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見えがくれする房総の「奥に向かって」ー奥房総(1)

「奥房総」という言葉を知っているだろうか。
千葉県をテーマにした旅行サイトや観光ガイドでしばしば目にするが、人口に膾炙しているのか定かではない。そこでは、文字どおり房総半島の奥地、具体的には養老渓谷などを含む「県立養老渓谷奥清澄自然公園」の一帯を表す言葉として使われている。もっとも、その定義は曖昧で、住居表示や地名として行政が用いているわけではない。

似たような言葉で「奥日光」がある。こちらは「奥房総」とは異なり、いまや日光の観光地の一部地域を表わす言葉として人口に膾炙している。しかし、思いのほか、この言葉の起源は新しい。1989年、JTBが発行する雑誌「旅」で特集された「日本の秘境100選」において、この地が選ばれた際に、「奥日光」と表現されたのが最初だったという。

先日は「奥銀座」や「奥渋谷」といった言葉を「東京カレンダー」のようなハイセンス、いや、センスが良いのか悪いのかハッキリしない雑誌で見かけた。
ある地名の頭に「奥」を付けるだけで、その場所にはロマンが漂い、人々は魅了され、眠っていた観光や消費需要を喚起するのかもしれない。

「奥」という言葉の響きから想起される空間把握に、日本人の独特の感性を見出したのが、日本を代表する建築家ひとりである槇文彦(1928年ー)。
代官山ヒルサイドテラスや幕張メッセを設計したことでも有名な槇は、かねてより執筆活動も盛んに行っている。その代表作のひとつが『見えがくれする都市(1980年)』である。
この本の最終章である「奥の思想」において、槇は空間の把握に関する西洋思想との対比を通じて 、日本独特の「奥」という空間概念を見出す。
西洋的な思考では、空間把握の軸は「中心」となる。たとえばヨーロッパの都市の多くは、街の中心に市役所や教会が配置され、それが街のシンボルとして機能し、多くの人が「中心に向かって」集まってくる。

これに対し、日本においては西洋的な「中心」の概念は弱い一方で、それとは異なる「奥」という独特な方向性がある。「奥」は「中心」と異なり、その定義は曖昧であり、けっして単一に存在するものではなく、複数存在するため、シンボルとしては機能しがたい。しかし、人々はこの「奥に向かう」ことを「深く進む」と表現するように、その方向性に特別な意味を見出そうとする。

そして、奥に向かうことについて、槇は「奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへたどりつくプロセスにドラマと儀式性を求める」と述べている。
もっとも槇が展開したのは、あくまで建築家としての都市論であって、その主眼はどのようにして「奥のある空間をつくるか」という点にあった(その実践のひとつが代官山ヒルサイドテラス)。
しかしながら、「奥房総」や「奥日光」という言葉が観光の文脈で魅力的な力を持っていることは、槇が見出した「奥」という日本人の感性と、密接に関連するといえるのでないだろうか。

縁あって、この10年ほど「奥房総」を訪ねる機会に恵まれた。毎回、この場所を訪ねるたび、海だけではない、連なる山々が創り出す「もうひとつの房総」の姿を数多く目にした。いくら訪ねても、「奥房総」を象徴する極点には達しない。いや、どこが「奥房総」の極点として成立しうるのか、それすらわからない。しかし、槇に倣ってみれば「奥房総」を訪ねる楽しさは、まさに「奥に向かう」プロセスにあるのだろう。これから少しずつではあるが、「奥房総」の景色を紹介したい。

まずは、その「入口」とされる場所にあるダムについて書いてみよう。

奥房総を訪ねると、いたるところで「〜ダム」と題した看板を目にする。最初は気のせいかと思っていたものの、偶然にしてはあまりにも出会すので調べてみると、千葉県には関東地方でもっとも多くダムが立地しているそうだ(全部で50ヶ所)。
しかも、そのほとんどが奥房総を構成する房総丘陵と呼ばれる起伏の激しい地域、房総半島の南部にある。丘陵という数多くの河川を生み出すに至った地形は、ダムを建設するには適した土地を生み出す。

今回訪ねた亀山ダム(千葉県君津市)は、「奥房総」を象徴する山のひとつ「清澄山」を源に、君津市、袖ヶ浦市、木更津市を流れる小櫃川の上流部に位置するダムである。この「県内最大の総貯水量」を誇るダムの建設には、10年以上の時間が費やされた(1969年着工、1980年竣工)。

ところで、ダムには大きく分けて2つの機能があると言われる。ひとつは治水。これは主に下流域の洪水を防ぐため、河川の水量を調節する機能のことである。次に利水。こちらは農業や飲料として用いる生活用水を貯水し、確保する機能である。そして、亀山ダムはこの治水と利水、双方の機能を有する県内初の「多目的ダム」として建設された。

この規模と機能の面からも千葉県を代表するダムの建設に伴って、誕生したダム湖(人造湖)は「亀山湖」と呼ばれる。湖畔には旅館が数軒立ち並び、近くには亀山温泉と名付けられた小さな温泉街もあるようで、ひとつの観光地と成立している。夏には君津市花火大会の会場として、秋は紅葉の名所として観光客を集めるそうだ。

さて、このように「〜湖」と聞くと、あたかもそれが天然の、自然に成立した湖のように思う人もいるかもしれない。しかし、亀山湖のように、ダム湖(人造湖)が時を経るにつれ、天然な湖として認識される事例は枚挙にいとまがない。

たとえば、東京都の西に位置する「多摩湖」の正式名称は「村山貯水池」である。ここはあくまで貯水池というダム湖なのだが、大正時代に西武グループが行った狭山丘陵一帯のレジャー開発の際に、通称として「多摩湖」が用いられることになる。その後、アクセス路線として開通した鉄道が「多摩湖線」と名付けられるなど、「多摩湖」という名称は一般に浸透していく。これとはパラレルに「村山貯水池」は人々の記憶から消し去られていった。そして、いまでは通称が正式名称を凌駕するほど、人口に膾炙している。ちなみに、多摩湖に隣接する狭山湖も、正式には山口貯水池と呼ぶ。

話を亀山ダムに戻そう。ダムが立地していた場所は、もともと亀山村と呼ばれていた。その後、合併を重ね、上総町(1954年)、君津市(1970年)と「村から市へ」と発展していった。ダムが完成した際は君津市であったが、その名称は、消えたかつての地名をその冠に戴くこととなったわけだ。

亀山ダムに向かうには、車社会と化した房総においては、車の利用が便利であることは言うまでもない。久留里街道を走れば、鴨川方面の外房からも、木更津・市原方面の内房から行きやすい。
他方、鉄道は木更津からで出ているJR久留里線に乗って、終点の上総亀山駅が最寄り駅となる。ところが、この駅の1日あたりの平均乗降客はわずか90人。電車も平日は1日9本しかやってこない。それもラッシュ帯が多く、日中は3時間近くもやってこない。鉄道で向かうには、相当難易度が高い場所といえる。

「奥房総」を訪ねるたび、ここは立派な車社会だと実感する。そんな地域において鉄道は、道路と道路にある隙間をわずがに走る小さな存在に過ぎない。
こうした車社会は東京を除けば、むしろ全国の大半がそうなのかもしれない。ただ、房総の特徴は、以前は多くの鉄道が走る地域だったにもかかわらず、戦後、雪崩を打ったかのように、急速に車社会となったことである。くわえて、東京湾アクアラインの開通により、車社会へのシフトはいまでも確実に、そして強力に進行している。そこでは、もはや鉄道は車に「駆逐」されつつある。
木更津の回で触れたが、内房線のワンマン化はついに開始された。そして、久留里線も東北地方のローカル線と同等レヴェルの赤字を垂れ流している。つまり、現状は、存続そのものが極めて難しい路線のひとつなのである。内房線はさらに本数を減らし、久留里線は廃線となる。そんな未来が近く到来するのかもしれない。

「奥房総」を考えるうえで、欠かせないのはこの街道にも、鉄道にも名付けれている「久留里」という場所である。次はこのことについて、書いてみようと思う。

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