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「取り残された木更津」を探しに(1)ー千葉県木更津市

江戸時代より房総半島の中心都市として栄えた木更津。この街と東京湾を挟み、対岸に位置する川崎を一本の道路で結んだのが、1997年に開通した東京湾アクアラインである。日本の土木技術のひとつの到達点ともいえるアクアラインによって、東京周辺の交通アクセスは飛躍的に改善する一方、結ばれたふたつの街には、決定的な格差が生まれた。

今回は「1997年以降の木更津」に焦点をあて、街並みの劇的な変化を見てきたが、それは都市社会学の文脈で使われる「ストロー現象」を想起するとよい。すなわち、コップ(房総半島)の中に住む人々が、ストロー(アクアライン)を経由して、口(横浜、川崎、東京)に出る。この勢いが加速することで、コップの中は空洞化する。

しかしながら、衰退の一途を辿っているように見えた木更津も、近年は「三井アウトレットパーク木更津」の開業(2012年)をはじめとする新たな大規模開発が進んでいる。そこでは商業施設のみならず宅地も造成され、減少していた人口は、ついに増加に転じた。単に東京や神奈川に「吸引」されるだけではない。むしろ、その動きを反転させようと、市は「東京や神奈川からの移住」をテーマに復活の狼煙を上げつつある。

ただし、これらの新しい動きは、既存の市街地を再開発することで、都市の新陳代謝を促すものではなかったという点に留意する必要がある。それは市街地から離れた郊外、アクアラインと接続する高速道路に沿う一帯、それまでは農地や空き地に過ぎなかったいわばフロンティアを舞台に行われているからだ。言い換えれば、すでにあった市街地(それは鉄道を中心として造られたもの)は、「旧市街地」として取り残されてしまったのである。

今回、1997年以降、取り残された旧市街地を中心に、木更津の街を巡ってみた。

東京駅から総武線、内房線とJR線を乗り継いで約90分、木更津駅に到着する。ただし、現在、東京と木更津を結ぶ公共交通はバス輸送がメインだ。アクアライン経由のバスを使えば、要する時間は約60分。おまけに料金も安い。加えて、多くのバス会社が都内または神奈川県内の各地と木更津を結ぶ路線を開設しており、利便性は高い。木更津が都心からの移住先として成立する所以は、この豊富なバス路線にある。

かつての木更津駅は、潮干狩りや海水浴に向かう観光客を中心に多くの人が利用する活気ある空間だった。東京駅からは総武線から内房線へと直通する快速電車のみならず、内房線特急「さざなみ」も頻繁に走っており、さらに夏の行楽シーズンには、JRは「房総夏ダイヤ」を組んで、臨時の特急を増発させていた。鉄道は木更津に向かう観光客輸送の担い手であったのである。

しかし、アクアライン開通の翌年、早くも房総夏ダイヤは廃止された。以後、「さざなみ」はダイヤ改正の度に、減便を繰り返し、2015年には土休日運休・平日ラッシュ帯のみ運行になったことで、観光列車から通勤ライナーへとその役割を大きく変えた。鉄道に代わって台頭したのが、時間でも、コストでも優位に立つバスとマイカーである。それらはあっという間に鉄道を凌駕して、輸送の主流に躍り出た。


1997年以降、鉄道の重要性が著しく低下した街の中心となる駅舎は、かつての威風を彷彿とさせる堂々とした佇まいだ。低層にもかかわらず垂直性を強調することで、スタイリッシュに見せるデザインは「モダニズム建築」のお手本のようである。「スカ色」の外壁が、かろうじて「東京とのつながり」を意識させる。
木更津と川崎を結ぶアクアラインの距離は、直線距離で約30キロ、半分が海である。海で遮られているとはいえ、ふたつ街はアクアライン開通のはるか前より密接に結びついていた。その痕跡を探しに、木更津港に向かってみよう。


駅から港には「富士見通り」と呼ばれる一本道を進めば、およそ10分で着く。この通りに沿って形成されたのが、かつて「木更津で一番の商店街」と呼ばれた富士見通り商店街である。
アクアラインの開通するまでは、この先にある木更津港から川崎港を結ぶフェリーが運航されていた。これを用いて、木更津から川崎まで通勤する人も少なくなかったという。そうした人の多くは、鉄道で木更津駅に到着後、富士見通りを徒歩で移動して 港に向かった。
かくして、往来の激しい富士見通りは、駅と港を結ぶ「目抜き通り」として栄えることとなる。しかしながら、フェリー航路は、アクアライン開通と同年に廃止されてしまう。


アクアラインから遠く離れた現在の富士見通りに、往時の勢いは全くない。商店の大半は閉店して「シャッター通り」と化してしまったのはもちろんのこと、1987年に商店街の活性化を目的に設置されたというアーケードの腐食が目立つ。躯体そのものが朽ちており、今にも倒壊しそうで、歩いていると怖くなる。
商店街組合も、さすがにこの危険性を認識しているようだが、撤去するにしても、その費用を捻出できないという。結局、国の補助金を得られる見込みが立ったということで、今年度中には解体工事に着手する予定とのことだ。木更津に限らず、空洞化に悩まされる多くの市街地が、こうした過去の遺産に苦しめられている。


富士見通りを抜けると木更津港になる。南には巨大な工場が見えるが、これは日本製鉄東日本製鉄所君津地区、長らく「新日鐵君津」と呼ばれた日本を代表する製鉄所である。国内で2番目の生産量を誇る製鉄所は、遠くから眺めていても実に力強い。
ところで、木更津市の周辺自治体を見てみると、一企業に支えられいる「企業城下町」が多いことに気づく。君津市は日本製鉄、国内最大級の火力発電所が立地する富津市は東京電力、さらに世界最大級のLNG貯蔵基地が誕生した袖ヶ浦市は東京ガスと、ひとつの企業が地域経済を支える構造が特徴的である。
他方、木更津市はといえば、企業城下町でもなければ、市原市のように、石油化学産業を軸に集積した企業で複合的に構成されるコンビナートが立地しているわけではない。木更津の特徴は、近隣自治体、とりわけ新日鐵君津の「下請けや孫請け」と呼ばれる、協力会社が多く立地していることだ。
この背景には、木更津の高い利便性がある。内房地域の中心に位置し、南北と東西の交通網が交差している。くわえて、京浜地域とのつながりもある木更津は交通の要所として、多くの会社を集めてきたのである。しかし、協力会社が多くを占める産業構造は、景気変動の影響を受けやすい。好況のときは良いが、不況になった途端、経済は大きく低迷する。大企業は協力会社を、まずは調整弁として使うからである。

90年代以降の木更津を考えると、バブル崩壊後の平成不況に、アクアライン開通に伴う空洞化が重なったことで、その影響は著しく大きいものだったといえよう。

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