Ken

出身は博多。大学を出てから民間企業3つ、公的機関4つ、大学院2つを渡り歩く。起業の才能…

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出身は博多。大学を出てから民間企業3つ、公的機関4つ、大学院2つを渡り歩く。起業の才能はなさそう。ただいま、自分史上5か国目の海外生活で奮闘中。Instagram: Ken_Mizuuchi twitter: mizuuchi

最近の記事

海外赴任:2つの暮らしを切り替える。

海外赴任をしてしばらく経ちます。 割とハードシップの高い国でのややこしい仕事なので、概ね1年に1回くらいは長めの休暇をいただいて日本に帰国します。でないと持たない。精神的にも肉体的にも。 そんな一時帰国は、1年分の「私生活」を1か月に詰め込むような過ごし方なります。家族親戚友人知人、お世話になった人やお世話したい人と会い、好きなお店や気になっていたお店に行き、海外で手に入らないものを買い集めるのです。 海外にいるときの自分と、日本にいるときの自分の両方を知っている人は少な

    • 話しても話さなくても。

      元々饒舌な方ではないのだけど、さらに口数が減った実感がある。居酒屋やバーで気の置けない友達と他愛のないことをしゃべるとかいう機会がほとんどない日々が続いて、雑談の感覚が鈍っているというのは、ある。 それもあるのだけど、年を重ねて経験を踏んでたくさんのことを見聞きしたせいか、その場の話されていることについていろんな考えが巡ってしまって、一言まとめられなくて、考えている間に次の話題に流れていってしまう感じ。 で、僕が話さなくてもみんなが面白おかしくその場を盛り上げていて、まあ

      • また1年が経ちました。

        SNSのおかげで、今年も世界中に散らばった友人知人からお誕生日のお祝いメッセージをいただけました。ありがとうございました。 また1年が経ちました。 2023年、個人的には慌ただしい1年でした。 春、体調崩して夜中に気を失って倒れ、歯を折るやら打撲やら縫合を要する裂傷やら。その数日後に久しぶりの日本で、治療の傍ら、東京、福岡、高知。日本から戻ったらまた片道4便を乗り継いでジュネーブ出張。夏には反対に大物出張者の受け入れ。秋、不安定な航空便に悩まされながらの海外から海外への引

        • 離島を散策。 〜レンゲル島〜

          週末、ポンペイ本島からボートで15分ほどの離島、レンゲル(Lenger)島を散策してきました。 第二次世界大戦が終わるまで、旧日本軍が整備していた拠点のひとつです。日本から3000km以上離れた太平洋の島々で、戦前の日本は数々の軍事・経済の活動を展開していました。 レンゲル島は地元一族の私有地。1990年代末から2000年代初頭までは簡単な観光施設もあったようですが、今やそれも朽ちていました。旧日本軍の遺物も草木や土砂に埋もれてもはや近付けないところ、何があったか分からな

        海外赴任:2つの暮らしを切り替える。

          Joeのはなし。

          南の小さな島にも髪を切る店は何軒かあって。 どの店も当然、日本の美容室のようなセンスやテクニックは期待できないし、期待もしてないんだけど、とはいえ周りから「あそこはマシだよ」と言われた店で散髪してます。 茶色の長髪で、おばさんのようなおじさんのJoeがやっている店。ハサミは滅多に使わず、バリカンだけで器用にカットしてくれます。 いつも割と混んでる店だけど、ある土曜日の朝、早めに行ったら僕がその日最初の客で、一人。 Joeの英語と僕の英語はなんだかすごいズレててよく通じ

          Joeのはなし。

          人口の少ない島で暮らす。

          結構な数の開発途上国にそれなりの期間滞在してみて、さらには住んでみて、それぞれの国の生活のハードシップ、困難さについて考えることがあります。 そりゃね、アフリカは大変だった。インドも大変だった。東南アジアの某国も、街から離れたところは大変だった。 それで今、太平洋の島に長居しているんですけど、で、ここは一人当たりGDPとかそういう指標で見ると割と開発水準の高い国ということになっているんですけど、でもまたアフリカやインドとは別の生活の厳しさがあるなと。 そう感じる最大の原

          人口の少ない島で暮らす。

          海外暮らしと日本の暮らし

          24歳まで九州の地元から引っ越したことがなかったけど、就職して上京したら日本人に馴染みの薄いマイナーな国への出張を繰り返すようになり、30歳を過ぎた頃に最初の海外赴任。中東。 赴任を終えて帰国するも転職を繰り返し、やがてアフリカ赴任の話をもらってそこで5年。 いい加減、転職は難しい年齢になってしまったけど、今は訳あって南洋の島暮らし。 とはいえ、年に1回くらいは帰国し、東京と地元九州でしばらく過ごすという休暇を取っています。今回も約1か月の一時帰国。この時ばかりと日本の

          海外暮らしと日本の暮らし

          お誕生日おめでとう、自分。

          みなさま、お誕生日のメッセージありがとうございました。 年末の仕事納めの日が誕生日で、毎年否が応でも一年を振り返る日になってしまいます。 2022年、疫病に戦争に暗殺と、ほんの数年前だったら「まさか」と失笑するに違いない出来事が続いて、当たり前と思っていたことは当たり前ではなかったのだと認識する年でした。 仕事の上でも世の中の情勢の影響を受けた動きがあったりして、「大丈夫なんか?」と不安が先立つことも多かったです。 そして。 2022年は一番親しい友達の一人を亡くしま

          お誕生日おめでとう、自分。

          一時帰国の件。

          しばらく日本で働いていたので「一時帰国」の感覚から遠ざかっていましたが、久しぶりに「一時帰国」。4か国目の海外暮らしがちょうど1年になりました。 およそ1か月の予定で、実家のある福岡と、東京と。 胃と大腸の内視鏡検査を含む人間ドック。胸部レントゲンの怪しい写り込みは、その日のうちにCT撮影してもらえて助かりました。 歯の治療。通常なら7回くらい通院する治療内容を3回で。小林先生、いつもありがとうございます。 皮膚科も。水虫かと思っていたところは、そうじゃなかったです。

          一時帰国の件。

          (追悼)Nのこと。

          「困ったな。」 咄嗟のことに何も言えなくて、ようやく出てきた言葉がそれだった。 ビデオ通話で話したい、そう言われて何事かなと思ったら、 「Nが亡くなりました。」 と彼は言う。見ると泣き腫らした目をしてる。 そうか、こういう時は泣くのか。でも、唐突すぎて、何の反応もできない。 「困ったな。」 そう、困るんだ。Nがいなくなると。 僕が、よりによってこの新型コロナの折に海外赴任しようとしてあちこちで足止め食らって、赴任したらしたで今度はそこから出れなくなって、そんな

          (追悼)Nのこと。

          新型コロナの渦中に、南の島に行く。

          南太平洋の島ですよ。そう言われたのは2020年のたしか2月頃でした。そして本決まりになったのが4月。 アフリカから帰国してから既に7年が経過し、そろそろまた海外で仕事をする話になることは想定済み、母の病状が思わしくないのでできれば近い国がいいなと思っていたので、南洋の島国を持ちかけられた時にもそこまでの驚きはなく。 しかし新型コロナの感染が世界的に広がり始め、前の年の11月や年明け2月に予定していた海外出張がキャンセルになっていて、そんな時期に南の島になんか赴任できないよ

          新型コロナの渦中に、南の島に行く。

          母が嫌いなポン菓子。

           母はポン菓子が嫌いだという。貧しい家で両親共働き、2人の弟がいて家事は小学生の時から自分の役目。そんな幼き日の母が、学校から帰ってちゃぶ台の上に置かれたわずかばかりのお金を持って夕餉の買い物に行くと、街角にポン菓子屋がいる。  米と砂糖と幾ばくかの小銭を渡すと、「ポン!」とその場で菓子を作ってくれるのだが、母にはそんなことに使える米も砂糖も小銭もなかった。なのに、買い物についてきた下の弟が、「姉ちゃん、ポン菓子食べてみたい。」と母の袖を引くのだ。  いつもいつもそうやっ

          母が嫌いなポン菓子。

          冒険する人、慎重な人。

          リスクの認識には本能的に個人差があって、それは動物としてのヒトの生き残りに意味があったのだと思う。神経質で怖がりなタイプは生活の維持や子育てに有利だったはずだし、冒険的で怖いもの知らずなタイプは生活圏の拡大や新しい食料の獲得に貢献したはず。だから今でも、冒険的なタイプから慎重なタイプまで、人のリスクの認識には幅があるんだろうね。 しかし動物としてのヒトは大きく進歩して、知能を駆使し自然を分析して理解する種族となり、かなりのところまで科学的、定量的にリスクを評価できるようにな

          冒険する人、慎重な人。

          2011年3月11日、僕は在留邦人でした。

          あの日僕は南アからロンドンに移動していて、ヨハネスバークの空港のテレビで津波のニュースを見た見ず知らずの人たちから「お前は日本人か?大丈夫か?」とたくさん声をかけられた。 ロンドンのホテルで受付のお兄さんが、普段は有料のインターネット接続を無料にしてくれて「これで日本のニュースを見れるよ」と。 ロンドンの事務所での用務を済ませて、あとはホテルの部屋でネットばかり見てた。「がんばれ、日本。がんばれ、東北。」と日本語で書かれた英字紙が届けられた。 素直にその気持ちがありがた

          2011年3月11日、僕は在留邦人でした。

          10回目の3月11日を前に。

          はっきりした四季の移り変わりで時の流れを五感で覚える。 花が咲き、花が散るのを見て、何事もとどまることなく移りゆくことを知る。 時には大雨、大風、そして地震、また火山の噴火に襲われ、変わらないと思っていたものも果敢なく失われることを思い知らされる。 形あるものはいつかは壊れることが前提。永遠の時に耐える建物ではなく、木と紙の家を建てた人々。 それなりの月日が経つと社ごと建て替えてしまうことをしきたりとして、式年遷宮を行うお宮は伊勢神宮だけではない。天皇の代替わりという国

          10回目の3月11日を前に。

          色褪せた暮らし。

           優に1年を超えました。新型コロナ感染症が騒ぎになってから。  誰かが「色褪せた暮らし」と表現していて、まさにそうだなと。  仕事にも私生活にも大きな変化を強いられ、中には大変な苦境に陥る人もあり、経済もガタガタ。しかし大方の人はぶつくさ言いながらも生き延び、なんとか暮らしを守ってる。「不要不急」と言われたものが生活の中から消え、人との出会いが減り、会話が減り、雑談が減った。なにしろ今の日本は単身世帯が35%を占めていて、家族以外と会うなと言われたら一人になっちゃう人が少

          色褪せた暮らし。