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ただいっさいは過ぎていく【暴太郎戦隊ドンブラザーズ感想】


暴太郎戦隊ドンブラザーズが終わってしまった……

結論から言うと、めっちゃ良かったっすね……というこころと、それはそうとしんどい……というこころと、心がふたつある。

最終回を迎えて全体像が分かったので、作品全体の感想を書いておきたい。というか自分の頭と心を整理するために書きたい。お時間ある方はどうぞ。


全部が「愛」だった


結局はずっと「愛」の話をしていたな、という感触がある。

それは場面や状況や取り扱う人間によって正しくも正しくなくもあり、善でも悪でもある。逆に言うとどれでもなくもある。ただただ存在する。

そしてそれは内心にあるのではなく、案外、表に現れた、人と人との中間に存在している。

愛とは、ギュッとしてチュッとしてあげることであり、戦って守ることであり、美味しい料理を作ってあげることであり、誕生日を祝うことであり、ショートケーキのいちごをあげることであり、葬式に出ることであり、肩を揉むことである。ペアルックを着ることであり、遺言を守ることであり、将来を思って相手の意志に反対することであり、庇って嘘をつくことであり、クレーマーになることであり、害する者を許さないことであり、自宅に軟禁することでもある。

そのひとつひとつに、この世界は評価を特に下さない。ただ、そこにある。「姿が変わっても優しさがなくなっても、俺はお前を愛してる」というのも「変化してしまい自分の望みに応えてくれない人と一緒にはいられない」も、どっちに対しても「それはそう」としか言わない。それはそうだから。

その、正しくも正しくなくも確かに存在しちゃってるものに「そんなもんだよね」「しょうがないからいつまでも付き合うよ」と答えるのがドンブラザーズだ。

この諦めとディティールの細かさが、1年通してなんだかすごく好きだったなと思う。

愛だとか恋だとか絆だとか、ドラマでは口に出して言いがちだけれど、それを動作として描写するのは大変だ。日常生活では垂れ流されているものも、フィクションではわざわざ考えて構成しないといけない。

例えば、ずっと印象的に使われ続けた、夏美の「などと申しており」とか。この、カップルの間のお決まりというか、自分たちが”内輪”であることを確かめるような会話。

こういうものは世界のどこでも自然発生しているのだろうけれど、それをちょうど「ありそう」なラインで無から出力するのは難しいことだと思う。

結局のところ、この物語では50話かけて倒す敵や守る地球があるわけではなかった。周囲の人間たちに愛を振りまき続けるもそれが返ってくることはなく、飢えを数年おきにきびだんごで維持していたようなタロウが、仲間を得ることで愛が循環する幸福を知るのがストーリーの縦軸だったように思う。こんな形にならない心の動きを中心にしたストーリーに、ぺらっとしたものという印象を受けなかったのは、ディティールの積み上げの勝利だろうなと思う。


儘ならない世界に生きている

ただそこにある、というのは愛の話だけでなく、全部がそうだったなと思う。ただある、ということは、理不尽である、ということでもある。

主人公である桃井タロウは完璧超人の最強、いわゆる”チート”でありながら、あまりにもシステムに振り回されながら生きている。それも、あまり”ひとのこころ”を理解していないようなシステムにだ。大きな力によって動かされていて、本人の意識としても、その流れに従うのが正解だしそれ以外のことに意味を感じていない。理由はない。ただ、事実としてそういうことになっている。

それは最後までひっくり返ることはなかった。そのまま、彼はシステムとしてこの世界を去らされていった。

これはかなり新鮮だな、と思った。運命なんてひっくり返してやる!ではなく、「それが運命なら従うまで」という価値観の、ヒーロー番組の主人公。ここに断絶がある。

終始、桃井タロウは「他者」だったなと思う。自分ごととして感情移入をするというよりは完全に、お供たちがタロウを見るのと同じ目線で見ていた。こんなにこちらを突き放してくる主人公がいるだろうか。それでいて、全然わけわからんやつにこんなにも愛着を沸かせてしまうのだから脚本監督スタッフ・樋口さん・浅井さんはすごい。

我々視聴者は人間だ。弱く欲深く愛を持って生きている。だからこそ、我々はタロウのありかたを寂しいと思ってしまう。好意を持った相手を、それはそうと切り伏せることができる。なぜなら彼にとってはそれがするべきことだからだ。そういうところを、私たち愚かで醜い人間は、つらいのではないかと思いやってしまう。本人にとってはそうでもないのかもしれない。でもその「そう感じることができない」という部分すらも、哀れに思ってしまう。この「強い神様を憐れんでいる弱い人間」というバランスは、尊大なチートキャラを主人公に据えるうえでちょうどよくもあり、グロテスクでもある。

だからこそ、最終的にタロウがその舞台から降ろされるという展開がわかったとき、自分の中にあったありとあらゆる視点からの感情が溢れてきてしまったし、世の中を見ればやっぱり視聴者みんなもありとあらゆる視点で感想を述べていた。おそらくそういうふうに作られているのだと思う。

桃井タロウを自分の分身として物語を見ていたのなら、感想はおのずと一つに収束していったのかもしれないけれど、桃井タロウは最後まで他者だった。その心情は推し量ることしかできない。いや、推し量って決めつけてしまうことこそ人間のエゴなのか?それでもやっぱりさみしくて、何が最善かなんてわからないけれど、わからないままに世界は続いていく。

「正しさは大切だが、正しいことが良いことであるとは限らない」「愛は良いものでも悪いものでもなくただ、ある」「この世界にはどうしようもないことがあるが、それでも世界は続く」「誰かと完全に理解し合うことはできないが、そのままでもそれなりにできることはある」「誰かに寄りかかって生きることも必要だし、自分で立って歩くことも必要だ」。そんなふうな、どっちでもあるしどっちでもない、冷たくもあるし優しくもある世界は、「でも結局、最後に残るのは人と人との間の空間にある何かなんじゃないかな」というオチで幕を下ろす。ままならないけど、正しくも悪くもないけど、少なくとも私はこの世界と自分がけっこう好きだよ、と彼らは笑う。

こんなに、言ってみたらどっちつかずな物語を、やろうと思えばいくらでも思想とイデオロギーを込めることができるヒーロー番組という枠で完遂することができたというのは、ものすごいウルトラCだと思う。毎回をエンタメとして面白くしたうえで、”文学”をやっていた。

逆に言えば、キャラクターが色分けされた姿に変身して戦い、でっかいロボが登場するシーンがどこかにあれば、あとは何をやっていてもだいたいこの枠の範疇に収まるということが証明されてしまったとも言う。思ったよりも可能性は無限大なのかもしれない。


1週間ぐらい、呻きながらそんなことを考えていた。びっくりするぐらい周到に、心の中に登場人物たちの椅子を誂えられてしまったので、今は彼らのこの先を見られないことと、椅子が1席空いてしまったさみしさを噛み締めることしかできない。Vシネから目をそらしつつ、まだまだするめのようにさみしさを噛み締めていたいと思う。1年間お疲れさまでした。まだもう少し、のたうち回っていてもいいですか?


今日はここまで。ありがとうございました。


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