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カメラロールに無い写真

幼い頃の写真は、よく両親が撮ってくれていたらしい。

実家のリビングと玄関の目立つ位置には、幼いわたしたち三兄弟の写真が飾られている。ぎこちないピースをするわたしと対照的にはにかんだ笑顔の姉、そして毎回カメラ目線を盛大に外す弟。それよりもう少し古い隣の写真立てに目をやれば、姉に負けじと無邪気に笑うわたしもいる。
写真立てに収められている以外にも、両親はわたしたち三兄弟の成長の記録をたくさん撮ってくれていた。10歳のときに「二分の一成人式」という学校の課題で、子どもの頃の写真を探して以来見ていないけれど、丁寧にアルバムに収められている。記念日のわたしも、そうじゃない日のわたしも。

兄弟の写真は今でも年に一度だけ撮る。三兄弟並んで撮った写真をシールにして、両親が年賀状に貼るのだ。わたしが小さい頃なら「こんなに大きくなりました」という報告にもなるが、高校生にもなれば照れが勝る。それでも年に一度、父がわたしたちにカメラを向けるあの日は、我が家の恒例行事だ。

しかしその兄弟写真も、盆の時期に帰省できなかった今年は撮らなかった。今からではもう年賀状には間に合わないから、正月に帰ってもきっと、撮らないのだと思う。

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大学時代、密かに始めたかった趣味の一つがカメラだ。当時はお金も無かったし、「自分は写真を撮るってガラじゃないよな」というよくわからない自意識も相まって、ついぞ買うことはなかった。
ここ2年ほどで自分でもびっくりするほど写真にのめり込み、写真を撮ることがだいぶ日常の中に降りてきた。空が綺麗なら足を止めてカメラを向け、スマホの画面を見ながらすれ違う人に対し「いま空を見上げないなんてもったいないな」と心の中で呟くことも増えてきた。
写真を撮るようになったからこそ、学生時代にカメラが手元にあれば、写真を撮ることがもっと日常だったなら、と後悔する瞬間がある。もう二度と撮れない、あの時感動したものとか、あの日大切だった友人とか、もはや何が写っているのかわからない、けれど楽しかったことだけは覚えている、そんな写真を。

そして、もう一つ、わたしのカメラロールに無い写真がある。
家族の写真。もっと言えば、両親の写真だ。

中学卒業と同時に家を出て、それから寮生活や一人暮らしをしてきた。両親と顔を合わせるのは、今では年に2回あれば多い方。
どちらかと言えば仲の良い家族、だと思う。特別喧嘩もしないし、会話も多い家庭だ。けれど、家族のこと、家族との時間のことを写真に収めようと思うと、どうしても気恥ずかしさが出てきてしまっていた。

この年の瀬、件の感染症の勢いは全く良くならず、大阪から群馬へ帰省をして良い時なのかはわからない。けれど、実家に帰って、絶対に両親の写真を撮る。家族の時間を撮る。実家の空気を撮る。
我が家の冬の晩ご飯の定番である鍋料理も、食後にぽんと机に置かれる父の好きな柿の種とピーナッツも、母が洗濯物を畳みながらテレビを見る姿も、休日午前10時の家族そろってのコーヒーの時間も、卒業アルバムなんかが収められているわたしの勉強机や、20年選手の二段ベッドなんかも。

昔より少しずつ皺が多くなっていく、両親の姿も。

全部わたしの記憶にはあるけれど、写真には一枚も残っていないじゃないか。ここに羅列できなかった実家での当たり前は、きっと月日の経過とともに思い出せなくなって、あったはずなのに無かったものになってしまう。そのことが少し怖いし、とても悲しい。
気恥ずかしいとか言っている場合じゃ無い、写真に残さなかったら、きっと後悔するから。
誰に見せなくても、共有しなくてもいい。
自分のカメラロールにあれば100点満点の写真を撮りたい。

家を離れてちょうど10年が経ったこと、今年、父が還暦を迎えたこと、毎年恒例の兄弟写真を撮れなかったこと。どれが決定的な理由というわけではないのだけれど、2020年の冬の一層寒い日に、そう思う。


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この記事は、しむさん(@46sym)主催の【1st Roll】カメクラが沼へ誘う Advent Calendar 2020への参加記事です。
クリスマスまで毎日、カメラ沼に引きずり込む記事が2本も読める素敵な企画。
写真を全く載せない記事を誕生させてしまいました。

昨日12/15はスズキさん(@acogale)の記事。
スズキさん、良い機材とか魅力的な色味とかそういうことじゃなくて、人生をしっかりと写し撮っていくみたいな、一途な姿勢が素敵な方です。

明日12/17はKazuKiさん(@Kazuki_K09)の記事です。
風景も可愛らしい動物も物撮りも、全部うまいのすごい。


サポートをいただいたら、本屋さんへ行こうと思います。