見出し画像

【ポンコツオヤジ野球チームの奇跡】(その1)


バッターの打ったボールが、レフトを守っていたアパレルのところに飛んできた。

アパレルとは僕が勝手につけたニックネームである。そう、往年の名ドラマ「太陽にほえろ!」のように、僕は勝手に、パパ友である彼らにニックネームを付けていたのであった。

アパレルはときおり海外に出かけ、さまざまな衣服を仕入れてきては、A駅近くにあるちいさな店舗でそれを売っていた。手腕が良いのか、繁盛していたようだった。彼は長男が所属する少年野球チームの監督を務めてくれていた人物だ。

彼は大学時代には準硬式野球部で鳴らした名選手であるが、この時は、「強くも何ともない都立高校の野球部でライト(右翼手)を務めていた」僕の方が彼より年下で、身体が動いた。40代前半の頃のことである。

彼の隣でセンターを守っていた僕は、レフトを守る彼の、いわゆる「一歩めの動き」が遅いことを知っていた。
歳によるものであるから仕方のないことだ。
そして何よりも僕は見栄っ張りだ。息子も見ている。オヤジ野球大会のこの試合で、無様なプレーを見せるわけにはいかなかった。

僕は敢然と、足の動かないアパレルのことを補うようにして、彼の方に飛んだ低めのライナーに向かって走り、いわゆるスライディングキャッチというやり方でこの打球を地面スレスレで捕った。滑り込みながらグローブを懸命に差し出して捕ったのである。

イチローなら絶対にスライディングキャッチなんてしなかったであろう。そもそももう少し早く打球に追いついていたはずだ。

新庄なら、イチローのようにはできたけれど、わざとスライディングキャッチしていたかもしれない。

いずれにせよ、40代の僕には「ケガを避けて安全に打球を捕るための最善策」がスライディングキャッチであった。

その時我が息子は、近くにいた鳩に餌をやってたとかなんとかの理由で、父親の晴れ舞台を一切見ていなかった。

オヤジ野球大会で負けてばかりいる我がオヤジチームは、このような経過を辿ってなんとか最終回まで双方無得点のまま9回の裏を迎えたのであった。

その先頭で、僕の前を打つ、名門、修徳高校出身で唯一20代だった「玉三郎」(若くて色男だったやつ)が三塁打をはなった。

そして、六番を打つ僕に打席が回る。
ベンチから「おい、息子だったらここで打ってるよな、いつも」という愛ある冷やかしが飛ぶ。

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?