詩とは何か──令和ロマンとリルケ
「詩とは何か」──詩を詠んだり、読んだりする人たちにとって、この問題を避けることはできない。何がその文字列を「詩」たらしめるのか。とりわけ日本語の詩の多くは自由詩といって、定型に当てはまらないものが多いから、言ってしまえば「これは詩だ」と言い張れることが詩の条件である。
令和ロマンという漫才師のYouTubeの動画に「【師弟対決】このポエム、くるまか吉高由里子先生かクイズ【令和ロマン】」というものがある。内容は、くるま(令和ロマン)によって読み上げられる、いわゆる「ポエム」がくるまによるものか女優の吉高由里子によるものかを、ケムリ(令和ロマン)が当てるものである。「ポエム」というのは、ある人の文章を「クサイ」ものとして嘲笑う蔑称で(だから、この蔑称が向けられるのは普通、詩人「じゃない」人に向けられるもので、詩人に向けられるものではない)、この動画もそういったきらいがある。だから、詩を詠む人(あるいは、くるまや吉高由里子を詩人と見做している人)にとっては、少し苛立たしいものかもしれない。
けれど、この動画を見て、私は「詩とは何か」という問題について若干のアイデアを得たから、それを書きたいと思う。
動画に登場する詩(ここでは一括して全て「詩」と呼ぼう)の中に以下のようなものがある。
これが、くるまの詩か、吉高由里子の詩かはぜひ動画を見て確かめてほしい。また、これが「良い」詩かどうかということについては様々な意見があると思う。私個人としては、モチーフと単語が必要以上に拡散してしまって、詩全体のまとまりに欠いていると感じる。
けれど、これが「詩かどうか」と問われれば、私は十分に詩だと思う。少なくとも「ポエム」と呼んで橋にも棒にもかからないようなものと退ける理由は見当たらない。
ここで、ドイツの詩人リルケ(1875-1926)の「少女の嘆き」という詩の一節を引き合いに出してみたい。
動画の詩とリルケの詩は、私からしてみればどちらも、さしあたり「人生の意味と過去」といったテーマを詠んでいると思う。どちらが優れた詩かは、これもまた読者のみなさんの判断に委ねたい。ここで問題としたいのは、動画の詩を「ポエム」と嘲笑い、リルケの詩をまさしく「詩」であると崇めるための条件である。これは極めてバカバカしい問い──どちらも紛れもなく「詩」なのだ、といってしまえば済む話にも見えるかもしれない。けれど、私には、ここに「詩とは何か」という問題があると思う。
話は令和ロマンの動画に戻ろう。動画に登場する詩を「ポエム」と揶揄する動画の構成は、実はある原理に支えられている。それは、「その詩の作者を当てるクイズである」という枠組みである。だから、クイズの回答者のケムリは、くるまと吉高由里子の人柄や振る舞いから推測して作者を答える。くるまと吉高由里子の詩がどこか「面白おかしい」のは、二人がその詩をつくった情景がどことなく浮かぶからだと思う。とくに。くるまの人となりを相方のケムリはよく知っているからこそ、詩情に溢れた文面はどこかこそばゆい感じがするのだろうし、そうしたリアクションを視聴者側も面白いなと思うのである(この動画が面白いのは、くるまと吉高由里子が芸人と女優という違いがあるにもかかわらず、両者の詩が非常に似た形式を持つところである)。
こういった調子で動画は進むのだが、動画の中では次の詩をめぐって非常に興味深い推測が繰り広げられる。
ケムリは、相方のくるまがこんな芸能人らしい「ベタな」誕生日を送るはずがないだろうから、吉高由里子だと答える。くるまは「くしゃくしゃに丸めた紙がゴミ箱の縁にあたる」を誕生日会で鳴らしたクラッカーを片づける様子と解釈する。
けれど、答えは外れる。この詩はくるまによるものであることが明らかになる。ケムリは「こんな誕生日会なんかしてた?!」と言って笑いを誘うのだけれど、くるまは次のように答える。
「これは、誕生日そのものを詠んだものではなくて、作家が何かを創造するような場面を詠んだんだ」、と。
ケムリはこれに「伝わってねぇよ!」とツッコんで笑いを引き起こす。動画はとても面白いんだけれど、私はここであることに気づいた。
つまり、詩の言葉は、詩人の状況や心情とは独立しているし、そして独立して解釈されるということだ。だからこそ、詩にあらわれる言葉の仰々しさは、ときに笑ってしまうほど小さな出来事から導かれていることさえある。くるまの詩は、くるまの人柄や普段の振る舞い、そしてくるまの心情からは独立し、もはや無関係となる。
だからこそ「クイズ」という形式にして、詩と詩人の属人的な要素を一致させようとすれば笑いが起きる──ときに詩は、その人からは思いもよらないような作品になりうるからだ。そのギャップはきっと笑わずにはいられないようなものなのだ。
リルケの詩が、リルケのどのような体験から生み出されたのかは(史学的な興味を除けば)問題ではない。リルケの詩が感動的である条件にリルケの人柄やリルケの置かれた状況は「実は」関係がない。そういった属人的な性質がある文字列を「詩」たらしめるのではなくて、詩人が綴った言葉こそが詩を織りなすのである。
詩にモチーフがあることは確かだ。また、詩人の、卓越した感受性が素晴らしい詩を生み出すことも、語りえぬ悲しみや幸福が詩の主題になることも確かだ。けれど、それが詩の条件ではない。詩とは、こういったものから独立した、言葉独自のリズムであり──その言葉こそが、これらの属人的な要素を「詩」へと昇華する。
わたしたちは、リルケの詩を読むためにリルケである必要はない。
そして、驚くことに、私は詩を詠むために「私」である必要もない。
詩とは、期せずして自分を超えるような体験であり、言葉によって自らを書き換える営みなのである。
出来上がった詩が全く凡庸に見えるのも、それはあなたが既にもう新しくなったからだ。詩人は誰しも、作品を描いた次の瞬間には筆をとっているのだ。
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