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「横浜らしさ」を追い求めて(1)ー相模鉄道

年末年始という「劇変」

年末が近づくに連れて浮き足立つ街の雰囲気が、新年を迎えるとともに、地に足ついたものへと変わる。幼い頃から、この「喧騒から静寂への劇変」にこころが追いつくことができず、年末年始が好きになれなかった。それゆえ、多くの人が嫌がるであろう「仕事始め(学生の頃は始業式の日)」を、いまでもわたしは「日常が戻る日」として待ち遠しく思っている。杓子定規に過ぎない、年頭の挨拶を繰り返すのは嫌だけれども。

(相鉄線横浜駅)

そんな年末年始の暗澹たる気持ちを晴らすために、いわゆる三が日のどこかで少し遠出をするのが、中学生からの習慣になっている。今年は当初、相鉄線に乗って二俣川駅を目指し、そのあとはバスで左近山団地に向かおうと考えていたが、横浜駅を歩いているとき、ふと「天王町で降りよう」と思った。というのも、12年前の年末年始に、同じ動機でここを訪ねた思い出が頭をよぎったからである。

過去と現在の交差を試みる

しばしば「過去に生きること」は否定的に語られるが、この年齢(今年で35歳になる)では、不確かで曖昧な未来を描くことよりも、確然たる過去の事実を現在から照らし、その再解釈を試みることも悪くはないと思っている。少し自身の関心に寄せてみれば、ある街を「定点観測」して、変わった部分とそうでない部分を見極め、思索を深めることも、歳を重ねたがゆえに可能となる営みであろう。正直にいえば、20歳を越えたときには、早々に自身の志向は「未来よりも過去」に向いていた。ただ、少々、自己弁護を述べるとするならば、こうした志向はけっして「過去に生きること」を意味しない。むしろ過去と現在を交差させる試みは、確かで繊細な未来を生きることにつながると信じている。

相模鉄道 ? 相撲鉄道 ?

さて、話を1月3日に戻そう。相鉄の横浜駅は、JRを含む他社線の駅と幾分離れた場所に位置している。だからといって、乗り換えに長い時間を要するわけではないが、JRや他の私鉄(東急と京急)と比べて、独立性は高いといえよう。くわえて、ここの構造は横浜駅で唯一の頭端式ホーム、文字どおり始発駅・終着駅として機能している(首都圏のターミナル駅では)比較的めずらしい駅舎でもある。

(頭端式ホームの相鉄線横浜駅)

そもそも、多くの東京都民にとって「相鉄(相模鉄道)」は、馴染みの薄い鉄道会社なのではないだろうか。神奈川県最大のターミナル駅である横浜を拠点にしているものの、構成する2つの旅客線(本線といずみ野線)には、いずれも目立った観光地や集客施設が立地していない。そして、何より2019年まで都内に乗り入れることはおろか、他社線と相互に直通運転を行っていない首都圏では唯一の大手私鉄であった。時に「相模鉄道」は認知度の低さから、「相撲(すもう)鉄道」と揶揄される有様だったのである。

(相鉄全線路線図)

相鉄が大きく変わる

その相鉄がいまやJRと直通運転を開始し、さらには、今年の3月18日から東急東横線・目黒線とつながる。これまで「横浜を走る地方私鉄」の感があまりに強かった相鉄は、「積年の悲願」とされた直通運転による都内への乗り入れを機に、大きく変わろうとしている。

(運輸政策審議会答申第18号において、
建設を推進または検討するとされた鉄道路線)

相鉄の社長自身が「100年に1度、最初で最後のチャンス」と謳う「JR、東急との直通運転の開始」は、もともと2000年の運輸政策審議会答申第18号で示された「神奈川東部方面線」を具現化したものである。かつて「準大手私鉄の雄」と呼ばれていた相鉄(1990年に大手私鉄へ昇格)は、路線距離が短いうえに沿線の大半が横浜の郊外に位置することから、少子高齢化による沿線人口の減少が早くから指摘されていた。さらに21世紀に入り、東京一極集中がより加速していく中で、いかに沿線人口を維持し、そして交流人口、とりわけ都内からの乗客を集めていくのか、大きな課題であった。もっとも、それに対する真正面な答えが「直通運転による都内乗り入れ」であることは言うまでもない。しかし、一方で相鉄は横浜駅を拠点とする鉄道会社でもある。仮に「神奈川東部方面線」を用いた直通運転が開始されると、沿線住民は横浜駅を経由せずに、都内へ出ることが可能となる。それゆえ「神奈川東部方面線」は対東京という点で利便性は格段に向上するものの、その副作用として横浜駅の乗降客数が減少することは必至であった。 

相鉄の発展は、1952年に横浜駅西口一帯の土地をアメリカの石油会社スタンダード・オイル社から買収し、その土地を開発したことにはじまる。不動産事業が本業の鉄道を常に支えてきたことは、横浜高島屋、相鉄ジョイナス、NEWoMAN横浜(JR横浜タワー)、横浜ベイシェラトンホテルなど、横浜駅を代表する集客施設が、いずれも相鉄が保有するこの土地の上に建っている事実を知れば、理解は容易であろう。したがって、前述の「神奈川東部方面線」の開通に伴う横浜駅のターミナル性の低下は、横浜駅西口の大地主でもある相鉄にとって、致命的な打撃を与える可能性があるのだ。しかし、そうした懸念を遥かに超えるスケールで、少子高齢化などを要因にした沿線人口の減少が加速していった。21世紀に入ってからは早々に、二俣川や三ツ境、西谷など中核となる駅の乗降客数は減少傾向を示し、また「緑園都市」と名付けられたニュータウン計画のアクセス手段として建設されたいずみ野線(1999年全線開業)は、1976年の開業以降、乗降客は想定より振るわなかった。これら鉄道事業の低迷は「横浜駅とともに発展する」という創業以来の考えの転換を促し、相鉄は「直通運転による都内乗り入れ」という道に活路を見出すことにつながったのである。

他社の思惑に翻弄される相鉄

「直通運転による都内乗り入れ」という相鉄の活路は、当初、前述の答申に沿う形で「鶴ケ峰から大倉山」を新たに結んだ上で、東急東横線に乗り入れることを想定していた。しかし、これを「東急の乗客が増加する」と嫌ったのは、当時もいまも相鉄の筆頭株主である小田急だった。この大手私鉄の筆頭株主が同じ大手私鉄という極めて稀な状況は、戦時体制に由来している。

(「大東急」を構成した路線(赤い部分)
東急HPより引用)

1930年代後半から1940年代初頭にかけて構築された国家総動員体制は、長引く日中戦争と世界大戦(その後のアジア・太平洋戦争)勃発への懸念から築かれたものであった。この一環として、鉄道をはじめ各陸上交通は政府による交通調整、ひいては交通統制を目的に整理統合されることになる。東京西南部と神奈川県東南部における私鉄各社、すなわち現在の小田急、京王、京急、相鉄は、東急を中心に集約された結果、いわゆる「大東急」が誕生した。戦後、経済の民主化に伴い「大東急」は解体されるものの、その復興を目指す東急は、(当時、東急の強い影響下にあった)小田急を利用して、「分離独立」まもない相鉄の株を買い進め、買収を試みた。その目的は、前述の相鉄が保有する横浜駅西口の土地である。横浜駅は相鉄のターミナルであると同時に、東急にとっても同様の意味を持つ場所であったのだ。結局、この買収劇は、相鉄関係者の独立を保持する機運に動かされた金融機関などの支持を得ることができず頓挫したが、その名残として小田急はいまでも一定の相鉄株を保有している。かくのごとく、小田急の反対論を相鉄は退けることはできず、東急東横線との直通運転構想は、具体化する前に立ち消えることなった。

神奈川東部方面線
(鉄道建設・運輸施設整備支援機構HPより引用)

それでも「都内乗り入れ」を諦めない相鉄は、次にJRにアプローチする。相鉄の西谷駅からJR貨物の羽沢貨物駅周辺まで新線を建設し、そこから東海道貨物線の一部を利用して、都内乗り入れを果たすという構想である。JRにとっては、新規投資は少なくすみ、また利用が減少傾向にあった貨物線の活用が見込まれることから、賛同しやすいものであった。そして、この構想は相鉄・JR直通線(相鉄新横浜線)として計画、事業化される。

JRと相鉄との直通運転開始に伴い設置された
羽沢横浜国大駅

この相鉄とJRの直通運転計画に危機感を抱いたのが、東急であった。というのも、それまで相鉄沿線の乗客は、都内に移動する際、一度、横浜に出て、東急東横線またはJRに乗り換えていた。それがJRとの直通運転が開始されれば、とりわけ東横線の渋谷、さらにその直通先である東京メトロ副都心線の新宿、池袋など副都心とのアクセスにおいて、東急の優位性は著しく低下し、乗客を奪われる懸念が出てくる。その結果、相鉄としては願ってもない形で、JRと東急2社と直通運転を開始することになったのである。なお、東急とは東横線のみならず(一部、東横線のバイパス機能を果たす)目黒線とも直通運転を開始する予定だ。

相鉄・東急直通線の開通を伝える広告

直通運転により相鉄の「純度」は低下する

直通運転を開始すれば、複数の鉄道会社を経由することで運賃は高くなり、またダイヤが乱れた際の回復に時間を要するなどのデメリットはあるにせよ、利便性は向上することが一般的である。ただ、ここでは少し文化的な話をしたい。というのも、直通運転を開始した場合、一部の例外を除いて、双方の鉄道車両がそれぞれの路線を走ることになる。それにより、保安装置や車内設備における互換性の向上、さらには統一化が図られることになる。それは言い換えれば、それぞれの鉄道会社の文化や気風における独自性が失われることを意味している。とりわけ、相鉄は長い間、他社との直通運転を行っていなかったことから、極めて強い個性が保持していたにも関わらず、JR、そして東急との直通運転を開始することで、それが失われる懸念があった。原武史(放送大学教授)の言葉を借りれば、直通運転により相鉄の「純度」は低下するのである。

(相鉄11000系)

実際、2002年に登場した相鉄10000系は、JRの231系(ひとつ前の山手線の車両、現在は総武線各駅停車の主力車両)と、2009年に登場の相鉄11000系では、JRのE233系(現在の埼京線、南武線、京葉線、横浜線、中央線の主力車両)と共通設計の車両となっている。もっとも、これらは将来的なJRとの直通運転を見据えて、導入されたものだ。これまで業界でも随一の「オーダーメイド」仕様の車両を生み出してきた相鉄は、直通運転構想が具体化するに伴って、JRと瓜二つの車両を導入することとなった。この共通設計という動きは、鉄道業界全体に広がり、2003年には「通勤・近郊電車の標準使用ガイドライン」が制定され、相鉄のみならず業界全体がJRと共通設計の車両、すなわち標準車両を導入していくのである。

共通設計前の相鉄車両の独自性について、駆動装置や車体構造など挙げられるが、それではあまりにもマニアックとなるため、ここでは一般の乗客にも気がつきやすい車内設備の話をしたい。特徴的なものとしては、独自な構造を持ち設置本数の多いつり革や、通勤車両では稀な革張りのセミクロスシート、油圧式パワーウィンドウによる車内窓(ドアではない)の開閉、車内に設置された鏡などが挙げられる。相鉄10000系の前の相鉄9000系まで、これらの装備が相鉄の「標準」仕様として機能していた。

(微妙に数の多いつり革)
(革張りのセミクロスシート)
(油圧式パワーウィンドウ)
(相鉄9000系)

「相鉄らしさ」とは何か

ここまで「大きく変わる」相鉄について、書いてきた。それは直通運転の開始によって「東京が近づく」一方、「相鉄らしさ」が失われる方向に進むものと思われた。しかし、実際にJRとの直通運転を開始した後の展開には、確かに東京は近くなったけれども、それとともに「横浜らしさ」を全面に打ち出したバージョンアップの「相鉄らしさ」を模索する相鉄の姿があったのである。

それについては、また次回以降の回で触れたい。とりあえず、次は1月3日のその後、横浜駅から3駅先の天王町を歩いてみて、感じたことや考えたことについて書こうと思う。

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