ねぶた祭り

新型コロナウイルス肺炎の感染が拡大した今年の春は、各地での祭りやイベントが次々に中止となっています。高機能マスクにゴーグルを着け、ポケットには除菌液を突っ込んで感染防止を施したとしても、街中で呑気に花見でもしようものなら通報されかねない戒厳令のような状況になっていました。日々、感染者数が増え続けているなか、東北三大祭りの筆頭である「青森ねぶた祭り」中止が報じられました。

青森ねぶた祭の起源はわかっていないのですが、奈良時代に中国から伝わった七夕祭りの灯籠流しの進化系とも、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が、征夷大将軍として東北地方の蝦夷征討の際に大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことが由来であるとも言われています。その年の穢れ(けがれ)を七夕祭りの灯籠に移し、それを海や川に流して無病息災を祈るという風習が、時代を経て巨大な灯籠に人々の願いを託して海に流す(ねぶたの海上運行)ということにつながったというのが個人的には浪漫があって好きです。ちなみに青森ねぶた祭りは、昭和55年(1980)年に国の重要無形民俗文化財となっています。

僕は小学校の1年から4年まで青森県の県庁所在地青森市に住んでいました。父親が建設会社の営業責任者で、東北各地を転々とするうちの僅か4年間(昭和40年から44年くらい)のことです。この年代の子どもは目に映るもの、精神的に肉体的に経験したことは一生のうちでも強烈な記憶として残るのではないでしょうか。僕にとってねぶた祭がそれでした。

当時の青森港は青函連絡船の発着場となっていました。青函連絡船は昭和63年まで就航していましたから、当時の僕は連絡船の姿を毎日のように目にしました。近くで見ると、それは切り立った巨大な崖のようで、背筋が凍るほどの恐怖感を感じました。ねぶたは巨大なハリボテではありますが、子どもの目には巨人のように見えて、それが目前まで迫ってくると、同じように恐怖感を感じました。青函連絡船とねぶたの巨大な姿は僕の記憶に恐怖感として焼き付いたのでした。

小学生の僕にとってゴジラのように"巨大なもの”は、恐怖であり、強さの象徴でもありました。特に夏にならなければ目にすることができないねぶたは、強く印象に残りました。実際にねぶたを目の当たりにすると驚きます。仕込まれた照明で光る、巨大なねぶた本体だけでなく、周囲で熱狂的に「らっせらぁらっせらぁ」と叫びながら踊りまくる跳人(ハネト)たちとの情景が幻想的であり、それに大音量のお囃子が加わると、まるで悪夢を観ているようで眩暈がします。

僕にとっては、青森市に住んでいた、たった4年間のねぶた体験でしたが、青森市だけでなく、青森県の各地で開催される"ねぶた”あるいは"ねぷた”は、現在に続く青森県民の誇りだということが子ども心に理解できたのです。その誇りある祭りが新型コロナウイルスによって中止を余儀なくされるというのは青森県民にとっても、また1年をかけてねぶた製作にあたったねぶた職人さんたちにとっても苦渋の決断であったでしょう。

青森市での生活が終わると僕たち家族は、父親の次の赴任先である秋田市に引越すのですが、ここでも竿灯という奇祭が僕を待っていたのです。

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