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より良く生きる。

はじめに

今、ガーナの農園にいます。
愉快な家族や村の人たちに囲まれた生活で、あたたかい国ならではのゆったりな時間が流れています。

外を歩けば、ブラ!ブラ!(こっち来て!)と呼ばれ、お話ししたり一緒にご飯を食べたり、人のあたたかさにも囲まれています。

そんな暮らしの中で、星野道夫さんの『旅をする木』という本を読みました。

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読んだ感想は「今この本に出会えて本当に良かった」です。

生命について、人生について、ここ最近ずっと考えていたことと交差し、それをアラスカの情景を通して、味わい深い言葉にしてくれていたからです。

久しぶりに、ペンで線を引きながらじっくり読み込む読書をしました。

そしてこの機会に、最近のことや今の僕の頭の中について書き残しておきたいと思いました。まだまだ整理できていないことばかりだけれど、どうしても書いておきたくなったのです。

この枠で囲われた文章は、『旅をする木』からの引用です。


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最近のこと

この半年間で、僕は身近な人の死を2度経験しました。大好きな友人と、大好きなおじいちゃんです。2人の大好きな人が亡くなりました。

これまでの人生、自我というものが芽生えてからは、僕は身近な人の死に直面したことがありませんでした。そんな中で短い期間に2度も死に直面し、まだ全てを受け入れられていない自分がいます。受け入れる術を知りません。寂しいし、ふとした時に物凄く悲しくなるし、いまだに信じられない気持ちもあります。複雑な状況も相まり、今まで経験したことのない色々な感情が湧いてきたりもします。

もう会えないなんてなかなか理解できないし、死ってこんなに近くにある存在なのかと、ふと怖くなったりもします。

今まで言葉では分かっていた、生命の儚さ、人生の短さを、リアリティを持って突きつけられました。いつだって死が隣り合わせなことを実感させられました。

と同時に、自分は今生きている、という実感も強く感じるようになりました。

そしてこの半年間ぼくの頭の中では、生命だとか人生だとかの考えがずっと、ぐるぐると、巡り続けているのです。


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旅をする木

この本は、星野道夫さんのショートエッセイ集。その中の一つ『旅をする木』が本全体のタイトルにもなっています。

その『旅をする木』というエッセイの中に、こんな文章がありました。

ずっと昔、初めて行った北極海の海岸で、大きな流木の木の上に止まる一羽のツグミを写真に撮ろうとした日のことを覚えています。木が生えない北極圏のツンドラで、なぜ流木が海岸に打ち上げられているのだろうと不思議に思いました。それは川に流され、長い旅をへて海に出て、やがて海流に運ばれながらある日遙かな北の海岸にたどり着いた一本のトウヒの木だったのです。枝が落ち、すっかり皮も剥げ、天空に向かって突き刺さすように伸びるあのトウヒの姿はありません。けれども、その流木は風景の中でひとつのランドマークとなり、一羽のツグミが羽を休める場所だけでなく、ホッキョクギツネがテリトリーの匂いを残すひとつのポイントになっていたのかもしれません。また流木はゆっくりと腐敗しながらまわりの土壌に栄養を与え、いつの日かそこに花を咲かせるのかもしれません。そう考えると、その流木の生と死の境というものがぼんやりしてきて、あらゆるものが終わりのない旅を続けているような気がしてくるのです。

この文章を読んで、心が少しだけ軽くなりました。この半年間ずっと考えていたことに、納得感を持てるようになった気がしたからです。

僕は無宗教だから、死後の世界がどうこうとかを信じる軸を持っていません。けれど、一本のトウヒの木も、一人の人間も、同じなんじゃないかと思うのです。人の生と死の境だってぼんやりしていて、2人ともまだ終わりのない旅を続けているような、そんな気がしているのです。

一人の人間の存在が、別の誰かの考えや行動に何かしらの影響を与えていたり。1人の人間の存在が、別の誰かの中に確かに残っていたり。

そんなことがある限り、人は別の誰かの中で生き続けてると思うのです。

これまで全く料理をしてこなかった友人が、今では大人気のラーメン職人になっています。その友人を見ていても、どうしたって料理を愛していた亡き友人が中で生きてるとしか思えないのです。

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そして、おそらく誰しもにそんな節があると思います。僕が今ここにいるのだって、僕の中で2人が生きているからなのかもしれません。

さらに言えば、それは知り合いに限らず、2人が作った椅子にどこの誰かも知らない人が座ってることだってあるのかもしれません。

世界はそうやってまわっているのだと、ようやく分かってきた気がします。

自分はどんな影響を与えられるのだろうか。何を残せるのだろうか。そんなことを、考えすぎず、考え続けていきたいなと思います。


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人生の持ち時間

この半年の間、悲しい出来事の裏側には、嬉しいニュースもありました。ごく近しい人たちの結婚出産ニュースが相次いだのです。

つい最近まで人生まだまだ始まったばかりと思っていたはずが、もう次の世代を育てていく第2世代です。1周目にピリオドが打たれ、2周目に突入してしまいました。そしてこれをもう1周繰り返したらもう第3世代。孫ができている世代です。

僕を産んだ時にまだ20代(今の自分とあまり変わらない)だった両親が、もう50代後半戦に突入していることも、なんだか不思議な気分なのです。

なんというか、当たり前のことではあるけれど、そういった時間の流れを強く意識するようになりました。「世代」という、時間をとらえる軸を一つ持った感覚です。

ーーー人生は有限。

何百回聞いたか分からない、もう聞き飽きたはずのこの台詞が、この半年間グサッと心を刺し続けてきます。


寝る時に「また1日分、人生のライフが削られてしまった。」と怖くなってしまうことがあります。

クリスマスやお正月、お花見。一年に一度、名残惜しく過ぎて行く出来事がある度に、これは死ぬまでにあと何回楽しめるのだろうかと、考え込んでしまいます。そしてその回数を数えるほど、人生の短さに怖くなってしまうこともあります。

けれど、だからこそ、人はこれほど強く花見に魅せられるのでしょう。これほど盛大にクリスマスを楽しむのでしょう。

出会える回数に限りがあるからこそ、毎年焦がれて、毎年たまらなく心動かされるのです。


人は限られたものの中でこそ、幸せを生み出すのが得意な生き物だと思います。

無限の自由の中では、多くの魅力は半減してしまいます。日々に制限があるからこそ、休日に焦がれ、休日をめいっぱい楽しもうとします。

みんな一年に一度のイベントが好きな理由も、そんなところにある気がします。


そしてだからこそ、自分の人生の持ち時間が限られていることを強く意識した今、たった一度の人生をより良く生きようというパワーが湧いてきてる気がするのです。


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これまでの繋がり

人生の持ち時間は限られているからこそ、自分にとって本当に大切な人にだけ時間を使いたい。

時間を意識すると、この意識も同時に強くなっていくと思います。もちろん僕もそうです。

脳のキャパだって、自分や大切な人のことだけでもう一杯一杯。自分に関係のない事だったり、情報の断片や憶測だけで批判している人だったり、そんなことを気にするために一切の時間と脳を消費していられないのです。

本当に大切な人にだけ時間を使おう。そう思っています。


けれど、この意識が極端になりすぎても、より良い人生からは遠のいてしまう気がしています。

僕は、これまで人生の様々なステージで出会ってきた人たちがどんな地図を描いて生きてゆくのか、とても興味があります。いきなり矛盾してしまうようだけれど、そんな話を聞いたり、SNSで近況報告を見たりする時間が好きなのです。それはどこかで自分と無縁ではないと思うからなのかもしれません。


巷では「今を生きよう。未来の話をしよう。過去に囚われるな。」とよく言われています。もちろんそれに共感はしつつも、僕はやっぱり、現在や未来だけに目を向けるのではなく、過去に出会った人たちのことも、ずっと頭の片隅に置いておきたいのです。人生とは思い出作りなのだから、より良い人生を生きていくためにはそれも大事な気がするのです。


そんなことを考えていると、これまで出会ってきた友人の顔がいくつも頭をよぎってきます。あの頃は毎日毎日顔を合わせていたような友人も、社会に出るとごくたまにしか会わなくなる場合がほとんどだと思います。

仲が良くたって、シェアハウスだとか、家が物凄く近いだとか、何か一緒にプロジェクトをしてるだとか、そんな理由がないと、頻繁に会うことなんてそうそうないと思います。

そういう友人とも、一生のうちであと何回集まってワイワイ楽しめるのだろうかと、ふと考えてしまいます。


さらに言えば、たまにでも会ってるのならまだ良くて、社会人になってから全く会ってない友達の方が大多数かもしれません。

社会に出るとどうしても、仕事や家族 > 友人
という費やす時間の構図が出来上がってしまい、過去の人間関係の大多数は疎遠になってしまうものです。コロナもあって、さらにその流れは加速しているかと思います。

コロナ禍においては、人間関係の棚卸しがポジティブな文脈で語られることだって多いでしょう。

もちろんそれも分かるけれど、いつも学校で顔を交わしていたあの友人と、もう死ぬまで会うことはないのだろうか。そんなことを想像すると、やっぱり僕は寂しくなってしまいます。

ごくごくたまにでも良いから会って、今どんな地図を描いて生きているのか、話を聞きたくなるのです。


そういった意味でも、亡くなった友人の偉大さをひしひしと感じます。友人は、シェアハウスのオーナーをやっていました。いろんな人が行き来する、懐が深くて温もりあるシェアハウスです。

大人になればなるほど、学校の教室や部室、近くの公民館だったりが担っていた、ふらっと当たり前に人が集まってくる居場所はどんどん減っていくと思います。そんな中で、そのシェアハウスは、多くの人にとっての理由なく集まれる大事な居場所だったのです。

待ち合わせして会うほどの行動力に至らなくても、たまたま居合わせていろんな話を聞けたらやっぱり嬉しかったりするのです。

それをつくりあげた友人は本当にすごいやつだったのだと、あらためて思います。

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最後に、「過去の繋がり」について昔呟いたツイート(https://twitter.com/kentomushi18)があったので載せておきました。


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出会う人と出会わない人

星野さんがオーストリアのザルツブルグから書いた手紙の中に、こんな文章がありました。

"モーツァルト"というカフェには必ず午後に立ち寄り、コーヒーを飲みながら、チェスをしたり新聞を読んでいる人たちを眺めています。わずか数メートル横に座っている人の人生を何も知らず、結局知り合うこともないというのは面白いですね。

この文章が、なんだか無性に心に残りました。

日々の暮らしの中で、僕たちは無数の人々とすれ違いながら、出会うことがありません。そしてそのまま一生交わる事がない場合がほとんどだと思います。

けれど同時に、今までの人生で数えきれないほどの人と出会ってきてもいます。

当たり前のことだけれど、人と人が出会うということが、なんだか物凄く不思議なことのように思えてくるのです。

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出会う人と出会わない人を分ける要素なんて特に何も無いと思います。なんとなくの流れの中で、出会う人/出会わない人の2種類の存在が生まれ、たまたま出会った人の中から深く付き合っていく存在が生まれてきます。

今そばにいる、一生深く付き合っていくような自分にとって大事な大事な存在だって、なんとなくの流れの中でたまたま出会っただけの人です。

もしかしたらさっき道ですれ違った人が、実はとんでもなく気が合って、出会っていれば結婚相手になるような人だったかもしれないのです。

当たり前すぎて「だからなんだ?」と自分でも思うのだけれど、考え始めるとなんだか無性に不思議な気分になってしまうのです。

「電車で目の前に座っているあの人は、どんな人生を送っている人なのだろうか・・・」「もしあの人と同じ学校に通っていたら、僕たちはどうなっていたのだろうか・・・」

そんなことを、たまに想像してしまうのです。


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小さな分岐点

ザルツブルグからの手紙を読んで思ったことは他にもあります。

異国の地でふらっとカフェに入って、わずか数メートル横の席で、チェスをしたり新聞を読んでいる人たちとは、もう一生出会うことがない場合がほとんどです。

けれど、もしも何かのきっかけで話すことになったら、なんだかんだSNSで繋がって、またどこかで再開して、距離が近づいて、いつの間にか一生付き合っていく存在になっている事だってあると思います。そしてその存在によって、自分の人生の方向性が大きく変わっていく事だってあります。

誕生日にふとメッセージを送ってみたり、ちょっと気になるイベントになんとなく行ってみたり、たまたま電車を一本逃してしまったり。

本当にそんな小さなことがきっかけで、人生の方向性が変わっていくことなんてザラにあるのです。

(僕自身、銀行員時代に暇を持て余してふらっと行ってみたイベントで篠原祐太に出会い、その半年後くらいに森枝さん(@サーモンアンドトラウト)との会話の中でふと彼を紹介したことから、回り回ってガーナにたどり着いた今を形作っています。)


人生は小さな小さな分岐点の積み重ねだと、最近つくづく思います。取るに足らない小さな分岐をどちらに進むかで、長い目で見たら全く違う人生になっていく。人生なんて良くも悪くもそんなものだと思っています。

人生ゲームでサイコロを振って3が出るか4が出るか。それだけで大きく結果が変わってくるのと同じように、リアルな人生だってそんなものだと、心の底から思います。

なんとなくテレビをつけて、4チャンネルがCMに入ったから無意識で5チャンネルに変えてみて、紹介されていた唐揚げ屋さんが近くにあったのでなんとなく行ってみたら唐揚げの美味しさに感動し、コロナで暇だったので家で真似して作ってみたら案外美味しく作れて、それをSNSに載せてみたら友達から「今度作って!」とリプがあり、次の週友達に振る舞ったらものすごく反応が良く、流れでまた次の週に別の友達にも振る舞うことになり、いつの間にか唐揚げ作りの自信が付いていて、SNSの友達が主催する町のちっちゃなイベントに誘われたので唐揚げを作ってみたら反響があり、イベントでの様子をSNSに投稿したらさらに大きなイベントに呼ばれ、イベント出展を繰り返しているうちに流れでお店を始めることになり、気づいたら「唐揚げ屋さんを始めてもう今年で10年か〜」となっていたりする。

本当に良くも悪くも人生ってその程度のものだと思うのです。

だからこそ人生って面白いし、大それたものでもなんでもないのだから、いろいろ迷っている人は、とりあえず小さな分岐点で直感に従ってみれば良いと思うのです。

そこから何か良い方向に変わっていくかもしれないし、特に何も変わらないかもしれないし。

誰だって正しい答えはわからないけれど、より良い方向を目指していつも旅をしている途中だと思うので。

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自分のことを振り返ってみても、今の自分へと繋がる小さな分岐点がいくつも思い浮かびます。

しかしその無限の分岐点について、なぜAではなくBの道を歩いているのか、それを説明してくれと言われても、考え込んでしまいます。大概、そんなものだと思うのです。


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心に沈んでいるもの

その場ですぐに分岐することはなかったとしても、遠い小さな記憶が、長い時間の経過とともに、人を形成する大きな要素になっていることがあると思います。

子供時代のひとつの体験が、その人の心の中に沈みこんで、ふとした頃に熟していて、何かを形づくるのです。

僕にもそんな体験がいくつかあります。


小学生の頃?だったか、社会の教科書に、フィジーで暮らす人たちがタロイモを焼いて食べている写真が載っていました。

当時の僕はフィジーなんて国のことはこれっぽっちも知らなかったけれど、遠い島国で自分の知らない食べ物を食べて暮らしている人たちがいる、という当たり前の事実がなんとなく印象に残ったのです。子供ながらに、知識としてではなく、感覚として世界を初めて意識していたのかもしれません。

それから数年後、高校生になって旅の魅力を知った自分は、ふとした時に教科書の一枚の写真がフラッシュバックされたのです。「フィジーめちゃくちゃ行きたい。タロイモ食べたい。」と、理由なんて特に無いけれど、その瞬間から無性に惹かれるようになったのです。


中学生の頃?だったかには、家庭科の授業で、ドイツの片田舎で豚を屠殺しハムやソーセージをつくる映像を見ました。

ドイツのロマンティックな街並みに、屠殺した豚を余すことなく活用しようと様々なハムやソーセージを作る人たち。映像を見ていた時はそこまで印象に残らなかったのだけれど、これまた時が経ってから「うわぁ、あの光景を生で見てみたい。血のソーセージを食べてみたい。」と、強い衝動に駆られたのをよく覚えています。


それから時がたち、フィジーでタロイモを、ドイツの片田舎で血のソーセージを、それぞれ食べることができました。

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授業中に何気なく見たその写真や映像は、その時には気づかなかったけれど、僕の心の中に確かに沈み込んでいたのです。そしてゆっくりと熟されながら、"ガーナにいる"という「今」へとバトンタッチされていったように思います。


将来自分に子供ができた時、その子の心には何が沈み込むのだろか。どんな景色に触れてもらえばいいのだろうか。

そんなことを考え始めてもなかなか答えは出ないけれど、「いろんなものに触れてもらおう」という親のちょっとした意識と、あとは流れに身を置いてもらえばいいのかなと思っています。実際に子供ができたらどういう考えになるのかは、今の僕にはまだ分かりませんが。

https://youtu.be/dMtEqfuQSVA
(中学生の時に見た映像を、去年たまたま見つけました。気が向いたら、ドイツのどこか懐かしい情景を覗いてみてくださいね。)


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主人公になる

人は誰もがそれぞれの物語を持ち、それぞれの一生を生きていくしかないのです。

最近、進路やキャリアの話をする機会が何度かありました。

そんな類の話において、僕は「誰しもが自分の人生という物語の主人公になる」と良いのかなと思っています。

主人公として、その物語をどれだけより良いものにしていけるか。そんなことを考えながら人生を紡いでいくのです。

物語のテーマは何だっていいし、自分のキャラ設定だって何だっていいし、読者ターゲットはあくまで自分自身でいいのです。

ワンピースという物語において全員がルフィになる必要なんて全くなくて、ウソップが主人公の物語だって面白いし、ヘルメッポが主人公の物語が100巻くらい連載されたって、読者ヘルメッポからしたら最高に面白い漫画になると思うのです。


そんな風に考えていれば、良いも悪いも全てが物語の目次になっていくから、人生楽しくなっていくのではないかと思うのです。

そしてそんな捉え方をいち早く腹落ちさせてしまえば、人生なんてすごく気楽なものになると思うのです。


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選択肢のジレンマ

人生を生きていく身の軽さ・・・

将来の選択肢を拡げようと思って、良い大学に入ったり、資格を取ったり、スキルを身につけたり、お金持ちになったり、みんないろいろ努力をしていると思います。もちろんそれは素敵なことだと思います。

しかしそんな時によく思うのが、選択肢を拡げようと思って取ってきたその選択によって、逆に選択肢が狭まっていることが頻繁にあるということです。

「好きなことを仕事にしよう。」
みなさんこの言葉をもう1万回くらいは聞いているかと思います。

けれど、そんなことを言われたってどうしても、「東大出て〇〇になるのか…?」「弁護士として上り詰めたのに今更〇〇になるなんてもったいない…」という思考にはなってしまうかと思います。

やりたいことがたくさん思い浮かんでも「自分の現状と照らし合わせたら、現実的にこれがベストかな。」と、選択肢を狭めてしまうのです。

そんな"選択肢のジレンマ"は、誰しもに思い当たる節がある気がします。

これは当然のことだし、べつに悪いことだとは思いません。そうやって判断して、結果的に満足しているのであれば、それはとても素敵なことだと思います。

けれど、もしもどこかにモヤモヤを抱えていて、"選択肢のジレンマ"がネガティブな方向に働いてしまっているのなら、それは解決すべき問題なのかもしれません。

それに対して僕は、いつどんなタイミングでも自分をリセットさせられることが大事なのかなと思っています。

何歳であっても、その分野でレベル50くらいまで積み上げていたとしても、自分を壊してレベル0からまた始めてみるのです。

いつどんなタイミングでもレベル0から始められるメンタリティさえ備わっていれば、人生の選択肢は常に無限になるのですから。

そして、レベル0からリスタートしたって、1年くらい本気で取り組めば案外見える景色は変わっているものです。

1年で人は充分変われる。そう、本当に思うのです。

実際には、全く初めての分野に行ったってレベル0になんてならず、「レベル15くらい&特殊能力あり」から始めることができるでしょうし。


とは言え、当然それでも怖いと感じてしまう人はいるかと思います。怖さの要素を分解していったら、案外解決できそうなことばかりだったりはするのですが、それでも怖くなってしまうのも分かります。

そんな時に、前章の"自分の人生という物語の主人公になる"という考え方をお勧めしたいのです。

「こっちの選択肢をとっても、物語的には面白い目次になるんじゃないか?」

人生のリセットを、そんな風に捉えてみるのです。

アラバスタ編をもうちょっと濃いめに描いていこうかな。それとも空島編を新しく始めてみようかな。

それくらいのテンションで選択してしまって全然良いと思うのです。

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さらに言えば、リセットして新しい道に進んでも大抵のことはやってみればなんとかなるし、万が一なんとかならなくたって、それは物語の中では一つの目次になるのです。

ワンピースでだって、ごくたまに圧倒的な力の差に歯が立たなかったり、大切な兄弟が死んでしまうこともあります。けれどそれは、ワンピースという物語をより良くより濃くするためには、必要不可欠な目次だったりするのです。

自分の人生という物語でだって、それは全く同じことなのです。


ーーーいつでも自分をリセットさせられるような、人生を生きていく身の軽さ。

それを大事に生きていきたいです。


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バケツの水

離陸の失敗は、一匹狼のドンにとって、大きな経済的負担をもたらすのかもしれない。しかし無事に飛んでいれば、今、ぼくたちはここにいない。「ギフト(贈り物)だな・・・」

星野さんと仲良しなパイロット・ドンが、不時着した土地にて、そこに在る生命たちを五感で感じた際に、そう言いました。

これを読んでいて思い浮かんだのは、"バケツの水"です。

僕は、お風呂が大好きです。
町の銭湯も、大自然の秘湯も、極上にととのうサウナも、毎日ゆっくり浸かる家の湯船も。

僕の人生にお風呂は欠かせない存在です。

けれど僕が今いる村には、当然お風呂なんてありません。シャワーだってありません。

汲んだ水をバケツに溜めて、大事に大事に身体を洗っています。

いつも大量のお湯に囲まれている身からすると、最初は正直しんどかったです。基本的に僕はどこでも生活できる人間ではあるのですが、お風呂だけはしんどいのです。

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しかし今となっては、しんどいとかそういう気持ち以上に、バケツの水がかけがえのないものになっています。

バケツの中の限られた水を、少しずつ自分の身体にかけ流し、ついに各部位に水が染み渡ったと感じたその瞬間、なんだか"水"を自分の五感で感じているような気がしてくるのです。そしてそれは「今、生きている」という実感を湧かせてくれるのです。


冬キャンプをしている時だって、似たようなことを感じます。

基本的に僕のキャンプスタイルは、リサイクルショップで購入したペラペラのテントに、ドンキで買った安い寝袋だけ。そうすると、極寒の中で一夜を過ごす冬キャンプでは、当然のように凍えるような寒さを招きます。友人たちとぶるぶる震えながら過ごすのが定番になっているのです。

けれど、そんな寒さの中だからこそ、焚火の火が温かいのです。「火ってこんなに温かいのか・・・」と身に沁みます。この瞬間にも、"火"を自分の五感で感じられている気がしてくるのです。そしてその瞬間にこそ、自分の生命を実感できる気がするのです。


不時着してしまったり、お風呂が無くてしんどくなってしまったり、寒さで凍えそうになってしまったり、そんなことがきっかけで、かけがえのない瞬間に出会えたのです。

「ギフトだな・・・」

僕も、そう言いそうになりました。


ーーーここ最近、このギフトの近くを実は何度も通っていたのではないだろうか?気づかず素通りしてしまっていただけなのではないだろうか?

「水や火を自分の五感で感じる」なんてそんな毎回感じられてるわけでもないし、ちょっとカッコつけてしまってるけれど、自戒を込めて、ここに書き残しておきます。


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もうひとつの時間

ぼくは今、ガーナのBrong Ahafo地方のTechiman という町の近くのAdtwieという小さな村にいます。

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この村で、大好きな人がたくさんできました。

人と出会い、その人間を好きになればなるほど、風景は広がりと深さをもっていきます。やはり世界は無限の広がりを内包していると思いたいものです。

今まではインターネットや写真の中の世界でしかなかった場所が、今はぐっと身近に感じます。Google Mapで遠く離れた大陸を拡大したら表示される、なんてことない小さな一地点が、今では広がりと深さを持った高解像度のイメージで頭の中に表示されます。

ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか


村のみんなも、ふとした時に心の片隅に登場してくるのだろうか。そんなことを想像しながら、今みんなと一緒にヤムイモを食べています。


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人生は長い

人生は有限だ、人生は短い、そう散々言ってきたけれど、とはいえ人生は長いとも思います。

僕はまだ26歳なので、人生あと75年くらいは残っています。75年あれば、大抵のことであれば、なんだって出来るのではないでしょうか。

もちろん5歳の頃と比べれば、選択肢はかなり減っているのかもしれません。今からプロテニス選手になりたいと思っても、たぶんもう遅いです。

けれど、そもそもこの世に選択肢なんて無限にあるのだから、多少数が減ったとしてもまだまだ無限です。

そしてこれは、世代をもう一周した先の自分の親世代にだって、同じことが言えると思います。

26歳の僕と比べれば選択肢は間違いなく減っているでしょう。けれど逆に、新しく見えてきた選択肢だってたくさんあると思います。いずれにせよ、これまたこの世にはまだまだ無限の選択肢が残されているのです。


僕には尊敬する大先輩がいます。還暦を迎えながら、新たに会社を立ち上げたり、若者と新しいプロジェクトを始めたりしている素敵な方です。

何歳になっても好奇心旺盛で活動的で、なによりイキイキしてるその方を見ていると、「いくつになっても何だってできるし、歳を取るのも悪くないな。」と心から思えてきます。


ーーー今日が人生で一番若い日。

僕はこの言葉が好きです。

何をやり始めるにも"もう遅い"なんて思わなくていいのです。"今が一番早い"のです。

仮に今日始めてしまえば、それは今できうる最速のスタートを切れたということになるのです。伸び代しかないのです。

世界中の人に「おいしい」を届け続けているカーネルサンダースさんだって、KFCを創業したのは65歳の時。

KFCほど大きなものをつくりあげなくたって、自分の手の届く範囲の、小さな楽しそうなことを始めてみたら、たぶん今からだって人生がより良くなっていくと思うのです。


最近は人生の短さに悲観する事も多かったけれど、この本を読んで、ようやく人生の長さにも目を向けられるようになってきました。

何歳になっても、より良い人生を追い求めながら生きていきたいです。そして、お節介だとは分かりながらも、自分の周りの人たちにも、そうやって生きてもらえたら嬉しいのです。


ーーーあ、いくつになってもより良い人生を追い求めていくためには、やっぱり"健康"がなによりも大事だとつくづく思います。

ぼくも最近は、健康にはかなり気を使うようになっています。毎日散歩をするようになったし、毎日ナッツを食べるようにもなりました。もしおすすめの健康法があるよって方は、教えてもらえるとすごく嬉しいです。


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赤い絶壁の入り江

ーーー人生は短い。1人の人間の一生なんてたかがしれてる。毎日似たような1日を繰り返していたら、もうこんな歳になってしまった。もし僕が死んでしまっても、世界は特に変わらず回っていくだろう。

そんなことを考えると、たまに物凄く虚しくなってしまいます。

たしかに1日1日でみれば楽しいこともたくさんあるけれど、死ぬ間際に「やりきった。満足のいく人生だった。」と、そう本当に思えるのだろうか。後悔しないように生きたいけれど、そんな人生を歩めているのだろうか。

たまにそんなことを考え始めると、些細な生き甲斐が馬鹿馬鹿しく思えてしまうのです。


けれどこの本を読んでいたら、そんなことを考えること自体が馬鹿馬鹿しく思えてきました。

星野さんがアラスカの地で出会った様々な自然と、その時に感じたこと。一つ一つの言葉が、僕の身体にじんわりと染み込んできました。

もし誰もが、人に教えたくないほど美しい秘密の場所をもっているとしたら、それはぼくにとって、"赤い絶壁の入り江"です。

可笑しなもので、自分の記憶の中にだけしまった思い出というのは、不思議な力を持ち続けるものですね。そのことをじっと考えていると、なぜか、そこがとても神聖な場所に思えてならないのです。

何でもない風景なのに、これはいつか必ずたまらない懐かしさで思い出す、と感じる時はないだろうか。決して特別なものではないのに、記憶の底に沈殿してゆくもの・・・

深呼吸するように、遠い野生の匂いを記憶に残そうとした。


特別なことなんて必要なくて、自分だけのこんな記憶を一つ一つ積み重ねていけたら、それだけでより良い人生になっているのではないか。最期に満足できているのではないか。

そんな風に思えてきたのです。


グッとくる景色、誰にも言いたくない秘湯、忘れられない出来事、最高のご飯、などなど。

そんなとっておきの記憶をいくつも積み重ねていくことを、人生の生き甲斐にしていきたいです。

そして、そんな些細な生き甲斐だけで、もう充分100点満点な気がするのです。人生とは、思い出作りなのですから。

なんだか、ようやく自分の人生を肯定していけそうです。


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思ふままに

僕の些細な生き甲斐のひとつに、"「思ふままに」という本をつくる、さらには僕の子供や孫にも受け継いでいく"、というのがあります。

「思ふままに」とは、生前におじいちゃんがつくった本。趣味の俳句や川柳を、思ふままに綴った本です。既にvol.1とvol.2が自費出版されています。

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おじいちゃんがまだ元気だった頃、「新しい句も少しずつ溜まってきてるから、vol.3も作りたいんだよな〜。」と言っていました。

老人ホームにいたおじいちゃんとは、最期の1年間はコロナのせいで全然会えなかったので、新しい句を綴り続けていたのかどうかは知りません。vol.3を最期まで作りたいと思っていたかどうかは分かりません。

けれど、僕はどうしても「思ふままにvol.3」を完成させたいのです。

さらに言えば、vol.4、vol.5と、世代を超えてつくり続けていきたいのです。

今も旅を続けているおじいちゃんが、僕をそんな気にさせている気がします。

人生の中で何かを感じるたびに、僕、というより僕たちで、思ふままに綴っていけたら嬉しいです。


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より良く生きる

星野さんのアラスカでの友人にビル・フラーというおじいさんがいます。

何十もの多彩な職業を経験し、75歳になった今も、学生たちに語学を教えたり、日本に来て自転車で北海道から九州へと学生のような旅をしたりと、パワフルでナチュラルなおじいさんです。

そんなおじいさんに対する星野さんの言葉が、もしかしたらこの本の中で一番、グサッと染み込んできたかもしれません。

ビルは日本語の習得に没頭していた。ぼくはやはり考えてもしまうのだ。残された人生の時間を思った時、それは一体何になるのだろうかと。

世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える・・・人生を肯定してゆこうという意味をいつもぼくに問いかけてくる。


人生をより良く生きるとは、結局そういうことなのだと思います。

僕も、自分の人生を肯定し、より良く生きていきたいものです。


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おわりに

ここまでもし読んでくれている方がいたら、本当にありがとうございます。すごく嬉しいです。

文字通り、全く纏まっていない文章になってしまいました。纏まっていないどころか、今の頭の中を羅列しているだけなので、各章ごとに矛盾もたくさんあるかもしれません。

ただ、人間なんて矛盾が本質みたいなところもあると思うので、そんな矛盾を行ったり来たりしながらこれからも生きていけたらなと思っています。

また、説得力もクソもない何者でもない自分ではありますが、読んでくれた人がもしも何かしらを感じてくれたのであれば、それはこの上ない喜びです。備忘録として書き始めたはずが、途中からは周りにいる人たちを思い浮かべながら、手紙のように書き進めていた自分がいるので。

もし意見などあれば、なんでも言ってもらえたら嬉しいです。なんだか、いろんな意見を聞いてみたいです。


最後に、

「ガーナで読んでね。」と、この本をプレゼントしてくれたせいな。この場所で、このタイミングで、この本に出会えて良かった。本当に本当にありがとう。


たぶんこの本は、今後も何度も読み返すことになるんだろうな。次読む頃には、また感じることも変わってきてるのかな。

メモを書きながらじっくり読み込む本は、世界に一つだけの宝物になります。文字だけでなく、読んでいた時の情景だって、本の中に閉じ込められる気がします。

農園の木陰で読んだり、弱い電気の下でスマホライトを照らしながら読んだり、そんな記憶もこの本が残し続けてくれるんだろうな。


ぅし、より良く生きるぞ〜。

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