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ペリーの交渉術

黒船来航。

江戸幕府の崩壊につながる、日本史の中でも大きなイベントの一つです。

アメリカが武力を背景に開国を迫ってきたと捉えがちですが、実は、ペリーも相当入念に、日本文化や日本人の気質を研究していたことが分かっています。


2度来たペリー艦隊

ペリーが初めて日本に来航したのは、嘉永6年 (1853) 6月3日。この時から、熾烈な開国交渉が始まった。と思いきや、この時はアメリカ合衆国大統領の「親書」を渡しただけで、「一年後に返答を聞きに帰ってくる」と伝え日本を離れます。わずか9日間の滞在でした。

余談ですが、この時、浦賀に来たペリー艦隊に初めて近づいたのが、浦賀奉行所の副奉行を務めていた「中島三郎助」。その際に「I can speak Dutch」と言って、ペリーが乗る「サスケハナ号」に近づいたというエピソードは有名です。

当時、幕府にとって、西洋諸国の窓口はオランダでした。故に、西洋人との交渉の際は、まずは、オランダ語を話すというのは、当時のスタンダードだったのかもしれません。

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浦賀奉行所の副奉行・中島三郎助。明治維新の際も徹底的に新政府軍と戦い、函館・五稜郭で戦死。

何故、すぐ帰国したのか?

ペリーは何故すぐに日本を離れたのか?
そこには、周到に準備されたペリーの交渉術があったとされています。

ペリーにとっても未知の国日本。

日本を研究する上で参考にしたのは、日本に長年住んだ経験のあるドイツ人医師・シーボルトが書いた「Nippon」という本でした。

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さらにペリーは、部下を通して日本交渉に関するアドバイスを求める手紙をシーボルトに送っています。

シーボルトの回答は、

「アメリカ側の提案を考慮するために、日本に一年の猶予を与えよ」

というものでした。

現代も変わらない日本人の意思決定プロセス

結果的に、このペリーの作戦は成功し、翌、嘉永7年「日米和親条約」が締結されます。

交渉相手となる「日本人」はどういう人々なのか、冷静に分析したペリーの作戦勝ちだったのかもしれません。

一方、日本側はどうだったのでしょうか。

実は、オランダを通して、ペリー艦隊到来の情報を、来航の一年前に受け取っていました。

しかし幕府は、「オランダからの情報は信用ならない」と、希望的観測をもとに、結果的にこの情報を無視します。

「こんなことが起こるはずがない」と希望的観測に基づく状況判断。170年経った現在も変わらず、日本人の意思決定の特徴の一つではないかと思う次第です。

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オランダがペリー来航の可能性があることを日本に伝えたとされる「別段風説書」。写真のものは、勝海舟が所持していたとされる訳書。(国立国会図書館蔵)

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