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【小説】桜の奏で その2

 待ち合わせ場所は、渋谷のゲームソフト会社だった。
 ホラー志向の強いゲームのスターウルノアの音楽は、調性音楽とは一線を画した無調音楽を多く使っていた。所々に顔を出す調性音楽は、ゲームに心地好い緊張感を与えていた。特にエンディングを飾るバラードのメロディアスな旋律の歌曲は自分でも良く書けたと思っていた。歌も、それなりのシンガーが歌って、ゲーム以外でもヒットした。そのヒットが近ごろの勲章だった。
 町のざわめきから隔てるクールなエントランスドアをくぐると、快適な気温に保たれた建屋内で、だが一方、シャープな透明感がインテリアにはあった。
 いつものことだが、ゲーム会社のスタッフで制服を着ているのは受付ぐらいだと思いつつ、出されたサインボードに名前を記入する代わりに名刺を差し出して、交換にゲストのネームプレートを受け取って首から提げた。
 15階の応接へ行ってくださいと、訓練された立ち居振る舞いの受付嬢に示され、三つ揃えを着た屈強な体格の同じく受付の男性が深々と頭を下げてきた。
 空の一角が見えるスケルトンのエレベーターに乗り込んで、指定された階へと上がっていき徐々に見えてくるフロアに、お辞儀している男の影が見えてきた。
 「ようこそ、いらっしゃい。工藤です」透明なドアの向こうで下げた頭を起こし、ドアが開くと直ちに言ってきた。
 「あなたがこのゲーム会社のプロデューサーですか?」数語の挨拶を交わしてから、さっそく裕樹は昨日からの疑問点をぶつけてみた。
 「いえ、フリーランスです。私の名前をご存じないのは当然でしょう。長く、米国でやってきましたから」
 「実績は?」裕樹は試しに訊いて見た。
 すらすらとゲームタイトルが挙がってきた。そのうちのいくつかは有名なゲームソフトだった。
 しかし、なぜ自分にオファーが来るのかが、まったく理解が出来なかった。
 会議室の一つに通される。工藤は入り口にあるボタンを触った。透明だった壁の液晶が白濁して、廊下からも隣の部屋からも見えなくなり、独立した空間となった。
 「まず、秘密保持契約にサイン願いたいのですが」工藤は座ったテーブルに、鞄から書類を取りだして置いた。
 「いきなり? まだ、やるともやらないとも、私は言っていないのにですか? 少しは説明があってもいいのじゃありませんか?」
 「ええ、アウトラインも秘密事項です。何よりゲームの製作費予算を聞いたら驚天動地です」
 「具体的には?」
 「いまは、言えません、この会社は社運をかけているとは言えます」
 「全ては、秘密保持契約にサインをしてからですか?」
 「そうです」
 「それじゃ、受けるかどうか、なんの判断も出来ない」語気を荒めて裕樹は言った。
 駆け引きが始まっていると感じていた。ビジネスは、言いなりであってはならない。
 わざわざ、このゲーム会社はフリーランスのプロデューサーを雇ってる。今までの実績からすると工藤に払う契約金は億以上かも知れないと、裕樹は考えた。
 5分の曲に悩む作曲家であってはならないのだ。この仕事が取れるのなら、5分の曲はお蔵入りさせている旧曲を当て込んでも良いとも思いはじめていた。軽薄かも知れないがオリジナルである事には違いない。
 「もう少し、お話をしましょうか。納得頂ける範囲で、知っていただいてもいい範囲で。多くは比喩になるでしょうが」
 「是非とも」裕樹の身体は、少しだけ身体を前のめりにした。
 「ゲーム感は語れませんが、音楽感は塚本さんには語れます」工藤は言って、にたりと笑った。「世界観は2つあります。簡単に言えば、悪と善。ただし、結果としてどちらも正しい。悪いからという設定はありません」
 「よくあるパターンだな」
 「確かに。ですが、塚本さんに望みたいのは、悪と善の両方を鏡として現す音楽です。スターウルノアの音楽は実に良かった。無調の絡みが素晴らしい、それを超越し包括するバラードも素晴らしかった。たまに、アルバムを聴いていますよ。あなたをオファーした理由の一つ」
 「ありがとう」
 「もちろん、シベリウスとシェーンベルクのことはご存知ですよね」
 「ヒトラーに愛された調性音楽のシベリウスと、ユダヤ人として迫害されたシェーンベルクの無調音楽ですか」
 「その通り、それをフルオーケストラで、ゲームで表現して頂きたい」
 「難しいなぁ」ポーカーゲームで言うビットを裕樹は上げてみた。「膨大なスコアがいる」
 「あなたなら出来る。だからオファーした。助手は一流をつけます」
 「考えさせて貰いたい」裕樹はそう言って、椅子を引いて立ち上がった。「2-3日で返答します」
 「あなた以外にもオファーできる作曲家がいることをお忘れずに。オーディションで決めるのが通常である事もお忘れずに、あなたが断ったら、オーディションにしましょうかね。5分ぐらいのゲーム音楽と偽って」にやりと工藤は笑った。
 「契約に関しての金額も判断材料だ」こいつは、何を知っていると言う疑問を抱きながら裕樹は言った。
 「もちろんでしょう。あとで、メールします。口頭では、証拠になりませんでしょう。ただ、ゲームが壮大で、製作金額も桁違いと言うことを、認識していて欲しい」
 「ゲームを楽しむ年齢層は?」
 「成人です」
 「ゲームは、何十時間でクリアできる?」
 「機密です」工藤は再び笑顔を浮かべて手を伸ばし、裕樹に握手を求めた。裕樹も同じように笑顔を浮かべ、手を握った。相互理解のはじまりだった。
 来たときと同じようにスケルトンのエレベーターに乗った。慇懃に工藤は消えるまでお辞儀し続け、裕樹も手を振ってそれに答えていた。
 裕樹は帰路を取った。渋谷の雑踏を抜けてて自分を考えた、そして、喧噪に音を求めた。鋭くなければ、この仕事は受けられない。改札口で鞄のSuikaをまさぐってもたもたとしながら乗った新宿湘南ラインで自覚した。海のもの? 山のもの? だが、決心は付いていた。自分が楽しめる音楽を創造できるかも知れないと。
 シベリウスとシェーンベルクだなんて。それだけでインスパイアされる。十二音技法というのは抗生物質のようなものだ。強い薬だけれど、人間の生命力、創造力までも殺してしまうものではない。それを甘美な人生賛歌と対比させる。脳内にしまわれたオーケストラが威力を発揮しはじめた。裕樹は、音大の授業で覚えたシェーンベルクの楽曲を頭の中でそらんじて見た。浄夜だ。メロディーが裕樹の脳内で奏でられた。
 これならば十分に立ち向かえると、裕樹は高揚した。
 
 「帰ってたんだ」玄関を開けた葉子は言うと同時に圧倒されていた。クズ扱いされていない五線紙が裕樹の部屋から溢れて、玄関の廊下まで広がっていたのだった。
 「ああ、渋谷から戻って、ずっと作曲してた」
 「なんか、いつもと違うわね」譜面は読めなかったが葉子は、鉛筆で斜線を引かれただけの紙を拾ってみて言った。
 「闇は抜けたよ」簡単に裕樹の言葉が返ってきた。「守秘義務で細かなことは言えないけど、壮大なゲーム音楽のオファーがあった。プレゼンテーションを受けてきた。オーディションなしの仕事だ。受けるかどうかは、これから決める」
 「よかったね」分厚いコートを葉子は玄関先のハンガーに掛けた。オファーされるなんてと、誇らしくも感じた。
 「曲の長さから推察すると、自分がやってきた音楽を、きっとすべて出せるような内容だよ」
 「いま作曲しているのはどうするの? 書けないと、さんざん悩んでたでしょう」
 「乗り切れる。新しい音楽の一部として書くのならば、すぐに書けると思う」ミューズが降りてきていた。そのミューズを掴んで離さないようにして、自分の創作に固着させなければならない。
 「つまりは、新しい楽曲の付属品としてということ?」
 「そう言う事ではないけれど、曲想は枝分かれしてきた音楽だと捉まえれば5分ぐらいの音楽はなんとかなるさ」
 「自分自身の音楽を盗み取るわけ? なんだか楽しそう」五線紙を踏まないように慎重に足を勧めながら葉子は裕樹の部屋に入ってきた。
 「あはは、そうかもな。自分自身にインスパイアされる。素晴らしい音楽であればそれでいいんだよ」
 「経理の仕事でも、いきなりお金の流れが分かる時があるわ。そんなものかしら。頑張って、応援してる」椅子の背後から葉子は裕樹を抱きしめた。
 「ありがとう」
 「稼ぎはマックスにしてね。食費のほとんどはあたしの薄給から出しているんだから」微笑んで葉子は顔を裕樹に向けた。
 「また、現実的な話を。どうだろうな、どんなけ、この仕事は儲かるかな」工藤が送ってきたメールの数字を思い出していた。毎日、極上の霜降り肉でも食べれるだろう。「それより、飯作ろうか」やっと、五線紙から目を離して、鉛筆を置いて、葉子に顔を向けて裕樹は言った。
 「仕事に熱中じゃないの?」
 「気分転換も良いかなとか」
 「いえ、やっぱり、あたしが作った方がちゃんとして温かい料理が出来るでしょ。否定はするな」
 「絶対?」
 「絶対」そうなると、もう葉子は梃子でも動かなかった。「野菜たっぷりのあったかシチューでも作るわ」そう言って、葉子はキッチンへ消えていった。
 コンペがない。まずは指名でのオファーだ。こんなチャンスはないと強く思った。他の作曲家に取られてたまるか。裕樹はノートパソコンを開いて、工藤のメールを読んだ。楽曲の著作権料の他に契約料。高く買い被られているかと不安にもなった。だけでも、気概を持って裕樹は、返事を書き始めた。
 
 週末がやってきた。病院で見て貰う約束の日だった。葉子は何軒かの病院へ電話をかけていたが、血痰だけではと言う反応が多かった。まぁ、一度来て下さいと言う答えが、必ず返ってきた。相手も、商売だものねと、スピーカーモードの電話を切って葉子は裕樹に言った。
 「あまりえり好みするものどうかと思う」
 幾つかに絞った中から葉子はネットで評判の良いA病院を選んで見た。中規模の病院だ。きちんと処置をしてくれるだろうか。その日の作曲は休んで、裕樹は葉子と同伴する事にした。
 新しい仕事の作曲は守秘義務が厳しいと、裕樹は葉子に何も話さなかったけど、書けなかった5分のテーマ音楽は一気に仕上げられて、作ったデモを葉子に聞かせてから、製作会社に打ち込んだデータ送付していた。
 弾けるように葉子は嬉しがってみせた。作曲家塚本裕樹の復活ねと、甘い声で裕樹の耳そばにささやいた。
 
 受付を済ますと、番号を印したカットシートを渡された。葉子はその紙をじっと見詰めてからバッグにしまい込んだ。何々科と記されたサインに従って、受付から奥へ入っていった。
 すぐに患者でごった返した待合に付いた。席は一席しか空いていなくて、葉子は裕樹に勧められるままに座った。受付番号がひとつ進むごとに、葉子は緊張した。
 「塚本さん」看護師が呼んだ。はいと答えて、葉子は裕樹とともに診察室へと入った。
 エタノールの匂い、マスクをして、透明なフェイスガードをつけた初老の医師が座っていた。
 「血痰が出る?」医師は、受付で葉子が書いたシートに眼を落としていた顔を上げて葉子を見た。
 「はい、3年前から突然出るようになりまして、この間は息が止まるかという発作で」葉子は不安げに医師に言った。
 横で裕樹が顔をしかめた。そんな前から血痰が出ているなんて気が付きもしていなかったからだ。それに、息が止まる? そんな風には言っていなかった。僕が心配するかと思ってか。熱いものが込み上げてきた。
 「診てみましょう。上を全部脱いでもらえますか。ちょと恥ずかしいかも知れないけれど、精密に診断したいので」プロフェッショナルな視線だった。
 葉子はセーターとカットソーを脱いだ。ブラが外され、張りのある美しい乳房があらわになった。
 医師は聴診器を当てて、ゆっくりと肺の音を聞いていった。
 「異常音はないみたいですね。では、レントゲンを撮ってみましょう。服は着て頂いて結構ですよ」
 礼を言ってふたりは診察室を出た。後ほど看護師から声がかかると言われた。
 「何か飲む?」裕樹が声を掛けてきた。
 「うーん、何でもいい」葉子は、だけども、裕樹の優しさを無駄にはしたくはなかった。
 「お茶でも」
 「いっぱい飲めないから、あなたのを貰うぐらいでいいわ」
 「了解」裕樹は、待合室の奥になる自動販売機へと向かって行った。
 その間に、レントゲンに呼ばれた。いなくても分かるだろうと、葉子はレントゲン室に隣接する着替え室に入って行った。
 再び上半身の服を脱いで、ガウンを着た。ライトの光がぼんやりと、空虚に輝いていた。
 技師が、胸部レントゲンを撮りますと言って、名前と生年月日を聞いてきた。生年月日を葉子は答えながら、歳が30に達したことを意識した。ひょっとしたら、この年齢であたしの人生は終わるのか、そんな事が頭をよぎった。
 撮影台に立って、X線カメラのシャッターが切られるデジタル音が微かにした。
 「はい、いいですよ」不吉を遮断するように技師は台から降りるように言った。
 着替え室に戻って、ガウンを脱ぎ、下着を身につけていった。
 10分が経っていた。
 「お待たせしちゃったね」気が付かなかったセーターの乱れを葉子は直しながら、壁に背をもたせ掛けている裕樹に近づいて行った。
 「ぜんぜん。次の診察の待ち時間の方が長いと思うよ」ペットボトルのキャップがあけられたお茶を葉子に裕樹は渡した。
 黙って葉子は頷いた。二口飲まれたお茶は、裕樹の手に戻った。
 たっぷりと時間は流れて、再び名前を呼ぶ声がした。
 
 「気管支に影があります」医師はディスプレイのレントゲン画像を指し示した。
 「影? それは?」裕樹は食い入るように画像を見た。だが、分かるようなものは何一つなかった。
 「どこにですか?」葉子も灰色の回転椅子から身を乗り出した。
 「ここです。これが気管支で、この部分。ごく小さく微かですが影があるんです」
 ふたりには分からなかった。
 「血痰の原因なんですか?」
 「たぶんこの影が原因だとは思いますが、レントゲン以上の検査をしてみないと何とも言えません」
 「例えばどんな検査ですか?」
 「CT検査ですね。この病院には設備はありませんから」
 「悪い病気なんでしょうか」葉子の表情から赤みが消えていった。
 「そんな事はないですよね」裕樹が続けた。
 「いまは、判断出来ません。近所のB病院にはCTの設備がありますから紹介状を書きます。それと、気管支拡張剤を出しておきますから、息苦しさの予防ですが、用法を守って吸って下さい」
 
 週が明けて冬は寒さを増して、重暗い空気で空は覆われていた。北は大雪だという。
 工藤からオファーを受けた仕事のスタッフは多国籍だった。テレビ会議で行うことが当たり前だったが、裕樹はコミュニケーションを取るために渋谷まで出かけることも多かった。
 壮大かつ華麗、あるいは沈鬱な音楽が求められた。工藤は、小さなパートでもデジタルでなくフルオーケストラでいくという。身が震えた。安物のゲームにある薄っぺらい音源じゃなかった。
 ゲームの未完成シナリオを読んで、一曲作った。主人公たちの葛藤を表現する部分だ。
 暗雲とした表現、12音階にロ短調を据えて。それは、これから起きる事への希望でもあり絶望でもあった。
 ただ、葉子の病気を考えると、可愛らしい女性の登場人物を象徴する可憐な音楽を作り上げることは出来なかった。舞い上がるような美しい旋律は表出されてもいたけれど、フレーズとして五線紙にしまい込んで、必要な時になるまで組立ては先送りされていた。
 葉子の気管支にある影とはなんだろうか。
 診断は何なのだろうか。
 マンションの窓から見えるちっぽけな空を裕樹は見上げて見た。澄んだ空がぽつんとあった。子供の頃、おもちゃのピアノを叩きながら。同じような空を心なく見ていたのを思い起こした。歌うことを覚えるより先に、テレビから流れてくる曲をコピーしていた。あの時の楽しさが、今はあって、今はない。
 
 平日の休みを極力取りたくない葉子だが、仕事が外せない月曜日を避けて、火曜日にB病院へCTを撮りに行った。検査は思っていたよりもすぐに終わり、帰りにCDを渡された。診察もなく、簡素なものだった。
 その足で、A病院の呼吸器科に向かった。受付の事務員にCDを渡し、2度目の待合室に座った。大雪の冷たさが病院にも侵入しているようだった。
 「作曲しててもいいよ。のっているんでしょう」裕樹の鞄にノートパソコンがしまってあるのは一目瞭然だった。そして、昨日の様子。草稿の五線紙は捨てられることなく番号を振られてデスクに積み上げられていた。垣間見た五線紙は、フルスコアのものもあった。
 「さすがに、ここではまずいだろう。それに書いているのは暗い曲だから。それに、譜面を読める人もいるだろうし」鞄をポンと叩いた裕樹は改めて辺りを見回した。しかし、言ってしまったと思った。
 幼児連れの母親、見るからに病気持ちという体型の人、眠っている老婆。
 裕樹は葉子の手を重ねた。葉子は不安げな表情は隠せていなかった。
 「心配しないで。君といつも一緒だ、安心して」裕樹は瞳を見つめ、噛み締めて言った。
 「そうしてね」葉子は裕樹に寄りかかった。天井のエアコンが暖気を吹く音が小さくなっていた。
 葉子の名前が呼ばれて、ふたりは診察室に入った。先日と同じ医師がいて、身体を輪切りにしたCDの画像がディスプレイに映し出されていた。
 医師の眉間に皺が寄っていた。裕樹はそれを不吉なものとして受けとめた。
 「何かがあります」医師は画像を回転させた。「これが気管支、そして、これがたぶん異物」白っぽい陰影をボールペンでなぞって見せた。
 「それだけでは分かりません。理解が出来ません」葉子の声は、恐る恐るだった。
 「気管支がこれで。その真ん中に気管支を狭めている何かがあります。それは腫瘍かも知れないし……」医師は言葉を切った。
 「ガンとか」葉子は息を飲んだ。
 「S医大病院への紹介状を書きます。そこで、もっと精密に調べて貰いましょう。専門的なお医者さんもいらっしゃいます」葉子の言葉を無視して医師は言った。
 「ここでは、検査出来ないんですか」言葉を失った葉子の肩を裕樹は抱いた。
 「高価な機械のなので、町医者では持っていません。肺を内視鏡で検査する必要もあるでしょう。ここには、その設備も技術もありません」はっきりした声が診察室に響いた。脇に膠状した看護師がいた。
 「まるなげですか」怒りに似た感情が裕樹を満たしていた。だが、それを医師にぶつけてもしょうがなかった。
 医師は、もう何も語らなかった。看護師に紹介状とCDは受付で精算の時に渡すからと言われた。
 「あたし、どうなるの?」
 「大丈夫だから」
  診察室を出ると、葉子は使い込まれたソファーに座り込んだ。静かな待合に響くのは空調の音と葉子のすすり泣きだけだった。しかし、そのどちらも気にする人はいなかった。

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