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「キューブラー・ロス」と「ロックダウン」と「認知行動療法」と「イスラムポイントシステム」と

ロックダウンを受容するための5段階モデル

こちらの記事にも書いたのだが、私は目下、海外で引きこもり中である。

いやはや、本当に疲れている。鬱々している。上の記事には書いていない嫌なことはまだまだあって、最初は気にならないような小さな問題だと思っていたことが日によって大きな問題にすり替わったりする。例えば、同じ敷地に住む隣人との水やゴミ、洗濯の干し方等のトラブルは男性には分からないのかもしれないが、主婦である私にはいちいちチクチクと心に刺さるストレスとなる。

きっともうすぐ帰る、終わりはすぐと言い聞かせてはいるものの、気が付けばそろそろ3ヶ月。大人気なく夫に怒りをぶつける日もあれば、ただひたすらに耐える日もあったり。夫は当然、日本での暮らし方を知っているので、いきなりアフリカ式生活に順応しなければならない私のことを気の毒に思っている。だからなのか八つ当たりされても本当に寛大で、夫のこんなところを発見できたのはロックダウンの良い点かもしれない。ごめんね夫。

そもそも、この突然の理不尽なロックダウンという出来事を自分の中でどう処理したものかと考えていたとき、ふと思い出したのが、「キューブラー・ロスの死の受容のプロセス」だった。

詳しいことは、ググっていただくのが一番だが(雑ですみません)、ざっくり言えば、人は病などになって死にゆくことが分かったときに、自分の死を受け入れていくまでには、多くの人が似たような心の変化を経て、徐々に死を受け入れていくという説である。その変化を5段階に分けて解説しているが、人はこの5段階の中を行きつ戻りつ、もがきながらも自らの死を受け入れていくということなのだそうだ。

ロックダウン中(正確には5月20日現在、ガーナはロックダウン中ではない)自分も感染するかもしれないし、ここで感染して、万が一症状が悪化したら、あまり良い方向にはいかないであろうという不安を感じていた。今も多少不安はある。でも、とにかく子どもも家族もいるし、不便だろうがなんだろうが生活しなくてはならない。ただ闇雲にギャーギャーとパニックになっていても仕方がないので、この「キューブラー・ロスの5段階モデル」を利用して、今、自分はこの中のどこにいるのだろうか?と観察してみようと思ったのだ。

① 否認・隔離
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階

【私のロックダウンバージョン】ウソ〜マジ〜⁈空港閉鎖ってどういうこと?え?飛行機飛ばないの?帰国出来ないわけ?明日だよ?明日の便なんですけど〜⁇ 仕事どうするの?日本の家、どうしよう?息子の学校の連絡とか定期購入してるものとか、あれやこれや、いやいやどうする⁈!軽くパニックという感じ。心のどこかで、割とすぐに帰国出来るだろうなと思いたがっていた。平常バイアスというヤツか?

② 怒り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階

【私のロックダウンバージョン】とりあえず帰国のためのチケットを買った航空会社に駆け込む。なんとかならんのか!と交渉を試みる(←なんともならんと分かっていてもやる→)飛行場まで行って状況確認してみたりする。他の国の人達がこっそりと帰国しているのを見て自分の国の対応に怒ってみたりする。八つ当たり出来る相手は夫しかいないので、全てを夫のせいにしてみる(すまんね、夫)。又は自分を責める。「そういえば、あなたはイスラム教徒じゃない?神さまに文句は言わんのかい!」と思われるかもしれない。確かに言いたくもなるのだが、私が知り得る範囲でのイスラム的解釈では、神さまには文句を言えない。言っても無駄。しかし、この状況に対する怒りは人並みにあるので、なにか八つ当たりの原因を探しては夫に喧嘩をふっかけるという全くもって嫌な人になっていく私。息子にも八つ当たりした。

③ 取引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階。何かにすがろうという心理状態

【私のロックダウンバージョン】帰国出来ないことがはっきりしてしまったので、意識を他へ向けようと、様々な語学アプリにチャレンジしてみたり、手縫いでマスクを作成しまくったり、イスラム教の勉強に励んでみたり、息子とカラオケごっこしたりしてみる。noteやポッドキャストを始めてみたり、イスラム教徒なので、ひたすら神にすがってみたりする。因みに、神にすがることはイスラム教的にはとても良いこと。遠慮なく、どんどんすがるべきというのが、その教えなので、すがりっぱなし。

④ 抑うつ
なにもできなくなる段階

【私のロックダウンバージョン】語学アプリも飽きて、縫い物も飽きて、エクササイズも飽きて、外出もほぼ出来ず、料理も出来ず、停電だとテレビもネットにも接続出来ず、エアコンも止まって暑いし、手持ちの本も読み終え、掃除も洗濯も日本の掃除とは勝手が違うのでやる気にならず、シャワーや洗髪も陽のある日中を逃すと寒くて出来ず、段々と現地の食事に飽きてきて食欲がなくなり、受け付けなくなってくる。食べられるものが減る。なぜか日本からトランポリンを持って来ていたので、トランポリンの上で跳ねるだけである。そして、そのトランポリンもすぐ飽きる…。ひたすら寝る。

⑤ 受容

最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階

【私のロックダウンバージョン】毎週日曜日20:00からの大統領のお言葉放送をドキドキしながら聞き、ロックダウンや国境閉鎖の延長が発表される度に落ち込むが「こりゃ長丁場になるな…」と少しずつ諦めていく。イスラム教徒なので、アッラーが我々に良くないものを授ける筈がないという、根拠なき確信(これを信仰というのであろう)をひたすらに信じてみようとする。そして気付くのだ!!そうだ、もうすぐラマダンじゃないか!こっちの親戚と一緒にラマダンを過ごせるなんて滅多にないチャンス!これは息子にも良い経験なるはず!ほら、良いこともあるではないか!と必死にメリットを見つけて自分を鼓舞する。ロックダウンの良い面を必死で探して自分をごまかそうとする。

このように日々②〜⑤の間を行ったり来たりしながら、日々やり過ごしている。

特に、⑤の「神さまは我々、イスラム教徒には良いもの(含必要なものごと)しか与えない」というイラッとするくらいのポジティブ思考は相当、私の気持ちを支えてくれている(と思う)。

そして以下の記事にも書いたが、イスラム教の教えって怖いくらいに超ポジティブ。

『忍耐=サブル』はイスラム教徒の甘露の源

イスラム教の教えの中に大事なことは勿論たくさんあるが、このしんどい状況を生き抜くための方法論として忘れてはならないものとして、『サブル』というものがある。

サブル』とは忍耐のこと。

私達、ムスリム(イスラム教徒のことをこう呼ぶ。女性はムスリマ)は大変なことや辛い目に遭っている人がいたら、このように励ます。「まあ、あなたは神様(我々の神はアッラー。これはキリスト教徒もユダヤ教徒も同じ)に愛されてるのね」と。

普通、神様に愛されてたら、ウハウハの楽しいことが雨あられのように降り注ぎそうだが? 

ところが、なんと、苦難、困難、苦痛、あらゆる苦しみは神さまからのラブラブメッセージと認識するのがムスリム‼️どこまでもMな人たち…。

イスラム教徒は「神様に愛されているからこそ、困難がやってくる」と考えているのだ。

そして人は大変な状況になればなるほど神仏に祈るのが常である。つまり、そこで人は神様と相思相愛、「両想いじゃーん❣️」ということになって、こりゃまた目出たいな‼️となるのである。イスラムにおいて、神さまは常にかまってちゃんなのである。

強烈な考え方に目がパチクリ…していた昔のわたし。

いやいや、本当に、この超ポジティブシンキングがイスラム教徒の「しぶとさ」改め「強さ」の秘密であると思うのだが、このポジティブシンキングって、素人ながらに思うのは、「これって、認知行動療法っぽくない?」ってこと。自分が当たり前だと思っていた物事の捉え方を根本からひっくり返されるような気がしたからだ。


認知行動療法とイスラム的超ポジティブシンキング

私は心理学の専門家ではないので、あくまでも本で読んだり、昔、改宗前に自分が鬱で通院しているときにカウンセリングでやっていたことなどからの推測でしかないことをお断りしておく。

イスラム教の教えに則って人生を眺めていくことは、今まで私が認識していたり、見ていた世界観とはガラリと違っていたが、この「物事の捉え直し」という行為は「認知の修正」という行為にとても近しいものだなと感じたのだ。

過去に私がカウンセリングを受けていたとき、いつも前回のカウンセリングからその日までに起きた事件や気になる行動について話しをしたり、掘り下げたりしながら、その出来事を観察していくということをよくしていたように記憶している。

その時は、ある物事に対する見方を自分なりに、またはカウンセリングの先生のアドバイスを参考にしつつ、捉え直したり、次はこれこれ、このように行動してみようと、試したりして自分の思考の癖や行動の癖を修正しようと試みていた。

イスラム教徒になった今、私の行動の指針はクルアーン(コーラン)やハディース(預言者ムハンマドSAWの言行録)が指針になった。なので、自分に起こった出来事の再認知の基準は自分ではなく、約1400年前にムハンマド(SAW)さんが神さまから聞いた(啓示を受けた)言葉である。まだまだ勉強始めたばかりなので、ほんの少しではあるけれど、物事の捉え方、言葉の選び方などを変えてみたりしている。

イスラム教徒は毎日、ポイントを気にして生きている

この記事にも書いてあるが、我々ムスリムは毎日、いかにポイントを貯めるかを非常に気にして生きている。ポイントがたくさん貯まれば、上位ランクの天国に入れるかもしれないし、天国での暮らしもさらに良くなるかもしれないから。

そして、もちろんだが、ポイントを気にして生きていると、結果として、それなりに「良い人」になっていくことで、この現世でも非常に生きやすくなる。いわゆる、「引き寄せ」みたいに良いことが結構起こったりする。また、小さい幸せを見つけやすくなったりもするので、なんてことのない生活の中での小さな感動も増えるし、神様にたくさん感謝できるし、感謝すれば、またまた良いことが起こるという、善のスパイラルがどんどん広がっていく。

特に、痛みや困難、不幸な出来事に耐えることはポイントゲットにつながる。ムスリムも人間なので、痛いときは痛いし、悲しいときは勿論悲しい、大変な状況が好きな訳がない。

でも、どうやっても、そこから逃げられないとき、心を強く、健康に保つためにはどうすべきだろう?

ただ耐えるというのは、それでなくても辛いのに、心のエネルギーを消耗しすぎてしまわないだろうか。勿論、他人に助けを求めることは必ずやらなければいけない。でも、助けてもらったとしても、心の苦しみまではなかなか人には背負ってもらえないし、身体的苦痛も誰も肩代わりはしてくれない。

そんなときに、「ああ、この苦しみはご褒美ポイントにつながるんだよな。こんだけ耐えてるんだから、天国行き間違いないよね!神様は見ていてくれてるんだな!」と捉えなおすだけで、イスラム教徒は頑張れる時間が伸びたり、気持ちを強く持つことができるのだ。信じる者は救われるとはよく言ったもので、確かに信じていなければ、全く効果はないだろう。

誰が好き好んで、誰にも強要されていないのに、一か月も苦痛でしかない断食をするだろうか?やはり、それは「信じている」からであろう。

とかく宗教を無駄なもの、戦争の元、宗教に頼るなんて弱い人間のすることと言われたりもするが、人間はチョーーー弱い。あなたのことは知らないが、私はちょーーーー弱い。弱いし、知恵も足りないから、こうやって認識の仕方を無理矢理にでも変えていかないと、耐えられないことが人生にはたくさんある。一山超えたと思っても、また次の山がやってくるのが人生。

イスラム教的ポイントをゲットしながら、一人認知行動療法的発想で危機を乗り切ろうとするのは、なかなか面白いと私は思っている。

だからと言ってあなたに勧めたりはしない。

ただ人知れず、あなたの隣にいるイスラム教徒は人間としてどんどんとパワーアップしているかもしれないことは知っていても損はないだろう。









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