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絵本探求ゼミ第4期 第二回講座を受講して

絵本は1冊の芸術作品、英語から日本語という言語移植だけでなく、異文化で感動体験を起こさせるための芸術になっているか、という視点を忘れないで下さい。
動的等価 dynamic equivalence。英語で読んで笑えたなら、日本の子どもも同じように笑える。動作の結果がイコールになるというのが文化を移植できたということです。

ミッキーの言葉より

今回講義で学んだこと

講義の中で、「翻訳絵本とは、異文化でも感動体験を起こさせる芸術作品である。言語が変わっても、おなじポイントで喜怒哀楽が理解できるものである。」私の中でストンと理解できた。

最初に上の条件があることにより、作者の国の言葉ではわからなくても、その国の言葉、文化に沿って適切な言語に訳された時、母国語以外の絵本とも出会え楽しめる。自分の国の言葉も多種多様な表現を知ることにより翻訳の選択幅が広がる。講義中に思い出した。3期講義の時に一緒だったそんちゃんが調べていた渡辺茂男は、英語のタイトルを日本語に訳すのに何年も言葉を探し、言葉をみつけ、やっと出版したことを。

素晴らしい本も、今読まれなければ、絶版になってしまう本もある。
とても悲しい現実です。
紙の本は出合った時に即購入ですね。

講義で他の絵本の話を聞いていて色々と考えたり、感じたこともあり、
それをヒントに考えを深めたいと思った。

あおくんときいろちゃん

自分の選書した本をどのように考えていくか。ですが、
この絵本すでに沢山の方が解説を書かれている。
解らないなら、調べてみよう。下記の3点に注目して調べてみよう。
選書理由は前回のノートにてhttps://note.com/kerochan_kero147/n/n55428ab2ecd6

疑問点1.性別について
疑問点2.緑になってしまう。(一つの塊になる)
疑問点3.おうちに帰ったとき、親は拒絶する。

疑問点1.は前回(選書理由)の時に解決

疑問点2.緑になってしまう。(一つの塊になる)

緑になるところ。なんで緑になるのか、文では理解できない。
 推測
  ・単純にお互いが嬉しくて色が混ざり合う。
     理解できる。
  ・擬人化して考える。その時の年齢を年長さんから低学年と
   想像して読んでいた。一人でお留守番。さみしくて
   出会えた喜びで互いが抱き合って、色が混ざり合うくらい?
     ありえないのでは?
  ・心の融合を色で例えている。さみしくて、出会えた喜びで
   相手に染まるぐらい、影響を受ける。
     そんなこともあるのだろうか?

英語版の裏表紙に心の融合と書かれていた。
独自翻訳なので間違っているかも。
  私が思う心の融合は、溶け合うほどの信頼。どんなものなんだろう。
  この絵本で言えば、きいろとあおが混ざるほど、
  心の融合ができている。融合した場合、分離できるの?とも思う。

でも、そのときにもうひとつの大発見。うれしくて抱き合うと(ハグすると)、大人もやはり緑色になるということ。つまり緑はうれしいとき、喜びのときに生まれる色なのだと、大人たちも知ることとなる。じつにハッピーな物語である。

『絵本をひらく』編者 谷本 誠剛 灰島 かり 人文書院 P232より

喜びととらえるのであれば、納得できる。あおくんは、きいろちゃんを探しやっと出会えてうれしかった。きいろちゃんも仲良しのあおくんにあえてうれしかった。そのため緑になる。
そして、両親に抱っこされたとき、誤解が解けた嬉しさから緑色になる。
シンプルで分かりやすく、ほっこりとする絵本である。

まず、発想の第一点から。青と黄色が混ざるのと緑色になるのは原理であり、インスピレーションとしての発想はそこにあったとしても、絵本ではレオーニは混色の表現を、単に混ざるととってはいない。レオーニは色を重ね合わせる。緑色が誕生するところで、青に黄色い透明性のあるもの、例えばセロファンとかフィルムとかそういったものを重ねたときに得られる質感を出している。この緑色は、完全に一個体となったときの不透明な緑色とはまったく異なっている。喜びの色は混じることで得られるのではなく、重なること(ともにあること)で得られるというレオーニの声が聞こえてくるようだ。

『絵本をひらく』編者 谷本 誠剛 灰島 かり 人文書院 P234より

絵の具の混ざるではなく、セロファンやフィルムのように重なる。
だから元に戻れる。緑からあおくんときいろちゃんへ。
だから喜べるのか。混ざってしまっては戻れない。この本を読む前の私は混ざることを前提としていたから、モヤモヤとして納得いかなかったのだ。
これは、素敵な発見だった。確かに混ざるでは、泣いて元には戻らない。
共感という感情に近いのかもしれない、と思う。

疑問点3.おうちに帰ったとき、親は拒絶する。

 推測
  ・単純に色が同一でなければ拒むを前提とするなら、
     理解できる。
  ・擬人化と想定するなら、親が子を判別できないのは、
   変身していたら本人を前にしても気が付かないものなのか
   何か気づくきっかけがあるだろう。
     自分なら、何かしら気付けると想定するが、わからない
  ・心の変化ととらえるのなら
     なぜ拒絶する?親と子は別人格である。なぜ否定する。

十年以上前、この絵本について(これこそ大人読みであろうが)、どうしても腑に落ちないことがあった。それは、色が変わっただけでどうして我が子だとわからなくなるのだろうかということだった。
~中略~
レオーニにはどういう意図があったのだろうか?私は手紙を出して問うてみた。直接返事をいただいた。
「あなたの疑問はわかりました。でもすべての答えは作品の中にあるのです。何度でもこの作品を開き、何度でも答えをさがしてください。」

『英米絵本のベストセラー40』 編著者 灰島 かり 編集協力 高田 賢一  成瀬 俊一
ミネルヴァ書房 P12~13

何度でも読んで、私なりの答えを見つけたいと思いました。

一方、大人の共感を呼ぶのは、自己(アイデンティティー)を見失いそうな苦しみを感じるところである。あおくんときいろちゃんが緑になってしまったため、両親に受け入れてもらえず、悲しみの余り、全身が涙になってしまう場面が、周囲の人たちにその存在価値を認めてもらえず、自分が誰なのかという自己認識の問題を扱っていると解釈できるからである。

たのしく読める英米の絵本 桂 宥子 編著  ミネルヴァ書房 P141

自己認識の問題でもあるのかもしれません。
私は、『英米絵本のベストセラー40』で灰島が書いてあったように、何度も読んで、私なりの答えを探したい。



レオは政治的圧力を受けたイメージを『あおくんときいろちゃん』という絵本の中に入れ込みました。公民権運動が盛んな時期に作られたこの絵本は、実は非常に政治的なものだったといえるのです。P174

『だれも知らないレオ・レオニ』著 森泉 文美・松岡 希代子  玄光社

最後に

勉強しようと思うあまり、純粋に楽しむのではなく、どんなふうに考えられる?これでいい?他には?などと余計な考えで絵本に向き合っていた。
楽しむ感覚と、子どもの視点、大人の視点、自分の視点。
そして、研究者の方々の視点を本から教えていただく。
その後、自分が、この絵本をどう思って読むのかを整理するだけで、素晴らしい絵本は、より相手に伝わるのかな?と今回の振り返り中に感じた。
混ざるのではなく、フィルターが重なることによって、
何色のフィルターがかかるのかワクワクしてしまう。
『あおくんときいろちゃん』を通してよい発見が出来た。

ちょっと反省

この絵本、沢山の方がいろいろな本に解説がありました。その本を調べながら、私の注目点を解説してくれていない。とか、すでに別の人が解説しているものと一緒だったり、探しても探しても、自分の選書がんのなさに、だんだんとやる気がなくなっていく。
ミッキー先生のおすすめ資料を先に調べておけばこんなに時間がかからなかったのに。と反省。
参考文献を見つけるって大事だと感じた。今回は、ミッキー先生が教えてくれていますが、無い場合、どうやって探すのが一番良い?何度も調べていくうちに、これを見たら良いと、分かるのかしら?

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