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「激突」——『さよならデパート』ができるまで(18)

「そうじゃない方も多いはず」と前置きをした上で告白するけども、私にとって文章を書くこと自体は楽しい作業ではない。はっきり言って苦痛ですらある。
それでも本を作るのは、出来上がって、読んでもらって、面白かったと感想をもらうという一連が非常に刺激的だからだ。
飲み会の前に水分補給をがまんしているようなものだろうか。体じゅうがしびれるような1杯のために、ひたすら苦しみに耐えているのに似ているかもしれない。

音楽ライブみたいに、1行書くごとにお客さんの歓声でも上がればもっとモチベーションが上がるのに。比喩を入れたら「うまく例えたー!」とか。
そういうアプリとかないんだろうか。

とはいえ、文章を書く際、私は音のない環境を選ぶ。
もちろんテレビはつけないし、音楽も流さない。文章作成が苦行なら、それを紛らわす何かがあった方がいいとも思うのだけど、音が鳴っていると気が散ってちっとも進まない。自分で言っておいてなんだけども、歓声が上がったらそれこそ手が止まってしまうだろう。
結果、私と原稿との1対1が出来上がって、ますます重たい気持ちで文字を打つことになる。

そんな暗い道中にも光はある。
「ここが書きたい」という目標だ。
全体的な話をすれば、やっぱり文章を書くことは苦しいのだけども、あるシーンだけは別で、「早くあの場面に着手したい」と渇望させられる魅力があるのだ。前回は設計図の話をしたけども、その図の中で特定の箇所だけがビカビカと輝いているような感じだ。

それはクライマックスであることが多い。
推理小説であれば、やはり事件の解決シーンだろう。言ってみればそこのために長々と前振りをやっているようなもので、ミステリー小説を書く際に気を付けていたのは、いかに「ただ長いクイズ」にならないようにするかだった。
つまり、まあ、これは私の実力不足なのけども、推理小説は解決編以外は書いていて退屈なことが多い。そういう意味でも魅力的なキャラクターを作ることが大事なのですね。

『さよならデパート』にはクライマックスがいくつかあるので助かった。
前半で言えば、明治時代の大火もそうだし、デパート誕生の瞬間もそうだ。原稿に向かうのが億劫で仕方ない私は、歴史が用意した数々のクライマックスに手を引かれて何とか進んで来られたのだろう。

そしてこの章だ。
「激突」で起こる事件こそが、かつて「大沼の320年全部を書こう」と私に決断させたものだった。
あとがきにも記したけども、味方だった人物がライバルになり、かつてのライバルたちが共闘を始めるという劇的な様相に、心をつかまれて執筆を決めた。まさにこの章でその転換が描かれる。

締めの一文が近づくにつれ、焦点が定まらなくなっていったのを覚えている。鼓動が激しくなり、呼吸が荒くなった。
ついには座っていられなくなり、尻を椅子から離して書き終えたのではなかったか。
そして、しばらくの放心状態を味わった。

サウナ好きの人と話していると、「ととのう」ことについて説明される。
それを聞いていて私は「麻薬やってるみたいなこと言うなあ」と思うし口に出しもするのだけども、内心では知っている。文章を書いていても、ある瞬間にとてつもない快楽が訪れるのだ。
それがごくごくまれで、長大な時間を経なければ得られない点が厄介だけども。

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