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存在意義の見つけ方。「経済性」と「自己表現」のあいだで。

こんにちは!金田謙太です。

最近は自分の存在意義のようなものを考えるようになりました。

”自分はどうして生きているのか、何のために生きているのか。”
そんな問いです。

日常生活の中でまわりを見ていると、”漠然としたモヤモヤ感”を抱えながら生きている意外と大人は多いのではないかなと思い、今回は自分の存在意義を見つけるという少しふわっとしたテーマについて、今の自分なりの考えを書いてみました。

そしてこのモヤモヤ感を生み出している要因を考えるのに「経済性」と「自己表現」という2つの観点は外せませんでした。

それぞれがどんな概念なのか定義しつつ、なぜこの2つ概念が存在意義を見つけることを遠ざけてしまうのか、更に幸福度との観点も交えつつまとめています。科学的、経済的な見地があるわけではないので極めて主観的なメッセージである一方で、周りの友人の意見を聞いても割と的を得ているのではないかなと考えています。

社会人の方で日々一生懸命働いているけど「なんとなくこれでいいのかな…」と思っている方、学生の方で「将来何をすればいいかわからない」、そんな方に届いてほしいなと思います。

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「経済性」と「自己表現」とは

大きな議論に入る前に、「経済性」「自己表現」って何?というところから入りたいと思います。

■経済性と自己表現の定義■
・「経済性」
・・・衣食住を得るために、お金を稼ぐこと
・「自己表現」・・・自分の好きなことや心躍ることを行うこと

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そして僕は人の「幸せの定義」として、”自己表現を見つけ、それに取り組んでいくこと”と考えています。

一方で、大人になればなるほど、その”自己表現”が見つけにくくなったりします。いわゆる「やりたいことが見つからない」状態ですが、その理由の大きな要素として”経済性の引力”と”自己犠牲の文化”があります。

今回の大きなテーマでもあるのですが、日本では経済性が自己表現とトレードオフ関係になることが多く、「お金を稼ぐために自己犠牲をしている」状態が慢性的に広がっているかと思います。

それでは「経済性」と「自己表現」それぞれについて少し深ぼっていきます。

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経済性。

僕たちは毎日ご飯を食べたり、夜眠る場所を持つためにお金が必要です。どんなときもお金を稼がないと生きていけません。人がどんな生き方を選択するにせよ、ある程度そこに経済性が担保されていなければ暮らしていくことができないですよね。

そして、そんな”生きていくための経済性の担保”にプラスして、東京のような都心に住むと様々な誘惑が入ってきます。(今はSNSの影響で東京以外の都市でもありそうですが。)

・「良いマンションに住みたい」
・「新しい○○(ブランド)が新商品を出したから欲しい」
・「表参道にできた新しいレストランがあるから食べに行きたい」

と、
必要以上に”経済性”への引力が強く働きます。

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ここでのポイントは「必要以上」というところで、僕らが生きる現代社会では、”ただ暮らしていくだけ”では満足できず、「必要以上」にモノを欲しくさせる設計がなされており、本来生きる上で大切な自己表現が探しづらい時代になっています。

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「お金を稼ぐ」とは

そもそもお金を稼ぐとはなんでしょう。

お金を稼ぐという行為は、社会が必要としていることを行う活動のことです。たとえば「街がきれいになってほしい」と人々が思うから”ゴミ収集”というお仕事が生まれ、ゴミ収集のお兄さんたちはお金をもらうことができます。

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これがみんな「ゴミが大好き!ゴミが溢れる街って最高だよなあ」と社会が思ってしまえば、当たり前ですがゴミ収集というお仕事でお金をもらうことはできませんね。

つまりお金を稼ぐという行為は「自分が思っていることを達成するというよりかは、周りの人が喜んでくれること」が大前提、重要なこととなります。

【経済性のルール】
「お金を稼ぐこと」=社会が喜んでくれること・必要としてくれること

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自己表現。

一方で、僕たち”ヒト”には誰しも心があるので、何か「表現をしたい。」という根源的な欲求があると思っています。ちなみに、ここで言う”表現”は、絵を書いたりデザインをすることではありません。

ここで言う表現は、パンケーキが大好き、車が大好きなど何でもいいのですが、「自分はこれが好きだ」と声を上げたり、「これをやってるときが最高に心躍る」と言える状態のことです。

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ヒトには心があるので、絶対に何か自己表現だったり、心が躍る存在があるという前提の元、この文章を書いています。

【自己表現の定義】
自分の好きなこと、心躍ることを行うこと

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経済性と自己表現のあいだ。

改めてですが、冒頭にあった「自分の存在意義」というテーマからなぜこの①経済性と②自己表現の話が出たかと言うと、この2つの概念がトレードオフ関係になっており、その間を行ったり来たりすることで”モヤモヤ”が生まれているからです。

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もう少し具体例を出すと、
この2つの概念がトレードオフ関係になると、

①お金は稼げるけど、やりたくないこと
②やりたいけど、お金は稼げないこと

人生にはこの2つの選択肢しか生まれなくなってしまいます。

こうなってしまうと、

・①を選択した場合
経済性は担保できるけど、心が満足できない状態
・②を選択した場合
心は満足できるけど、生きていくことができない(または欲しいものが買えないため心の充足感が得られない)状態

になってしまいます。

近年の副業ブームはこの2つの選択肢から脱出するための新しいソリューションとも言えると思います。副業を選択する背景として、「もう少しお小遣いが欲しい」と言った経済性を理由にした選択か、「自分のやりたいことをやりたい」と言った自己表現を理由にした選択がほとんどではないでしょうか。

ただこの副業というソリューションは大多数の人が行えるわけではないので、社会全体としては抜本的な解決策にはなっていないかと思います。

大多数の人は先述した「① or ②の選択」を行っており、そもそもこの選択(経済性と自己表現のトレードオフ現象)が生まれてしまう大きな背景には、”安定”という名の「経済性の引力」、そして「自己犠牲」という文化があると思います。

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日本人の幸福度が低い理由。

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日本では、今もどこか「生きていくためには大変な思いをしてでも働くもんだ。」そんな思想が色濃く残っていて、経済性(お金を稼ぐこと)を担保するために自己犠牲をすることが文化として根付いているように感じます。

これはあくまでも主観的な認識ですので一概に一般化できる話ではありませんが、日本人の幸福度が先進国、途上国と比較しても高くならない理由は、経済性担保のために自己表現を犠牲する絶対量が多いからだと思っています。

・”ちゃんと働かないと将来怖いよ”
・”大企業に就職して安定が一番”

そんな空気感は未だに流れていて、常に「経済性への引力」が働いています。そうするといつの間にか「やりたいことがあるけど、これは稼げないしな。」そんな意識が残ってしまい、自己表現を優先することをやめにして、経済性があることのみに選択が集まることになります。

選択肢を考える時に「この選択は安定していそうか?」を強く考えてしまうのは日本人の特徴だと思います。自分の好きや表現を優先する前に、「リスクを取らず、安定を。」といった思考が先に現れる思考性です。

この国民性自体を全否定すべきものだとは思っていませんが、そのような意思決定を続けてしまうと、人生の節目にふと振り返ったときに、
・「私って本当は何がやりたかったんだろう。」
・「俺はこのままでいいのかな。」
こんなモヤモヤ感が心に残ってしまい、そういった感情が幸福度が下げてしまっている要因になってしまうのではないかと考えています。

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お金稼ぎに没頭する人たち。

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こう書いていくと、あたかもお金を稼がずに自分のやりたいことを突き詰めた方がいい、そんなメッセージに聞こえてしまいますが、そうではありません。

生活していくにあたって最低限安定が保証されている状態は心理的安全性を高めるために必要なことですし、全員がリスクを持って自己表現を見つけ進んでいけるかというと、そうではないと思っています。

それに、お金を持つことで「旅行に行ってみよう」「留学をしてみよう」「新しい習い事をしてみよう」など選択肢が増えることも間違いありません。

ここであえて、自己表現は考えず、経済性に行動を100%振り切ったお金稼ぎに没頭する人たちの話をすると、経験上、そんな人たちほど「圧倒的な行動力」を持って生きていると感じています。

理由はとても簡単です。「お金を稼ぐ」ほどシンプルな目標はなく、感情がとてもピュアだからです。他方で自己表現には答えがないので、迷い悩みながら進むことが多くなります。


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経済性に振り切ると、最後は自己表現に戻ってくる

経済性に振り切った人の行動力は圧倒的だ、と書きましたが、経済性に振り切るだけでは人生の幸せはなかなか掴めないんじゃないか、ということも話しておきたいと思います。

自分の経験上から得た感覚ですが、ある程度経済性が担保された方は、100%経済性に振り切っていたところから、ボランティア活動や寄付、それから今まで以上の経済性を担保できなくても、自分らしくいられる仕事に転職するなど、「自己表現」に方向性を変えて行く方が多いようにも感じます。

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これは経済性の中である程度満たされると、ヒトはそこで満足することはなく、自己表現(=存在意義)を見つけに行く行動変容で、人は生まれながらにして”自己表現への引力”にも引かれている、と思わされる現象です。

この現象を見るときは「やっぱり人の心はお金だけでは満足できないものだなあ」と思う瞬間でもあります。お金はあくまでも対価交換をするためのツールなので、お金そのもの自体は幸せは生んでくれないのです。

重ねてになりますが、経済性が担保されていたとしても、ヒトの心はどこか”自己表現”をいつも探し続けるので、経済性の引力があるという前提でいかに自分探しを行うか、が解くべき問いです。

つまり、「自己表現」と「経済性」の2軸の間で生きているときに「どちらかを選んで没頭しよう」といった極論ではなく、双方の引力に引かれながらもいかに自分らしさを見つけることができるか、が鍵です。

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「クライアントワーク」と「パートナーワーク」。

少し余談です。

僕は仕事をするにあたって、「クライアントワークではなく、パートナーワークをしたい。」と口にしています。これには以下のような違いを感じるからです。

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クライアントワークとは、クライアントが自社内でできない/完結できない仕事を、社外にお願いして様々なビジネス課題を解決していくことです。ですので大前提、クライアントの成功こそがクライアントワークとしての成功だと思います。

この内容自体にはクライアントワークもパートナーワークも差分はありません。しかし違いは、双方の態度の違いにあります。

僕が定義しているクライアントワークとは、お金を支払う側がサービス提供者に対してリスペクトがなく「お金を払っているんだからやってよ」といった態度で接するパワーバランスが過度についている状態のことを指します。

パワーバランスが付きすぎると提案の余地がなくなり「言われたことをただこなしていく」仕事になりがちです。

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その状態の何が悪いかと言うと、そういったクライアントワークは、経済性の担保を理由に、自分の幸せを削る仕事になってしまうからです。お金は稼げたけど心は満たせていない仕事は、ここに大抵ここに分類されます。

反対に、パートナーワークはこうなります。

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お互いにリスペクトがある状態を僕は「パートナーワーク」と定義していますが、この状態はお互いの幸福度も仕事のパフォーマンスも上がります。

パートナーワークではお金だけの関係ではなく、心から「このプロジェクトを成功させたい」というミッションを共有できており、お互いが自由にそして責任を持って発言、表現をできる環境があります。

心を削ることなく、仕事ができている状態です。

よく「双方に経済的なメリットがあること」をwin-winとビジネスの世界では使いますが、僕は経済の話だけではなく、「双方の幸福度が上がる状態」を忘れてはいけない、と強く思います。

幸福度を突き詰めることで、仕事のパフォーマンスは向上し、結果的に経済的なメリットも付いてくると考えているので、定量化できる売上や利益だけを追うのではなく、定性的な「幸せな状態かどうか」といった点も仕事をする上で考えるべきポイントです。

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サラリーマンの”クライアントワーク化”。

働くことをお金を稼ぐ手段としか捉えていない場合は、例え”対クライアント”でお仕事をしていなかったとしても、仕事は”クライアントワーク化”してしまいます。

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やりたいない業務を毎日、好きじゃない上司の意見を聞きながらも「この疲労の変わりに給料とボーナスをもらえるし、まぁいいか。」と、心を削りながら仕事をしている方は意外と多いのではないでしょうか。

その状態は、心を削りながら経済性の担保を作るクライアントワークと全く同じ状態になってしまい、お金は稼げても、幸せな状態からは遠ざかることになってしまいます。

そして、そんな習慣が続くと自己表現を考えることが後回しになってしまい、いつしかは考えることすらやめてしまいます。これが一番危険な状態です。

頭が考えることをやめた状態でも、ヒトの心は「自己表現」を忘れません。
心だけはいつも探し続けてしまうので、それが漠然としたモヤモヤ感に最終的に繋がります。

自己表現=幸せ、という公式に当てはめると、クライアントワーク化したサラリーマンのお仕事は幸せを削りながら生きていることと同義です。

「仕事だからしょうがない。」

そんな言葉を言い続けてしまうと、せっかくの一度切りの人生が経済性により消費されてしまいます。

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表現者たち。

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僕が個人的に心を強く打たれるのは、経済性に大きく引っ張られることなく表現している人たちです。仕事の帰り道に路上ライブをしている方を見かけるとつい足を止めてしまうのはこのせいかもしれません。

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もちろん路上ライブをしている人たちがお金のことを全く考えずに歌を歌っているかと言えばそれも極論すぎるかもしれませんが、”今その瞬間”だけの話をすると「とりあえず就職しておこう」といった安定へのカードは使わず、自己表現に人生という時間を使っています。

そんな方たちを見ると「自分も自己表現を見つけて行動していられる人でありたいな」と常に考えさせられますし、つい「ヒトの幸せとは?」と考えてしまいます。

幸せはどこまでいっても主観的なもので、簡単に相対化できるものではありませんが、個人的には右下の層(経済性担保○、自己表現☓)よりも、左上の層(経済性担保☓〜△、自己表現○)の方が幸福度は高いんじゃないかなと捉えています。

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好きなことで生きていく。

2018年頃だったでしょうか、youtubeの「好きなことで、生きていく」というキャンペーンが流れ、書店でも「好きなことだけで生きていく。」というホリエモンの本が出版されたり、今までの日本の根底にあった思想とは真逆の空気感が回った時期がありました。

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子どもたちの将来の夢ランキングの1位に「ユーチューバー」がランクインするようになり、「楽しく生きていきたい。」といった空気感が世に流れていました。

あのキャンペーンは今振り返ると、自己表現を削りながら生きている日本社会に対して絶妙に”マッチしない”言葉なゆえに、あれだけ世に広がったのではないかなと思っています。ある種、社会的なコンプレックス反応のようなものです。

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タイ人の分布。

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国は離れて、ほほ笑みの国タイのお話をしましょう。

僕はタイという国が大好きで、合計で20回ほど渡航しているのでよく知っている国の1つだと思います。

タイに初めて行ったときの衝撃は今でも覚えていて、「自分の人生を考え直さないと…。」と思わされるほどでした。

それは、タイの方は1人1人が何かに急かされるわけでもなく、必死にお金を稼がなきゃ!と思うわけでもなく、幸せに暮らしていて、非常に心豊かに暮らしているように見えたからです。

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▲タイの名もない街で出会った子どもたち。遊ぶものは錆びれたカートだけ。

タイは誰もが経済性に恵まれているわけではありません。タイのホテルで働いている友人を知っていますが、現地人のお給料は月にして30,000円ほどだったりします。

それでも毎日幸せに生きていて、何か「足りない」など口にするとこは見たことありません。

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▲揚げバナナを売るおばあちゃん。

経済的に見ると日本の方がすごく豊かな国にもかかわらず、タイのこの「心の豊かさ」はどこから来るのだろう?と行くたびに考えさせられますが、大きな理由の一つはやはり自己表現ができていることに尽きると思います。

・心を開ける仲間、家族が周りにいること
・嫌なことがあれば人前でも涙できること
・楽しいときは声を上げて目一杯笑えること
・今できる好きなことを見つけて目一杯行えていること

そんなことを当たり前にできているのが、タイという国だと思います。

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「大人になることは大変なことだよ。」

お話は戻り、また我が国「日本」に。
たまにカフェで仕事をしていると、こんな学生の言葉をよく耳にします。

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「楽しいことは今しかできないから、たくさん遊ばなきゃね。」

多くの方が一度は耳にしたことがあるか、もしくは自分の口でも同じような言葉を発しったことがあるのではないでしょうか。

この言葉を聞くとき感じることは「ああ、この国の子どもたちは”年を重ねることが大変になっていくこと”を感じながら生きているんだなあ」ということです。

”仕事って大変そう。”
”大人って大変そう。”
"将来が不安”

そんな意識だけが、子どもたちに植え付けられていることに悲しくなります。「大人になるのは大変」そんな不安を抱えながら生きる子どもたちが住む国で、明るい未来が生まれるのでしょうか。

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希望を語る大人を増やす必要がある。

僕はかなり教育に関心度が高い大人の一人だと思うのですが、日本に必要なのは優れた教育システムではなく、希望を持って「自己表現」をしている大人を増やすことだと思っています。

希望を持って「俺はこれが好きでやってるんだよ!」そう言える大人を一人でも増やさないと、子どもたちは「将来楽しみだなあ」なんてことを思えません。

「毎日楽しいわー!月曜日が一番最高だよ」と毎日ワクワクしている大人が少なすぎると思います。

やりたいことをやって稼ごうよ!と豪語するのは難しいにしても、大人になればなるほど自分らしさが見つかって、毎日楽しいよ!と大声で言える大人はもっと増えなければいけないと強く感じます。

日本が子どもたちにとって希望を持てる国であってほしいと本気で願っているので、まずはできることとして、まずは自分自身が最高に自分の人生を楽しんでいる大人になろうと決めています。

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やりたいこと・好きなことの見つけ方。

希望を持つ大人を増やせと言ったって、「やりたいことや好きなことがなかなか見つからないんだよ。」って大人の方は多いのではないでしょうか。もしかすると大人のみならず、学生さんもそうかもしれません。

この「やりたいことを見つけるにはどうすればいいですか?」という問いにコレといった画一的な答えはないかと思いますが、自分なりに導き出したまずやるべきことは「やりたいことを見つけるための”環境づくり”」だと思います。

よくやりたいことを見つけるのに自分史を作るだとか、自己分析をするだとか手法ばかりの情報が先走っていますが、そもそも「WHAT」を行うための土台作りが非常に重要だと考えています。

「やりたいことを見つけるための”環境づくり”」は大きく3ステップです。

①SNS、インターネットを断つ時間を持つこと
②自分とのミーティング時間を持つこと
③(東京で住んでいる場合は)東京の外で行うこと

この3つです。理由を書きます。

①SNS、インターネットを断つ理由は、余計な情報を遮断することにあります。

『あなたは最後にいつスマホの電源を切りましたでしょうか?』
これたぶん99.99%の人が答えられないか、切ったことがないと思います。

自分の表現(好きなこと・やりたいこと)が見つからない理由として「経済性の担保」を既に理由としてあげましたが、似たような現象がこのインターネットでも起きていると思っています。

どういうことかと言うと、SNSやインターネットを見ることで「社会的にこうでなければならない」という意識がインプットされてしまうからです。”常識”や”世間体”とも言い換えられるかもしれません。

本来自分のやりたいことは、社会が求めていることや、社会的常識とは切り離して考え始めるべき(最終的には繋がるのですが)だと思っていて、これらの情報は一切遮断する時間を持つべきだと思います。

もちろんSNSを全てやめてください、という意味ではなく、一時的にでもSNS断捨離時間を持ってみてもいいんじゃないでしょうか?という提案です。

②自分とのミーティング時間を持つことは、しっかりと自分の心に耳を傾けて上げられる時間を持つことです。

日本は教育システム、就活、そして働き方の面から見ても「一人でじっくりと考える」ということをさせてくれない仕組みになっています。

ヨーロッパでは高校や大学等のまとまった期間の間に「どこにも所属しない」期間を設けるギャップイヤーの習慣が深く根付いていますが、日本では隙間を持てず、気づいたら就職している、なんて状況にさせられます。

そんな自分と向き合う仕組みが無いのならば、作るしかありません。僕の場合は学生時代から、社会人になった今でも定期的に自分と向き合う時間を作っており、そのときはスマホやPCは使わず紙とペンだけで思考の整理を進めます。

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▲”一人ミーティング”の様子

ここでスマホやPCのメモを使わない理由は、情報の遮断です。余計な通知で気を取られることはないですし、ついTwitterを開いちゃうなんてこともありません。

③東京を出ることは全員に当てはまりませんが、東京に住んでいる方は絶対に行った方が良いことだと思います。

人間は五感からありとあらゆる情報を集め、脳で処理しますが、東京にいるとその場所にいるだけで余計な情報が視覚から、聴覚から、ひっきりなしに入ってきます。

①で先述した同じ理由ですが、自分と向き合う時間は、他者の期待や世の中の常識なんかを意識せずに、いかに主観的な時間を持てるかが大切だと思うので、余計な情報はシャットアウトできる環境に変えてしまうのが理想です。

東京に住んでいる方は、数日でもいいので脱東京をしましょう。

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▲マイクロソフトの創業者として知られるビル・ゲイツも1年に1度は、一人だけで無人島に行き、余計な情報を全てシャットアウトして、一人で考える時間を持つことを今でも続けているみたいです。


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僕が「ライスワーク」と「ライフワーク」という考え方を”しない”理由。

冒頭の言葉に戻りますが、今の社会ですと経済性と自己表現がトレードオフになっているがゆえに、

①お金は稼げるけど、やりたくないこと
②やりたいけど、お金は稼げないこと

この2つの選択肢の中で考えがちです。いわゆる①がライスワーク、②がライフワークと呼ばれる活動で、”両方やれば解決するじゃん”、といった考え方を多く耳にするようになりました。本業はライスワーク、副業はライフワーク、と言った具合です。

短期的にはそれでも良いかもしれませんが、個人的にはその考え方に対しては否定的です。

なぜなら、そのような、ある種の割り切った考え方が定着してしまうと、ライフワークの目的は自己表現をするための活動というよりかは、①のライスワークで消化できていない”精神的な負債感”を消化するために行う活動になってしまうからです。

つまり人生にプラスアルファを生んでくれるわけではなく、マイナスをプラスに持っていく作業を行うことになるので、最終的に幸福度はあまり大きくならなくなってしまうと個人的には考えます。

それから、割り切る考え方は、改善する思考を止めてしまいます。「この仕事はお金を稼ぐためだから」といった理由で、どうすればそれが楽しい活動になるか?という創意工夫する意欲がなくなってしまうのです。

これは凄く勿体ない現象だなと思っていて、僕はどんな環境であっても絶対に改善の余地はあると考えているので、思考を止めてしまう割り切りは一見合理的な選択に見えますが、多くの可能性を潰してしまうことにもなります。


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自己表現(幸せ)を考え続けたい理由。

「経済性」と「自己表現」のお話から深堀りをしたり、脱線したり色々と書いてきましたが、自分がここまで自己表現を考える理由は、一人ひとりがちゃんと幸せに生きることが大切だと思っているからです。

人は生まれながらにして特別で、それぞれに生きている意義がある。という根本的な考えがあるからかもしれません。

一人でも「僕なんか」「私なんか」といった言葉を吐く子どもたちはいなくなってほしいし、大人でも「自分だからこそこれができる」という意識が世の中にもっと広がれば、もっと強い、希望の溢れる国になれるんじゃないかなと思います。

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見えない未来に向けて、どう楽しめるか。

希望を語る大人を増やせだの、やりたいことの見つけ方だの、偉そうにここまで書いてしまいましたが、それでも自分自身もまだしっかりとした回答を出せていません。

理屈として理解できても、資本主義のなかで生きていると、自己表現と経済性は切っても切り離せないので、やはり自分の存在意義を見つけ出す難しさを痛感しています。

一方で、最近はそんな揺れ動く状態こそが人生の目的で、まずそんな状態をまず肯定してもいいのかもしれない、とも考えるようになりました。

人生に確固たる答えは存在しないので、その問いに対して生きている間に答えが見つかるかもわからないですし、そんな問いを投げかけている間にも自分の存在意義や表現自体も変わる可能性だってあるわけです。

自分の存在意義が可変的なものだと思うと、そもそも目的地のような定点があるわけではないので、揺れ動いている状態こそが正解なのではないかなとも考えられます。

昨日、「テクノロジーで世界を変えたい。」と言っていた人が、「やっぱりパン屋さんで人を幸せにしたい。」と思ってもいいのだと思います。

「自分って本当に何がやりたいんだっけ?」

と、問い続けることこそが目的、変化こそが人生の目的でもいいのかもしれない、なんてことを感じています。

「目的”地”」なんて言葉があるので、あたかもそこは「決まりきった場所」のように思えてしまいますが、たどり着く場所はいつだって揺れ動いているのかもしれません。

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終わりに ーあとがきー

10,000字以上書いて、「揺れ動いていることが正解」って、なんと言うかスッキリしない終わりだったかもしれないです。実はこのnoteは50回ぐらい書き直しを入れていて、友人にも何度も見てもらいました。たくさんの人に届いて欲しい!と言った前提ではなかったので、そんな書き直しを入れる必要があるのか、ってところも自分では理解しつつ、読めば読むほど表現や説明の順番など気になってしまうものですね…。この「資本主義社会」での生き方や「幸せ」については、僕がアメリカから帰国した一日目から考えているテーマであるので、割と個人的なこだわりがあったせいかもしれません。これからも揺れ動きながら生きていくのだろうなと思いますが、幸い、「今生きている瞬間が一番好きで、毎日最高に楽しい」と言える人生を過ごしてきているので、いつまでも思考を止めず、前へ前へ足を進めていければなと思っています。

日本がもっと希望を語る大人で溢れますように。子どもたちがもっとワクワク生きれる国でありますように。

お読み頂き、ありがとうございました。


金田謙太

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