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アテナイからの客人

プラトンの著作において善や悪の他に、
知について語られることも多い。
「知っている」ってなんだろうね。と対話形式で登場人物が様々思考をこらすも
結論がでないこともあるほど奥行きがあるテーマだと思う。

現在文庫本で手に入るプラトンの著作を、1年かけて読み進めてきたが、
その中で最後の著作といわれる「法律」の中で、
割と明確に無知について定義されていたので考えてみた。

「法律」は岩波文庫版では上下巻で構成されており、
前半はクレイニアスと、アテナイからの客人が立法について話合うシーンだ。
そこで最大の無知とはなんだという話になるのだが、
アテナイからの客人にとって最大の無知とは

自分ではあるものを美しいと、善いとも思っているのに
それを愛さずにかえって憎み、
反対に劣悪で不正と思っているものを愛し迎える、そういう場合の無知なのです。

プラトン「法律」岩波文庫

だという。
つまり快楽と苦痛が理にかなった思惑との間にきたす不調和が
無知のきわみなんだと。

知らないことを知るのが教育だとすると、この対局にあるのが教育だ。
つまり教育とは、
快苦を感じる感性と、知性の間の不調和を取り除くこと。
ということになる。

感性と知性が乖離することを最大の無知だと主張しているのだ。
しかし、感性と知性の距離そのものが無知なのではなく、
知性を基準として、感性の乖離が広がれば広がるほど最大の無知に近づいていくという解釈だ。
そうすると知のクォリティや方向性は、基準となる知性のポテンシャルに依存することとなる。
つまり自己を研鑽して知性のポテンシャルを上げ、そこから感性が置いていかれる
ことなく磨くことによって知が築かれるのではないだろうか。
知性のポテンシャルが低く、感性も同様に低い場合、
それらの乖離は少ないが客観的に見ればやはり無知という表現になるのではないだろうか。
または、そもそも高いとか低いとかは、比較対象があって初めて成立する表現で
あることから、高いと思っていたものが比べる対象によってはとても低いという
こともあるかもしれない。
つまり、人間は際限なく無知であるということに気づかせたいのではないだろうか。
なぜならば、このことに気づいたらどこまでいっても人類は無知であることを
認めざるを得ないし、認めることでアテナイの客人がいう最大の無知、
無知のきわみからは脱却できるのではだろうか。
これなら別の著作でソクラテスがいう無知の知の表現とも合致する。

ところで、このアテナイからの客人ってすでに登場した人物のことを表しているのかと考えたが、もしかすると、プラトン本人か、ソクラテスのことなのかもしれないなと思った。
しかし、ソクラテスであれば従来から登場していたわけで、そうなるとソクラテスの思想と乖離のある人物として、アテナイからの客人という衣をかぶったプラトン本人の登場なのかもしれない。
そんなことを考えたり、2000年前の世界や文化に思いを馳せながら読むのがプラトン著作の楽しみである。

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