見出し画像

今やバンドが意味する形は変わったのだ

最近立て続けに「aireziasは活動してるんですか?」と聞かれた。



aireziasとは、福永が所属しているバンドである。
福永が中学3年生の冬に結成し、これまでにアルバムを、全国流通盤から数えると5枚リリースしている。自主リリース作品を含めると…たくさん。
いくつかのオーディションで比較的良い成績を残し、メジャーアーティスト(もう死語かもしれない)とも複数回共演させて頂き、キャパシティ400名程度のライブハウスでワンマンライブを行ったことがある。

aireziasはここ1年、ライブ出演をしていない。
目立ったリリースもない。
「活動しているのか」という疑問は至極真っ当である。

実は2022年も、2023年初頭も、変わらず「およそ週に一度のリハーサル」をずーーっと継続している。
なので活動をしている、と言える。
そんなにリハーサルスタジオに入って何をしているのか?

ずーーっとセッションをしたり、曲を作ったり、練習したりしている。
急ぐことなく活動しているのだ。
2022年通年で、5~6曲の新曲およびニューアレンジができた。
それらをまだ録音はしていない。

やる気がなくなったんですか?バンドは趣味になった?
…いいえ。aireziasは「現役」である。一線を遠のき仙人のように音楽を興するおじさんバンドのような活動方針ではない。
(それもそれで良いと思うけど、我々は違う)

でも、ここ数年でバンド活動に対してのスタンスが我々なりの、独特のものになったのは確かである。


aireziasでは、誰か一人が「こんなアイデアがあるんだけど」と音楽的な提案をした時には「ことごとく全て試してみる」という暗黙の了解がある。
それがどんなに、いやーイマイチそうだなぁ、と思えるアイデアであっても、必ず、全てをつぶさ〜に試すのだ。

現在6名のメンバーは皆、嬉しそうに大量のアイデアを抱えて毎週スタジオに来る。
それらをいちいち全て検証していると…曲がちょっとやそっとでは完成しないのだ。
とんでもなく長い期間、時間を湯水のように使って1曲をこねくりまわすことに終始する。

時間をかければ必ず良い曲ができるか?
…それは全くわからない。あーん、全てが徒労でしたね、で終わることの方が多いのかもしれない。

そうであっても。
これがものづくりに際してチームのみんなが納得して気持ちよく取り組める、一つの形なのだ。
そして、この社会において、そういうものの作り方ができるのは
「残念ながら資本主義の文脈で高い評価を得られなかった」バンドだけだ。
言い換えるなら、売れてねえバンド、である。
資本が絡むと必ず、納期が設定される。
どうあっても必ず、効率が意識される。
それがバネとなる場合も少なくはないことを、福永はCM音楽作曲の文脈でよく理解している。
だから、必ずしも悪だと言いたいわけではない。

ただ、こんなにも非効率に、資本主義の文脈から逸した形でものづくりに取り組めるバンドってのは、見ようによってはとても貴重な状況なのである。
「非効率・不服従」とは福永のスローガンの一つでもある。

資本主義の文脈に乗らなかった(乗れなかった)バンドが解散していく姿を福永はたくさん見てきた。
中には本当に格好良いバンドもあった。でも、彼らは分解した。
…資本主義の文脈から逸すると、そんなデメリットもある。
でも。

こういった特殊な姿勢で作る楽曲には…想いもよらぬ魔法がかかることをaireziasの6人は体で知っている。
成員だれもが想像し得なかった形を楽曲がとる。
かけ捨てた時間が、たった1秒後には無駄じゃ無かった!となる、不思議な魔法。
誰の頭にもなかった音が、全てのアイデアの検証の過程で不思議な開き方で花をつけるのだ。
水をやって待ち続けた者だけが拝むことのできる花というものが、本当にあるものだなぁ、と思う。

そんな活動が大人になった今でもできていることを誇りに思う。
彼らは音楽的な好奇心の塊なのだ。
と、あと、結構社会生活に向いていない奴らなのだ。(啓太郎はいけそうだけど)
奇跡的なメンバーが、aireziasには揃っている。
それは福永の口から断言できる。

福永は彼らのことが好きである。


現在6名で活動しているaireziasのうち、2名は実は一緒に活動できていない。

1名は長野に住んでおり、介護系の職についている。
コロナ蔓延以降、職業柄「高齢者たちにコロナを移すわけにはいかないので」東京に来て合奏することを自粛し続けている。
ヘッダーのアーティスト写真。額縁に入っている人がいる。
東京に来れなかったので、写真の中で更に額縁に入っているのだ。
彼女はものすごく繊細で、心配性だ。そして勘が鋭い。
まあいっか、ということが、全くない。
時々電話をするのだが、利用者さんの旅立ちにいちいち心を大きく乱し泣いている。
天職すぎて、天職じゃないんじゃないかと思うくらい、正直に仕事に取り組んでいる。

aireziasはこれを認める集団でありたい。
活動を止めるわけでもないし、合流できないなら辞めてもらう、でもない。
1名欠けているという状況下で作ることができる、良い楽曲を目指す。



もう1名は普通に東京に住んでいるのだが、仕事が忙しく、毎週末の仕事の休日にリハーサルをするライフサイクルに疲れてしまった。
彼女はお世辞にも器用とはいえないキャラクターの持ち主で、全部に真っ直ぐぶつかるため、なにしろ大きく消耗してしまったのだ。

でも音楽家として非常に貴重で美しいキャラクターでもある。
まるで初めてそのメロディを歌った人みたいに、いつも素朴に歌う。
社会で器用に生きるために人が無意識に身につけてしまうライフハックが、ただの一つも身に付いていないような人だ。
彼女が奏でる時…大人の姿をした幼い少女にしか見えないことがままある。
いつも自信なさげで。純度がそのまま凝り固まったような人。

aireziasはこれを認める集団でありたい。
疲れたら何ヶ月でも何年でも好きなだけ休めばいいのだ。
疲れやすいのは悪いことではない。裏を返せば才能でもある。
さて、4名なら4名で作ることができるより良い曲を目指す。


メンバーのうち一人は昨年、人差し指を失った。
仕事中の事故で指がなくなってしまったのだ。

楽器を演奏する人にとっては(そうでなくたって)バイタルなことである。
だが彼は、あっという間に立ち直った。
きっと本人の中では様々な想いがあったはずだ。
だが少なくとも見えている部分では
「キーボードなら、案外左手の指は少なくても弾ける
と言った。
「最近、◯◯という曲を4本指で弾くボイシングを考案した
と言った。

ギターやベースを弾くのに人差し指のちょっとした残りが引っかかって邪魔なのだと言って、綺麗にスパッと切り落とす手術を敢行した。

本人があんまり自慢しないのでこの際、福永が言うが…
まじですげえ男である。あなた音楽、大好きじゃん…。まじでさあ!

最近の彼の楽器の練度や音色の向上が目覚ましい。
指がないわりにうまいね、とか、そんなクソ無粋なことを言ってるんではない。
対等にみて、どんどん上手く、良くなっているのだ。
彼がギターの名手なんかになったら…一番格好良いな、と思う。
例えば盲目のピアニストのように。

その切符を持っているのは、今のところ、うちのメンバーでは彼だけである、ということになる。
今無職なのもそういえば彼だけだろうか。まあ、たまたまね。



aireziasは売れているバンドではない。
過去にさまざまな「売れるための努力」をしたことがある。
…実は形を変えて、今もその途上を走り続けているつもりだ。
そうは見えないのだろうけれど、本当に。

かつてはSNSでバズらせるために本を読み、みんなが応援したくなるよう集客人数目標を発表し、自分たちの人気よりも少しだけ大きな箱を満員にするため、やや無茶な企画を打って出て…
まあなんていうか、思いつく限りの手を打ちまくった。
全国のタワーレコードにCDを置いてもらえた時は嬉しかったし、オーディションをきっかけに知ってくれた多くの人をYoutubeのリンクへと促すよう努力し、その流れを絶やさぬようライブ出演を続けたのだ。

でも。
我々は売る才能が全然なかったようである。

そして。
これは負け犬の遠吠えと思われるなら別にそれでも良いのだが…
数年の距離を置いた今では
「売れるかどうかは、ほとんど運である」と思っている。

数多ある成功者の本を読み、あらゆるライフハックから聡く自分たちのバンドに適応できるものを盛り込み…
この世の多くの人が、努力は報われるものだと思っている。
でも、そんなことはない。そんなわけがない。
成功者が成功したのは、もちろん本人の努力の賜物だが、ぶっちゃけた話、それプラス「運が良かった」からだ。
そういう本が売れるのは…この社会で成功することが、とても珍しいことだからである。

同じことを、同じ熱量で、同じ時代に、同じだけ苦労をしながらやったけれどもまるで売れなかった多くの骸の上に、その珍しさが輝いていることは、あんまり知られない。
売れなかった人の話は、本にしても売れないからである。

成功者本人は「運だ」とは思わない。…思わなくて良いと思う。
「自分の努力が実を結んだ!」と思うことが多いだろう。
本人にとっての実感はそれで良いと思う。
水を刺したいとは一ミリも思っていない。本当に。

よく「投資の必勝法」なんかが出版されていたりする。
でも…社会って想像以上に複雑な変数が噛み合っている。
多くの人が気付きはじめているところだろう。

「社会の未来予測など、今のところ人間にはできやしない」
それは統計を使おうが、科学によりかかろうが。
数多くのデータを収集できる「過去」のことならまだしも。
今現在の社会の変遷を短いスパンで予測することは不可能に近いのだ。

それはここ20年、スマートフォンの登場以降なおさらである。
歴史上、コミニュケーションツールの発達は時代の変遷を加速させる、という傾向があるそうだ。
文字の発明にせよ、活版印刷の流行にせよ。
そういう、過去のビックデータに側した大きな予測は、できそうだ。
でも、その未来がどこへ向かっているか、そんなことはそうそうわからない。
後から振り返って、はじめてそれらのきっかけとなった因子と因果が結びつけられる。

バンドが売れるために必要なのは、次流行る音楽とその作風がピッタリとマッチすることである。
予測を当てる必要がある。
今需要があるのか、をみるのではなく、新たな需要がそこに発生するのか?を当てる。
後追いでは絶対に間に合わない。
少なくとも大成功はしない。

バンドなんかよりよっぽど研究が進んでいる投機行動の分野ですら、今や未来予測はできないとする向きが強まっている。

それが「できているように見える人」もいる。
本当にすごい人もいるのかもしれないけれど、福永はその99.9%は幻想であると見ている。

福永は、売れたバンドは…売ったのではなく、売れたのだと思っている。
つまり、本人たちにとって最大限に良いと思える曲を作り続けた結果、どこかのタイミングでその熱意が、作品が、人々を巻き込む「俺のターン」が来たのだ。

売るテクニックも、もちろん必要である。
でも、大きな問題ではない。

…人々が次の携帯電話に求めていたのは「小さな筐体」であった。
だが、iphoneは世界を席巻した。
誰も「タッチパネルが欲しい」なんて思ってなかったのに。
それは流行したのである。
スティーブ・ジョブズはそんな未来を先読みしていたというよりは…
そんなプロダクトがあったら楽しいんじゃないかという天真爛漫な想いを誠実にぶつけたんじゃなかろうか。


福永が見てきたいくつかのバンドは、売れるために最大限の努力を払い、120%のエネルギーを活動に注ぎ、時に体を壊し、時に無力さを知って、数年後にはその活動を休止した。

燃え尽きたのである。

だが。
120%を5年間続けるよりも
80%を30年間続ける方が…単純に計算して、売れる確率は高まると思う。

生起確率が「案外、人為的に高められるものではない」のなら、あとは継続年数を伸ばすこと以外に、確率を高めるのに良い方法はないだろう。

「燃え尽きないようにするべき」なのだ。
ライフステージが変わったなら、それに合わせて。
新しい職場についたなら、そのスケジュールを見て。
疲れてしまったなら、いくらでも休んで。
コロナが蔓延したなら、リモートセッションで。

何があってもずーーっと続けられるようなバンド活動にする。
それが一番「ストイック」ってものではないか。

わずか数年を流星のように燃えたぎり、塵のように消えていくことにもロマンはある。ちょっと憧れるのである。
だが、aireziasは、決してあきらめないために、無理をしない、継続する、という方法を選択する。

そしてスティーブ・ジョブズのように目を輝かせながら、この世にこんな楽曲があったら楽しそうだ、と思えるものを、資本主義の文脈からたとえ外れたとしても…誠実に作り続ける。

そういう土壌を自分たちで作る必要があると思った。
この時代に、バンドが売れるために。より良いバンドであるために。

だからaireziasでは、休みたくなったら休んで欲しいのだ。
健康な好奇心で動けるメンバーが、健康な好奇心で音楽を作る
それが継続の秘訣だと思ったから。
そして最も誠実な音楽との向き合い方に見えたから。

aireziasは今、4名で活動を続けている。
毎週スタジオに集まって、ああでもないこうでもないと時間を湯水のように使い、まるで進まない作業を粛々と何ヶ月も何年もかけて、確実に進めていく。
花が咲くまで、芽をむしりとることなく、大切に楽しむ。

その活動は純粋な好奇心に根ざしているので、楽しくて仕方がない。
辞めちゃいたいなんて全然思わない。
だから、続けられる。何年も…きっと何十年も。
それが、本当に売れるために必要なことなのだと信じている。


aireziasはライブを全然しない。
やる気があるのか?ライブをしてこそのバンドだろうが。

本当にそうだろうか?福永はやや疑問に思っている。



ライブをしない最大の理由は、お客さんが来ないから、である。

より多くの人に知ってもらうために、もっともっとライブをするんだ。
10代~20代初頭にかけては、そう信じてライブをたくさん行った。

当時はライブハウスに出演が決まると
「2500円のチケットを15枚売ってきてくださいね」とライブハウスから手売りチケットが渡された。
これがいわゆるチケットノルマというものだ。
…人気のないバンドが15枚のチケットを売るのは至難の業というか、ほぼ不可能である。
売れ残ったチケットはバンドが責任をもって買い取るという仕組みになっている。
ライブハウスからしたら赤字になったら困るので…そんなに変な仕組みではないだろう。

知名度を得るためにライブをする。
そのためには知名度(さもなくば現金)が必要、ということになる。
とんち…だろうか。
友達が多い人はなんとか友達にチケットを売って、ライブハウスにきてもらう。
つまり。
人気のない地下アイドルならぬ地下バンド(?)の対バンライブ会場に来ている人は殆ど「その日出演するどれかのバンドの友達たち」である。
そうなると。
対バン相手のお客さんがaireziasを好きになるということはまずない。
めっっちゃ稀である。
だって、友達を見にきているのだから。

まとめるとこうだ。
「知名度を得るために行ったライブで知名度を得られる確率は殆どない」
「知名度のないバンドがライブをするにはお金を払わなければならない」

たくさんバイトをして、たくさんライブハウスにお金を払った。
当時はそれが「バンドをやる」ということだと思っていたし、乗り越えるべき試練であり、頑張るべきことだと思っていた。

aireziasが全国流通盤をリリースすることができたのは、たまたまライブハウスに来ていたレーベル関係者が声をかけてくれたからである。
ライブハウスに来る人の中には本当にバンドが好きで、音楽が大好きな人もいて、そういう人の一部はaireziasのことを好きになってくれて、ライブをするたびにきてくれる常連さん、というのもほんの少しずつ増えた。
本当に嬉しいものである。僕らの音楽は、虚無じゃあなかった。
誰かにとって、2500円と一夜の時間を費やすだけの価値があったのだ。
ライブをすることで得られたものもたくさんあったように思う。

でも。
基本的に地下バンドのライブハウスを賑わしている(賑わってはいないんだけど…)のは
・(学校に)友達が多い人
・SNSでバズった人
・顔が可愛い若い女性

であることが非常に多かった。
今はどうだか知らないが、少なくとも当時はそうだった。
そして、aireziasはその小さな渦から逃れ出るきっかけを…ついに10年以上得られなかった。

毎月数万以上のお金がなくなった。

今なら思う。そんなことをしても無駄なのだ。
誰にとっても無駄なこと、とは思わないが、aireziasにとっては利の少ない行いだった。
でも、当時はこんなふうに思っていた。
ここが、根性の見せ場だ。
決して、負けるわけには、いかない。

現在、チケットノルマ制という仕組み自体が見直されてきているようだ。
よくよく考えたらそれは案外普通のことである。
ライブハウスのお客さんはライブハウスに来る人であって、バンドではない。
にも関わらず構造上、バンドが支払うお金でライブハウスは回っていたのだ。
これまでの真のお客は、バンドマンなのであった。
この仕組みは中長期的に見るとバンドのみならず、ライブハウスにとっても良くないということはわかる。

もちろん「適切な、良い感じのチケットノルマ制」というものもこの世にはあると思うので、別に批判したいわけではない。それは好き好きで良いと思う。
(現状、福永はノルマがあるライブハウスに出たいとは思えないけれど)

バンドとは「ライブをするもの」である。
ライブをしなければ、バンドではない。
そう思っていたけれど。
すればするほど、得るものは少なく、お金は消えていく。
少なくとも当時はそういう時代だったのだ。
何か運を手繰り寄せることができなければ。

大きな会場でライブをしたら、そのインパクトでより遠くまで楽曲が届くのではないかと、身の丈に合わない会場を押さえて、決死の大赤字を覚悟で殆ど全ての知人・友人に声をかけ、なんとかしてその会場をソールドアウトさせたこともあった。
「応援してもらいやすい体制づくり」をする。
それに合わせてSNSにも企画を連動して、盛り上げて…
今思うとなんだか、同情を誘っているようで、毛穴が痒くなる。
でも当時は本当に必死で、真剣だった。
それに、今振り返っても、やっていること自体はごく真っ当だったと思う。
正しいプロモーションをしていたのだと思うのだ。

さて、でも。そんなことをしても何も変わらなかった。
「俺らのターン」はまだ来ないようだった。
ライブ直後、打ち上げの居酒屋で飲んだビールが奇妙に苦かったことを覚えている。

ライブをしないのは、非常に怖いことだった。
でも。考えた末に、aireziasはライブをする回数を極端に減らした。
僕らは、なにしろ、曲を作ることが好きだった。
思えば原始的な欲求として、そういう集団だったのである。
セッションをすること、「お前らと一緒に音を出すこと」が好きだった。
そんな単純なことに、10年も経ってようやく気づいたのだった。
ライブが好きで好きでしょうがない友達をたくさん知っている。
彼らにとってライブは…生き甲斐である。
そして我々にとって、それは、曲を作ることだった。

ライブをするたびに、お客さんが来なかったらどうしよう、と思う。
このnoteを読むあなたの元にも…届いたことがあるんじゃないだろうか。
売れないバンドマンの友達からの、ライブの告知LINEやメール、DMが。

本当はそんなことをしたくはなかった。
受け手からしたら厄介でしかないことを十も承知しながら…そんなLINEを送り続けていた。
努力の一環だと思っていた。草の根活動。
そういう地道な努力を人よりも多く行えば、結果は必ずついてくる…。
週刊少年ジャンプの読みすぎである。

今でもライブをするたびに、お客さんは来るのだろうか…多くの人に求められてるわけではないバンドが、ライブをする意味があるのだろうか、と疑問を覚える。不安で仕方ない。
福永が今、ライブを心から愛せない最大の理由はここだ。
ステージに上がってからは、自分でも良い演奏をしていると思う。
後で演奏の録音を聴いても、熱が覚めても、そう思えることが多い。
というより、そうなるまで練習しないとライブができない性質の人間だ。
けど、音楽の如何とは関係なく、そもそも「需要がないのにしょっちゅうライブを打つこと」自体が。もうどうにも。今の福永には、愛せない。



毎月のようにライブをすると、毎週のリハーサルはそのライブのための合奏練習にならざるを得ない。少なくとも福永は最低限それくらいみっちり練習したい。

プロ(?)になればなるほど、楽譜を渡され、1度2度の合奏で本番を迎える。
楽器が特異に上手な人たちからしたらそれは屁でもないことだ。

でも、そんな人たちが綿密に何度も、何十回もリハーサルを重ねて、体の芯の芯までバンドメンバーとのグルーブにひたひたに浸り切った時、そういう場合の方が、更により良いライブができるのではないか、と昔から疑問である。

今ならなんとなくわかる。そんなことをしていると、スタジオミュージシャンのギャランティ額からして、絶対に生活が成り立たないのだ。

でも。
aireziasはそれぞれにバンド以外の職を持ち、お金を稼ぎながら。
楽しみのためにリハーサルに入る。
とはいえ心持ちとしては、いわゆる趣味バンドではない。
「うまくは弾けないけど、楽しければ良いさ」というわけでは断じてない。
そんならステージに上がる前にもっと練習したら良い。
僕らは、人生の熱の軸足はいつでもaireziasにある。
…この形ならばこそ、ライブの数を「極端に減らしさえすれば」ひたひたになるまで合奏を続けてからライブをすることが可能なのだ。
ギャランティも何も関係がない。
ライブをいっぱいしなきゃいけない身分でもない。
(お客さんがいっぱい来るバンドで、専業という場合は、どんどんライブをした方が良いと思う、実際のところ、バンドが大きな規模において黒字になるとしたら殆どライブ(の中でも特に物販)だけなので。)

福永は、そういう、結晶のようなライブにならば、何かしら意味があるように思える。納得ができる。
この社会ではさまざまな障壁や条件の末にあまり達成できない、案外新しいライブの形が成立するのだ。aireziasならではの、ライブ。

だからaireziasは、ライブをする回数を極端に減らした。
でもリハーサルはずーーっと続けている。
そして、人間関係やロマンを含め、特に出たいと思うライブにごく稀に出演させていただき、やたらめったら多くのリハーサルを、その1回にぶつけたいと思っている。


コロナ初期にはaireziasは「RTA」というリモートセッション企画で様々な音楽家との遠隔セッション作曲をyoutubeにUPしてみたり、他のバンドやSSWの「サポートバンド」というか、バックで演奏を支えるバンドとして演奏させていただいたり、日向坂46の潮さんのYoutube動画で作曲・演奏・出演させていただいたり…意外と(?)色々やっている。

音楽的には全く電気を使わないアコースティック体制を、カホンとアコギとアコベでもってエレキ編成の再現をするとかいう妙な水準ではなく、本当にそれとして胴に入って、マンドリンからクラリネットからチェロまであらゆる楽器をみんなで扱って大成してみようと言うフェーズがあった。

最近はそこに最低限のエレクトリック要素を入れて、最低ラインを意識しながら花を散らすサウンド、さらにはあっさりとしたドランクビートを混ぜ込んで、さて、どうなるでしょう、というのをもっぱら研究している。

様々な面から、楽器が空気を震わせると言う現象を味わう。
あるいは、楽器でないものも。音が出る全てを。

死ぬ時に持っていける堆積は…技術でも練度でもお金でも地位でも名誉でも人気でもなく…自分の「思い出」ただそれだけである。

我々が湯水のようにかけ捨てて、音楽に費やした時間は、その作品に対する膨大な思い出の堆積でもある。愛着は、この社会で最も過小評価されている一つの重要なキーワードだとごく個人的に思う。(メンバーは、別にそんなこと考えてないと思うけど)

ああ、そんな、社会的にダメな奴らが楽しそうに生きていても良いんだ。
そんな風に見ていただけたら、嬉しい。音楽って、面白いんです。
それは案外、というか、サブカルチャーが担うべき一翼であると信じている。
尖った自由主義と論理偏重の時代にはなおさらのこと。

aireziasの様子が、メンバーら自身も含め、誰かにとって死の淵まで持っていける思い出なる要素として一定の体温を残すことができれば…それは一種の大成であると思える。

武道館を目指している、と言った方が、わかりやすいのはわかっている。
でも、こんなバンドがこの世に一つくらいあっても良さそうだ。
時代や状況に適応して、柔軟な頭で、よりよい活動の仕方を発明していきたい。
こういう形のまま、売れてやろうじゃねえか、新しい形で。
そんな野望を持っている。
今なお、そしてこれから死ぬまでずっと、aireziasは現役で途上の音楽集団である。
そんな危なっかしい宣言を、ここに記しておこう。
若気の至りとなるか、有言実行となるか。
その顛末に乞うご期待。



ここまで読んでいる人がどれだけいるのか分からないので、告知としては大失敗であろうとは思うのだが。
aireziasは2023年1月29日に1年以上ぶりのライブを行う予定だ。

「元映画館」という30年前に閉館した映画館にて。
(JR常磐線・三河島駅より徒歩5分)

この日はaireziasでサポートさせていただいている「尾崎リノと幽霊」も出演予定。

会場の規約で大きな音が出せないのだが、アコースティックならaireziasに任せて欲しい!
大きな音が苦手な人でも、ゆっくりと楽しめるイベントになるはず。

まだイベントの詳細は確定していないようなので….
以下の福永のツイッターなどで今後発表された情報をツイートさせていただきます。

やたらに多いリハーサル回数と奇妙な心構えから成る、ひたひたの"遊びグルーブ"を備えてお待ちしております。


本日はこれでおしまいです。

以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
気に入った方は「購入する」ボタンで投げ銭をよろしくお願いいたします。
頂いた¥100は、音楽活動・音楽探求に大切に使わせていただきます。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?