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むやみな可能性はきっと重荷である

8月末にコロナに罹ってから、今日に至るまでずっとなんとなく喉が痛み続けている。

一応"健康な人"と書いて"健人"という名前でやらせていただいてるし、両親のこめた願いが見事なほど叶って、ありがたいことにそうそう体調を崩さないのだが、ここ1~2か月はずっと微妙に下火である。

秋花粉か何かだろうとタカをくくっていたのだが、それが一昨日、どうにもグッと悪化して、これはなんだか普通じゃないかも?と感じるようになった。

基本的には行きたくないのだが2ヶ月ぶり・今年2度めの医者へ行った。
1度めは前述のコロナの時である。

医者によるとコロナ後のこういう症状は最近の「あるある」らしい。
診察内容としては副鼻腔炎咽頭炎、気管にもダメージが及びつつある。
そういわれてもよくわかんないんですけど、と尋ねると「重めの鼻風邪と喉風邪が同時に起きているようなもの」だそうだ。
それでいて熱があるわけでもなく、首より下は実に健康なのが変な感じである。
そういうわけで抗生物質をいただいた。
ざっくり¥5000、もったいねーと思いつつも、抗生物質恐るべし。
存外に体調が晴れて、あら健康ってこんなに身軽でしたっけ、ってな感じだ。

医者からはタバコを1日10本にしろ、といわれた。
副鼻腔炎と咽頭炎まではあるあるだが、気管支炎に突入しようとしているのはタバコが悪さをしている可能性があるのだそうだ。

一応、今のところ1日10本以内になるように気をつけている。
ここ2日は達成できているが…
3日坊主という言葉がある。まだ油断はできないだろう。
なんで「坊主」なんでしょうかね。
タバコを減らそうなんて毛頭考えてなかったが、喉と鼻がこんなんだと寝苦しいし、起きてても集中力が削がれるし、なによりそもそもタバコが全くうまくないのである。

喉と鼻が完治してもタバコが減っているかどうか。我ながら見ものである。



少し前に登山をした時に知ったのだが、福永のアキレス腱は尋常じゃなく硬いらしい。
これまでにも確かに、自分の歩き方はどうも上下動が多いなとは思っていたが、特に問題に思ったことはなかった。

この歳になってはじめて、上り坂で異様に疲れるという事実を知ったのだ。
周りの人と比べて、上り坂に限って、めちゃくちゃ息が切れやすい。

どうやら常日頃、アキレス腱の硬さを補うためにふくらはぎや太ももの筋肉を余分に使っているようなのだ。

重い荷物を背負って、長い時間登り傾斜を歩くことによってそれが顕在化した。

小さい頃から登山自体はどちらかと言えば好きで、登り坂に対して不得手であるというような感慨を抱いたことはなかったが…
それは若さゆえ、だったのだろう。

余分の筋肉を駆動して登り坂を歩いてもなお余りある筋力と体力が以前はあった。
それが失われつつある、ということだ。

歩行のフォームを、年齢に合わせて改善する必要がある。



先日noteに書いた腱鞘炎の話もまた、上述の2つに類するような話である。
これまで何時間、どんなフォームでギターを弾いていようと特段それが問題になるようなことはなかった。

それが今、改めて腱鞘炎という形で顕在化したのだ。

あれ以来練習時にはとにかく効率を重視するようにしている。
まずはフォームを見直すこと。それはもちろんとして。
10分タイマーをセットして、タイマーが鳴ったらどんなにノっていても休憩を挟む。

調べてみると結局人間の脳は動いている時でなく、休んでいる時に習得をしているようだ。

そのあたりの眉唾科学関連はもはや信じる気にはなれない。
卵はコレステロール過多なのか、完全栄養食なのか。
風邪の時はいっぱい食べて精をつけるべきか、飯を抜いて消化器を休めるべきか。
米を抜くと痩せるのか、太るのか。
コラーゲンがどうのこうのって話、あれどこいった?忘れてねえぞ。

何が良くて何が悪いかは、言説が時代に揺れまくっていて、全然いっぱしの筋が通っていないようにみえる。流行り廃れの成れの果て。
塩だって食い過ぎれば毒になるし、かといって適切な摂取はもちろん不可欠である。塩を抜けば良いと言うもんではない。
ただそれだけの話な気もするが、火のないところに煙は…とも言う。
専門知識がない以上、もうそれらについては閉口せざるをえない。
世間の言説を鵜呑みにはできないのだ。

さて、だが何しろ確かに、気を抜くことで脳が神経をつなぐ様は一応自分なりに体験をしたことがある。
簡単にいうと「慣れは敵」である。
アルキメデスの例を出すまでもなく、風呂に入っているうちに「あっ」とひらめいて曲を作ったことはままある。
締め切りに近い仕事をしている時でも、なにか一瞬でも良いから、思考・行動に混ぜ物を仕掛ける。
余計なことを考えて、脳みそに別の風を吹き込む。
耳が音に慣れた状態では編曲もミックスもはかどらない。
3分で良いから一瞬、抜く。
完成したと思っても時間が許す限りは、そのまま先方へ提出はしない。
完璧だとその晩どんなに思っていても、一晩寝て起きて聴いてみると気になる点がワラワラと現れることを、体験的によく知っているからだ。
空白の時間を味方につける。
その重要さ加減は、眉唾科学に依らずとも解る気がするのだ。

それを練習にもあてはめてみる。

指の連続駆動時間がめっちゃ減るので、腱鞘炎対策には良い。
そして確かに、こっちのほうが効率も良さそうに感じている。今のところは。
慣れは敵。やってみる価値はありそうだ。




総じてこれら3つに通ずると思っているのが「老い」である。
何をまた大袈裟な、という感じではあるのだが、これが老いの最先端(?)なのではないかと感じている。さいしょの足音、というか。
まあ若気の1種として、33歳の「老い観」を聞いてみてください。

何か苦もなくあたりまえに出来ていたことが出来なくなっていく。
身体が加齢に伴い不自由になっていく。
これが「老い」の1つの性質ではないだろうか。
前述の3つは、これまで全然大丈夫だったのに今になってなんかわからんけどダメになってきたもの、である。
タバコの本数、アキレス腱と付近の筋肉、薬指・小指のあたりの筋。

以前から老いとは想像するだに恐ろしいと思っていた。
歳をとるのが怖いとかいやだとか思ったことは一度もないのだが。
毎日練習・研鑽を重ねて、少しずつ積み上げているつもりが…
積み上げるよりも多くのものを、時間(老い)がごく自然に奪い去っていく。
結果、積み減っていってしまう。
どんな努力も水の泡。日に日にできることが減っていく。
今日よりも明日の方が、グッと可能性が死滅している。
朝起きるたびに、どんなに頑張ったって、昨日よりできない自分と直面し続ける、そんな毎日。

これが「老い」ならば。
恐ろしいもんだな。みんなどうやって正気を保っているのだろうか。
そんなふうに思っていたのである。



しかしまあ実際に「老いを先取り」する形で前述の3つの小さな症状を経験して。

改めて知ったのは「可能性の芽が失われる」というのは、想像以上にハッピーな側面を持つことだ…という気づきである。

もう、どう足掻いても長時間練習することはできないのである。
この「圧倒的」な出来なさ。
頑張ればギリなんとかなるんではなくて、もう身体的にどうしようもないという、諦めるほかに選択肢のない出来なさである。

こうなると…注視すべき可能性の光が1つ減る。

減ってみてわかる。
日頃いかに多くの可能性の光に目移りし、あるいは目を焼かれているか。

光が存在すること自体はとっても良いことだと思う。
でも、それを肌でうすうす感じている、そのくらいがちょうど良い。
直視して、あるいはオペラグラスでじっとり眺めようもんならそりゃあ眼球が焼ける。
可能性の眩しさだって、実は一長一短である。

あまりにも可能性に満ちていると結構肩が重たいものなのである。
これは老いて、実際に肩から荷が下りてみないとわからない。
自分の意思で能動的に荷を下すことは基本的にはできないからだ。
もっとこう、「圧倒的な出来なさ」に直面しないと、この開放感は機能しない。

1つ、2つと、圧倒的な「老い」という出来なさによって身から剥がされる。
剥がされていくことは、同時に荷を下ろしていくことでもある。

むなしさややるせなさはもちろん存在している。
でも、同時に、むやみやたらな可能性から解放されて、身が軽くなる

自分の両腕が、自由に使えるようになる。
自分のために使えるようになる。

これが、33歳時点で先取りして感じた、老いの正体…の一部である。
まあまだまだ健康が占めている場合の悠長な言説だろうことは薄々わかった上で言っている。



少し前に死ぬ夢を見た。
病気で死ぬ夢である。なんの病気なのか、とか、詳しいことは覚えていない。
とにかく何かの病気で、今にも死ぬところで、意識が混濁している。
朦朧とする中にもなんとなく恐らく家族や友人に囲まれていることがわかる。
(…ずいぶんと幸せなことである)

自分は横になっている。
そして感覚的に説明しづらいのだが、隣にはもう一人、今にも死にそうな女の子が居るように感じている。

死に際に連想したのは、なんだかんだで家族であった。
友人よりも、音楽よりも、何よりも家族だった。脳の残り少ないCPUが振り絞って想像したのは家族の姿であり、感情としては、先立つことをとにかく申し訳ないと感じていた。
その気分を最後に、自分はどうやら死んだ。
現世の音は全く聞こえなくなったが、医者が何かを言っているような感じや、集まった関係者のどよめきみたいなものはまだなんとなく感じていた。
生命の慣性、とでもいうような幽かな感覚。

隣にいた女の子がすっと浮かび上がって、部屋の外へ出て行った。
なんだかその後ろに着いていくのが正しいような気がした。
部屋を出て角を右に曲がり…
この時初めて、ふと、もう2度とこの人たちと会えないのだ、という感慨が襲ってきて、今曲がった角を引き返そうかと思った。

しかし前をゆく女の子は踵をかえすことなく、ゆっくり、だが確実に、前へ前へと進んでいく。

ここでは、それがルールであるように感じられた。
今ここで引き返すのは、溢れた盆に水が還るような不自然さがある。
ここでの理に奇妙なほどの正当性と圧力を覚えたのだ。

ちょうど少年時代、転んでひざを擦りむいたにも関わらず、泣きそうになるのをグッと堪えて、口をへの字にして痛みがなかったように振る舞う、あの感覚に近い。
何かグッと堪えながら、ここでは振り返ることなくあの女の子についていくのが、粋な計らいであるように直感したのだ。

実時間にしておそらく2秒にも満たない時間であったろうが、福永は確実に覚悟を決め、前をゆく女の子の後について淡々と歩いてゆくことにした。

というあたりで目が覚めた。



「福永さんって、占いとかアンチですか?」

うちにきた友人に尋ねられて、全然アンチじゃないよ、と答えた。

福永は、事実に色とストーリーをつける人間の認知特性・バイアスにこそロマンを感じている。
占いはその1つであると考えられる。
カードを引く、という端的な確率論的事実に、色とストーリーをつけてすっかり膨らませるのだ。

と、まあ、こんなまどろっこしいことを言うような奴はぱっと見「占いアンチ」に見えそうである。
だから彼女の質問は全く素直なものであったと思われる。

しかし、福永は別に占いアンチではないのだ。

「じゃあ、昨日タロットカードを買ったんで占っていいですか?」

占い師ってそんな即日なれるものなの?と思いつつ占われてみることにした。

カードをシャッフルする。
この山とこの山、どっちが良いですか?
んー俺から見て右かなー

的な感じで、3枚のカードが裏向きのまま選ばれた。

左から、過去・現在・未来を表すと言う3枚のカードが今、二人の前に並んでいる。

それらを厳かに表向きにしたのち、彼女は攻略本みたいなタロットの本のもくじをひいて、今眼前に現れたそれらのカードがどういった意味のものなのかを読み上げていく。

超正直に言って、その3枚のカードの説明の中には、整合性がとれていない部分が多かった。
過去のカードの言うことに準拠するなら現在のカードが言ってることは矛盾してね?みたいなことである。

が、なんだかんだで2人で相談しながら、事実に色を添えてゆく。
こう解釈すれば、こういうことか!なんていう。

これはタロット的にはかなり邪道な楽しみ方かもしれないけれど、新米占い師と感受性がひねくれた自称初老の男にとって、カードが意味するところを類推して、どうにか整合性の取れた過去・現在・未来の筋書き創造していく、そもそもその過程が非常にエンタメであった。ストーリーを生み出すのは楽しいことなのである。



このところよく思うのは「納得のしかた」にはめちゃくちゃ個性が現れるな、ということである。

彼女がタロットカードを買った理由は、何しろ迷った時にカードを引いてみるためだ、という。

最近遠出をして財布を無くしたらしい彼女のセリフの中に実に彼女らしいものがあって「(その出先に)今はまだ呼ばれてなかったんだと思う…」と。
だから財布を無くしたりしたのだ、と。

財布を無くす、という事実だけを抜き取るなら、本来、もうなくなったものはどうしようもないのである。
次回無くさないために対策を立てる、とか…もうぶっちゃけ気の紛らわしようもない事実が目の前に立ちはだかるばかりである。

そこに「今はまだ、その場所に呼ばれていなかった」というストーリーを付与するのは…これは死ぬほど人間らしい、クリエイティブな動きなのではないかと思った。

彼女は財布を無くした、という事実を、そのストーリーによって納得する。

「納得のしかた」には個性が現れる。
彼女にとってタロットカードという選択はとても相性の良い、賢い買い物のように思えた。
多分福永だと全然効かないダメな買い物になる。

この納得のしかた、の部分。
これがひいては宗教である。
もしくはお金をいっぱい稼ぐということである。
すんごい偉くなる、ということでもあり。
実力を認められる(させる)ということでもある。
さて、あなたは何になら納得をするのか?

もう全く人それぞれであるように見える。
特に多様性の時代であって、さらに超情報化社会である。
「一億総マニアック時代」と呼んでも良いのではないだろうか。
個々人の好みは、一層激しく個性的になっていく。

そんな中、あなたは何にグッと納得をするのか?

こいつをみつけることは…老いゆく全ての人間たちにとって急務であろう。
逆に、なにはともあれとにかく自分だけは納得してさえいれば…
何もかもが自分にとって致命傷にはなりえない…はずである。
少なくとも机上ではそう言い切れる。



このところなるべく自分の中に蠢く呪術的な「好き」を、論理的な整合性が全く取れていなくてもなるべく尊重するようにしている。

その最たる例が石拾いである。

海岸にいって、いいなーーと思う石を拾って帰ってくる。

この1mmも生産的でない行為の中で、自分の内にある呪術的な好き好みの像ってやつを絞って浮びあがらせてやろう、なんていう魂胆が、ないこともないのだ。
あるいはそんなふうに理由をつけてやると、石拾いに行く口実になる、なんて形で、事実関係が逆なのかもしれない。
この際、それはもうどっちでも良いのだ。
何が鶏で何が卵であろうと、そこにあるのは間違いない。

正直、まだ、自分自身の納得のしかた、に納得がいってない。
あらゆることが圧倒的に半信半疑である。
結構論理脳な考え方をしている気がする。
けど、論理的に正しければ「飛びつくほどに魅力的」とは全然思えない。
あくまでもサブ、技術として論理には1歩距離を置いて接している気がする。
正しくてもグッとはこない。
けど好きなものに一足に飛びつくほどの爆発力もない。
好きでグッとくるからもう全面的に信頼!という生き方もできない。
そのわりに周りの友人に言わせれば「福永はやると決めたことは一生やってるよね、ほとんど呪われてるみたいに」…だそうである。
うーん全然わからん。



このところようやくわかった福永的「楽しい会話」像というのがあって
答えがわからないブラックボックスな部分について
あれこれ一緒に正しそうな連想をしてストーリーをでっち上げる。
こういう会話が福永は一番アガるっぽいのだ。

これはめちゃめちゃに頭の良い人と話していてわかったことだ。
めちゃめちゃに頭の良い人と話すと…
・「自分視点ではそのブラックボックスはこう見えている
(要はブラックボックスではない)
・「他人視点ではどう見えるかはまったくわからない
という2点を爆速で説明してくれる、のだが…
正直全っ然盛り上がらないな〜と思ったのである。

答えがすぐに出てしまって、付け入る余地がない。
そしてわからないもんは現状わからないので、考察の余地がない、という足切りも超絶に早い。

ブラックボックスが膨らむストーリーを得る間もなく、身ぐるみを剥がされて、その人にとっての真実の回答めがけて1本槍をバシュ!
これで会話が終了してしまうのだ。
あまりにもスピーディなもんで、福永からみるとこうだよ〜みたいなのを出す暇もない。
しかもなんていうか、完璧すぎて、出す隙もない。

ブラックボックスを議題に、答えを目指して会話しているように見せかけているくせに…その実、福永は「答えわかんないけど例えばこんなふうにも考えられるよね〜」みたいなふんわりとしたストーリーの往来を楽しみにしていた、ということにごく最近気づいたのだ。
これは「答えを出したい気持ち・モチベーション」があるけど「頭が悪いから答えがわかんない」という2点をクリアしていないとそもそも不可能な会話術なのだ。
その過程で、常識だと思ってたものが実は常識じゃなかったかも!?なんて道筋が出来上がってくるともう垂涎ものである。
うへえー楽しいー!となる。
すいませんね。多分興奮するポイント、変ですよね。

でも、例えば。
これは多分、福永なりの納得ポイントの1つなのである。



腱鞘炎に長年苦しんでいるという友人は「フォームを改善する良い機会だと思っている」という納得の仕方をしていた。

福永にとっての腱鞘炎は抽象化すれば「老いの先取り」であり、この先避けられない不自由との対峙の事前準備として納得できた。

とある友人は小説を読むのはなんか役に立たない感があって苦手だ…と言っていた。彼の本棚はほとんど実用書で満ちている。
また別の友人に言わせれば、人間が作った空想のストーリーにどっぷり浸かれる時間が無駄なんてことある…!?逆に何なら有益なの?だそうである。

とある友人の悩み事はタロットカードが解決するのであろう。
またきっととある人は論理的整合性をもって納得を深める。

ある人にとって会話とはきっと問題解決のための手法であり、
福永にとってそれはブラックボックスを突き合うワクワク空想タイムである。

死の謎と恐れには長い間宗教が納得を差し出していたのだろうし
今ではそれを科学という名の比較的新しい宗教が担っている。

福永は「病気で死ぬ夢」の中で、死を理として納得し、膝を擦りむいても泣くまいとする子供のようにグッと堪えて、理を優先すべきように立ち振る舞うことを選んだ。



…なんて、そんなことをだらだら書いていられるのは明らかに喉からタンが抜け、鼻から呼吸できるようになり、呼吸するたびに変な音がしなくなってきたからであり。
それらは全く、医者と抗生物質のおかげである。

考える選択肢が多いことは必ずしも良いことではないかもしれないが。
それらの過多はそうそう自由に選択できるものでもない。
考えちゃうものは考えちゃうのだから。

「自分にとって納得とはどんな形なのか」

こうして改めて題目として挙げてみるととても老いたる者の熟した発想とは到底思えない1文である。
青青した、青春じみた命題にみえる。普通に途方もない。
二十歳の自分に言うならば…13年経ってもこんなこと考えてますよ。
大して変わんないねえ?
である。

さて、まずはそんなことは置いておいて。
体調を治すのが先決、ってものであろう。

二十歳の自分には…こうも付け加えておこう。
13年経つと、体は約13年分、歳をとるよ。



本日はこれでおしまいです。

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