なにものかになりたい病とSDGs教の司祭たちの巧みな精神支配について 1

「なにものかになりたい」という想いは、現代社会システムOSの上で生きる私たち誰しもにとって、少なからず心のうちに秘められている。

これは、一見すると、悪いことでもないし、存在理由を求めようとするのは一種の人間の特性でもあるのだから、仕方のないことだ、と考えている人も多いようだ。 確かにそのような面もある。しかし、わたしたちの本質的な特性に近いものだからこそ、まさしくここを、現代の社会システムの運営を司る「司祭たち」によって、見事に突かれ、わたしたちの多くは精神のレイヤーで支配をされ続けているのだ。

「なにものかにならねば」という精神のウイルスに感染している人は、「なにものかになりたい」という思いを抱き、それによって人生の長い期間、あるいは全ての期間において、実に多くの症状に悩まされ続ける。

例えば、「自分がなるべき、なにものかを探し続けて苦しむ」と言った症状もあれば、「自分がなりたいものがなにも見つからず、なりたいものが見つからない私はダメな人間だ」と自分を責めることもある。あるいは、一度「なりたい自分」や「なるべき自分」が見つかったとして、それに向けて一生懸命自分の「外見矯正」を行っていくが、結果として「なりたい自分になれない」という結果が起こった時にも精神的に大きな苦痛を強いられる。

実は「なにものかにならねばウイルス」は実に巧妙に、社会システムによって、幼少期から注射され続けきたものにすぎない。そのウイルスに感染すると例外なく「なにものかになりたい」と、あたかも自分自身がそれを自分の意志で望んでいるかのように、錯覚させられる。

「なにものかにならねばウイルス」は、人為的なものであるにも関わらず、しかし、多くの場合、私たちはその存在にも、それを注射されていることにも気づかない。そして、多様な症状に苦しみ続けている。

特に多くの、特に10代〜30代と、世代が若い時ほど「なにものかにならねばウイルス」による「なにものかになりたい病」は重症化する。

とはいえ、幸いにも、自然治癒するケースも多々ある。よくあるのは、出産や育児、あるいは大切な人との死別、自らの大きな病気、などを経験することによって、一定の割合で人々は、「なにものかにならねばウイルス」を無効化することができるのだ。

 しかし、現代社会システムは、実に巧妙に「マスメディアシステム」「私有財産制の経済システム」「教育システム」を連携させながら、その自然治癒の可能性すら閉ざそうとしている。

 「出産」によって、生活を見直そうし、自然と共に生きる生き方を模索し始める人もいれば、次は「子供」を「自分自身がなにものかになるためのアバター」としてとらえ、「子供」にブランドや学歴や肩書きを装飾し始めてしまう人もいることはご承知の通り。

 「なにものかにならねばウイルス」を撒き散らし、私たちを「なにものかになりたい病」患者にしたシステムは実体がないが、言うなれば、オーウェルが『1984』の中で示したBig brotherであるし、あるいは映画マトリックスで、ウォシャウスキー兄弟が示した「システム」でもある。両者に共通するのは、実に巧妙な点は、支配構造そのものを、被支配対象の精神に内在(刻印)するという方法がとられていることである。これによって、簡単に言い換えれば、支配者側から見れば「支配される人たちが自ら喜んで支配されにくる」という構造。ここらへんについては、ご存知の通り、フーコーや、イリイチといった先達がすでに鋭いや刃で指摘している。

 さて、「なにものかになりたい病」を治療しようとするとき「対症療法」と、「根本治療」の二つの方法があることをご存知だろうか。

 痛みを一時的に緩和するために行われるのが「対症療法」である。一時的に、他者からの注目を集めること、あるいは、症状を忘れるくらい感覚を麻痺させること、などが主な治療の方法である。

 例えば「友達と一緒に盗んだバイクで爆音を鳴らしながら街中を走り回る」や「自分より歌の下手の友達を呼んでカラオケで十八番を歌い上げる」や「世の中に良いことをするための団体を立ち上げる」や、ある意味では「クラブで酩酊するまで飲んで踊り明かす」なんてのもそうかもしれない。

 もちろん、これらの行為自体を好きでやってる人もいるので、一概に、これらの行為が「なにものかになりたい病」の対症療法である、とは言えないので断っておきたい。

  一方の「根本治療」とは、例えば「瞑想する」「座禅を組む」「祭りの神輿を担ぐ」「仲間と一緒に田植えをする」など、といった「「私」を捨てる=共同体の一部となる」その感覚と事実の繰り返しの認知によって、「なにものかになる必要がない」ことを身体的に確信するというものである。これについては、すでに多くの指導者と実践者がいるのもご承知の通りである。

 さて、本稿の主題は、人間の特性としてではなく、現代の(少なくとも)日本人にとっての「なにものかになりたい病」の本質と、それが私あっちの精神にいかに刻印されたのかそのシステムの構造と、その患者たちを巧みに精神支配するSDGs教の司祭たちの存在について、書き記すものである。
  
 ちなみに、私がこれを書き残す理由は、単に子供たちに対して行われているSDGs教司祭たちによる精神支配が、普遍的な人間の創造性の解放という観点からみて、禍々しいものであり、また真面目で素直な若者ほど、彼らのエゴの餌食になる不条理が許せないからである。

 私が最も、嫌悪するのは、「正義ヅラ」しながら、弱い立場の人たちを助けるふりして、実際は自分の欲望を満たすためにのみ活動している、人々である。

 残念ながら、彼らに天罰は降らない。

私たち一人一人にできることは、私たち一人ひとりが、今起こっていることの背景にある構造へのリテラシーを身につけ、自らと、身近な大切な人たちを守ることだけなのだ。

 ここで書き記すことが、皆さんと皆さんの大切な人たちを「なにものかになりたい病」の幻想から解放する一助になることを、切に願っています。


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