見出し画像

作者が本気で自分の小説を解説してみた1「余命・原始人と火」

こちらは八幡謙介が2020年に発表した解説本です。

作者が本気で自分の小説を解説してみた 1

「余命・原始人と火」


はじめに

小説を読んだ後に、『作者自身がこの作品について詳しく解説してくれたらなぁ……』と、誰もが一度は思ったことがあるはずです。しかし、当の作者は「メッセージは全て作品に込めた」とか、「読者が自由に解釈して構わない」と煙に巻くようなことを言って、結局核心的なことは何一つ言わないということがほとんどです。
 一方、視野を広げてみると、映画やアニメなどの映像作品の監督、出演者などは、特典映像で制作秘話を惜しげもなく語っていることが多々あります。ミュージシャンもアルバムのレコーディングで今回はこんな機材を使ったとか、ここのパートに苦労したといった事を比較的オープンにします。どうやら自作に口を閉ざすのは小説特有の文化であるようです。
 読者は作者に語ってほしい、でも作者は自作について語らない……だったら率先して自分の小説を解説すればそこにニーズがあるのではないかと思い立ち、実行したのがこの本です。
 本書及び今後出すであろう解説は、作者自らができるだけ詳しく自分の小説を解説するという、ありそうでなかった新しい試みです。作者は何を思ってこの小説を執筆したのか、キャラクターや世界観はどうして生まれたのか、執筆にあたり、具体的にどんなテクニックを使っているのか、プロットはどう組んだのか、主題は何なのか……そうしたことを作者自ら余すところなく解説したいと思います。

「原始人と火」について

執筆の動機
「原始人と火」は僕が初めて執筆した純文学小説です(小説自体は「未来撃剣浪漫譚ADAUCHI」が処女作)。確か2012年に書いたと思うのですが、当時は習作のつもりで、恐る恐るキンドルで発表したらことのほか評判が良く、以後僕の中ではある種の基準となる作品となりました。
 本作は最初から純文学作品として意識して書きました。小説の世界ではよく『処女作に作家の全てが詰まっている』と言われますが、それが正しいとすると、本作に僕の純文学に対する全て、あるい全てとはいえないまでもかなりのものが詰まっているということになるでしょう。
 では僕にとっての純文学とは何か?
 僕は純文学=主題と捉えています。主題とは、その作品で作者が言いたいことです。自分が言いたいことをはっきりと提示し、それを端的に表現するのが僕の純文学観です。だから処女作の「原始人と火」を書いた時点で、まず主題をしっかりと決めてから書き始めるという手法をとっています。それが正しいのか、当たり前なのか、それとも珍しいのかは分かりませんが、とにかく、そういう風にして本作にとりかかりました。こうした人工的な、あるいは計画的な創作は、『人間が描けない』『ご都合主義になる』などとしばしば戒められるところですが、個人的には特に問題視はしませんでした。2020年現在でも問題だとは思っていません。
 では「原始人と火」の主題について解説します。

「原始人と火」の主題、形式

 本作の主題は〈芸術家と生活者〉です。今風に言うと〈アーティストと一般人〉。これは純文学では王道的な主題で、日本では三島由紀夫の小説に散見されます(「禁色」「鏡子の家」など)。僕は三島を愛読してきたので、もしかしたらその影響かもしれませんし(特に「禁色」に登場する偏屈作家・檜俊輔のファンです)、あるいは自分がアーティスト側の立場にいるからかもしれません。余談ですが、この作品を書いていたあたりから。僕はギタリストとして音楽活動を一切停止し、仕事をレッスンと執筆のみにシフトしていきました。もしかしたら、そうしたモラトリアム期の葛藤が本作のエネルギーになっているのかもしれません。
 さて、主題は決まりました。では〈芸術家と生活者〉をどう表現しようか? 普通に考えれば、現代日本でアーティスト活動をする主人公と、彼に関わる一般人の関係性を描けばいいのですが、それでは面白くありません。そこで僕は、人類初のアーティストを誕生させることにしました。それが原始人です。もちろん、その周りには芸術など見向きもしない〈生活者〉たちが生きています。そうした原始人の集落に起きたアーティストと一般人の相克を描くことで、この二者の根源的な関係性に到達できるのではないかと考えたような気がします。
 ……と、ちょっとかっこつけ過ぎましたが、まあそんな感じで書いたら面白くなるんじゃないかと考えたことは事実です。
 ちなみに、短編としたのは、長編で純文学を書くことに不安があったのと、もうひとつは芥川龍之介への憧憬です。
 僕はあらゆる純文学作家の中で、芥川が一番好きです。図面に描いたかのようなシャープなプロット、鋭い着眼点、独特の意地悪さ、冷酷さ、そして何よりも主題への誠実さ! 僕の中では、そうした芥川の短編こそが純文学なのです。だから自分が純文学作品を書くと決めたとき、主題のシャープな短編というのはもう決定事項でした。また、純文学を短編で読むというのは現代の時間感覚とも合致している気がします。ドストエフスキーのような重厚な大長編は、書けるかどうかは別として、現代人の時間感覚には合いません。主題のみを簡潔に提示し、そこに必要最低限の物語を付与してサクっと読ませる、これこそ現代における純文学の存在意義ではないかと考えます。
 まあそれはともかく、この辺で作品の骨格が見えてきました。

主題:芸術家と生活者
 形式:短編
 備考:芥川のように主題に一直線に

だいたいこんなもんで執筆を開始したと思います。プロットはたぶん組まなかったと思います。
 では本編をじっくりと解説していきましょう。

「原始人と火」解説

(□で挟んだ部分が本分からの引用です。)

 原始人は、躰に微かな光を感じるや、眼を開け、すぐさま上体を起こした。あちこちをボリボリと掻いて、あくびをひとつ。立ち上がり、外に出て、住居のすぐ横で小便をした。集落はまだ暗く、人気がない。
 また、〈歩くとき〉が来たのだ。もっと辺りがよく見えるようになったら、あちこち歩いて、落ちている実を集めたり、冷たい水の中にいるあのすばしっこいのを獲ったり、獣を皆で襲ったりして、集落に持って帰る。
この暑くて痒い時期は、どこに行っても何かしら収穫があった。

本作は原始時代が舞台なので、文章にある種の古さを出そうと考えました。といっても古文や古文調にすると読み辛くなるので、文体は比較的現代的なまま、固有名詞を排除していくことで、そうした名前すらまだついていない昔の話という雰囲気を出そうとしています。例えば、主人公は【原始人】、狩りを【歩くとき】、夏を【暑くて痒い時期】としました。また、体を【躰】としたのも同じ理由です。これもやりすぎると読み辛くなるので、ちょっとだけにしています。

 おちこちでも人が出る気配がした。が、原始人はそれに気づかず、遠くからゆっくりと昇ってくる、あの大きくて熱い塊をじっと眺めている。あの塊が昇ると、辺りが見えるようになる。あいつはそのためにいるのだろう。しかし、それだけではないはずだ。あいつが昇ってくるのを見ていると、何かこう、躰(からだ)の中にも同じものが昇ってき、思わず駆け出したくなるような、そんな不思議な感覚を覚えるのである。また、あいつが山の向こうに沈んでいくときには、なんともいえず躰が重くなって、急に目から水が出てきたりすることがあった。そんな彼を、仲間は不思議そうに見やるのだった。仲間は誰ひとりとしてそうはならないらしかった。

ここで主題に軽く触れています。原始人はいつからか、太陽を見ると心の中にアーティスティックな何かが生まれるようになっていました。しかし、彼にはまだそれが何なのか理解できていません。仲間にも理解されません。とにかく、原始人にとって、太陽=アートであるという点を覚えておいてください。

 小便を終えても住居に戻らず、地べたに座ってぼんやりしていると、おちこちでも人が出る気配がした。が、原始人はそれに気づかず、遠くからゆっくりと昇ってくる、あの大きくて熱い塊をじっと眺めている。あの塊が昇ると、辺りが見えるようになる。あいつはそのためにいるのだろう。しかし、それだけではないはずだ。あいつが昇ってくるのを見ていると、何かこう、躰(からだ)の中にも同じものが昇ってき、思わず駆け出したくなるような、そんな不思議な感覚を覚えるのである。また、あいつが山の向こうに沈んでいくときには、なんともいえず躰が重くなって、急に目から水が出てきたりすることがあった。そんな彼を、仲間は不思議そうに見やるのだった。仲間は誰ひとりとしてそうはならないらしかった。
 肩を叩かれ、原始人は我にかえった。見上げると、隣に住む男が長い棒を持って立っている。男は顎(あご)で前方をしゃくって、無言で歩き出した。
 作者はいま、『無言で』と書いたが、彼らはまだ言葉らしい言葉を持たない。いや、言葉らしい言葉すら必要とされない生活を送っている、といったほうが理解しやすいかもしれない。
 原始人は隣人の後を追った。

太陽が昇り、沈むことに対し、特別な感情を抱く原始人。しかし彼はそれがアーティスティックな感情だとまだ知りません。というか、アートそのものがまだ存在しないのです。だから仲間も理解してくれません。といっても、この辺は現代でも同じことが言えますが。

地の文で作者がひょっこり顔を出して説明しています。古い小説にはこういった地の文が多く、なんとなくやってみたかったので挿入しました。まあ、ちょっとしたアクセントにはなってるかなと思います。

 男たちが次々と合流し、十人程度で山に向かった。辺りはもう十分に見えている。仲間には、棒を携えているのが数名、獣の皮でできた袋を携えているのが数名、あとは何も持たない。原始人は、仲間たちと歩きながらふと、この先にあるアレを思い出し、どうなったのだろうかと想像した。アレとは、死んだ仲間である。
 何回か前の〈歩くとき〉であった。先頭の者が叫び声を挙げた。後続が駆け寄ると、仲間が一人斃(たお)れていた。獣を狩るのが得意な男だった。彼がもう死んでいることは、皆すぐに理解した。ふつう、集落では、死者は土深くに埋められる(それは、だいたいあの大きな塊が沈んでいく方向である)。しかし今は〈歩くとき〉であり、〈埋めるとき〉ではない。だから皆は、死体を放ってまた歩きはじめた。

原始人にも死という概念はたぶん存在したと思われるので、きっと葬式に近い儀式もあったんだろうと想像します。また、原始人は太陽と共に生活しているイメージなので、日が沈む西の方角に死者を埋葬したのでしょう。
 ただ、今は狩りの時間なので、それをやめてまで埋葬はしません。狩りの時間は狩りをする、埋葬するときは埋葬する。そういう生活を想像します。

(試し読み終了)

「余命」について


執筆の動機

 2010年前後でしょうか、メディアでやたらと『余命○年の△△』というのが流行っていました。個人的にはメディアの露悪趣味に眉を顰めていたのですが、その中に『余命○年の歌手』といったものがあり、TVか動画で視聴したことがあります。余命宣告された若い女性が、それでも歌手を諦めきれずにレコード会社にデモと手紙を送り続け、ついにCDデビューを掴むというドキュメンタリーです。僕自身もミュージシャンとして感じるところはあったのですが、一方で一つ、強烈に気になった点がありました。それは、その彼女の歌が下手だったことです。ただ単に技術が足りないだけではなく、聴いていてもいいところ、心に響くところが全くなく、はっきりいって素人そのもので、とてもCDデビューできるレベルではありませんでした。そのとき、僕の中にちょうど「原始人と火」の原始人のように、強烈な感情が渦巻きました。

――彼女は文字通り命がけで歌っている
――でも下手で聴いてられない
――いやいや、不謹慎だろ!
――不謹慎? じゃあ余命いくらなら下手でも許されるのか?
――じゃあ、命って何だ? 技術って何だ?
――命さえ賭ければ何でもできるのか……
――命がけで歌っているこの子の歌は全然良くないじゃないか!

この強烈な体験を小説にすることにしました。

主題

 本作の主題は二つあります。第一主題は〈命と技術〉です。命は技術を超えるのか? 圧倒的な技術不足を命は補ってくれるのか?
 第二主題は「原始人と火」と同じ〈芸術家と生活者〉です。ただし、本作ではこの主題に少し深みを持たせました。ポイントは安美という主人公Kのパトロンでしょう。安美は生活者ですが、「原始人と火」の長老ほどゴリゴリではなく、むしろ芸術に理解のある側の人間です。しかし主人公のKは彼女が生活者であり、こちら側の人間ではないということを見抜いており、しかもそれを侮蔑し、利用しています(ただしほんの少しは頼りにしているところもあったのですが、それも本編後半で裏切られます)。
 余命一年の歌手towaは分類としては芸術家ですが、修行不足です。
 このように、ほんの少しですが「原始人と火」から主題が深化していることがうかがえます。純文学作品はこういったところを読み取って理解してもらいたいです。
 蛇足として、主人公をおもいっきりクズに描いたのはフランス文学の影響でしょう。特にラディゲの「肉体の悪魔」の影響は大きいような気がします。

プロット

 本作では軽く時間を前後させたプロットを組んでいます。

1 現在①
  コンサート観覧後、レストランのシーン

2 過去
  1から過去に遡って、そこから1の直前まで

3 現在②
  1の続きから再開

こうした時間を前後させるプロットは、漫画「進撃の巨人」に多用されています。執筆当時「進撃の巨人」に衝撃を受けていたので、その影響が出ているのかもしれません。

登場人物


 主人公。ギター講師、ニヒリスト。言うまでもなく、僕の分身です。ただ、主題の表現に適うよう性格は僕よりもかなり極端にしています。よくある話ですが、これをそのまま僕だと受け取られるときついです。

安美
 芸術界隈によくいそうなパトロン。自分では芸術を理解していると思っているが、芸術家からは裏で失笑されているようなタイプです。しかし気風のよさ、金離れのよさが重宝され、芸術家からはチヤホヤされているのでしょう(そこは描写していませんが)。安美自身はあからさまにチヤホヤしてくる芸術家は興味がなく、Kのような一見自分に興味のない人に惚れ込み、お金を使う。Kはそこを十分理解した上で安美を利用しています。

towa
 余命一年の歌手。彼女は本作における単なる装置でしかありません。「余命一年のめっちゃ下手な歌手がいます。さて、あなたはどう感じますか?」という問いのためだけの存在です。このように、主題のためだけに人物を配置するという手法は、芥川から学びました。まあ芥川はもっと深いと思いますが。
 熱心な読者にはこういった人工的な配置を嫌う人も多く、賛否が分かれるところでしょう。個人的には、ほんのちょっと作者が主題のために配置した感が出てる方が好きです。

では本文を解説していきましょう。

「余命」解説

 注文を終え、店員がメニューを持ち去るとすぐ、安美はまたわざとらしい溜息をついて目を細めた。Kは次の句を想像してうんざりしたが、あえて遮ることはせず、汗ばんだ彼女の額をぼんやりと眺めていた。
「ホント、行ってよかったよねー」
(三度目だ――)
 安美の『行ってよかった』は、コンサートが終わってからこれで三度目だった。思ったより反応の薄いKに彼女は興を削がれたのか、
「もぅ、泣いてたくせに~」
 と、得意げな笑顔で冷やかした。Kは改めて彼女の勘違いを確認し、安堵した。そして、
「泣いてないよ、馬鹿! 汗だ、汗」
 と声を荒げ、照れ隠しの体でそっぽを向いた。窓の外を薄着の若者の一団が賑やかに過ぎて行く。
 安美は勝ち誇ったような笑みを真顔に戻して、
「でも……誘ってよかった。Kなら何か感じてくれると思ったの。ほら、ああいうのって変に茶化す人とかいるじゃん? 多分照れの裏返しなんだろうけど」
「ああ、うん……そういう人もいるかもね」
(見透かされている……いや、そんなはずは……)
 Kは遠い瞳をしながら、口元を引き締めた。すると、さっきのコンサートの風景が思い出された。同時に込み上げてくるものを強く抑えつける。安美が次の句を待っているので、あせって、
「ああいうのは、……」
 と、いい加減に口を開いたが、上手く言葉が続かず、
「……めったに観られないよね」
 と、歯切れの悪い語をつないだ。それでも彼女は納得したのか、満足そうに何度か頷いた。運ばれてきた前菜が会話の中断を許した。Kは内心ほっとした。

こちらはプロローグとなります。Kと安美はあるコンサートに行き、その後食事を摂ります。全体的に不穏な空気を感じていただけるでしょうか? 満足そうな安美とは裏腹に、何かを隠し、悟られないように気を付けているK。これから始まる物語を予感させるために、作品をこうした意味深なシーンから始めたんだと思います。ここから少し過去に戻って物語が進行し、またこのレストランのシーンに到着します。
 細かいところを見ていきましょう。主人公をイニシャルでKにしたのは、特に深い意味はありません。純文学ではわりとよくある手法です。
 季節は夏です。夏であることと本編は特に関係ありませんが、だからといって季節感の分からない作品は臨場感が出ません。一方、夏であることをこれみよがしに描写するのはちょっと芸がなさ過ぎです。なので、なんでもないシーンで、【汗ばんだ彼女の額を】【窓の外を薄着の若者の一団が賑やかに過ぎて行く】と描写し、さらっと夏であることをほのめかしています。後々考えると、本作の主題なら冬の方がよかった気がします。そこは書き手の甘さ、青さが出てしまっていますね。
 また、ここがどこかを理解してもらうため、冒頭で【注文を終え、店員がメニューを持ち去るとすぐ】、最後に【運ばれてきた前菜が会話の中断を許した。】と、レストランであることをさらりと描写しています。まあ、それ自体そんなに重要なことではないのですが、場をきちんと描写しておくことでシーンが薄っぺらくならず整ってくれるのではないかと思います。
 余談ですが、レストランだからといって、店に入るところから描写すると冗長になってしまいます。だからかなりの部分をカットし、注文を終えたところからシーンに入っています。そうすることで「今、二人はレストランにいる」という情報が簡潔に伝わり、さらりと本題に入ることが可能となります。ちなみに、これが長編であれば二人が議論しながら夜道を歩き、レストランを見つけて入るところをきっちり描写した方がいいのでしょう。

 Kはミュージシャンである。ギターで食っている。売れてはいないが、生活できるほどの収入はある。本人は特に売れたいとも思っておらず、むしろ世間に顔を知られていない現状の自由を謳歌している。今年で三十五だが未婚で、結婚する意思はない。願わくば、このままの生活が最後まで続けばいいと、半ば本気で思っていた。

主人公Kの描写です。読み返すとどうにも説明的でちょっと後悔しています。冒頭のシーンはあんなに繊細な描写を頑張っていたのに……。ここは反省点です。
 このKは僕の分身です。といっても100%ではありませんが、6~7割ぐらいは僕です。特にこの冒頭の描写は98%ぐらい正確に僕を描写しています。じゃあこの作品はお前の実体験を小説にしたのかというと、「余命いくつの歌手」という存在以外は100%フィクションです。安美という女性も、モデルすら存在しませんし、余命いくばくの歌手のコンサートにも行ったことはありません。そもそも、作品に実体験を透かして見る類いの読書は、純文学作品の理解を高めるどころか、低下させます。純文学作品を読むときは、『この主人公は作者のことかな?』『この登場人物にモデルはいるのか?』『作者はこういった体験をしてきたのだろうか?』と、週刊誌のような読み方をせず、もっと奥深く入っていって主題を掴む努力をしましょう。本シリーズはそういった純文学を読む訓練としても機能するはずです。

 いつの時代にも、こうした輩に進んで関わろうとする奇異な女がいる。安美がそれである。本人の言を借りれば、『アートとかけっこう理解ある』安美は、友人の紹介でKと出会い、すぐにパトロン――といっても現代的な安っぽいそれ――になることを申し出た。安美はKを、あらゆる文化的な催しに連れ出した。コンサート、美術館、博物館、芝居、ダンス……。すべて彼女の奢りであった。Kはなんら悪びれず、別段感謝もせず、夏に出された麦茶の如くさらさらとそれらを呑んだ。彼は正しくミュージシャンであった。

本作のもう一人の登場人物・安美がここで出てきます。これもナレーションで登場させており、ちょっと後悔しています。先ほども言った通り、モデルはいませんが、アーティストからすれば『いるいる、こういう女』と思える典型的なパトロン女です。名前も、美に関わってくる安っぽい女という意味で「安美」としました。
 主人公Kは、安美にいろいろと奢ってもらっているようですが、感謝すらしていません。それを当たり前と思っています。こういうのにいちいち感謝し、悪いなと思ってしまう人は、たぶん芸術家にはなれないでしょう。ちなみに【夏に出された麦茶の如く】という比喩で、またさらっと夏を表現しています。

 安美が呆れるほど、Kには未経験のものが多かった。それらに接してKは素直に喜び、時折口にする一語が安美をはっとさせた。そのつど彼女は、『今私はアーティストの感性に餌付けしている!』と、うっとりした。当然これは安美の誤解である。八百屋が大工の仕事を見ても、はっとする一語ぐらいは吐くだろう。
 当のKはというと、こんなパトロンの扱いはお手のものである。この人種は、つまりは承認を渇望しているのだ。彼らが一般人よりもよく観、よく聴けていることを承認するだけで――それはいかにもさらりと言ってのけるべきだ! 彼らは無残なほど有頂天になる。『安美って結構いい耳してるね』の一言は覿面てきめんであった。彼女の財布の紐は一段と緩んだ。

安美の勘違いと、Kの意地悪な性格を描写しています。私見ですが、こういったパトロン女は自分が与えた餌でアーティストが育っていくのが無情の喜びです。その瞬間を見ると、まるで我が子の成長を見る母親のように母性が溢れ、さらに財布の紐が緩んでしまうんだと思います。Kのずるさは、それを全て知っていて、計算ずくで安美と付き合っていることです。安美がKに餌付けしていると同時に、Kも安美の母性本能(パトロン気質)に餌付けしているのです。ある種の共依存みたいなものでしょう。
 こういった描写をすると必ず『八幡って女性をこんな風に見てんの? 最低!』と思われてしまい損をするのですが、本作の主人公は徹底的なニヒリストなので、どうしてもこういう性格にする必要がありました。だから僕自身のことだと勘違いされるのを恐れず、また、読者の良識を信じて主人公をクズに描いています。拙著「ラプソディ・イン・アムステルダム」も同じです。

 ある夜、ことが終わりピロートークの最中、安美が伺うように切り出した。
「ねえ……行きたいコンサートがあるんだけど、一緒に行かない?」
 Kは奇異に感じた。彼女からの誘いはもっぱらメールだし、コンサートというのも少しめずらしい(安美はいつもKに専門外のもの、見たことがないものを見せたがった)。なぜこのタイミングで、伺うようにコンサートに誘うのかとKは疑った。
「いいけど、どんなの?」
「あのね……余命一年って宣告された女の子がいて、夢が叶って歌手デヴューしたの。で、最初で、多分最後のコンサートをやるって。雑誌で知ったんだけど。当日中継も入るって」
「ふうん、どこ?」
「*町の文化会館、中ホールかな? 詳しい時間はまた調べてメールするね」
 Kはいつも通り承諾した。予定はどうにでもなる。

ここから物語が動き出します。今読めば二人の紹介が簡単なナレーションのみで終わってしまっているので、現時点でまだKと安美がどんな人物でどんな関係性かわかり辛いですよね。ここも反省点です。
 少し表現の話に移ります。debutをカタカナで【デヴュー】と書いていますが、これに反発する人がいます。「bだから正しくは【デビュー】だろ」という理屈だそうです。個人的にはこれも表現のうちでしかないので、どっちが正解だという認識はありません。じゃあ英語のrightとlightをカタカナでどう書き分けるのかって話です……。LでもRでも「ライト」と書いて誰も文句言わないですよね? まあ、意地張って【デヴュー】と書き、その都度読者に疑問を抱かれては損なので今は【デビュー】と書くようにしていますが。このように、読者が作者の表現を常識に照らし合わせて訂正する文化は、表現の幅を狭めるだけのような気がします。読書をしていて一見奇異な表現に出会ったときは、一般論に照らし合わせてすぐに批判するのではなく、一度じっくり考えてみると新しい発見があると思います。

(試し読み終了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?