見出し画像

黒歴史考

黒歴史。
黒歴史は誰にでもあるもの。
黒歴史には目を瞑りたくなるもの。
しかし、黒歴史は必要「恥」なのである。
「恥」の部分の審判は他者に委ねられている。

人はいつでも学びの途上にある。そしてそれは絶えず修正を繰り返される。
これは普遍的な日常にも言えるし、レトリックの歴史がコミュニケーション学という知識総体へ変化を遂げていることにも言える。
「今日はこの英語表現を覚えた!でもこの言い回しは知らないから明日覚えよう」
「今日はこの数式を覚えた。あしたはこの数式を使って、もっと応用問題を解こう」
こういった学びの途上は人が成長をするうえで必要不可欠なルートなのである。
しかし過去を内省するときに、こうは思わないだろうか。
「なんで知ったばかりの知識を披露しまくっていたんだろう」
「あの時使っていた英語表現は実は攻撃的なニュアンスを含んでいたんだけどな。。。」
こうした、いわば発展途上段階にある知識は現時点での自分からすると嫌気がさすものに思えるかもしれない。なんて自分は浅はかなんだ。と。

冒頭に戻ると、つまりそうした黒歴史は成長の過程における必要「恥」なのである。しかし、必要「恥」かどうかを判断するのは、自分自身ではない。それは、他者との相互作用によって見出されるものなのである。

何が言いたいか。他者のまなざしに囚われて成長の歩みを止めるな。
これに尽きる。

そう書いている自分自身も今、学びの途上にある。
やれ哲学、やれ現代思想、やれ脱構築だのと言っているが本当にこいつは意味が分かっていってんのか?と思うだろう。ただ歩みを止めればそれまで。黒歴史とも無縁になるだろう。

つまり、黒歴史とは今後も付き合っていくパートナーとして楽しむしかないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?