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純文学で伸びる人は、推しの日本語作家を持っている人

先日、歌人の小佐野彈氏がTwitter内で新人賞に言及していた。「①狙わない②奇を衒わない③定型へのリスペクト」。これらの基本を超徹底すること、が新人賞の鍵だ、的なことを述べていた(小佐野氏は2017年に短歌研究新人賞でデビュー)。

私もこれに同感だ。新人賞や芥川賞の選評を見ていると(芥川賞はここ一二年ほど全くチェックしていないのだが)、設定が奇抜な「だけ」の作品が選考委員に厳しく叩かれ、行っても最終選考で落とされるのが純文学なのだという思いを強くする。長らく新人賞選考委員を務めていた保坂和志氏の『うまさや面白さはそのうまさ面白さこそがつまらない』とは端的な言と思う。

上田岳弘氏や李琴峰氏のような、新人賞受賞時から飛び抜けた発想と作風で周囲をあっと言わせる書き手もいるが、あくまで作品世界と伝えたいことを自分の言葉で織り上げたところが評価されたのだという認識でいる。私はこれを文壇の硬直化とは思わないし、ある種のバラエティ的で安っぽいわかりやすさから文化というものを守るための壁として必要だと思う。

面白い作品なら新人賞よりネットで発表すればいい。面白いと認められたいのならnoteで連載してスキを貰うのがその書き手にとって幸せなのだと思うから。Twitter界隈にいる面白いことを考えつく自分の選考通過履歴をプロフィールで誇っている手合いも、きっと数年後には純文学に見切りをつけて、ネット作家かエンタメ小説に転向するのだろう。

私が気になったのは、小佐野氏がこれに続いて述べていたことだ。
「推敲しすぎない」「推しの歌人を意識する」

推敲しすぎないはわかる。推敲しているうちに、自家撞着やカタルシスが入ってしまうのだ。名前は忘れたが大学教授の論文執筆法に、文章は「炙って乾かす」のがちょうどいい、ということが書いてあった(出典不明で申し訳ない)のが、執筆と推敲の適量を端的に言い表していて良いなあと思った。

「推しの歌人を意識する」
これは最近の自分の所感とシンクロする。結局、自分の文体は先行する誰かの文体の影響を受けずにはいられないし、それがラノベや現代作家の文章だったらそれ以上の文章にはならない。組織がトップの思想や学び以上に成長しないように、文体もまた書き手の読書体験以上には成長しないのだ。構造的な理由はわからない。ただそういう事実が巌として眼前にある。これはそういうものと受け入れてやるしかない。

なので、最近は推しの文章書きって誰、誰のつもりになって書けばいいかと考えながら書いている。
今年は勉強の一年だからなおさらだ。
きっと優れた小説家は漱石や鴎外、三島谷崎あたりが当たり前の読書生活だったから、彼らの文章が今でいう推しの文体になっていたのだろう。マニアックなところでは推しの文章が内田百閒の随筆という書き手もいると聞く(要出典)。

自分が好きなのは学生時代に出会った白洲正子さんの、立て板に滔々と水を流すような文章で、執筆時には毎回『お能』や『世阿弥』を机の上に置いている。もちろん自分は白洲さんのような偉大な美術研究家、ホンモノを見抜く目利きとなど比べるべくもないのだが、先日ラジオで90歳を超える落語家がゲストで招かれたときの「いまだに師匠を追いかけて、捕まえたという気がしない」という境地に辿り着きたいという思いで日々書いている。

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