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「自分はセンスのある人間だ」と勘違いしていた

定時を過ぎた、火曜日の20時ごろ。

オフィスで仕事をしていたら、隣に座っている上司と雑談する流れになりました。

その上司とぼくは、歳が1つしか離れていなかったり、マンガやドラマで共通のものを見ていることが多かったりして、定時後にちょっとした雑談をすることがよくあります。

その日の雑談のテーマは「頭のよさ」。最近、ぼくが『バカと無知』という本を読んだんです。その感想を言いつつ「頭のよさ」について、語っていたときのこと。

上司が少しためらないがら「あのさ…最近気づいたんだけど」と話しだしました。「どうしたのかな?」と思っていたら「藤本くんって、自分で思ってるより頭悪いよね」と言われたんです。

めっちゃ気まずそうに言いはじめたので、言いにくいことを言うんだろうなという予想はしていた。だけど予想の50倍は言いにくい言葉が飛んできて、言われた直後のぼくはめちゃくちゃ笑ってしまいました。

つづけて、上司はこんなことを言いました。

「藤本くんは、ものごとの本質を一瞬でつかむ頭のよさは、自分で思っているよりない。だけど圧倒的な努力量とコミュニケーション力で、自分の見つけた道をなかば強引に正解にしてしまう感じだよね」。

そう言われて自分の人生を振り返ってみたとき「たしかにそうだなあ」と思いました。ひとつだけ違うところがあるとすれば、上司が挙げてくれた「コミュニケーション力」すらも、努力によって後天的に身につけた部分が大きいところ。

とは言え「やっぱり彼女の人の本質を見抜く精度はすごいなあ」と思いました。なぜなら「自分にセンスがあると思っていたけど、実は努力量でなんとか補っていただけ」という経験が、これまでに何回もあったからです。

勉強も仕事も、実はセンスがなかった

たとえば「勉強」。中学のとき、1学年300人中だいたい10番〜20番の位置にいました。それであるとき「あ、オレって勉強のセンスがあるのかも」と思って、ほとんど勉強せず定期試験に臨んだんです。

そしたらちゃんと100番ぐらいまで落ちました。その瞬間「あ、オレってちゃんと勉強しないといけない人なんだな。いままでそれなりにいい位置にいれたのは、オレが勉強してたからなんだな」ということを確認しました。

次に「仕事」。いま、ぼくは編集者として働いています。自分の大好きな「言葉」や「コンテンツ」にお仕事として関わることができて、めっちゃ幸せです。

だけど別に、いきなりいまの仕事に就けたわけではありません。振り返ってみると、大学時代には2年間、毎日noteを更新したり、これまでに何百冊もの本を読み込んだりしてきていました。

生まれてはじめて書いたはてなブログは、まったくの無風でしたし、仕事で書いたはじめての文章は、先輩から「論文みたいで、あんまり読む気がしない」とフィードバックをもらいました。

そこから何百本もの記事を書いて試行錯誤するなかで、いまも自分の好きなことをそのまま仕事にさせていただいています。

まわりは「努力しているかどうか」なんて知らない

「自分にセンスがあるな」と勘違いしてしまう理由。

それは、まわりは「結果だけ」を見ているからです。

ぼくの親ぐらいは、ぼくがコツコツやる必要のある人だと知っていると思います。だけどたまに会う親戚や友だちは、その「プロセス」をぶっ飛ばした結果しか知りません。

勉強に関していうと、高校は地域でいちばんの進学校に行って、大学は関西学院大学に行きました。関西学院大学は、関西では一応「賢いんだね!」と言われる大学ではあります。

ぼくの学歴だけを聞くと「あ、勉強ができる人っぽいな」になってしまうんです。

仕事も、親戚や友だちからは「好きなことをそのまま仕事にできていいね」と言われることがよくあります。「好きなことを仕事にする」って、いかにもセンスがある人がかけられそうな言葉じゃないですか。

そんな褒め言葉をもらうたび「あ、おれってセンスがあるのかもな」と勘違いしそうになっていました。

センスがある人も、努力はしている

「センス」について考えているとき、気づいたことがあります。

それは「センスがある人も、努力しているのだな」ということ。

これまで「センスがある人=努力せずに結果を出す」「センスがない人=努力して結果を出す」という分け方をしていました。

では本質を見抜くセンスのあるぼくの上司が努力していないかというと、努力しているんです。取材の下調べは丁寧にやっているし、取材中も必死にメモをとっています。

でも彼女の場合「努力のコスパがいい」んです。

ぼくが3回失敗しないと思いつけない対応策を、彼女は1回失敗しただけで「あ、これはこういうふうにすればいいんだ」と気づける。ぼくが5冊読まないと掴めない業界の構造を、彼女は1冊サラッと読むだけで「あ、ここが要点ね」と掴める。

ぼくの場合、まず圧倒的な量をこなして試行錯誤するなかで「努力するベクトル」を見つけるところから始める必要があるんです。

「センスがある人」になりたかった

うすうす「自分はセンスがあるタイプではないな」と気づいてはいたのですが、どうにかフタをして生きてきました。

特にぼくがお仕事にさせていただいている「編集者」って、世間一般的なくくりでいうと、いわゆる「クリエイティブ」な仕事のジャンルに入ることが多いと思います。

クリエイティブな仕事って、すごく「センス」が必要そうじゃないですか。だからこそ、余計にセンスのある人に憧れて、センスのある人のフリをしようとしていたんだと思います。

上司からの言葉の枕詞に「自分で思っているより」という言葉が付いていたのは、ぼくが「自分はセンスのある人なんだ」と思い込もうとしていることすらも、見抜かれていたということでしょう。

それぐらい本質を見抜く精度がすごい上司から「自分で思っているより、頭悪いよね」と言われたことで、ようやく覚悟が固まりました。

「あ、ぼくはセンスない人なりの道を選ばないといけないな」と。

もう「センスがある人」のフリをしなくていい

「頭悪いね」と言われたのに、心はめちゃくちゃ軽くてスカッとしています。

もうこれからは無理してセンスある人のフリをしなくていいし、最初からうまくいかなくても落ち込まなくていい。

最近、スプラトゥーンを始めたんです。休みの日に姉や妹とやっているのですが、彼女たちはぼくより半年以上も先に始めているので、圧倒的にうまいんです。

そしてぼくは、めちゃくちゃヘタクソです。ナワバリバトルで300pしか塗れないことも、ザラにあります。

小学生や中学生のころ、ぼくはどんな対戦ゲームをやっても姉や妹をボコボコにしていました。だから彼女たちの頭の中には「ぼく=ゲームのセンスがある」というイメージがあります。だけどスプラトゥーンでは、ぼくが彼女たちの足を引っ張っているので「しばらくゲームしない間に、ヘタクソになった?」と言われます。

違うんです。ぼくは小学生のころから、パワプロも大乱闘も最初はめっちゃヘタでした。でもあなたたちがテレビに映る嵐にかじりついている間に、ぼくはゲームをしていたんです。

センスがなくても、どうにかなる

「自分で思っているより、頭悪いよね」と言われた直後は、上司に対して「そんな言いにくいことを言ってくれてありがとう」という気持ちがありました。

でもそれから数日経ったとき、ふと「そんな言いにくいことを言ってもらえる自分でいてくれて、ありがとう」とも思いました。

いちおう補足しておくと、いまぼくのいる会社って、正社員が彼女とぼくの2人しかいないんです。彼女からすると、社長以外の唯一の同僚であるぼくに「頭悪いね」なんて言って関係が悪化したら、めっちゃ働きにくくなるじゃないですか。

明らかにリスクが大きすぎたと思うんです。それでも「藤本くんなら、言っても大丈夫な人かな」と思ってもらえたことで、言ってもらえた。

これはまさに、彼女が最初に挙げてくれた、ぼくの「コミュニケーション力」のおかげです。でもこの能力は「後天的に」身につけたもの。しかもここ1〜2年で。

3年前のぼくなら「頭悪いね」と言われた瞬間、間違いなく「いや、そんなことないです」と否定して、頭良さそうに見えるエピソードでマウントをとろうとしていました。

ぼくが後天的に身につけた能力を、本質を見抜く精度の高い彼女が、ある種「先天的なもの」としてカウントしてくれた。

センスのない能力も丁寧に磨きつづけることで、先天的なものと見分けがつかないぐらい、十分すぎる武器になってくれるんです。

センスのなさも、努力でどうにかなる。

今年は、上司のいちばんの強みであり、いまのぼくにいちばん必要な能力だと感じている「人の本質を見抜くセンス」を磨きまくっていきます。


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