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備忘ログ「優しくある。」3/4-10

想像してみよう。

相手は何を考えていて、どうしたら喜び、楽しめるのか。想像して相手の心に自分の心をなるべく近づけようとする、それは優しさの一つの形だろう。

ふと、優しくあるには「慮る」と「思いやる」二つの段階があると思った。

「慮る(おもんぱかる)」は、よくよく相手のことを考えることであるが、これは言葉の音を考えると「思い計る」が形を変えたもののようだ。つまり、考慮や遠慮、配慮にみられるように、相手の気持ちを計ろうと想像力を巡らせることなんじゃないか。

「思いやる」は「思い遣る」と書き、思いを遣い(つかい)にだす、思いを届けようとできるだけ努力することを意味すると思う。

手軽にやりとりができ、言葉が飛び交う。時に心ない言葉を見つけるのも「慮る」や「思い遣る」が欠けてしまったから出てしまうのか。そうならないよう、優しくあろうとするなかで見えてくるものや感じることがある。それに気づけるきっかけになるような記事があったように思います。


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強がらない勇気。

考えることにいつも向き合う山田ズーニーさんの、ほぼ日刊イトイ新聞での連載の記事。特に響いたのはこの部分。

マウントをとるためだけに、人にマウントをかけて、勝っても、負けても、虚しい。なぜならそれは、
「人の花」。
人が苦労して時間をかけて根を張って咲かせた花だ。
人の花を摘んではいけない。
自分にとって根のあるところから自分の花を咲かせたほうがよっぽど面白い。


自分を強く見せようとする人がいる。名前をよく出しては、自分が上だ上だと見せようとする人が。それはプライドにも似たもので、自信がないからこそ、強がってしまうものかもしれない。

強がろうとして生まれた弱さは、人の頑張りをかきけす。相手を思うこともできず、自分を見つめることもできなくなってしまう。

強がらない勇気を持つこと。

この記事を読んで、それは優しくあるための第一歩かもしれないなと考えさせられた。


ネット上の優しさ。

soarに掲載されたドミニク・チェンさんによる、インターネット時代の新しい表現の方法で、考え実践してきたことについてのイベントレポート。

特に響いたのはこの部分。

インターネットが生まれて約30年。いまではブログやSNSを通して誰もが情報発信できるようになったと同時に、インターネットは時として”生きづらさ”を助長するツールにもなりえてしまう。
異なる主張をもつ人に対しての心ない声。不必要に不安を煽るような見出し。揚げ足取りや誹謗中傷とも見分けがつかないような炎上の数々。
情報技術がその利便性と引き換えに、対立や分断を促し、ぼくらの心から平穏を奪い去ってしまうのは、果たして仕方のないことなのだろうか──。
<ドミニク・チェン>:それを「結局のところ人間の社会はそうなってしまうものなんだ」と諦めてしまうのは、ぼくは嫌なんです。現状を批判するだけでなく、自ら新しい表現をつくっていくことで、インターネットのもつ可能性を回復させていきたい。

この記事のなかで、「読む」ことで「書く」こともまた始まっているという話がある。ネット上でも、目の前の文章に対して、自分の読み方を考えていくことで、そこから先の書き方にも影響していくのではないかと思った。闇雲に相手のアラを探してしまうような読み方をすれば、書くこともそれに繋がったものになってしまうように…

ちなみにドミニクさんのお話で印象的なのはこちらもある。

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優しくあることは、ネット社会で一個人のふれる面が広くなったことで、より大事になってくるんじゃないかと思っている。

サポートは心の安らぎであり、楽しみである読書のために書籍代にしたいと思います。それをまた皆さんにおすそ分けできたら嬉しいです。