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読書感想文『僕僕先生 さびしい女神』 王弁、災いの女神を救うため単騎異世界を駆ける!

※ネタバレあり

 僕僕先生シリーズの4作目となる、『さびしい女神』。私はすっかりこの世界にハマってしまいました。

 中国は唐の時代、ぐうたらなボンボンの「王弁」が美少女の姿をしていながら超自然的な力を持つ仙人「僕僕」に弟子入りして中国全土や異世界を旅して様々な怪異に出会うという壮大なファンタジーです。

 今回王弁たちが訪れたのは旱に苦しむ苗(ミャオ)族の国。苗の人々が祭る神様の神殿に仕えていた巫女とその従僕が関係を持ち神殿から逃げ出したことで人々は神様の力の怒りを買い、国はひどい旱魃に見回れます。その神様を鎮めるために苗の人々は生贄を捧げることに決めるのですが、その生贄に選ばれたのはよりにもよって王弁!そしてそんなときに限って僕僕は「準備を整える」といって留守にしています。訳の分からないうちに王弁は縄で縛られて神殿に放り込まれます。しかしそこに神様が姿を現し、自分は贄などほしくないと言うのです。神様の名は「魃(ばつ)」。その気になれば天地の全てを枯らしてしまうほどの災いをもたらす女神です。しかし彼女は巫女が逃げたために怒っているのではないといいます。巫女が逃げたことで魃を封じ込めていた結界が破れたために旱が起こってしまったのですが魃はむしろ人々をみだりに害しないよう力を必死で抑えていたのです。向かい合っている王弁が干上がってしまわないのもそのお陰です。もっとも、それだけ制御をしていても一国を干上がらせてしまうのがこの女神の恐ろしいところです。

 魃と親しく話すことができた王弁は、実は彼女が世界の始まりから生きている神であることを知ります。世界の始まりには多くの神や人間が争った大きな戦争があり、その戦争を圧倒的な力で終わらせたのが魃だというのです。しかし魃は戦争が終わると用済みになってこの苗の地に封印されてしまったのでした。

 魃は現在は人間たちが好きで、その営みを近くで眺めて暮らしたいと願っていることを漏らします。しかし存在するだけで辺りに旱を引き起こしてしまう魃。その力は他の仙人や神様ですら敵わないほど強大で、結界が破れた今、魃が暮らせる場所はありません。他の誰とも一緒にいられない魃の寂しさに触れた王弁は、彼女が安らかに過ごせる場所と仲間を見つけて彼女を救うことを決意するのです。なんと災いの女神と友達になってしまった王弁。ぐうたらな分肩の力が抜けているのが気に入られたのでしょう。

 そして王弁は愛馬「吉良(きら)」に跨がり単身苗の国を飛び立ちます。この吉良は普段はみすぼらしい痩せ馬ですが一度真の力を発揮すると何百里を瞬時に駆け、神仙の暮らす天界をも自由に行き来できる天馬なのです。吉良に連れられ、王弁は神様たちが暮らす宇宙のような不思議な世界へと飛びます。そこでこの世界ができたときの戦争で戦士として活躍した神「燭陰(しょくいん)」に出会います。はじめは王弁たちを拒絶していた燭陰ですが、魃を救いたいという王弁の熱意を受けて彼の後押しをしてくれます。

 しかし燭陰にも魃が安全に暮らす術は思いつきません。そこで王弁たちは燭陰とともに始まりの戦争に参謀として加わった「耕父(こうふ)」という神の下を訪ね、彼の記憶と知識から解決策を探ることとなります。

 前巻の「胡蝶の失くしもの」の感想文では王弁はピンチに上手く立ち回ることができず情けなさが目だったと書きました。しかしこの巻で私は王弁が一気に好きになりました。王弁はもともと怠け者の世間知らずです。僕僕のような不思議な力も、劉欣のような武術の腕もありません。薄妃のように人の心の機微が分かる訳でもありません。では何故そんな王弁が僕僕や魃、燭陰や耕父たちといった人知を超えた者たちを惹きつけるのか。それは彼が柔和で優しい心を持ち、どんなものでも受け入れる懐の深さがあるからではないでしょうか。それは王弁が生まれ持ったものでもあり、僕僕との旅路の中で培われたものでもあるのでしょう。王弁は臆病で堪え性のない格好悪い男です。でもその格好悪い優しさが、神々の、そして僕僕の心を惹き付けるのです。そして彼らと同様に読者も、彼らの旅が進むごとに王弁に惹きつけられていくのです。

 しかし王弁は結局魃の暮らす場所はないという結論しか導き出せず、失意の中で苗の国に帰還します。そこにようやく現れたのは万端の準備を整えた僕僕先生。その手に大きな刀を携えて-。
 
 僕僕は魃を倒して再び封印するために現れたのです。そしてこの巻のクライマックスである僕僕と魃との決闘が始まります。激しい熱風と茨の鞭で襲いかかる魃に対して僕僕は稲妻を纏わせた大刀で挑みます。激しくぶつかり合う魃の熱気と僕僕の雷。両者互いに相手を滅ぼすまで止まらない覚悟です。誰もが逃げ惑う中王弁は一人その間に割って入ります。そして世界を滅ぼし、師の命を奪おうとしている魃を身を呈して守ろうとします。僕僕は王弁を諭し、魃を生かすことでもたらされる天地の被害を厳しく説きますが、王弁はそこを退きません。理由は「魃は友だから」。僕僕の整然とした理屈も跳ね返して、震える足で刃の前に立ち塞がります。王弁の行動は決して理知的でも英雄的でもありません。客観的に見れば間違った行動です。彼もそんなことは分かっています。しかし一度心を通わせた魃が封じ込められるのをただ眺めていることはできません。王弁の心には確かな気骨が育ちつつあるのです。

 最終的には魃を生み出した神「帝江」が仲裁に入り、魃は争いをやめ封印されることを受け入れます。魃は地中へと封じ込められるとき、王弁に向かって手を振り、王弁も手を振り返しながら声の限り魃の名を叫びました。旅に出る前の怠惰で無気力な王弁はもういません。彼は友のために世界の端まで駆け回り、命を張り、そして涙を流すことができたのです。王弁は偉大な成長を遂げたのです。やはり弱々しい者の成長には強く心を打たれます。こんな王弁を父の王滔が見たらどう思うのでしょう。学問も仙術も身についてはいません。しかし彼は誰かのために心を激しく動かす経験をしているのです。きっと強くなった、大きくなったと褒めてくれるのではないてしょうか。

 さて、今回は前巻と同様シリアスな展開でロマンス成分がないなと思っていました。が、最後のページの僕僕の台詞!

「・・・魃を受け止めたように、ありのままのボクを受け止められるかな」

・・・最後の最後に、キュンキュンですやん。

 しかも「その口調があまりにも小さく寂しげ」だったことが僕僕の切実な思い、そしてそれと同じくらいの不安を伝えています。2巻の『薄妃の恋』で僕僕は王弁に、「ボクはね、もしボクに正体というものがあって、それがキミに吐き気を催させるようなものであったとしても、キミにはありのままのボクを見てもらいたいとおもっているよ」と言っています。僕僕の正体はやはり人々に忌み嫌われるような恐ろしいものであり、本人はそれを王弁に知ってほしいと思いつつ知られるのが怖いと思っているのではないでしょうか。今回魃を受け入れ心を通わせる度量を見せた王弁。その姿を見ても僕僕は安心し切れないのでしょう。

 耕父の見せた原始の戦争の場面では、僕僕が魃と同じく本来は災いをもたらし敵を滅ぼすために生まれた者なのではないかということが示唆されます。僕僕の正体は一体どんな恐ろしい存在なのか気にならずにいられません。しかし魃というこの世を滅ぼす女神を友と呼び、また魃からも「お前のいなくなった天地なぞ、本当に絶望して何をしでかすか分からない」と微かな恋心を抱いたとも思えるような言葉を言わしめた王弁なら、どんな正体であれ受け止めることができるでしょう。広い世界を見て、古の神々の心に触れた王弁は、きっと心を以前にも増して広く深くしたことでしょう。

 今回は王弁の奮闘と成長、そして神仙同士の激しい戦いが迫力をもって描かれました。次巻は『先生の隠しごと』。ついに先生の生い立ちや正体が明らかになるのでしょうか。次巻も楽しみです。

仁木英之『僕僕先生 さびしい女神』新潮社 2010



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