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冗談はやめて、まず菊池桃子(サブスク解禁)。

つくづく思う。どこまでもボンクラなオレだよなァと。
2014年の品川ステラホール。
ボクは菊池桃子のライブを観るためだけにそこにいた。

覚えているのはまずチケットは争奪戦だったこと。正攻法の予約がかなわず(全部抽選落ち)、ボクはありとあらゆる手を駆使した。だがイベンター経由がかなわず旧知の某大手青年マンガ誌副編集長ルートでチケットを無事奪取。おかげで当日無事ボクは品川にチェックインすることができたわけだ。そして会場に着いて驚いたのは最前列だったことなんだな。ステージとの距離感は異常なほど近い、おそろしいほど近い。どうなっちゃってんだよby岡村靖幸。一生懸命って素敵そうじゃんって話。

ボクは1984年の夏から菊池桃子のファンだった。ファン歴30年にして初のライブ体験にして最前列&近距離。本気で俺の人生ここで終わってもいいやと思ったぐらいの近距離(しつこい)。距離感って大事よ。

ファンになったのは1984年夏にドロップされた「SUMMER EYES」というシングル。彼女にとっては2枚目となる楽曲で初めて観たのは毎週日曜日13時に日本テレビ系でオンエアされていた「スーパージョッキー」。この日エインディングの歌コーナーで登場したのが菊池桃子だった。デビューしたばかりのアイドルのシングルにしては地味と言われても仕方がない曲だけど、とにかく「いい曲」だなと思った。荒井由美のALBUMに収録されていてもおかしくないし70年代末期RVC時代の竹内まりやが同じ曲を歌っていてもまったく不自然ではない。いわゆるグッドメロディ。完璧なポップス。日本人殺しのマイナーセブンスコードに乗っけて歌われる「君のせいじゃない」と距離感を感じさせるワード。サビのシメは「ごめんね 好きだったこと」である。悶絶即死。オンエア終わりと同時にボクはチャリにまたがりレコード店まで爆走した。30分爆走後、新星堂カルチェ5店にチェックイン。汗だくでシングルコーナーを物色しようやく店頭在庫1枚のみのシングルをサルベージ。レジに持っていく段でボクは単にチャリを爆走させてたどり着いただけの事実に気づく。YES、財布を忘れてきました。そんな1984年の夏。それまでボクは中森明菜ファンだったんだがキッパリ引退。当時明菜が歌っていた「十戒」よろしく「ハッパかけたげる」と脅されたあげく「もうカタつけてよ」と結論を迫られ(全部妄想)ボクは桃子を選んだ。迷いはなかった。ちゃんとカタつけますよね、ファンだもの。

80年代当時、アイドルがキャンペーンと称して握手会を行うことは珍しくなかったので「接触(会えるって意味ですね)」タイミングはあったんじゃねえの?と思う方々に言っておくと、ボクは東北在住で当時住んでたのは福島県郡山市。見事なほどアイドルのキャンペーンはスルーのプレイス。TMネットワークはくるけど桃子はこない謎のエリア。まさに「もう逢えないかもしれない」状態が長年続いていたのだった。ちなみに最大のチャンスは1986年リリースの「夏色片思い」。「桃子、ウサギの耳になりたい」という破壊力満点のナレーションがヘヴィロする日立のビデオ「マスタックスHiFi」CMソングだったこの曲のリリースタイミングで全校縦断キャンペーンを断行していたが福島エリアは見事スルー。たしか25万人と握手とか打ち出していたがボクはその25万人に入れなかった。参加前から落選ですよ。シングル予約特典、他エリアは握手会参加だったのにボクの手元にはおそらく地方営業所のセールス担当が撮ったと思われるブレブレのピンボケ桃子が微笑む大量焼き増しで色褪せた生写真一枚。さすがにボクはSay Yes!とは言えなかった。どっちかといえばBroken Sunsetだよね、気分は。もちろん写真はゴミ箱に即ダンクシュート、というわけにもいかず今でも押入れのどこかでピンボケスマイルは保存されているはずだ。

さて品川のライブの話。RAMU結成秘話込み込みのMCで本邦初公開エピソード交えて繰り広げられたライブは最高、いや最強だった。ストーンローゼズの初来日公演よりもポール・マッカートニー初ドーム公演よりも深くボクの心に突き刺さった。なんつったって最前列。近距離で歌う姿。ただそれだけでボクの「逢えないかもしれなかった」日々は溶けて消えていった。まさに雪に書いたラブレター。いや、夏だったけどね、品川は。

ライブ終了後、親切な事務所スタッフが「どうしますか。挨拶していきますか?」と言われボクは速攻で断った。だって会ってしまったら終わりじゃないですか。ファンを「卒業」する行為に等しい。どれだけ「もう逢えないかもしれない」とモヤモヤするか。それが正しいファンの姿ですよ(アイドル限定)。
モヤモヤの中でそれぞれの頭でファンタジーは熟成されていき、たとえ握手会とかで軽い接触があろうとも崩れることのない、理想の(自分にとって)アイドル像が構築されていく。ゆえにファンは離れない。沢田研二や藤井フミヤといった熱狂的固定ファンをいまだに維持し続けている方々も同じことが言えるのではないか。まさにファン・コミュニティーの理想形。デビュー30周年を記念してのアニバーサリーライブ。ボクはこの日の感動をいまだにうまく言葉にすることができない。全曲アレンジは変わっていたし連動して制作されたセルフカバーベストALBUMと唯一の新曲「青春ラブレター」は長年ファンをやってきたものたちへの桃子からの素敵な贈り物だった。それだけは十分堪能できたライブ。

そんなわけでボクは会わないことを選択し、実際のところはいまだ後悔し続けているわけだが、その後悔すら(桃子を)忘れずにいられるツールなんだと自分に言い聞かせながらコロナ禍のTOKYO CITYで粛々と過ごしている2021年。オリンピック開会まであと数日。そんなメモリアルな覚えやすいタイミングの7/16に桃子のサブスク解禁。聞くしかねえべ。

昨今のシティ・ポップムーヴメントの文脈でも十分通用するサウンド・プロダクション(ソロ時代は全曲林哲司が作曲)、RAMUに関してはエレクトリック・ブギーの視点で思わぬ評価を受けアナログ盤が急騰なんて流れがありますが、それについてはまた別項で語っていきたい。

「当時仲が良かった近所の友達がバンドを演ってたんですよね。プリンセスプリンセスの奥居香ちゃんなんですけど、彼女が演ってるような元気がある曲みたいなのをやりたいって当時のプロデューサーに話したらRAMUになっちゃったんですよ」これがライブのMCで披露された結成秘話。だよね。まさかリアルにブラックミュージックとは思わないよね。バックコーラスに本場の黒人女性がつくなんてイマジンすらしなかったはずだしファンの僕らだってそうだ。ちなみにこのコーラスのうちのひとりとジャッキー・リン&パラビオン(桃子と同じ事務所)のメンバーは結婚したんですよ。

ちなみに彼女のデビュー曲「青春のいじわる」。作詞を担当した秋元康が当時「ボクにとってもすごく大事な曲で思入れがある。いわゆるアイドルがアイドルらしくって歌詞に反発したかった。メッセージソングじゃないけどあえて「僕」視点でフォークソングやニューミュージックで歌われるような歌詞世界を表現したかった」という旨をインタビューで語ったのを読んだことがある。このスタンスってAKBっていう大きなデバイスでもいまだやり続けてるんですよね。「365日の紙飛行機」なんてまさにそれ。ボクからすれば(「フライングゲット」みたいな曲は別として)「恋するフォーチュンクッキー」も「Everyday,カチューシャ」も菊池桃子プロジェクトの中で秋元康が行ってきたことがベースになってると思っている。ちなみに秋元が作詞家として桃子のシングル曲を担当したのは1985年の秋まで。おニャン子クラブが「セーラー服を脱がさないで」で脚光を浴びたタイミングと入れ替わるように秋元が桃子の歌詞を書くことはなくなった。85年秋に発売された「もう逢えないかもしれない」で作詞は康珍化、続く「Broken Sunset」はプロデューサーの藤田浩一、「夏色片思い」は有川美紗子(「君は1000%」のひと)とシングル発売のたびに変わってきたのが「Say Yes!」以降、売野雅男がペンをとることとなり、RAMUまで続くこととなる。

ボクはどうして秋元康をプロジェクトに復帰させなかったのか、ずーっと疑問だった。2枚目の「SUMMER EYES」や「雪に書いたLOVE LETTER」、初のオリコン1位となった「卒業」と(秋元曰くの)ニューミュージック〜思春期ユーミン路線の歌詞群はどのシングルも素晴らしい出来であり、林哲司の作るメロディとのマッチングも最高だった。もちろんALBUM曲まで全部を秋元が書いていたわけではないが、シングルという名刺代わりともなる看板曲を秋元康が担当していた意味は重い。

学研の「BOMB」や「Momoco」といった雑誌、日本テレビ音楽出版といったシンパ・チームを完璧にコントロールしつつも、すでに「真夜中のドア」や「SEPTEMBER」、中森明菜の「北ウイング」、杏里の「悲しみがとまらない」、杉山清貴&オメガトライブといった一連のヒット実績がある林哲司をサウンド面の要にし洋楽直系のメロに秋元康の言う「青春の憧憬」な言葉を乗せて歌う-そんな新人はいなかったのだ。唯一近い存在は原田知世だったと思う。松田聖子や薬師丸ひろ子とはちょっとだけ違う角度であの独特のウイスパーな声質が楽曲の魅力を何倍にも増大させ、全国に巣食う10代のボンクラ少年たちのハートをわしづかみした菊池桃子プロジェクトのアイドル史におけるの功績はもっと評価されてもいいと思う。

初心者はまず1st「オーシャンサイド」から聴くのが正しい。1曲目の「AQUA CITY聴きながら」の歌詞、当然事務所の先輩、杉山清貴&オメガトライブの1stALタイトルより抜粋。当時彼女を激推ししていた雑誌MomocoではALBUM最後の「I will」をトップリコメンソング扱いにしてたけど同じバラードならば2ndAL「TROPIC OF CAPRICORN」収録の「南回帰線」を個人的には推したい。どっちも名曲なんですけどね。シティポップの文脈で聴くのも全然ありだし特にシングル、ちゃんとディスコゴラフィー通りにチェックしていけばRAMUが唐突なものではないことはすぐに明確になるはず。アレンジのドープさだけいえば「Nile in Blue」のほうがよっぽど過激だ。これを24時間テレビテーマソングにしたのもすごいよ。パーフェクトなブラックミュージック。音圧に当時ボクが使用していたSONYリバティ(コンポ)のアナログプレイヤーの鉢は当たり前のように飛びまくった。同じように音圧で針飛びしまくったのは1986オメガトライブの「Miss Lonely Eyes」(名曲)。どちらもプロデューサーはトライアングルプロダクションの藤田浩一。いかに音に対して真摯な姿勢でモノホンを世に送り出そうとしてたかがよくわかるわけですよ。3枚目のALBUM「ADVENTURE」続く「ESCAPE FROM DIMENSION」と高品質なALBUMを年1ペースで発売、プロダクツとしてもこのクオリティ、同時期に活動していた斉藤由貴、原田知世とったメンツと並べてもまったく遜色ない。グッドミュージックをただ淡々と実行してきたアイドル、菊池桃子の功績がサブスクリプションで体験できる時代がくるとはなあ。2021年、捨てたもんじゃないですよ。

じゃあRAMUはどうして黒歴史扱いになったのか。これについては次章で語っていきたい。
当時を知らないものからすれば?なんでしょうがね。
とにかく全国各地に巣食う使えないサムシング、というか10代男子のハートを支え続けた菊池桃子の名曲群。シティポップだろうかなんだろうかカテゴリー無視でぜひ聞いて欲しい。いい曲しかないんだよ、ほんとに。

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