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6年間越しの想いで全米1位のデザインスクールに行き、途中で日本に帰国して芸術をはじめた話。

アメリカの大学を卒業し、大手のIT企業に新卒で入社、そして起業。そんな経歴だけを見ると周りからは”順風満帆”に人生を歩んでいると見られることが多かった帰国後の6年間。

しかし実態は帰国した2016年、自国の文化に馴染めず自己表現を行うことができなくなり、24歳で新卒になった僕は2年の遅れを取り戻そうと会社のトイレで仮眠を取りながら仕事を行う生活を続け、うつ病に近い状態になりながら毎日を過ごしていました。起業後は創業1年ほどで創業メンバーが離れ、一人になった後で事業の立て直しを行いました。多くの方が「応援しているよ。」と期待してくれた中、どこかでそんな恩師の方々の想いを裏切ってしまっている感覚があり苦しい時間を過ごすことになりました。

さらに大人になった今だから書けますが「見た目も良いし、生きていて困ることないでしょ。」と外見に関して発言されることは珍しくなく、釈然としない心持ちだけが残りました。時間が経てば解決するなんてことはなく、晴れやかな気持ちで1日を過ごすことが難しくもなりました。

こうしたわだかまりを持つ日々は精神面だけではなく、身体面にもはっきりと表れ始め、どれだけ病院に通っても原因がはっきりとわからない頭痛や体調不良、高熱などが現れるようになったりなど、帰国してからの6年間は決して「順風満帆」とは言い難いものだったなと振り返っても感じています。

それでも、どこかでいつか期待してくれた人たちや自分を育ててくれた家族に恩返しをしようと新しいアイデアや表現を見つけてはトライをし、自分らしく生きることを諦めないと朝起きては自分の目標や夢、感謝するべきことをノートに書き残すことが習慣となりました。

ノートの数は年々増えていきました。

「いつかアメリカに絶対戻る。」そう固く心に決めていた想いは、2022年に実を結び、全米ランキング1位のデザインスクールであるParsons School Of Designの合格を手に入れることにつながります。

このnoteは僕の少しの人生の記録です。

自分で選択した日系企業への就職のはずだった。

アメリカでの学部時代のほとんどの友人が外資系企業への就職を当たり前のように決める中、自分だけは日系企業への就職を決めました。

常に人と違う選択を取りたいという性格と、あらゆる日本ブランドが他のアジア企業に取って替わる状況を目の当たりにしてきた自分は、海外で学んだマーケティングの力を日本に還元していきたい、そう思い外資系企業の就活を全て止め、日系企業のみに絞りました。

結果として非常に辛い日々の中ではありましたが、自分のプロフェッショナリズムの基盤を作ってくれた時間となり、特にメンターとして仕事のイロハを叩き込んでくれた今井さん、現在バイオベンチャーを創業されている中井さん、その他にも鈴木さん、のぶさん、長尾さん…(書ききれない)など尊敬できる多くの先輩に出会えたことが今でも大きな財産になっています。

むしろあの時外資系企業に入り、自分と近しい価値観が集まる心地よい場所に行っていたならば、ここまで何かを変えようと意識できていなかったかもしれません。今では自信を持って、自分の行った選択は間違いではなかったと言えることができます。


共同創業、そして解散。

そんな学びある熱く深い体験をしていた会社から独立をし、2018年に会社を友人と共同創業をしました。会社の作り方を一つずつ調べ、税理士さんを紹介して頂き、起業家の先輩の様々な声を聞きながら進んでいきました。自分たちにできることを考えては新しい事業にチャレンジをし、ありがたいことに当時20代半ばの僕たちを面白がって可愛がってくださる先輩経営者にたくさん出会うことができました。

しかし全てが順調に進むわけはなく、幾度なく難題に直面します。共同創業から解散までの出来事は割愛しますが、一度決めたことをやり抜きたい性分である自分にとっては、信じてくれた方々、そして自分自身を裏切っている感覚が強く残り、精神的に辛い日々が続きました。

数年経った今でもこの体験は今でも度々思い出します。まだやれることがあったんじゃないか、あの時自分が変わっていれば描いていた夢は続いていたんじゃないか。自己否定に陥ってはいけないと、この経験を学びに転換しようと心がけてしましたが、そうした合理性だけでは片付けられない、やり場の無い感情も同時に残ることが多々ありました。


違和感は身体に現れはじめる。

ただ共同創業した会社を解散した後も多くの方とのご縁に恵まれ、先日EXITした某スタートアップ企業のマーケティング戦略の構築をゼロから行ったり、日本有数の化学研究所のブランディングデザイン、10社以上の一部上場企業のDX新規事業の立ち上げ、そして海外スタートアップの日本展開支援など、本当に多岐にわたる様々お仕事に携わってきました。

ありがたいことに、仕事が無くて困る、といった状況には一度も陥ることはなく、常に意義あるプロジェクトと関われることが会社を解散した後の自分にとって何よりも幸せなことでした。

一方で、帰国直後から馴染めていなかった自国の文化への苦しみは色濃く残っており、自分のアイデンティティとなっている海外での経験や、見た目のことが日々の生活を息苦しくさせていきました。自分の生まれ育った国にも関わらず違和感を感じてしまう辛さと、同じ悩みを共有できる友人・知人がいない寂しさが重なり、1日中考え込む日もありました。

多くの人に語っていませんでしたが、新型コロナウイルスが蔓延する前の2019年には日本に長いこと居られなくなり、タイと東京を行き来する二拠点生活を行っていました。日本にいる期間に打ち合わせなどは設定し、それが終わるとすぐに成田空港へ向かい作業は東南アジアで行う生活。当時は、「自由に海外に行けていいね。」なんていう心持ちではなく、それが自分で自分を守る唯一の方法でした。

当時のパスポート。タイのスタンプが押されているページ。

金田さん気にしすぎですよ。自分が持つ悩みを打ち明けたときによく言われた言葉です。確かに気にしすぎなのかもしれない、そう思うと同時に、違和感というモノは簡単に拭えないもので、その小さなストレスの積み重ねは日に日に身体に現れてきました。これまで健康体だった身体は、偏頭痛や喘息を持ちやすくなり、頭に嘘はつけても、身体は嘘をつかず様々な症状が表れてきました。

悩みや違和感と言うものは、自分の中だけで抱え込まず周りの仲間に打ち明けられると心が軽くなることがあります。しかし仮に打ち明けたとしても、本当の辛さは自分だけにしか理解できない場合もある。だからこそ自分自身と常に対話をする大切さこのときにを学びました

自分を救ってくれたタイの子どもたち。何も知らない自分を、”ただの一人の人”として扱ってくれる環境は僕にとって心落ち着かせられる場所になっていた。


やっぱり僕は日本が苦手だった。

この言葉を堂々と言えるようになるまで時間はかかりましたが、今では正直に言えるようになりました。

同調圧力がとにかく強いし、古くからの文化に囚われ新しく創造されることが少ない社会。若者にチャンスを与えない大人たち。それから見た目や経歴でとにかく判断される社会が嫌いだった。無くならないルッキズムに辟易する。とにかく生きにくかった。

周りの目を常に気にしながら生きなければいけない空気感が強く、それを「和を重んじる文化だからね。」と肯定し合う社会もよくわからなかった。多感な時期をアメリカで過ごした自分は、誰しもが自分の意見を表現する社会が当たり前だったし、何処となく我慢が美徳となっている日本社会は辛かった。

将来は絶対に海外に住む。事ある毎に仲の良い友人にはこんな話をして、どこの国に移住しようかなとよく情報を見ていた。(そんな意識がまた変わり日本に帰国することになるとはこのときは思ってもいなかった。)


全米1位のデザインスクールに行く。

違いが受け入れられ、自分自身に戻れる場所に帰りたい。世界中の人が集まり、違う視点を持つ人たちともっと出会いたい。身体の弱まりと反比例するように、アメリカに戻りたいという意思が大きくなり、環境が変わってくれるのを待つのではなく、自分自身が変わり、自分で環境を変えようと決意しました。

そうして手に入れた切符が全米ランキングにて1位のパーソンズ美術大学(Parsons School of Design)への入学です。

Parsonsからの合格レター。自分の誕生日の前日に届きました。

大学院に戻ると話すと、MBAに行くの?とよく聞かれましたが、僕が行った学部はStrategic Design and Managementという戦略デザインやデザインイノベーションを学ぶ修士号で、大学もビジネススクールではなくファッション学部などが有名な美術大学院にしました。

志望校を選択するにあたり意識していたことは、最高の仲間と出会えることとトップクリエイター達が集まっていること。授業そのものに高い学費を払うというよりかは、世界中から来る優秀なクラスメイトと出会い、そこでディスカッションできることにお金を払いたいと考えていました。

大学院はいくつかの大学を併願しており結果的に合格をもらったのは下記の学校。

アメリカはニューヨークにあるParsonsとPratt。イギリスはロンドンにあるRCAとUAL。


美大を選ぶに至ったファッションとの出会い

少しだけ美大を選ぶに至ったお話を書きます。

コロナ禍で「不要不急の用事は控えてください。」と各報道機関から伝えられ、人とのつながりが遮断された2020年。その時夢中になったのがファッションであり、芸術でした。

偶然知り合いのデザイナーさんにおすすめしてもらった、あるファッションデザイナーのドキュメンタリー映像をきっかけに僕はファッションの世界に夢中になってしまった。

その中でもIssey Myakeの創業者である三宅一生さんの作品や哲学に触れたときは身体の中から何かが熱くなるものがありました。

それからの日々は、毎朝起きた瞬間にはくるったようにファッションデザイナーの哲学を調べるようになっていた。今まで特段ファッションが好きだったわけではありませんし、何があったのかわからないけど、とにかくファッションデザイナーという人たちに夢中になった。

そのとき特に夢中になった三宅一生さん。

そうしてビジネスだけではなくファッションやアートに関わる人達とも出会いたいという気持ちは大きくなり、「美大に行ってみよう。」と気持ちが変化していきました。


「芸術に人生を救われるって何かいいですね。」

振り返るとここ数年間は芸術により、大げさではなく命を救われてきた感覚があります。

文化に馴染めず孤独になったとき。共同創業が終わった時。新型コロナウイルスの影響で計画していたことを止めなければいけなくなった時。音楽を聞くことによって生きようと思えたり、映画を見ることで感動したり、絵画を眺めることで新しい視点を得たり、大好きな服を着ることで気分が前向きになったりなど。芸術には希望つくる力があると考えています。

そんな話を仲の良い友人にしたときに「けんたさん、芸術に人生を救われるって何かいいですね。」と言われ、なぜだか頭の中にすごく残っています。そうか僕は芸術に救われていたんだ…と認識した瞬間だったというか。

私がこれまでの仕事で行ってきた課題解決型のビジネス戦略のアプローチには大きな意義を感じてきましたが、人の心を動かすモノはいつの時代も「解決」ではなく「生み出す力」、すなわち芸術力なのではないかと今では思っています。

だからこそ学部時代ビジネススクールで培った力を基盤にしながらも、思考や表現としての芸術性、アートも取り入れながら生活をしていきたいと自分の中で大きな変化が生まれました。

『朝、希望を持って世界を眺められるようにする。』

これが今の自分自身のミッションであり、これから作りたい世界観です。今は敢えて何を創るのかといったアウトプットの形に固執せず、デザインやアートの力を活用し様々な表現と事業を作っていきたい。


ニューヨークでの生活と違和感

さてお話は少しニューヨークでの生活のお話に。

学部時代にアメリカに元々6年間住んでおり、そのときもニューヨークは度々遊びに行っていたので移住後に特段新しい感情を覚えることはなかったです。「ああ戻ってきたなあ。」という気持ちが率直な感覚。久しぶりに世界中の人種が集まる場所で人との交流をすることは充実した時間でもありました。

入学したParsonsのメインキャンパス。

一方で授業が始まり、新しい環境とは言え「大学院」というある意味リスクがなく守られた教室では、単刀直入に言ってしまえば物足りなく感じてしまったことが正直な気持ちです。

実際にデザインやビジネスの現場で活躍している教授陣からレクチャーを受けたり、世界の多様なバックグラウンドを持つクラスメイトとディスカッションを行うことは楽しい時間ではありましたが、自分が求めている学びの量があったか?と考えると大きく頷けないことも事実でした。

デザインスクールの学びに関する疑問については「カリキュラム」「教授」「クラスメイト」などに細分化はできますが、このnoteで詳細を記載することは割愛します。(もしデザインスクール留学を考えている方がいらっしゃれば個別にDMなど頂ければ質問などに答えますのでお気軽にご連絡ください。)

▲当時のメモ


ファッションショーと衣服を纏う行為

ニューヨーク滞在中に人生ではじめてファッションウィーク(いわゆるファッションショー)に参加することができました。

僕はそこで衝撃を受けることになります。

▲ニューヨークファッションウィークのお客さんたち。

ショーに来ていたお客さんを見た時、『ここには人間しかいない。』
そう強く感じました。

あまり哲学的でとっつきにくいお話にしたくありませんが、人が自分自身を表現できる衣服を纏ったときに、それはもう衣服ではなく人間と一体化して現れるんだとはじめて知り、肌で感じた体験です。

それは長い間日本で強いルッキズムを受け苦しんできた自分にとって「解放」であったように思えます。

ファッションという世界では自分が自分として生きて良くて、表現して良くて、皆がそれを受容してくれる。そんな世界があるという事実は自分にとって大げさではなく人生の解放となりました。

”ファッション”と一般的に聞くと、どこか着飾るイメージがあると思いますし、所謂ブランド品などむしろ人間そのものの存在から遠ざける気もします。

ただそのときに僕が理解できたことは、本当に自分が表現したい衣服を身に纏う行為は、裸になることと同義だと言うこと。服には形があって、デザインがあるけど、本当に自分が表現したい服をまとっている瞬間、それは着ている人と同化し、本当のその人の姿に戻してくれる力があるのだと捉えています。


ニューヨークで服を作る。

その体験以降、僕はニューヨークにある自宅で創作活動を行ったり、ファッションデザイナーの友人と服を作ったりなど授業よりも「つくること」に夢中になっていきます。

▲いつも何か作っていたNYの自宅。
▲友人のミシンを自宅に運び、夜な夜な制作。
初めて布が服になっていく姿を見て本当に感動しました。
▲そのときにできた服。

顧客のニーズや課題を見つけて新しいイノベーションを生んだり、戦略を作る仕事をしてきた自分にとっては「思想をただ表現する。」という行為は新しい感情を産み、その世界に夢中でした。

同時にその世界線で行きているデザイナーやアーティストへのリスペクトが大きく膨らみます。


人間を人間に返す芸術と日本人の精神性

▲当時のノートの一部。

そんな創作活動の中で、アーティストの友人とも対話をしながら自分自身が芸術になぜ関心を持っていったのかを言語化していきました。結論から言うと、僕は「人間回帰」させる現象を起こしている人々に強い関心があったということ。

ファッションはその現象を起こす”メディア”の一つとして関心を持ったけど、本質的には僕は「人間を人間に返してくれる」世界に夢中になっていたのだと思う。ファッションは”纏うことができる”メディアという特性上、他の絵画や彫刻などのメディアに比べその性質が強いのかもしれなけども、究極ファッションじゃなくてもいいのかもしれない。

▲人の構成要素の可視化

その時に頭に浮かんできたのが「人の構成要素」について。特にSNS時代においては人の目に付きやすい容姿、そしてわかりやすい実績や経歴が評価されやすい。だけど人の本質というのは誰もが普遍的に持っている「人間性」にあると思っています。

僕がファッションショーで感動したのは、ファッションを通した芸術が「人間を人間に返してくれる」世界を見ていたのではないかと思います。だから僕は「ここには人間しかいない。」と思えた。

そこから日本人アーティストやデザイナーが、世界に強い影響を与えてきた歴史を知ったり、海外の多くのアーティスト自身が日本人が持つ精神性に強く感銘を受けている事実を知ったことから、僕は「日本」や「日本人」について関心を持つようになります。

気がつくとなぜ日本人はこの業界で世界を魅了していたのか?なぜ日本のコンテンツは今でも人気なのか?ということに関心を持つようになり、それには日本人にしか持っていない感性があるはずだと、興味の矛先は日本人が持っていた「精神性」に移っていくことになります。

事業を行ってきた身としてはどうしても「○○という会社をやっている日本人がいる」など、ビジネス文脈で日本人を知ることが多かったですが、芸術の世界で「日本人の精神性や哲学」がこんなにも世界に影響を与えているか、驚きでした。

日本の柔道の「形(かた)」からインスピレーションを得ていたと言われるイブ・クライン(1928〜1962)。わずか34年余りの人生のうちに、数々の傑作を生み出し、世界的にも高く評価されているフランスのアーティスト。

そうするうちにニューヨークにいるのではなく日本に戻り「何が日本人を”日本人”にしたのかを知りたい。」という気持ちが膨れ上がりました。

帰国すると決めた時に仲の良いの友人からはあれだけアメリカに戻りたいと言い続けていたのに「急にどうしたの?」と驚かれましたが、理屈では説明できない強い関心は大きくなるばかりでした。

日本での生活の中で6年間も苦しんだはずだったのに、状況は180度変わりこんなにも「日本人」について関心を持つなんて自分でも全く論理的に説明ができません。だけれど理屈では説明がつかないこの感覚を無視できませんでした。

そうして6年越しの想いで移住しデザインスクールに入学したのにも関わらず途中で日本に帰国する選択をします。


日本帰国と精神性を学ぶ

帰国後は、京都と東京の二拠点生活(現在は京都で時間を過ごす方が多いです)を行うことにしました。

それは歴史ある街に自分の身を置いてこの日本人についての学びを深めたかったから。それから東京に居るとどうしても経済性が強い空気が漂っているため、少し距離を置きたかった。

また、京都に移住後、その当時行っていた仕事を一度全て引き継ぐことにしました。こんなにも大きな変化が自分の中で起きているときに”並行して”何かを行いたくなかった。何もない状況になりたかった。

縁もゆかりもなく、知人も居なかった京都では日本人が歩んできた場所を巡ってみたり、昔の書物を読み漁る時間となりました。

▲インターネットには出てこない日本らしい自然の姿。
▲当時読んでいた”日本人”を理解するための本。

日本は経済的指標で見れば元気がない国かもしれません。若者も少なく、男性社会もまだ強く、政治も課題だらけです。

ただ、元々日本にあった精神性を学ぶことによって僕ははじめて自国に希望を持つことができた感覚もあります。僕は今、日本の精神性は日本に残されている最後で最強の武器だと本気で思っています

▲精神性理解のプロセスを可視化。
自分が元々持っている「戦略」という世界に芸術を入れ込めないか考えているとき。


「精神性の学び」から新しい表現活動を行う

感性の育み

精神性を学んでいる中で、日本人は元々自然と共存し、あらゆることを「感じること」で感性と文化を育み、生きてきた民族だなと思うところがあります。

特に日本というその特異的な土地性(国土)から育まれた精神は、他の国や民族と比べやはり大きく乖離しているところがあります。それも「日本」という一つの言葉でくくることができず、47都道府県、ひいては、更に細かい単位の土地性と精神性が存在しています。

たとえば日本国内の祭りは地域の小さな祭礼なども含めると一説には30万近くにもなると言われ、一つの国でこれだけの数の風土や風習などを踏まえたイベントが発生している国は珍しい。

僕ら日本人という民族は本当に「感じる」ことに長けているというか、そうならざる負えなかった自然環境がありました。

他方で、現代ではテクノロジーの進化もあり「知る」ことばかりに意識がいき、日本が従来持っていた土地から感じ発想する力、思想する力が弱まっているのではないかと思います。僕は今一度「感じる」という感性の重要性を捉え直すべきタイミングだと思う。

余談ですが先日京都にある清水寺の執事の方とお話する貴重な機会を頂いたのですが、「モバイル端末で多くのコンテンツを見れる現代では80点の毎日を送ることは容易になりましたが、昔ほど「今日は最高だったなあ」と10年後に振り返っても思い出すような1日を送ることが難しくなっている気がします。」と仰っていたことがすごく印象的でした。

そんな重要な感性が失われているときに、感性を高める方法を体系化できないかなど考え可視化していたこともあります。いつか教育現場の面と連携しながら感性の育みに関してはもっと深めていきたいテーマです。

感性の高め方。


Japonisme Jacketとはじめての展示会

京都では自分たちの作品を初めて展示会という形でお披露目させて頂きました。自分がはじめて「創る側」に立ち、作品を見てもらう体験は何とも不思議な感情を覚えました。京都府で出会った多くの方々に支えられ本当に貴重な体験をさせていただきました。

はじめて作った作品は、日本の浮世絵を大胆に裏地に使ったJaponisme Jacketです。

”ジャポニズム”が生まれた時代と変わらず今も、日本の伝統文化や芸術には世界を魅了する力があると感じ、日本人の心にも世界の人の心にも響くアート作品を制作し新しいジャポニズムのはじまりをつくりたいと考えました。

「ジャポニズム」・・・19世紀に日本の芸術が西洋の幅広い芸術作品に影響を与えた現象。

モチーフとして選んだのは「羽織」と「浮世絵」

このふたつを掛け合わせることで日本の伝統衣装を世界を魅了する芸術に昇華できないかと思考を広げていきました。今回、その過程で2つの試みを行います。

一つ目の試みは伝統衣装を「纏う」という機能的なものから空間に存在する「芸術」に転換できないかというもの。羽織の裏地にデザインを施す江戸時代の文化「裏勝り」に着想を得ながら数十回に及ぶ試作をつくり細かな調整を繰り返すことで独自のパターンを作り上げました。

それによってジャケットを着脱してハンガーにかけた時衣服は一枚の芸術作品へと姿を変えます。

「裏勝り」・・・江戸幕府が贅沢を禁じる法律を出したこともあり、表面的には控えめな装いであっても内側に隠れた華やかさを楽しむことでオシャレを楽しんでいたと言われています。

紅葉狩りの浮世絵
お花見の浮世絵

二つ目の試みとして浮世絵を「ピクセル化」しました。

近くで見ると認識しづらく遠くから眺めることで認識しやすくなるピクセルの特性を捉え日本人にとっては身近で再認識しにくくなっている伝統的で美しい暮らしは、遠く(世界)から見ると魅力的なものに見えていることを表現したいと思いました。

日本の人々にむけて自分たちの伝統と芸術を見つめ直すきっかけを届けたいという想いもあります。

はじめてNYのアーティストと浮世絵をピクセル化したもの。
京都でご縁あり活動させて頂いたので、京都の納涼の様子を最初にピクセル化しました。
錦絵のピクセル化。

身近にある日々の美しさを再認識すること。
伝統や文化を国内外に新しい形で紡いでいくこと。
人の心に力を与えてくれる芸術の力を信じること。

この作品はまだ言葉にはしきれないそんな想いを具現化していくためのはじめの一歩です。


これからの創作

創るということはやはり繰り返さないと見えないものがあると思っており、これからも表現してみたいことがいくつかあるのでこの創作活動は続けていきたいと思います。

現在はロンドンでShoes Designを学んでいた台湾人の友人と靴のデザインを行っていたり、

レザーシューズのデザイン

下記の映像は、京都を代表とする西陣織と丹後の織物のグローバルプロモーション用の映像制作を行う機会をいただきました。ニューヨークのクリエイティブチームと、映像、音楽を完全にゼロから作っています。

イヤホンをつけるとわかりやすいですが、音楽の中で「カチャカチャ」という音は実際の織機の音を録音し、サンプリングし楽曲に落としたものです。


結び:違和感を違和感で終わらせない。

僕は日本に帰国をして本当にたくさんのことを学びましたが、「学びがあったから良かった。」と正当化をしたくない自分もいます。正当化をしてしまうと、そこから新しい学びに繋げることができないからです。

良い学びもあったけど、今日よりも明日をどうすれば良い日にすることかできるかを真摯に考える。こういった姿勢が大切だと思います。

違和感を違和感で終わらせない。これが自分が強く意識していること。一つ一つの体験には、「もっとこうすれば良くなる。」という反省が常にセットであるはずで、それを謙虚に学び続けなければいけないと思います。

今回は日本に居ることの違和感からニューヨークに移住し、またそこで得た違和感をまた原動力に変え、日本で全く違う行動をしています。違和感は行動し変化させなければいけない。

人間の最大の強みでもあり、怖さでもあることが「慣れ」です。様々な環境に順応できるように人間には慣れるという能力が備わっていますが、時にそれは自分に嘘をつき続けることにもなります。自分の人生の責任は自分以外誰も取ってくれません。辛いけど学びがあるから、今は準備期間だから、まだ若いから、忙しいから、お金がないから、そうして色々な違和感を正当化してしまう状態は健康ではない。

どうせならば人間の「慣れる」という能力を逆に活用し、どんな状況であっても一歩踏み出すことに慣れてしまうのはどうでしょうか。そうしてしまえば、自分に嘘をつくことはなくなり、新しい未来を作る人生が始まると思います。

Start with what you have.
-今あるものから始めよう。

心に希望を持つことができればどんなことだって変えられる。何度だって立ち上がれる。今はこれから待ち受けている困難さえも「また来たらやり返してやるぞ」と思うことができ自分の未来にわくわくしています。長文の文章お読み頂き、ありがとうございました!


金田謙太


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