずだけれど、簡略化による合理性の追求によって、唐突に光だけが入り混じる矩形への到達を目指し始めている。

「手足を縛ることを常としているものの仕業だな」

十二時間前に胴体と首を切断し、余分な血液の流入を出来る限り避け、冷凍した『名切鏡荏』の頭部は九十八度の熱湯で湯煎されると、ほぼ生体時と同様の状態へと舞い戻る。

熱が決して眼球の細胞を浸食して彼女が見てきた景色の残穢を一つ足りとも失わせないように、適切なタイミングで『名切鏡荏』の頭部を取り出して、この為だけに独自に発注した器具で『名切鏡荏』の左眼を丁寧に抜き取る。

呼吸などする暇もなくけれど鼓動など見出す余裕など持たずに冷静に視神経と頭部の繋がりを剥奪する。

彼女を何故メインに添える必要があるのかは一目みて街で見つけた瞬間に彼女の隣に寄り添うべき仔羊のとても精度の高いフィレとの相性に完璧に調整の取れた運動法則を確認できたからだと言える。

だからこそ彼女の眼球を切れ味の鋭い医療用メスを使用して二等分し、決してその形を崩さないようにエスプーマをかけ子羊のロティに添える。

恐らく彼女が知り得ることのなかった世界は眼球の半分だけまだぎりぎり現世に取り残されている執念と一緒に眼球細胞を繋ぎとめていられるだけの実感をヴァン・ルージュによって到達点を構成して呼び戻す。

何の申し分もなく完了したと推測される彼女の時間を適切に裁断することで完了した皿が絢辻冬里の手に渡り私の手を離れる。

最高純度の快楽はほんの一瞬だけ私の脳髄を刺激して消失する。

およそ、平均して四分三十三秒の間だけ存在する完全性は運動法則から拒絶されるようにして私たちの世界から消滅する。

「ねえ、左眼を抉り取る時の音ってどんな音がするの? きっと私たちがどんなに追い求めても辿り着けないような気がしてしまうの」

音楽家である『蜂』にとっての他愛もない質問がおよそ一時間二十分かけて剥き出しになった芹沢美沙の傷口を指先でなぞるようにして入り込む。

見えない傷を走る激痛に耐える表情を悟らせないように黒い眼帯が左眼の不在と存在を曖昧にさせて透明できっと視認することが出来ない涙が彼女の左眼から流れ落ちる。

「たぶんあなたとそれを共有したいのかな。子羊をじっと見つめている『名切鏡荏』の願望を私は食べようとしている。彼女は手にすることの出来なかったミライ

芹沢美沙と『蜂』の前に置かれた子羊のロティと眼球のムースは実在と虚像を交互に提示している分裂した記憶となって、二つのメインが二人の女の味覚と嗅覚と視覚と聴覚を入れ替えながら最後に残された触覚を明確に二人に知覚させる。

「美沙が珍しくロマン主義に傾倒している。あの大きな絵がもしかしたらあなたに救済を与えているのかしら」

テーブル上の最期の銀食器を二人が手に取ると、子羊と眼球のムースが混ざり合って完全性が失われる。

ソースと一緒に口の中へと移し替えられたロマン主義は混在一体となり、栄養素となって体内に『名切鏡荏』の見てきた風景と見られなかった風景の全てを吸収させる。

それは芹沢美沙の左眼と右眼が伝え合う視覚記憶にとてもよく似ていて、白い皿の上で行われる処刑がカチャリカチャリと静寂を刺激する金属と陶器の接触によって『蜂』の記憶の一部と混ざり合う。

適切な保存環境で管理された葡萄酒を『蜂』と芹沢美沙は子羊と眼球がもたらす空腹の除去によって十二分に堪能して喉を震わせる。

「緊急避難という言葉がある。私が救われて彼女が命を奪われる。当然の話ではあるけれど、世界はそのように構成されている」

『カミブクロ』は体内の血液が感情によって沸騰し始めたことを実感して痙攣し始めている左腕を抑えて、黒いセットアップスーツの上着を捲し上げ、剥き出しになった上腕部を携帯したゴムバンドで縛り付けて静脈を浮かびあがらせると、格式のあるフランス料理店にいるという事実をまるっきり無視してしまうかのように金属とプラスチックで出来た注射器をもっとも目立つ血管に迷わず突き刺して注射器の上部を押し込む。透明な注射器に血液が逆流する。

『カミブクロ』は深く深呼吸をして後、二、三分で到着するであろう青髭によって選択された今、食すべきポワソンの到来を待つ。

「私は確かにあなたが実行した懺悔によく似た形でマスの流れの遅延を活性化し、自然状態を嫌悪する傾向があります。暗闇からもたらされる恐怖がうねりを与えている状況に耐えるべきかそれとも変化を望むべきか、ワイングラスを手に持つほど簡単には選べませんね」

『紫峰鳴海』は常に適切な量が注がれているグラスの葡萄酒を口につけ『カミブクロ』の充血した瞳から目を離さないように留意する。

「私が顔を隠し始めて以来、『アセチルコリン濃度』が自然増加するタイミングが制御しきれないのだ。恐らくは『スタンドプレイ』の用意した蛾の鱗粉を不用意に身体に取り込んだ為だろう。あの男は未だに我々を翻弄し続けている」

「『四月事件』ですか。彼の意向が歯車の重要な機能を担っているのは事実ですが、彼の指先の動きや恣意的な誤りにすら取り憑かれてしまうことを避けることは可能なのでは?」

「だから言っただろう。遊戯性が必要なのだと。臓器を担保にするぐらいのリスクは抱えるべきだろう」

「私を引きずりこむおつもりですか。そういば、ウニカの次のシングルには『四月事件』の絡繰が含まれています。きっとまた熱狂を呼ぶでしょう。試してみますか、新しいパンの味を」

そら豆のポタージュを用意されたパンに染み込ませながら緑で覆われた皿を白く穢していく。

あるいはそら豆の色の下に隠されていた絵をゆっくりと浮かびあがらせる。

「黒猫が未だに生きているとはね。それにあのサメの残滓に取り憑かれたままの子の正確極まりない仕事の価値は再考されるべきなのかもしれん。ちょうど、もう一体変異体が欲しいと思っていたところだ。引き受けよう」

キシャーと何処かで肉食の水棲生物の戦慄く声が聞こえたような気がしたけれど、気のせいなのかもしれないと『蜂』は鼓膜の振動に気を取られて大切な時間を見失わないように芹沢美沙の名前を聞こえないように呟いてみる。

「そうですね。では一つ賭けをしましょう。あなたの最高傑作の一つである『セブンスパラノイア』で『ラーマーヤナ』をカスタマイズして中沢乃亜を無効化する。私たちにとってあの夢見る機械人形は少々邪魔になって来ました。貴方は報酬として、『トト』を手に入れて私と仕事をする。如何でしょうか」

『紫峰鳴海』の提案が『カミブクロ』の鼓膜に届くと同時に、テーブルの上に置かれた真鯛のポワレが雲丹の香りを漂わせてやってくる。

フィッシュスプーンとフォークを手にした『カミブクロ』は迷うことなく焼き色のついた銀色の鱗を切り分け口に運ぶ。

「全く問題がない。私たちが求めているのは狂気の発動を抑制することがない世界だ。生命の循環を効率的に行うのであれば、エンターテイメントは欠かすことが出来ない装置となるはずだよ」

丁寧に煮込まれ攪拌された雲丹が鮮やかさを失うことなく消化と吸収のサイクルに取り込まれていく様子は戦時下のような緊迫感に包まれていたキュイジーヌにひと時の安寧をもたらす。

青髭の額から流れる汗を冷やすように二つのテーブルに運ばれる予定のソルベとデセールの準備が進められ、甘い香りは二十四時間一切の不要物を遮断した青髭の体内に正確な時間を知らせようとする。

三、三、三、四と十三拍分の鼓動が鳴らされると夏みかんのソルベがよく冷えたアダム&イブのシャーベットグラスにミントを添えて提供される。

どのタイミングで私が管理してきた七拍子に変更が加えられ、変則性が介入を始めたのかは、銃声が鳴り止むことのない戦場で体験している死者と生者の境を漂う食材の鼓動に耳を傾けたとしても、ピアノ線の震えに酷似した緊張感の中でしか研ぎ澄まされた死生観を察知することは出来ないほどに巧妙だろう。

今日キュイジーヌの中に運び込まれている食材は私自身が厳選して選び抜いたものだけで構成されているけれど、同時に瞬間性の極致を維持する為に選びとられた陶器もまた店内にある人工的な反響と周波数を定式化している。

だから、絢辻冬里が引き受けた二十時二十五分からの来客が未許諾の領域を管轄する一人であることに私は素直に恐怖を感じたと認めざるを得ない。

もし『スタンドプレイ』と呼ばれる彼が、招かざる客と訪れたのならば、私に提供出来る食材の形が安易な自死という形で選ばれるべきではないことをもう一度再考しても、なお、私の職務に間違いがなかったことを改めて実感させてくれるだろう。

「青髭よ、私を満たすべき葡萄酒よ、決して抜け出すことの出来ない地獄の亡者よ、私にあなたの存在を提示し続けなさい。それが私と貴方の繋がりの全てなのです」

絢辻冬里には串刺しにされた農奴と娘の呪いが甘美な協奏曲に聞こえているのかもしれない。

だからこそ、彼ら二人は青髭と呼ばれ、決して抜け出すことの出来ない感覚の牢獄で快楽の極限を追求することを許されているのだろう。

青髭の指先が赤ワインで良く煮た洋梨を金色の縁のついた白い皿に盛り始めると、彼ら二人の完全な意識の統一が完成し、少しずつ深まる夜の形を明確にして、今夜、座席から退場させられる人間の形を明確に伝えながら、『既成概念』と呼ばれる食材を口にする為に現れる畏怖の存在を『Cogito ergo sum』に教え、は私たちの全てを飲み込もうとする。

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