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江戸時代の京都/今の京都 第1回 節分

 こんにちは。
 2024年2月3日。本日は節分です。
 節分というと、豆まきは必須ですね。今は恵方巻きを丸かじりするのが習わしで、今年は東北東を向いて食べるそうです。
 恵方巻きについては、私の幼少期の記憶にはないのですが、まあ、「イワシの頭も信心から」です。楽しい節分になればということで、今年も購入です。


豆と恵方巻き

 さて宣長の時代はどうだったでしょうか。『在京日記』をみてみましょう。

宝暦六年十二月十五日(1757年2月3日)
 今日は節分だ。
 今年は寒さが厳しいが、雪はあまり降らない年だ。
 今日、朝のうちは雪もようでちょっとくもって、みぞれが降ったりなどしたが、その後は晴れた。
 今夜は年越しで、どこでも行事が行われる。大豆囃子などとてもおもしろい。内裏へ皆がお参りする。
 家ごとに豆をまいて、「鬼はそとへ、福はうちへ」と祝う。とてもおもしろい。皆、来年の自分の歳に一つ増やした数の豆を食べて祝うのもおもしろい。

 260年ほど前、江戸時代の中期にも節分には豆まきをしていたようです。
 「鬼はそとへ、福はうちへ」というかけ声も今と同じです。豆を食べる数ですが、私も子どものころから、数え年に一つ多く食べるように言われていました。変わらない節分の習慣が確認できます。
 ただ、「内裏へ皆がお参りする」とありますが、今、節分に御所へお参りする習慣は一般的ではないと思います。続きます。

 家々の門には「厄払いまいらしょう」と呼び歩いている者がいて、呼び止めてお祓いをさせる。青物づくし、呉服ものづくし、また、役者の名寄せなど、全てものの名づくしをもじって、お祓いをする。「厄は西ノ海へ」言っているのもおかしい。
 モグラがいる家では、夜にナマコを持って金だらいの底をたたきながら、「をごろもち(モグラ)はお宿にか、ナマコ殿をお見舞いぞ」と唱えながら歩く。モグラがナマコをとても嫌うことから行われているらしい。
 また、今夜豆をまくときに、問屋は「鬼は内へ」というらしいこと。鬼と「お荷」をかけていて、「荷物が内に入ってくるように」ということらしい。
 

 節分に家々の前で厄払いなどしていたようです。広く、門付というのでしょうか。今はない習慣です。
 かけごえの楽しいモグラ追いも今は行われていません。
 「お荷はうち」と問屋が験を担ぐのも面白いですね。さらに続きます。

 今夜は五条の天神にみなお参りする。この社を俗に「天使」とのみ言っている。また、五条通を松原と言って、六条の坊門を五条という。 この神は松原の西洞院のあたりにいらっしゃる。 私も参った。夥しい人が参詣している。 西洞院通、松原通は、商人がところせましと並んで、賑やかだ。 今夜この社で「おけら」を賜って帰る。宝船の絵も飾られていた。

 当時は節分の日に五条天神にお参りする習慣があったようです。宣長も参っていて、夥しい人が参詣しているとあります。商人がところせましと並んで、賑やかということですが、今はそうした賑わいは見られません。
 内裏と同じように、今と江戸時代で様変わりした習慣です。
 五条天神社は今も西洞院通高辻下がるにいらっしゃいます。写真を撮ったのですがデータがみあたりません。代わりに宣長がふれている宝船の絵を載せておきます。この絵は、今も五条天神社で授かることができます。

宝船図

 江戸時代の節分と今の節分。同じところや違うところがありました。
 節分に関して興味深い暦の話があるのですが、それは、稿をあらためたいとおもいます。

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