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「中央林間」東急と小田急の臨界点ー林間都市(1)(神奈川県大和市)

経済誌を眺めると「K字回復」という言葉が目につくようになった。当初「コロナ禍」は経済全体に対してショックを与えたが、そこからの回復にあたっては業界ごとの差が大きいと言われる。情報関連産業のように、コロナ前の水準への回復はおろか、最高益を叩き出す業界がある一方で、外食産業や観光産業など、依然として回復の糸口さえ掴めず、低迷し続ける業界もある。この業界間の格差を、右上と右下に進む「K」の文字が表しているというわけだ。

「K」の右下、つまり低迷を続ける業界のひとつが鉄道である。「コロナ禍」によって、一時的のみならず、恒常的な導入を進める動きも加速するテレワークは、企業に「脱オフィス」を促す。そして、それは通勤定期利用客の減少といった形で、鉄道会社の収益を悪化させることから、各社は新しい需要の掘り起こしや、定期利用客の引き留めに躍起となっている。

わたしが利用する東急は、関東私鉄のなかでも、とりわけ影響が深刻な会社である。コロナ前までは「渋谷一辺倒」ともいえる強気の姿勢で、駅前の大規模再開発を契機として、オフィスの拡充に努めてきた。しかしながら、渋谷は感度が高く、身動きの軽いIT業界が多数立地する地域でもある。そして、そうした特徴が今回、仇となった。いまや渋谷は「コロナ禍」による「脱オフィス」を象徴する街になりつつある。

もっとも、鉄道各社では比較的感度の高い東急は、さっそく新たな一手を打ち出す。今年の1月から4月までの間、「DENTO」という自社の定期利用客向けサービスを試行的に開始した。そのサービスは多岐にわたるが、目玉は通常は680円する一日乗車券が、会員には100円で販売されるというもの(ただし、枚数制限あり)。この試みについて、東急は定期利用客の引き留めに一役買ったと結論付けている。
もちろん、わたしも会員となり、一日乗車券を使わせていただいた。

試行期間が終了した翌月の5月、東急は「DENTO」を発展的に解消させた「TuyTuy」という新たなサービスを開始する。新サービスの詳細について、ここでは記載しないが、一日乗車券は月額500円で2枚配付される。1枚あたり250円は、やはり破格の価格設定であるといえよう。わたしは早速、会員となった。

今回は、この1日乗車券を使って「東急最果ての駅」ともいえる「中央林間駅」を訪ねたときのことを書いてみる。およそ5年振りの訪問である。

田園都市線の終着であるこの駅は、東京に住み、電車を使う人にとって「聞いたことはあるけど、行ったことはない駅」のひとつではないだろうか。
この「中央林間行き」という表示は田園都市線のみならず、直通先の半蔵門線、東武伊勢崎線でも見ることができることから、けっして沿線内で完結せず、その知名度は高い。ただ、特に観光地や大型商業施設があるわけではないため、実際に行ったことのある人は少ないと思われる。

「田園都市線」という名が生まれたのは、1963年のこと。それ以降、東急はこの沿線地域に「第2の東京都をつくる(五島慶太)」と謳い、具体には「多摩田園都市構想」の実現に向け、投資を惜しむことなく、開発し続けてきた。 
半世紀以上が経った今日、田園都市線の通勤ラッシュは首都圏でも随一の激しさと言われるが、それはこの沿線に多くの人が集まっていることの裏返しでもある。また、その誇り高き沿線ブランドは揺らぐことなく、いまや東横線と並び東急を代表する路線にまで成長した。多摩田園都市構想の成功は、誰の目から見ても明らかだ。

さて、田園都市線の終着を「中央林間駅」とすることは、すでに1960年の敷設免許交付の時点で決定されていた。だが、中央林間駅(東急)の開業は、1984年まで待たなければならない。建設許可から実際の完成まで、およそ四半世紀の間がある。この空白はなぜ生じたのであろうか。

神奈川県大和市に位置する中央林間駅は、1929年、小田急江ノ島線の開業に伴い、設置されたことにはじまる。東急が乗り入れる60年近く前、すでに小田急はこの地に電車を走らせていたことになる。当時、小田急は「中央林間都市駅」と名付けたが、1941年に現在の「中央林間駅」に改称した。

東急の中央林間に降り立つ。肩身の狭そうに掲げられた「小田急線」の案内に沿って、東急の改札口を抜ける。そこから、30メートルほど歩けば、小田急の改札口となる。すなわち、駅の構造上、コンコースを歩かなければ、東急と小田急の乗り換えは成立しない。乗り換え駅といっても、それは「乗り換え改札」による連続的なものではなく、途中、若干ながらも歩く必要がある。確かに、中央林間駅において、東急と小田急は「断絶」しているのである。

小田急側へと向かう前に、東急の中央林間駅の周辺を見てまわる。駅前は他の田園都市線沿線の駅と同様、綺麗に整備されており、駅ビルの「etomo」と「東急スクエア」はどちらも東急系列だ。さらに、各テナントは「東急ストア」や「東急ハンズ」など東急資本の店も多い。東急文化圏の濃度が濃いエリアであるといえよう。

東急スクエアの左手に、見覚えのある「MORE'S 」の文字を掲げたビルがある。このビルの正式名称は「ぷちモアーズ5」で、1992年に完成したという。ところが、どういうわけか、モアーズの公式HPにも、Wikipediaにもこの店舗の記載はない。

ようやく創業125周年記念時の「会社案内」に、僅かながらその記述を見つけることができた。
かくのごとく、ぞんざいに扱われてしまっているのは、この店舗が「ぷち」だからなのだろうか。真相はわからない。

入居するテナントを見ると、居酒屋、カラオケ、スポーツジム、ドラッグストア、そして昨年までネットカフェがあったようだ。いまは居酒屋とカラオケは休業中のため、2階より上は無人状態のビルになっている。
かつて川崎モアーズのスターバックスでバイトしていたこともあり、わたしにとって「モアーズ」という響きは思い出深いものがある。もともと「横浜岡田屋」として創業し、神奈川の地場百貨店として発展するも、1980年代には早くも「脱百貨店」へ方針を転換する。直営の売り場を廃止し、専門店のみが入居するショッピングセンターに変身するとともに、「モアーズ」と名称をあらためた。いまでは横浜、川崎、横須賀中央、相模大野と神奈川県内の主要都市に、店舗を構えている。
また全盛期は積極的な海外展開を行い、ハワイやグアム、ロサンゼルス、シドニー、香港など47の地域に出店していたというから、その勢いには驚かされる(海外店舗は2010年までにすべて閉店)。

「ぷちモアーズ5」をあとにして、小田急側へと向かってみる。東急系列の「しぶそば」を右手に見つつ歩くと、今度は左手に小田急系列の「箱根そば」が見えてくる。「かき揚げそば」の値段が440円から420円と変わり、小田急文化圏へ足を踏み入れた。
小田急は東急と異なり、駅ビルを構えていない。それどころか、小田急OXといった沿線住民にはお馴染みのスーパーすらない。駅前で確認できた小田急資本の店舗は「箱根そば」と「小田急不動産」くらいだ。ここでは小田急文化の濃度は限りなく薄い。

小田急側の駅前には、小規模な商店街があるくらいで、東急側のそれと比べるとどこか寂しくなる。
この街の発展は、東急によってもたらされたと言ってよいだろう。

ところで、駅の開業当初、小田急はこの地に「林間都市」を建設しようとしていたことは、あまり知られていない。
小田急の創業者である利光鶴松は、1925年から1932年までの間、当時は雑木林に過ぎないこの近辺の土地、約100万坪を買い占めた。そして、この地に自らの理想とする住宅都市、その名も「林間都市」を建設するという遠大な構想の実現に向けて動いていた。中央林間駅の「林間」とは、この構想に由来する。

小田急は、新宿と小田原という本線起点駅の中間点に位置する林間都市に、広大かつ良質な住宅を分譲するとともに、ゴルフ場を建設し、さらには大学を誘致する。そして、実現はしなかったが、当初は遊園地の建設まで計画していた。
また小田急江ノ島線を開通させる同時に、「南林間都市駅」、「中央林間都市駅」、「東林間都市駅」を設置して、新宿までのアクセスを確保した。

しかしながら、いかんせん東京までは遠かった。
江ノ島線から本線を経由して、新宿まで向かうという「遠距離通勤」は、当時の人たちには受け入れられなかったのである。小田急は住宅購入者を対象に、3年間無料の「全線乗車券」の支給や、永続的に「中央林間ー新宿区間を、成城学園前ー新宿と同一料金」にするなど、営業努力に励むものの、分譲は不振に終わる。
くわえて、戦時体制への移行により、小田急そのものが東急に買収されてしまう。いわゆる「大東急(国策として東急が小田急、京王、京急を買収した)」の時代となり、小田急の「林間都市構想」は完全に挫折する。1941年、皮肉にも大東急、すなわち東急の手によって「中央林間都市駅」は「中央林間駅」と改称され、終焉を迎えたことなった。ここに小田急の理想は夢と化したのである。

戦後「大東急」は解体され、小田急は独立を取り戻す。しかし、林間都市構想は復活せず、戦後の小田急は新百合ヶ丘や相模大野、本厚木、海老名など本線沿線の開発にシフトすることとなる。
ただし、挫折したとはいえ、小田急にとって中央林間は「創業者の理想都市」という特別な地に変わりはなかった。

1960年、東急が田園都市線を中央林間駅まで延伸する構想を披露すると、すでに駅を構えていた小田急は完全拒否の姿勢で応じた。
すなわち、小田急は東急に対し「田園都市線の乗り入れは、鶴間以南の駅とすること」という条件を突きつけたのである。だが、仮に鶴間以南の駅まで田園都市線を伸ばそうとすると、米軍施設(上瀬谷通信施設)と重なることから、東急にとっては事実上、不可能な条件であったといえる。

しかしながら、どういうわけだか、小田急は東急に対抗はするものの、この街の開発に積極的ではなかった。大きな商業施設は本線と合流する相模大野まで行かなければならず。それは今も変わらない。
1984年、東急はようやく中央林間駅までの延伸を実現させ、田園都市線は完結する。その後の発展は、これまで見てきたとおりだ。周辺住民の利便性は、東急が乗り入れたことで、劇的に向上した。

他の田園都市線の駅と同様、東急側の中央林間駅は「東急の街」として綺麗に整備されているが、何かが足りないことに気がつく。そう、東急バスが1台も走っておらず、小田急系列の神奈川中央交通のバス、いわゆる「神奈中バス」だけが走っているのである。
小田急が田園都市線の中央林間延伸を受け入れる際、最後の条件として東急に提示したのが、「長津田より先、中央林間までの各駅においては、東急バスは乗り入れず、反対に神奈中バスの乗り入れを認めること」であった。
最後まで小田急は「夢のあと」を守ろうとしたのである。

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