俺の友達は、誰も孤独死させない
対戦ゲームをしていて、負けが込んで、コントローラーを投げた。
畳に跳ね返ったコントローラーのスティックと右手側のボタンがふにゃふにゃになった。
少し間違えば跳ね返ったコントローラーが窓ガラスを破損してもおかしくはなかった。
子供の頃の思い出ではない。実に情けないことなのだが…つい先日。
年末のことである。
ここ2000時間以上のプレイ時間、福永はそのゲームが上達していない。
さまざまな課題を設定し、練習し、手を変え…。
しかしいくらやっても上達するどころかなんなら衰えを感じ始めている。
常軌を逸した負けず嫌いであることはこれまでにもnoteに書いたことがある。33年も生きているのだから、その激情との付き合いも手慣れたものだ。
福永は他人から「ボキャブラリーが豊富ですね」と言われる。
その一因はこの激情の飼い慣らしのためであったと振り返る。
感情を制御するためには頑丈な檻が必要だ。
論理性を発達させて、自分を納得させる必要がある。
と、これもまた、当然後付けの理由ではある。
否、理由とは常に後付けである。
なにはともあれ今では、自分自身のうちに潜むこのふざけた感情とも折り合いがついている。
日常生活に支障はない。
と、思っていた。
特にここ半年なんかは、実に上手にマネジメントできていた。
でも、なんかわからんけど、年末、その糸が切れた。
コントローラーを投げた後に、ゲーム友達に勢いLINEを送りつける。
こんなに努力をしても結果が結ばない、福永はいかに可哀想であるか。
この身体能力を呪っている。悲しんでいる。
思えばなにをやってもそうだった。
頑張っても一番になれない自分が情けなかった。幼少期から、ずっと。
そして、当然、そんなアホみたいなLINEをこんな年齢にもなって友人に送りつけてしまったことに30秒も経てば自己嫌悪する。
人に迷惑をかけてしまうことが何より一番嫌だ。
しかし、激情は強いので、体は反射で動き、LINEを送信した。
情けない…。
反省の意を込めて、送信取り消しはしなかった。
汚名を背負う必要がある。…もう、大人だからね。
大前提、対戦ゲームの戦績が自分の尊厳と一切の関係がないことは分かっている。
それどころか、あらゆる実績は本質的には尊厳とは無関係だ。
実績と尊厳に関係があるかのように感じること自体が既に罠の内だ。
例えば、数学ができて偉いね〜と褒められた子供は「数学ができる」という実務に自身の尊厳を重ねる。
これは翻せば「もっと数学ができるクラスメイトがいるならば、この家の子にはその子の方がふさわしい」という認識にもつながる。
能力にアイデンティティを宿すのは危険だ。
健全な自尊心とは「自分は特になにもできないけれど、それでもここに居ても良いような気がする」という根拠のない自信のことだ。
根拠のなさは無償の愛で育まれる。
能力を褒められるのではなく、あなたが今そこにいることを愛される実感。
そういう教育が健全な心身を育むとされている。
(健全ってなんだろう…)
ネグレクトを受けた子は健全な自尊心を持ちにくい。
毒親に育てられ極度に自信のない人を「アダルトチルドレン」なんて呼んだりする。
極端に自信がないために能力にアイデンティティを同期させる。
従って自身の存在を肯定するために自分より能力の高いものを嫉妬し、能力のない自分を不甲斐なく思う。
福永はアダルトチルドレンなのだろうか。
と、思ったがそんなはずがない。
福永の両親は極めて善良だからである。
ちなみにネグレクトを受けた子も大半は両親を善良と言い張る。
そして、自分はアダルトチルドレンではないと言い張る。
しかし。いや、どう考えてもうちの親はめちゃめちゃいいやつなんだよなー...。
福永は作曲家をしている。
作曲をする上で曲とは至近距離で向き合う。
至近距離にいる人間の客観性がいかに"うんこ"かをよーく知っている。
第三者にどう見えるか。
作曲をしている人間は他人の意見を極めて寛容に受け入れるべきである。
経験上、自分の客観性なんてものは微塵も信じない方が良い。
(さらに、それをよーく知った上で、なお、可能な限り客観的であろうと努力し続けることもまた重要である。無駄とわかりながら絶えず努めるのだ。)
というわけで念の為、両親を知る、信頼できる友人たちにも尋ねてみた。
うちの両親はすげーいいやつだと思ってるんだけど、どう思う?
いやめちゃくちゃ良い親御さんでしょ!
口を揃えてそう言う。やっぱ、そうだよね…!
というわけでアダルトチルドレンの線は薄い。
このところ浮上したのは福永という人間は逆に、なぜか死ぬほど自分を過大評価しているのではないか、という観点だ。
つまり、やればできるはず、と、自分に期待をしている。
なぜか知らんけど。
その上で、当然身体能力には天賦の制限があるわけだから、2000時間以上練習しようと出来ないものはできない。
友人が1000時間にも満たずに軽々福永を越えていく姿を見た。
小さな差だったものが、あれから更に1000時間、今ではもう、絶対に追いつけないだろうな、というくらいの実力差になってしまった。
それはそうだ。福永は足踏みをし続けているのだから。息を切らして。
ギターで言えば「アルハンブラの思い出」を未だに弾けない。
もう7年くらい経つ。
天才クラシックギタリストのヒストリーなんかを見ると、11歳でアルハンブラの思い出をマスターし…なんて書いてある。
元々自分に「できる」判定を(なぜか)持っていて、それができないものだから、自分に腹が立つ。
あるいは、同じように努力をした友人がそれを軽々と超えてしまう様子を見て、自分の身体能力が恨めしくなる。
こういう自信過剰な意識と現実のズレに悩むパターンを「古典的鬱」と言ったりするらしい。
最近の鬱はこのパターンが主流ではないが、昔は多かった。
それで古典的、なんて枕詞が乗っているのだ。
年末、忘年会と称したりしながら、2名の友人にこの話を振ってみた。恥ずかしいな、とは思ったけれど、このままではいけないと思ったから。
結果、福永は友人に恵まれていると思った。
1人目はこう答えた。
自分では愛せない特徴だろうけど、そのおかげで今福永は、音楽を継続して、お茶の間に音楽を届けて人の心を潤している。
自分がその特性を愛せないなら、周りが愛せば良い。
自分の良さは背中についていて、自分では可視化できない。
でも人からは、よーく見えるものである。
2人目はこう答えた。
むしろ福永はなにかと行動して、実現して、なんなら憧れる部分がある。
私は勝負して負けたくないから行動しないし、早くに諦めるから。
….。
そういってくれる2人の良さを、福永は福永の角度からよく知っている。
2人は2人なりに自分の特徴を愛せていなくて、深く話していてそれが伝わってくる。
福永はむしろそこが良いのに!と無責任に思ったりする。
…。
それで、考え方を変えることにした。
福永はおそらく一生自分の特性に振り回されることになる。
当然マネジメント能力を高めるように努めるけれど、きっとまた人に迷惑をかける。
その度に何度でも他人に頼る。
背中についているらしい「良さ」を見てもらって、褒めてもらう。
ご迷惑ではあろうけれど、何度でも褒めてもらうのだ。
その代わりに、ってわけじゃないけど。
せめても、と言うべきか。福永は人の背中を見ることができる。
あなたがたの目が前についているせいで、見えなくなっているテメーの良さを言及して、褒めることが可能だ。
迷惑をかけないように生きるのではなく。
迷惑をかけあって生きていく方が、いくぶんかマシかもな、と思ったのだ。
自分が迷惑をかけないように生きていたら人にはプレッシャーを与えかねない。あるいは人の迷惑を許せなくなりかねない。
更に。「なにが迷惑か」なんて人によるのだ。
少なくとも福永は、人が自信を無くして福永を頼ってくれるのであれば…むしろ嬉しく感じる。
福永なんかにできることがあれば、やらせてもらおう。
どれ、背中を見せてごらん。
うん。
そんなことは分かっているんだけどね。
みーんな、そんなことはわかっている。
だけど、自分のこととなると途端に難しい。
ともかく、福永は友達に恵まれている。
これは運の良いことだ。
正月に実家に帰った時に上記のような悩みを両親にも相談(?)してみた。
相談というか、雑談というか。
なぜか最終的には近代以降の問題点や政治や戦争や仏教や…そんな話になっていたけど。
父が言っていた。
「なんだこの家族は。なんでこんな話を正月に。」
この人たちに育てられたんだな、と思った。
両親はそれこそ当時流行していたアダルトチルドレンの概要を理解しており、子育てにおいてもその点を気をつけていたようだった。
母は負けず嫌いだが、挑戦をすると敗北が見えるので、基本的に挑戦はしないと言っていた。
父は日常から煌びやかさを見出す天才で、その根源は楽天家(ノーテンキともいう)であることのようだった。代わりに、大志を抱くことは苦手そうだ。
なるほど。この人たちのキメラが、今の俺なんだな。
当然情緒の醸成には後天的なものも多いけれど。
なにかゲノム的な要因も感じた。
つまり、負けず嫌いで心配性な母と、楽天家の父。
これが混ざったせいでこんなことになっている面が、一応、ありそうだ。
それを裏付けるように。
弟とは仲がよく、時々オンラインで通話をしながら対戦ゲームをやる。
その時によく彼が言うのだ。
自分は今、いかに悪くないか、を。
こんなふうに工夫をしたのに負けた…と。
その物言いは自分にそっくりで、つまり負けたんだけど、努力を認めてほしい、役立たずの無能だと思わないでくれ、というようなことを延々話しながらゲームをしている。
同族嫌悪、というか。兄弟なんだから同族もクソもないけど。
人から見たら自分もこんな感じなんだろうなぁと思って、その瞬間に限っては弟とゲームをして遊ぶことに嫌気がさす。
まあ、福永も「大人」なので別に真面目に気にしているわけではないけど。
ほとんどもう、なにも思わないけど、微かに眉毛を動かすものを言いうるとしたらその単語は「嫌気」になる。その原因は当然に「同族嫌悪」だ。
アンタの価値はそんなことでは決まらないし、アンタの評価をそんなことで落としたりはしないよ。
だから、その見苦しい言い訳をやめて。
そう言いたいのは山々。でも。
どう考えても似たもの同士だ。
さて。
父といえばなんだか、奇妙なことを言っていた。
いわく「自分が生きたということを残したくなった」
彼は曲を作ったり写真を撮ったりするタイプのおっさんなのだが
「別に世間を沸かせなくたって良い、けど、自分が作った曲を、例えば感情の支えにしてくれる人がいたらいいな、なんて思う」
それに対して母は。
「いや、私はなにも残さずひっそり死にたいけど」
父ではない他のおっさんが「何かを残したい」気持ちになっているのは、これまでに何度か見たことがある。
福永の友人関係は、人数は非常に少ないけれど、年齢の幅が広いのだ。
大概は年齢が70に近づくか、何か病気をしたあと。
父の年齢は70に近づいている。
今はまだ。福永にはわからない。
奇妙なことを言っているな、と思う。
わかる日が来るのかもしれないし、ずっとわからないままかもしれない。
このところ福永に新たな目標が生まれた。新年らしくて良いですね。
それは「俺の友達は誰も孤独死させないぞ」というものだ。
別に近々で友人が孤独死した、とか、そういうわけではない。
さらには、ジャンプ漫画の主人公的美学でそう思ったわけでもない。
例えば。
福永は松田くんと同居しているわけだが。
トイレットペーパーを今回は福永が替えた。
あれ、今回も福永が替えた。
や、今回も…。
3回も変えたんだから、次くらいはお前が替えろよな。
…と思ったとする。
…実際は、そんなことで揉めたことはないですよ。
トイレットペーパーなんてどうでも良いし。気づいた人が気づいた時に替えればそれで良い。
そう。正しく(?)は
「俺がトイレットペーパー替えたおかげであいつが変える手間が省けてよかったな」
これで構わないはずなのである。
これはハンムラビ法典とキリスト教の違い、と言い換えることもできる。
キリストは右の頬を殴られたら左の頬を差し出しなさいと言う。
小学生の頃、福永は「こいつはアホか?」と思った。
いや、頬殴られたらやり返せよ。
…これがもう「計算可能性」に毒されていたのだと今になってみて思う。
1やられたなら1やりかえす。
1施したのだから1施されて当然。
1努力したのだから1評価されるべきだ。
こんなふうに考えるのは間違った平等観といえる。
正確には…別に間違ってはいない。
社会秩序を整えるためのシステムとしては、正しい。
ハンムラビ法典では「目には目を、歯には歯を」という。
これは社会秩序を保つための、原初の法律である。
社会を可視化するシステムを組む上ではこういうふうに数値化・一般化するのが望ましい。
平等な感じがするし、何かと便利だ。
集団を整えるにはいくつかのシステムが必要になる。
でも、個人感のコミュニケーションは。
計算可能でも交換可能でもない。
相手が変われば自分のキャラクターも変わる。
あの友人と話す内容と、この友人と話す内容は違う。
そんな領域にまで「数値的な平等性」を持ち込もうとするのはもはや病理なのだ。
だから、右の頬を殴られたら、左の頬を差し出すのは、ハンムラビ法典と並行して正しいものの見方となる。
トイレットペーパーを、何度だって替えれば良い。
目には目を?…ここではナンセンスだ。
誤解を恐れずにいえばハンムラビ法典は「法秩序」で、キリスト教は「ライフハック」なのだ。(わざと言ってるから怒らないでね…)
そもそもの運用・成り立ちに違いがある。
そして前半に書いたアダルトチルドレンのこと。
愛が「無償である」ことは重要である。
無償とは「計算・交換不可能である」とも言い換えられる。
平等でない、非対称な状態。交換じゃなくて、施すこと。
慈愛を深く持つというのはそういうことだ。
ライフハックとして。その認識はおそらく正しい。否、豊かだ。
ただし。ここには矛盾を孕む。
「ライフハックとして」と言った時点で「理由/因果」が生まれてしまっている。
理由があるものは「無償」とは言えない。
かつて三島由紀夫はこの矛盾に苛まれたときく。
東大での議論において。日本を形作るエリートが必要ではあるものの。
エリートが無償の信仰を持たない場合。
彼らが「お国をよくするために」動く保証はどこにもない。
だから天皇は必要だ、と三島は考えた。
天皇を絶対的に/無償で信じている。
そういうエリートであればこそ、国をよくするための施作を考察できる。
そうでないエリートは、必ず計算可能性の罠に捕まり、既得権益を守り、利己的に立ち回るようになる。
(今まさに、日本がそうなっているように)
だから、一言、私は天皇を信じる、とさえ言えば、全面的にお前らを信用しよう、と言ったのだ。
しかし、ここには矛盾がある。
「国のためになるエリートを産むために」天皇が必要だ、と言ってしまった以上、天皇はもう、絶対的な存在ではない。
「〜ために」という理由を叶えられる存在が他にあれば、それはもう、代替可能な存在ということになってしまう。
じゃあ天皇でなくても良いんじゃない?ってこと。
当然その矛盾をつかれた。あなた、そもそも絶対的に信仰してないんじゃない?
三島はそれをあっさりと認めた。
自覚があったのだろう。
そしてあの、切腹へとつながってゆく…。(端折りすぎだけど)
福永はこのところ友達は大切だな、と思う。
冒頭の負けず嫌いの話題なんかも一例で、友達に助けられている。
極論、仕事に精を出している場合じゃないですよ、と同世代のみんなに声を大にして言いたい。(これまた誤解が怖いけど)
本当に大切なのは、どんなことなのか。
そしてその友人(恋人・家族・地域)愛は無償であるべきだと思うし、そういうミクロのレイヤーにおいて交換可能なコミュニケーションなんてありえない。
そんな目標の究極形であり、わかりやすいスローガンが「俺の友達は誰も孤独死させないぞ」というものだ。
ところが。
それでも考えてしまう。理由に思い至ってしまう。
「自分が孤独死しないために」友達を孤独死させない。
「自分の良さを都度誉めてもらうために」人の良さを探す・褒める。
理由からはどこまでも離れたい。
そう願っているが、どうやらそれは難しそうだ。
小学生の頃、キリストに「お前アホか?」と思った頃から呪縛は始まっている。
中学生の頃、卒業作文に「音楽で1番になりたい」と書いていた。
その1番という、数値目標(まあ半ばロマンだったろうけど数値を記入した無意識の存在は大きい)を掲げた時点でもう、逃れられないところまで毒が回っていたのだ。
激情を制御するために論理性とボキャブラリーを発達させてきた。
論理とは理由が結果を導く解法のことであり。
無償の愛とはおそらく対極に位置するツールだ。
三島は腹を切った。筋を通すために。
福永は。
…まあ仕方ないか、と思った。
残念ながらこれが限界である。
毒はもう、回っているのだ。
この辺りが現時点での限界点だろう。
福永は友人を無償で愛したい。
でも多分、残念ながら「理由」がある。
計算可能な打算がある。
その矛盾を、きちんと認める。
認めれば精算できるわけでは、決してないが。
ところでね、友達がこんなことを言っていた。
好きな映画や小説の話をした時に。
「タイトルもう一回聞いて良いですか?後で観てみます」
ときく人は、自分が見た観た作品「数」を大切にする人。
「その作品のどこが好きだったんですか?」
ときく人は、作品そのものや、あなたにとってはどんなところが?を大切にする人。
そんなふうに判断している、と。
…。
「どこが好きだったんですか?」とは、なんだかちょっと失礼に当たる気がしてしまってなかなか聞けないなぁ…なんて思ったりもしたけれど。
でも、こんなするどいことを言う友人に囲まれていることを嬉しく思っている。なるほどなぁ〜。
このnoteも振り返れば「友人がこんなことを言っていた」の保管庫みたいな側面がある。結局そんなことばっかり書いている気がする。
人生なんてのは…せいぜいそんなもんなのかもしれない。
なにを大事にするべきかは、大事にしたいのかは、よく考えた方が良い。
潔癖であろうとし過ぎない方が良い。
きっと振り返ればそんなに長いものではないから。
先々は長〜く感じるけれどね。
この正月は「葬送のフリーレン」を一気に観ていた。
あとはとある曲のミックスをずーっとしていた。
個人的な課題設定があって。
正月は音楽から離れてみようかな、なんて思ったりもしたのだけれど、なんか結局ずっとミックスをしていた。
フリーレン風に言えば「趣味だからね」
葬送のフリーレンは…なんでかわからないけれどどハマりした。
福永はワンピースもエヴァもハンターハンターもスラムダンクもドラゴンボールも見ず/読まずに育ってきた。
ちなみに鬼滅の刃も君の名はもスパイファミリーも、観ていない。
同世代の友人からするとそんなやつは宇宙人である。
逆にどうすればそれらの超有名巨大作品に指一本触れずに生きてこれるのか?
わかんないけど、なんかあんま興味なかったのである。
ワンピースとエヴァは友達の強すぎる勧めで大人になってから観た。
普通にすげえ面白かった。
けど、多分、みんなが言うほどハマってないな〜とは、薄々思っていた。
とはいえ他に相対化できる感情がなかったから、まあだいたいこういうもんだろう、と思っていた。
葬送のフリーレンを観たのは、Youtube shortがやたらに回ってきて、なんか低体温でいいな、と思ったのと、単純に正月だったから、という、もうただそれだけである。仕事がなかった。
それで初めて、アニメに本当にハマることができた気がしている。
本当にアニメにハマると…登場人物たちが、実在しないはずなのに、まるで実在するくらいに、大切なものになるのだ、と知った。
友人に熱々とその話をしたら「いや、まっすぐなオタクかよ」
福永の頭からは、多分ちょっと湯気が出ていたと思う。
みんなからしたら、もうそういう感覚って、中学生くらいで知っている懐かしの感情なのかもしれない。
誰かの欠けたる部分に感動が響く。
誰かの欠けたる部分が作品を生む。
その関係の構図をとってみれば、冒頭に書いたのと同じ。
あなたの背中にある見えない魅力は、福永が褒める。
福永の背中にある見えない魅力は、あなたに褒めてもらう。
欠けたる者同士のコミュニケーションとまるでそっくりだ。
そういう意味でも欠けていて鬱屈していることは、それ自体は悪に違いないけれど、それが手がかり足がかりになって人間同士が繋がることができることを示しているように思う。
ハイターはなんだか父親に似ている。あんなに綺麗じゃないけど。
フリーレンはなんだか母親に似ている。あんなに強くないけど。
フリーレンの声優の種崎さんがスパイファミリーのアーニャ役でもあることに腰を抜かしたり。
そういうデータベース的な部分にまで興味が及んで、調べまくってしまう気持ちが今はよくわかる。
Youtubeの企画もクソもあったもんじゃないようなゆるゆるの声優のラジオ的な番組まで観てしまう。
様々なジャンルにおいて、こういう、外伝・番外的でパーソナルな部分がデータベース的に垣間見えるコンテンツに一定の人気がある理由がようやくわかった。
今までは正直、いや誰がそんなもん観るの?と思っていた。
作品は作品であって。
解説になりうる情報を極力排したボブ・ディランの態度に尊敬と憧れがある。
けれど。好きになったら観ちゃうし調べちゃうんだな〜。
なるほど。こういうことだったんだ。
ゲームやってブチギレて、アニメ見て感動して。
なんすかこの年末年始は。中学生かな?
きっと一生ね…中学生のままなんですよ。
それは正月に両親にも聞いてみた。
「俺は二十歳になった時に大人になったとは思えなかった感覚をずーっと引きずって今に至るんだけど、六十七十となるとその感じはどうなるの?」
二人は口を揃えて
「歳をとったなと思うし、体も脳も衰えてるな、とは思う。けど、大人になったな、ときちんと思えたことは一度もない」
やっぱり。そういうものなんだ。
なのに。
実家からの帰り際、父親が斜め下を見ながら言うのだ。
「お前は…大人になったなぁ」
…。
当然、もう大人、として振る舞ってはいる。
でも自分では。本当には、そうは思えない。中学生のままだ。
でも。
「大人になったな」と言われて、悪い気はしなかった。
「大人」ってやつも、もしかしたら背中についている類のものなのかもしれない。
だから福永は人の背中を見て生きていたいと思っている。
度が過ぎた願望かもしれないけれど。
またまた自分に過剰な期待を寄せて悩みの種を増やすだけなのかもしれないけど。
可能な限り、背中を見て生きていたい。
皆様におかれましては。
きっと2024年も引き続き「ご迷惑」をおかけすることになってしまうと存じます。
きっとどうかお許しください。
そして、ならば、せめて。
たまには背中をみせておくれ、と思う。任せておくれよ。
そんな正月なのでした。
…大掃除とか、初詣とか、鏡餅とか、門松とか、確定申告とか…なーんもやらなかったな。
本日はこれでおしまいです。
以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
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