2020-05-23の日記

何もできないうちにも日記の日付は進んでいく。

ここ最近は特に書くことは何もなく、精神状態がそれほどよくない、と10回くらい書けば日記が終了する感じでした。眠れないのでしょうがなく書く。web日記にはクオリティなど必要ないだろう。これは商売の品であってほしくない。

とにかくみんながそれぞれ「距離を測っている」だけのように見えてしかたがない。これは僕が調子が悪いときに起こる現象です。みんなが壮大な陣取り合戦をしている。誰が誰の味方で誰が誰の敵なのかを注意深く突き止めようとしている。

かなり大人になってきている。成熟と呼ばれるだろうそれは、たとえば「本当のことを話せ」と言われれば本当のことを言ってはいけないというサインだとか「わけを話せ」と言われれば理由ではなく謝罪の言葉が要求されているのだとか、そういう結びつきのセットを学習することで成り立っている。これは小中学校で教員に実践的に教え込まれるわけだが、単なる未来の服従の予行演習で終わらず、「大人になる」ということを構成しているわけで実際に利益になるのかもしれない。

「真実は実在しないが、事実は存在する」という言葉を見てかなりびっくりした。これはニュースへのコメントだったと思うが、おそらく真実=主観的、事実=客観的という対立構造が発話者の意図としてあるっぽい。とくにツッコミもなかったのである程度は許容される文なのだろうが、「真実」という単語の利用の歴史によりそのようになってきたのかもしれない。言語は生きているなんて聞くけれどこんな動的に変わるのだな~と思った。

Netflixの攻殻機動隊SAC新シリーズ、恐る恐るみていたが面白い。見る人に正義の感覚を起こさせる要素の選択がとても適切な感じがある。義憤を起こさせる物語運びというのはテクニックとしてあるのかもしれない。

音楽理論についてだらだら見ていたけれど、かなり文章構成にも似ているなあという気がしていた。わざとふわっとさせて安定させて締めるというようなものに対して、それぞれに適当な語彙選択があるよね~といった感じ。つまり下属音っぽい語彙があるみたいな話だけれど、まだ感覚でしかない。

よくある話だが、300年後に見たときに名が残っている哲学者は誰なのだろうか。これはあまりその体系の強度や洗練さと関係ないように思えるし、当時のアカデミアの名声ともそれほど関係がないような気がする。なにが効いてくるのかはよくわからないが、遡及的な人気度という自明な要素しか指摘できない。たとえばハイデガーやウィトゲンシュタイン、フッサールやフレーゲ、D・ルイスやドゥルーズなどではなく、マルクス・ガブリエルやアイン・ランドが残りそうな気さえする。これはロト6くらいの気持ちで言っていて、競馬くらいの気持ちですら言ってないし、そのくらいの気持ちでしか言えない気がする。

あとよく咳がでる。この季節にはよくあるもので、原因は詳しくはわからない。春とか梅雨前、くらいの精度でしか原因を指摘できない。去年と一昨年はなかったが、今年は出た。

虚無感を全面化しないことに注力しなければならないよな~という感じ。ゴミ出しや料理に虚無感を持ち込まないこと。いい加減にシャワーを浴びないこと。虚無感は音もなくやってくるが、音もなく出ていくと信じること。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?